第1話
薄手のカーテンを、窓の隙間から入り込む風が、柔らかく揺らしていた。
ぽかぽかとした陽だまりの微熱と、画用紙に擦り付けられるクレヨンの匂いが満ちた僕の部屋。
床に敷かれたキルトラグの上で、二人並んで寝そべるようにしてお絵描きをしていた。
ドクン、ドクンと、自分の心臓の音が耳の奥でうるさいほど鳴っていた。
握りしめた赤いクレヨンの先をじっと見つめながら、僕は震える息を吐き出した。
『……めぐ。ぼく……めぐのことが、だいすき』
恐る恐る隣に視線を向けると、彼女は手を止めて、くるくるとよく動く大きな瞳で僕をじっと見つめ返していた。
そしてすぐに、喜びいっぱいの笑顔が花開く。
『うん! わたしもなっちゃんがだいすき!』
彼女の言葉を聞いた瞬間、周りの空気がきらきらと輝き出した気がした。
僕は天にも昇る心地だった。
(やったあ! 僕とめぐは『りょうおもい』なんだ!)
(今日からめぐは、僕だけのお姫さまなんだ!)
……そう、本気で思っていた。
けれど、たった一日で、その有頂天は粉々に打ち砕かれることになる。
翌日の教室。
もう顔もろくに思い出せないクラスメイトの男子が、ニコニコしながらめぐみに尋ねた。
「ねえ、めぐみちゃん! ぼくのことすき!?」
僕は息を飲んで、少し離れた席からそのやりとりを見つめていた。
「えっ?」
彼女はきょとんとした後、昨日僕に向けたのと同じ、屈託のない満面の笑みで答えたのだ。
「うん、だいすきだよ!」
ガラガラガラッ! と、僕の中で築き上げられていた淡いお城が音を立てて崩れ落ちた。
周りの喧騒が遠のき、足元から冷たい風が吹き抜けていく。
昨日、僕に「大好き」と言ってくれたのは……「人類みな大好きだよ!」のノリだったのか?
あの、心臓が爆発しそうになりながら伝えた僕の覚悟は?
浮かれて何度もベッドの上で寝返りを打ち、ちっとも眠れなかった夜はどうなるんだ!
「——……っ!」
ハッ、と息を呑んで跳ね起きた。
額にはうっすらと嫌な汗が滲み、背中を冷たいものが伝っていく。
薄暗い自室の天井を睨みつけながら、僕は重いため息を吐き出した。
……また、あの夢かよ。
小学一年の時の、めぐみへの一度目の失恋。
あれから九年が経とうとしているのに。
そして夢だというのにもかかわらず、毎回まるで現実の録画を再生しているかのように、嫌になるほど再現度が高い。
心底うんざりしながらベッドから這い出し、洗面所へ向かう。
蛇口を捻って冷たい水を両手にすくい、勢いよく顔に叩きつけた。
顔についた水分と一緒に、この最悪な気分まで拭き取ってしまえるようにと、僕はタオルを強く押し付けた。
鏡の中には、少し鋭くなった黒い瞳を持つ中学三年の自分が、不機嫌そうにこちらを見返していた。
リビングに向かうと、焼けたトーストの香ばしい匂いと、目玉焼きが放つ油の匂いが混ざり合っている。
今日は学年末テストの初日だ。
「夏樹、テスト今日からよね!? エスカレーター式だからって油断しないでよ!?」
リビングをパタパタと小走りで移動しながら、自分の仕事の支度と同時に、まだ小学四年の弟の学校準備を手伝う母の甲高い声が飛んできた。
適当にトーストを口に運びながら、僕はため息交じりに応えた。
「……わかってるって!」
もう十回は同じことを言われた気がする。
僕は成績はいいほうなのだから、心配なんていらない。
深い人付き合いが面倒で優等生を演じているおかげで、学校では先生や同級生から勝手に一目置かれているくらいだ。
これ以上のおせっかいは無用だ。
ふと、母が思い出したように手を打った。
「あっ、そうだ! めぐちゃんのお母さんから、今日早番で先に出かけちゃうから、めぐちゃんが自分で起きられるか心配って言ってたのよ。寄っていってあげて!」
