18-兄というもの
「……その後のグラノヴェル嬢——いや、アナスタシア嬢は?」
午後の急ぎの書類を文官に渡し、後は順次片付けるだけとなった頃、ようやくヴァシリーの眉間の険しさも消えた。そんなタイミングでアレクシーは口を開く。
「恙無く過ごしております」
ジロリとアレクシーに返される冷ややかな視線。業務は停滞なく執り行うが、感情は別というところか。
「王家としての此度の補償は——」
「アナスタシア・エルミタージュへ直接下知下さい。我らグラノヴェル家は飽くまでも後援」
今更王家の補償など受けるべくもない立場、とヴァシリーのにべもない声音に、知らず、溜め息を吐く。
最側近であるヴァシリーは変わらず淡々と職務を果たす。幼い頃の遊び友達から学友、側近候補、側近と何の疑問もなく続いた関係だったが——今更何の言い訳にもならないが、レオニードの失態は、隣国皇太子との縁組で償うつもりであった。
いや、正確には側妃派の権勢を削ぐ意味も含め、隣国皇太子とアナスタシアの縁組のためにレオニードの暴走を放置していたと言うべきか。
しかし、アナスタシアが公娼見習いとして動き出してしまった今となっては、その道も絶たれた。たとえ身分を回復させ、再び公爵令嬢アナスタシアとなっても、元公娼見習いを隣国皇太子妃候補に推すことはできない。
「しかしながらアナスタシア・エルミタージュの最大の後援としては、彼女のその後は既に定めておりますゆえ、王家の格別のご高配、謹んで辞退いたします」
皮肉なヴァシリーの言葉に、アレクシーの吐く溜め息だけが増えていく。
しかしグラノヴェル家をはじめとして、ヴァシリーの関知するところではない。
彼らがどう後悔しようと、王家とグラノヴェル家、断たれた縁が再び繋がる術など無いのだから。
公爵家はアナスタシアを伏せ札としてどころか、場に出すつもりは全くなかった。それが王家の不用意な動きで、危うくアナスタシアを婚姻外交の札にされかけたのだ。
皇帝が何のつもりでアナスタシアという札に手を伸ばしたかはわからない。が、国外においても有効と知れた札を、筆頭公爵家とはいえ、一国の一貴族の身で守り通す手段など、そう幾つもないだろう。
多くの貴族は、雲の上の存在である公爵家であっても抗う手立てのない中、それでも伸ばされた手を翻したアナスタシアの動きを見守っている。
その最中に——
「しかし……アナスタシア嬢へのこれ以上の侮り、こちらとしても——」
「侮り? さて?」
わかっているだろう。
アナスタシアが招かれた茶会で、主催した侯爵家の末弟妻女がアナスタシアを侮った。
「アナスタシア嬢が大事にしないで済ませたことは聞いた」
「何のことでしょうね。しかしながら公爵家は他家と諍うつもりはない。それを理解して貰えればそれで充分」
「は……諍うつもりがない? どの口が言う?あれも少し強引ではなかったか?」
侯爵家縁者とはいえ、ただの貴族位の夫人が、アナスタシアについて言葉にし、アナスタシアもなかったかのように終わらせた。
しかし——彼女は今療養という名で実家に戻され、社交からは遠のいている。
そしてその友人たちも、格上からの婚姻の幾つかが棚上げされた。
慮った上位貴族たちは、互いに伺うことなく、沈黙のまま仕舞いとしたからだ。
当然だ。
誰が好き好んで火種どころか暴発寸前の魔石を抱え込むか。多少外の血を入れた程度の魔力改変、公爵家の威光の前では揺らめく蝋燭の灯り程度の変革。揺れるだけ揺れて消え去るのみ。
「……それを殿下が仰いますか?」
同じ時期に起きた出来事。
アレクシーの目の前で軽口を叩いた上級文官は、夕刻には辺境の町役場周りへとその勤め先を替えていた。
曰く——筆頭公爵令嬢であれば側妃は叶わなくとも、一度公娼見習いとなったならば側妃の座も拝領しやすかろう、と。
