第一話 それは置かれていた
この物語は「回収」についての話です。
ただし、何を回収しているのかは、
読んでいる途中では分からないようになっています。
読み終えたあとに、
「あれは最初から置かれていたのか」
と思い出すかもしれません。
思い出さなくても、大丈夫です。
その場合は——
すでに回収されています。
鳥居翔平、五十一歳。
この村で百年続く雑貨屋を、潰しかけている。
それでも店を続けているのは、妻のためだ。
妻の薬は、この村でよく売れている。
それで、回っているはずだった——少なくとも、昨日までは。
妻が笑うたび、どこかで間違えた気がしていた。
少なくとも、そう思っているあいだは、問題なかった。
何を言っても、その顔は崩れない。
ただ瞬きだけが、
少しだけ、少なすぎた。
「ねぇ、あなた」
夕食の途中、妻は画面を見たまま言った。
「店の前に、箱を置いてみない?」
妻はスマホを差し出す。
「箱?」と、俺は聞き返した。
妻は返事をしない。
画面を見たまま、瞬きを止めている。
それから、ようやく目を細めた。
「——ああ」
そう言った気がした。
だが、画面から目が離れなかった。
妻はそのまま、笑みをわずかに深くした。
「この村は高齢の方が多いでしょう。売りたいものを入れてもらって、後であなたが回収するだけ。」
「探す手間は省けるな。ただ——箱を探すのが面倒だ。」
妻は小さく笑う。
「あなたは、そうする。」
断定でもなく命令でもない。
それ以外の答えが思い浮かばなかった。
妻は湯のみを置く前に、俺を見る。
その目は、すでに終わっているものを確認する目だった。
「薬、飲んで。」
俺は薬を口に運ぶふりをして、舌の下に隠した。
——飲んでいない。
それなのに、喉の奥に“通った感覚”だけが残っていた。
翌朝、蔵へ行った。
「ここも整理しなきゃな。」
埃が舞い、息がわずかに重くなる。
蔵の奥で足が止まる。
——箱があった。
「こんなもん、あったか」
昨日は、何もなかったはずの場所だ。
だが記憶の方が曖昧だった。
表面に触れた瞬間、ざらりとした冷たさが指に残った。
傷だらけの金属。
「これくらいでいいか。」
しばらくして、指を離す。
触れていた感覚だけが、遅れてきた。
いつの間にか、外に立っていた。
手にはホースを持っている。
水をかけるたびに、表面の汚れではなく“輪郭”が濃くなる。
見覚えがあった。
——思い出そうとした瞬間、止まる。
箱は、さっきより近かった。
電話が鳴ったのは、その日の夕方だった。
「もしもし、翔ちゃん。私よ」
妻の声に聞こえた。
「少し手を貸してほしいの。診療所に来てくれる?」
「分かった。すぐ行く。」
短く答えて電話を切る。
湯のみの茶を一息で飲み干し、店を出た。
診療所は村の外れにある。
扉を開けると、妻はいつもの調子で言った。
「遅いわよ。呼んだらすぐ来てくれないと困るじゃない。」
だが、視線が違った。
俺ではなく、その奥——
まだそこにないものを、すでに見ている目だった。
医者の瓜が間に入った。
「お前ら昔から変わらんな。
お前……ちょっと細くなったな。……前からこんなだったか?」
「そうか?変わらないと思うけどな。
そういえば、何があった?」
「急患が来る。人手が足りない。」
——それだけ言って、瓜は目を逸らした。
そのときだった。
遠くからエンジン音が響く。
次の瞬間、車は土煙を上げて診療所前に滑り込んだ。
止まったというより、無理やり止められたような動きだった。
「先生!早く!!」
運転席の男が叫ぶ。
妻だけが先に歩き出していた。
——血の匂いに、まったく顔色を変えずに。
その瞬間だけ、
誰も同じ呼吸をしていなかった。
俺は駆け寄り、後部座席のドアを開けた。
中を覗き込む。
そこにいたのは、肉屋の店主熊谷だった。
ぐったりと横たわっている。
血の匂いが、一気に喉の奥に張り付いた。
体には無数の傷。
傷は、全部同じだった。
「担架を! 早く中へ!」
瓜の声が飛ぶ。
「お、おう!」
我に返り、慌てて手を貸す。
全員で熊谷を診療所へ運び込んだ。
妻は傷口を見ていた。
——まばたきもせずに。
瓜は傷を見た瞬間、一度だけ動きを止めた。
次の瞬間には、何もなかったように手を動かしていた。
やがて、処置は終わった。
俺は外に出て、運転手の魚住に声をかけた。
「何があったんです?」
魚住は答えない。
ただ一度、喉を動かした。
「——山で」
魚住は口を開きかけて、止まる。
それから小さく首を振った。
「——いや」
一度そう言ってから、少し間を置いた。
「……熊、だと……いいんですが。」
男は目を逸らした。
ひと通りの対応が終わり、俺たちは解散した。
——だが。
魚住は一度だけ、息を吐いた。
言うべきか迷うように。
その続きを、聞いていたのは俺だけだった気がした。
「——その熊谷さんの奥さん、最近ちょっと様子がおかしかったらしいんです。」
「様子が?」
「薬を飲み始めてから——
“奥さんの方が、先におかしくなった”って」
その言葉を聞いたとき、なぜか思った。
俺は、いつから飲んでいる?