「…………」
母の言葉を聞いた僕は無言でサッと立ち上がり、空いた食器を流し台に置いた。
洗面所で手早く歯を磨き、リュックをひょいと肩に引っ掛ける。
「……いってきます」
小声でそう言い残し、そそくさと家を出た。
玄関のドアを閉める寸前、部屋の奥から「あれ? さっきのお願い、兄ちゃん聞こえてたかな?」という弟の不思議そうな声と、「もちろん、聞こえてたわよっ」とフフッと笑う母の声が聞こえた気がした。
そのままバタンと扉を閉めた。
僕は小走りで冷たい階段を駆け上がり、真上の部屋の前に立つ。
息を少し整えて、インターホンを押した。
——ピーンポーン。
しばらくすると、中からパタパタッと小さな足音が近づいてきた。
ガチャッ。
確認もなく、あっさりとドアが開いた。
そこに彼女の顔がのぞく。
「……めぐ。お前また確認せずに開けたろ?」
顔を見るなり、つい小言が出てしまった。
「あっ、ごめんつい! でも大丈夫じゃない? うちのマンションオートロックだし」
あっけらかんとした顔で言う彼女に、僕は呆れて言葉を失う。
「なんでそれで大丈夫なんだよ? もう十回くらい言ったろ……」
そこまで言って、同じ小言を繰り返すさっきの母と自分が重なってしまった。
(……俺は母さんか!)と心の内でツッコミを入れ、大きくため息をこぼす。
「それで、どうしたの? なっちゃん」
彼女がキョトンと首をかしげる。
「……めぐがちゃんと起きてるか、おばさんが心配してるから見に行けって。母さんが」
そう言いながら、僕は玄関の内側に入り込み、靴を履いたままひんやりとした冷気を含むドアにもたれかかった。
めぐみの家の柔軟剤の甘い匂いが、ほのかに漂ってくる。
彼女は再びパタパタと廊下の横にある洗面所に戻っていった。
「起きられたけど、寝癖が全然直らなくてー!」
洗面所のほうから焦ったような声が響く。
寝癖なんてついてたか?
さっき見た彼女の姿を思い返す。
本人はひどく気にしているが、めぐみは天パで、ふわふわと大きめにカールしている髪を鎖骨のあたりまで伸ばしている。
寝癖なのか癖っ毛なのか、僕にはあまり見分けがつかないし……正直どっちだって可愛い。
「……光くんは?」
彼女の兄について、少し大きめの声で尋ねた。
「昨日の夜飲みに行って帰ってこなかったよー! 大学生って自由で緩いよねえー」
ジャーッという水の音と一緒に、めぐみの大きな声が返ってくる。
しばらく待っていても、彼女が洗面所から出てくる気配はない。
「……まだ行かないの?」
ふと聞いてみると、水の音がぴたりと止まった。
「え? 一緒には行かないよね? 一緒に行ったりしたら、私がなっちゃんファンに何言われるかわかんないよ〜」
怯えたような声が飛んでくる。
小学生まではマンションの登校班があって、毎日一緒に通っていた。
けれど、中学生になってからは、たまたまタイミングが重なって並んで歩いていただけで、翌日大騒ぎになったことがある。
僕が学校で無駄に優等生を演じているせいで、なぜか女子から騒がれることが多いのだ。
何も気にせず、ただ隣を歩けたらいいのに。
(面倒くさいな)
「……じゃあ先行くな。遅刻すんなよ」
僕がぶっきらぼうにそう言ってドアノブに手をかけると、「うん!」と元気な声が返ってきた。
洗面所からひょこっと顔を出しためぐみが、無邪気な笑顔を向けてくる。
「ありがとうっ!」
「…………」
(…………ずるい)
僕は無言のままドアの外に出た。
バタンと閉まった冷たい鉄の扉の前で、少しだけ立ち尽くす。
なんなんだよ、あれ。
可愛いな。
僕はなぜかイライラした足取りで階段を降り、一人で学校に向かうのだった。