王家とて、放置するはずもない。
王家にそんなつもりはない——と言いたくとも、公爵家は無言のまま切り捨ててくる。猶予などないのだ。
「いずれにせよ、殿下がいくら気をお配りくださっても、アナスタシアは時を過ごし、役目を終えれば領地で穏やかに暮らすことになりましょう。今更のお気遣いは不要」
レオニードを本人も知らぬうちに追い込み、自身への注目の一瞬の間を突いてエルミタージュに駆け込んだアナスタシア嬢。各国の動向を把握し、自身への注視を掻い潜る。彼女の状況判断力の深さ、速さには古参の文官も舌を巻いた。その彼女が穏やかに暮らすなど——あり得ない。これほどの判断力、国家間の政治統制で発揮されれば——と。
「アナスタシア嬢は……」
「父は……公爵は『我が公爵家と王家に今代のこれ以上の縁は無し』と。私の辞任がないだけマシかと」
「公爵はそこまで?」
「9歳のアナスタシアの婚約が成立した時以上の怒りです。せめてあと半年。列冠会議の後にしてくだされば、こちらも準備が整っていたものを」
「……」
「役立たず、と」
流石に不敬という遠慮があってか、誰が役立たずかまでは口にしなかったが——
彼女の判断がなければ、公爵家以上に王家も苦しい立場となっていただろう。
隣接する帝國——今は表面上の波風はない。が、帝國皇帝オルセインの治世が始まって10年余り。内政も落ち着いた今、その目がいつ何時、国外の覇へと向かってもおかしくはない。
その皇帝の手をもすり抜けたアナスタシアは、元よりレオニードなどに扱えるはずもない。
「私も——あそこまで考えなしとは……」
「元より分かりきったこと。学生時代も、アナスタシアの根回し、手回しをことごとく無駄にした体たらく。こちらが時期を見るべきでした」
暗に公爵家側から破棄するべきだった、と言われ、アレクシーの視線が気まずげに手元の書類に落ちる。
レオニードについて今更何を言い訳するつもりもない。王族としての深慮に些かの不足はあれど、人として、貴族としてならば可もなく不可もなく。ただ——状況が許されないのだ。
王太子妃リディヤとの婚姻から5年。未だ子はないが故に、継承権は自身が一位、ユリアス伯父が二位、第二王子のメルキオールが三位、そして第三王子のレオニードが四位。
順当だ。
しかし——このまま自身に子ができなければ?
側妃案も出されようが、女性の責任ばかりではないことも視野に入れるべきだ。その場合、自分の次世代は隣国皇国の血を引くメルキオールの子か、筆頭公爵家の血を引くレオニードの子か。
頭の芯が冷えた。
正直、どちらも選べなかった。
隣国皇国に口を挟まれるのも、南の小国と殊更密接である南方辺境伯に隙を見せるのも——だからレオニードは放置され、公爵家という後ろ盾を隠された。
そのことに気づいた時、弟は兄に対して何を思うか。
「しかし、あの先読みの才、惜しいと思うのは許されぬのか?」
「欲しいのですか?」
「……いや」
得たいと気軽に望めば魔獣が吼える。
いずれにせよ、彼女が大人しく領地に留まるとは到底思えない。
「殿下のご要望、今すぐ父にお伝えしても良いのですよ」
「止めてくれ……望んでなどいない」
穏やかな笑みと共に出される提案。
しかし気軽に願えるものではない。今となっては、筆頭公爵家嫡男のヴァシリーを側近として得られたのさえ僥倖。
数代前まで、彼らは舞台袖からこの国を眺めていたのだから。
分かっている。
過ぎた望みは身を滅ぼす。
アレクシーはヴァシリーに負けず劣らず冷静な仮面を被り直す。
「何にせよ、アナスタシア嬢のおかげで多くの誤解が解けたのは喜ばしい」
実際、アナスタシアという大輪に見惚れた者たちが次々と躓き、消えた。