——思い出したくなかった。
“通った感覚”だけが残っている。
店へ戻る。
戸を開けた瞬間、視線が止まった。
——箱。
外に置いたはずのそれが、そこにあった。
一歩近づくたび、足音が遅れて響いた。
手を伸ばし、蓋に触れる。
ひんやりと冷たい。
ためらいが、一瞬だけよぎる。
それでも、開けた。
中には、肉が入っていた。
——いや。
入っていた、というより。
いつの間にか、そこに“置かれていた”ようだった。
「——なんだ、これ?」
喉の奥がざらついた。
赤みが強く、まだ温かかった。
——違った。
その傷は、“作られていた”。
手順が、同じだ。
目を逸らそうとして、できなかった。
——理解してしまった。
診療所で見た、あの傷と。
手から力が抜けた。
鈍い音を立てて、床に落ちる。
「——っ」
息が浅くなる。
——そのとき。
「鳥居さん。」
背後から声をかけられる。
振り返ると、パックを抱えた若い男が立っていた。
「——熊谷さんのとこの息子か。」
見覚えのある顔だった。
熊谷の息子がパックを抱えたまま言った。
「これ——もう、届いてたんですね。」
「届く?」
男は一瞬だけ、不思議そうな顔をした。
「この肉です。親父の仇ですから。」
男が静かに言った。
その顔は、さっきから変わっていない。
——表情が、なかった。
俺は足元のパックに視線を落とす。
さっきまで、箱の中に入っていた肉。
「——誰が……」
男は、わずかに首を傾げる。
「え?」
「いや——なんでもねぇ。」
ごまかすように視線を逸らす。
男は気にした様子もなく、続けた。
「……使えば、分かりますよ」
男は、そこで言葉を切った。
口元だけが、わずかに動いた。
だが、その笑い方は——
結果を知っている側のものだった。
「——そうか……」
口が、先に動いた。
「じゃあ、また後で」
男は軽く頭を下げ、そのまま店を出ていった。
風の音がする。
——外からだ。
外へ出る。
足音が、遅れて届いた。
一歩。
また一歩。
そのたびに、距離の測り方が分からなくなる。
さっき開けたばかりのはずなのに、“まだ一度も開けていない”ような気がする。
手をかける。
蓋は、軽かった。
さっきよりも。
——あるいは、最初から。
⸻
開ける。
箱は、空だった。
視線が、箱の内側へ戻る。
底。
光の当たり方が、少しだけ歪んでいる。
⸻
——文字のようなものが見えた。
⸻
俺は目を凝らす。
読める。
——読めてしまう。
⸻
そこには、名前があった。
——鳥居翔平
それが、自分の名前だと気づくまでに、時間がかかった。
——次に入るのは、誰だ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、まだ終わっていません。
箱の中身も、
すべてが出揃ったわけではありません。
ただ——
箱は、もう使われています。
一度でも中を見た場合、
それはもう無関係ではいられません。
誰が、とは言いませんが。
何が入るのかは、
これから順番に分かっていきます。
もし、どこかで名前を見た覚えがあるなら——
少しだけ、気をつけてください。
次に入るものは、
もう決まっているかもしれません。
更新は続きますので、
安心してお待ちください。




