第3話
季節はまもなく冬から春へと移り変わるはずだが、まだ空気は冷たい。
学年末テストが終わり、久しぶりに再開された部活からの帰り道。
僕はバスケ部に所属している。
うちの学校は高校まで一貫のため、三年生の大会が終わってもそのまま部活を続けられるのがいいところだ。
時折、高校の先輩たちと一緒に練習する機会もある。
当然ながら中学生とは体格もスピードも段違いで、あと数か月で自分もあの環境に上がるのかと思うと、純粋にワクワクする。
冷え切った指先で鍵を回し、重い玄関のドアを開ける。
靴を脱いでいると、暖房の効いたリビングから「おかえり〜」と母の声が響いてきた。
いつもなら、仕事でまだ帰ってきていないはずの時間だ。
「……あれ、今日休みだったっけ」
「午後半休よ。もう、朝言ったじゃない」
呆れたような声が返ってくる。
すっかり忘れていた。
手洗いうがいをしようと洗面所へ入った僕に、リビングから母が妙な指示を飛ばしてきた。
「自分の部屋に荷物、置いてらっしゃい」
「……?」
普段言わないセリフを少し不思議に思いながらも、手洗いを終えると言われるがまま重いリュックを背負い直し、自分の部屋のドアノブに手をかけた。
ガチャリ、と扉を押し開ける。
暗いはずの部屋の隙間から、なぜか明かりが溢れ出す。
「ジャーン!」
その瞬間、予想だにしない声が鼓膜を揺らした。
「は……っ!?」
僕は目を見開いたまま、入り口で文字通り硬直した。
いるはずのない人物が、僕のベッドの前に立って、両手を広げてポーズをとっている。
めぐみだ。
しかも彼女は、見慣れた中学の地味なセーラー服ではなく――真新しい、高等部の制服を着ていた。
ネイビーのブレザーに、同色のチェックのスカート。
首元には、桜のような薄ピンク色のリボンが結ばれている。
いや、それより……。
(スカートが、短すぎるだろ!!)
膝上何センチだ。セーラー服の時より明らかに短い。
「めぐちゃんどう? ドッキリ大成功〜?」
リビングから、クスクスと笑いながらこちらの様子を伺う母の声が聞こえた。
「うん! なっちゃん驚いて固まってる〜」
ケラケラと笑うめぐみ。
玄関に彼女の靴はなかったはずだ。
わざわざ隠して、僕が帰ってくるのを部屋で待ち伏せしていたのか……。
「どうかな? 昨日、制服屋さんに行って買ったよ。可愛い?」
くるりとその場で一回転し、少し上目遣いで冗談っぽく尋ねてくるめぐみ。
ブレザーの裾が翻り、ふわふわとした猫っ毛が揺れる。
その無邪気な破壊力に、僕は奥歯を噛み締めた。
まともに顔を見られず、視線を泳がせながら、なんとか低い声だけを絞り出す。
「……勝手に人の部屋、入んなよ」
「えー。なっちゃんだって、勝手に入ってくる時あるじゃーん」
めぐみはぷくっと唇を尖らせると、それ以上僕をからかうのはやめたのか、「なっちゃんママ〜、なっちゃんノリ悪ーい」と言いながら部屋を出て、リビングの母の元へと向かっていった。
「めぐちゃん、本当に似合ってる! すっごく可愛い〜」
「ありがとう〜!」
我が家は二人兄弟で娘がいない母は、昔からめぐみを本物の娘のように愛でている。
リビングからは、まるで女子高生同士のようなキャッキャとした弾んだ声が聞こえてきた。
僕は「くそっ」と小さく毒づき、自分の部屋の扉をパタンと閉めた。
ドサッと床にリュックを放り投げる。
……あいつ、どのくらいこの部屋にいたんだ。
ひんやりとしていたはずの自室の空気が、少しだけ温かい。
そして何より、めぐみの家の柔軟剤――あの甘いフローラルの匂いが、部屋の空気に微かに混ざっていた。
その事実にどうしようもなく動揺しながら、パーカーとジャージに着替えようとすると。
「…………っ!!」
乱暴に一歩を踏み出したせいで、ゴンッ!とベッドの角に足の小指を強打した。
声にならない悲鳴を上げ、一人で悶絶する。
数分後、なんとか痛みをやり過ごしてリビングに向かった。
暖かな部屋に、制服姿のめぐみが座っている。
僕は極力そちらを見ないようにして冷蔵庫を開け、冷たい麦茶をグラスに注ぐ。
ゴクゴクと喉を鳴らして飲んでいると、母が思いついたように手を叩いた。
「夏樹も高等部の制服着なさいよ! せっかくだから、めぐちゃんと並んで写真撮りましょ!」
「……無理」
僕はグラスを置き、即座に切り捨てた。
「もー、つれないなあ」
めぐみがまた、大げさに頬を膨らませる。
母の言うとおり、めぐみは、腹立たしいほどに高校の制服が似合っていた。
直視したら、顔が熱くなるのを誤魔化しきれない気がする。
(……高校に入って、あいつの可愛さが知れ渡ってモテ始めたらどうすんだよ?)
手元のグラスについた冷たい水滴を指で拭いながら、胸の奥で黒い感情が渦を巻く。
今のところ、誰かがめぐみを好きだとか、逆にめぐみが誰かを特別に意識しているという話は聞いたことがない。
けれど、あいつはとにかく人懐っこく、男女の区別なく誰とでもあの調子で喋るのだ。
高校に行けば、中等部からの持ち上がりだけでなく、外部からの入学生も増える。
そのうちの誰かが、めぐみのあの無防備な笑顔に惹かれるかもしれない――。
そう考えただけで、グラスを握る手に無意識に力がこもり、焦燥感で息が詰まりそうになった。