公娼の水面下での働きは、知る者が僅かであっても影響は甚大。なのに最近は身を売るだけの平民の娼婦が幅を利かせ、ある程度の役職者でさえ、公娼に無体を働くという苦情が上がっていた。
それは殊に新興の下級貴族ではあったが、彼らの欲求を責めるわけにはいかない。
男も女も、より強い魔力に惹かれる。
それが金や権力で手に入るのなら? 誰もが退く理由はなくなる。
が、彼らを満たすために、高嶺の花としている高魔力者の初花を、みすみす手折らせるわけにはいかないのだ。せっかくの大きな器、僅かな魔力で濡らすだけでは、いずれ器もひび割れ枯れ果ててしまうから。
魔力について知られていることは少ない。
知らせることを制限しているからだ。
ただ、産まれる魔力が少なくなれば、この世界は廻らなくなる。
ただそれだけだ。
一部だけを肥大させても世界は歪むのだから、統制は困難を極める。
「ところで——アナスタシア嬢のデビュタントだが……」
ヴァシリーの更に冷ややかな視線がアレクシーに突き刺さる。
「……父はアナスタシアの望むままに、と言っております」
「…………それは——」
「アナスタシアの人生はアナスタシアのもの」
「だが、王国広しと言えど、アナスタシア嬢ほどの魔力ならば……」
「……ベルジャーエフ家は公爵家寄子の筆頭。王家はこれ以上無駄に掻き回さないで頂きたい」
「今更王太子妃の入れ替えなど出来はしないぞ」
「ええ。そのようなこと我が公爵家では全く望みません。ただ側妃と南方辺境伯、些か声が大きいかと」
「父上には……陛下には伝えておく」
「ええ。お願いします」
王と王太子、第二王子が描いた隣国との繋がりは、アナスタシアの先読みで既に途切れている。今更蒸し返すでもないだろう。
二人は同時に溜め息を吐く。
扱い難い身内を思って。
「アナスタシア嬢は——」
「殿下」
「いや、すまない。だが私とて、幼い頃より見知るあの子の行く末は心配でもあるのだ」
記憶の奥では、手駒でも、札でもない、プラチナ色の髪に青灰の瞳を持った少女が取り澄ました表情で茶器に手を伸ばす。
本当は菓子器の菓子の方に興味がある筈なのに、年相応の声で経済を語り、年不相応の淑女の微笑みを浮かべる歪な少女。
「殿下がそう仰っても、貴方が名を出した瞬間から意味が変わります」
「悪かったと言っている」
「殿下が気になさったところで、飲んだワインは空のまま」
「分かっている……」
飲み干そうが零そうが、ない、という結果は変わらない。
アレクシーは小さく頭を振る。
記憶の引き出しはもう一人を引き出していた。
『わたくし、リディヤ・オルディノフは婚約の継続を望みます』
蜜色の金の髪に水色の瞳の年若い女性
彼女の硬い声が耳に蘇る——
王太子妃教育が辛いと泣いていた少女は、歳を重ね、自身の責任を理解した。
その道から降りなかったのだ。
だから——
「私も、王太子としての責任を果たすだけだ」
前を見続ける。
その厳しさは誰よりも分かっている。
目を閉じる。
閉ざした瞼の裏に蘇るのは——
扉を叩く音と従者の呼びかけに顔を上げる。
「王太子妃様がお越しです」
「あぁ……」
午後の茶を約束していたな。
「……では、本日はここまで」
「いや、たまにはヴァシリーも一緒にどうだ? リディヤも喜ぶ」
「いえ」
「何だ? 何か用事か?」
「ええ。アナスタシアと城下の祭りに行く約束がありますので」
「あぁ……」
「今年こそ! とは思ってはいますが、なかなか……」
ヴァシリーに浮かぶ苦笑に、同じ苦笑で返す。
「嬢の頑なさはそこからか」
「まぁ、兄の責任です」
小さな手に握られた屋台の一口大の菓子——切り分けられたりんごに掛けられた飴。キラキラと輝く幼子の宝物をふざけて泥だらけにした責任は今も負っていた。




