ウパチッサとコーリタ
ところで、この出来事よりはるか以前のことである。ラージャグリハの東北にナーラダ村というバラモンの集落があり、そこの裕福な家にウパチッサ(優波帝須)という若者がいた。額が張り出し、大きな頭が印象的な彼は、幼いころから聡明なことで人に知られ、隣村のコーリタ(倶律侘)と親しく交わって互いの志を語りあう仲だった。
このふたりがその年、ラージャグリハで行われる山頂祭を見にでかけた。飾りたてられた山車が練り歩く都は常にも増して人が多く、華やかである。人声、弦楽の騒しい中にときおり鳴らされる銅鑼の音。福をもらおうと山車に押し寄せる老いたる者、若き者。叫ぶ女、ののしる男。熱気が渦を巻き、耳には大音響がひびく。
人ごみの中を押されるように歩いていたふたりは、酔ったように東も西もわからなくなってしまった。
「気分が悪い……」
そうしているうちに、コーリタがうずくまった。
「ここを出よう」
ウパチッサは友を抱え、道の端を人の流れに逆らってゆっくりと歩き出した。
ふたりは都門を出て、山の方へ向かった。清涼な空気を胸いっぱい吸い込み、コーリタの顔色も良くなってきた。
彼らはラージャグリハが一望できる場所で足を止めた。
山車の天辺にある黄金の飾りがきらめきながら揺れ、都の喧騒が潮騒のように遠く聞こえた。
コーリタは膝を抱えて座り、その鼻筋のとおった秀麗な顔を曇らせた。
「虚しい……」
ウパチッサは心を読まれたかと思い、ぎくりとした。勘の鋭いコーリタは、そのようなことがよくあった。
ウパチッサは立ったまま風に吹かれていた。風は心地好かったが、胸を吹き過ぎるそれは寒々としている。
「あの騒ぎ、あの群集、しばしの夢をむさぼって歓楽に余念のないあの人々も、百年ののちには誰が生き残っているだろう……」
コーリタは友の方を見ず、うつむいたままつぶやいた。彼はウパチッサの心を知っているわけでなく、ただ同じことを考えていたにすぎない。
「そうだな」
ウパチッサは視線を友から眼下の王都へと移した。
「神の楽師が奏でる音楽に心を蕩かしている間も、人の悲しみは遠慮なく見舞う。あのはるかに見える都の有様も、いつかは滅びるときがくる。滅びるものが、滅びるものを求めて何とするのだろう」
ふたりの心はひとつだった。
そして彼らは出家し、そのころ高名な修行者であったサンジャヤの弟子となった。
すぐにその教えを理解したウパチッサとコーリタは上座の弟子として師に次ぐ地位を得たが、サンジャヤの教えが真理の法ではないと感じ、「どちらでも不死の覚に達した者は、直ちにこれを他のひとりに告げる」と、堅く約束した。
そんなある朝、ウパチッサはラージャグリハで一人の物腰気高い出家を見かけた。
(ああ、何と威厳に満ち、清らかな姿だろう。世にもし覚を得た人があるならば、この方はたしかにそのひとりであろうな)
ウパチッサはその出家に近づいて道を問おうとしたが、托鉢を終えるまで、と思い返し、彼のあとを追った。
そして出家が托鉢を済ませて街を離れ、樹の下で食事を終えるのを見届けて、ウパチッサは声をかけた。
「友よ、貴方のお身体はまことに静けさに満ち、清らかに澄み切っている。貴方は誰を師としておられますか」
「友よ」
問われた人は振り返り、穏やかに答える。
「いま、シャーキャ族から出た偉大な沙門がいます。私はその方、世尊の教えを奉じておるものです」
その出家の名はアッサジ、仏陀が最初に法を説いた五人の修行者のうちのひとりであった。
「貴方の師は、どういうことを説いておられますか」
ウパチッサは、たたみかけるようさらに訊く。
「私はこの教えに新しく入ったものですから、それを詳しく説くことは出来ませぬが、偈にすれば、このようでありましょうか。
『諸法は因より生ず。如来はその因を説きたまふ。諸法の滅をもまた、大沙門は比の如く説きたまふ』」
「ああ」
これを聴いて、ウパチッサは即座に覚った。
彼は夢見るような顔つきで急いで戻り、かねてからの約束を果たすべくコーリタへその日の出来事を話した。
「友よ、素晴らしいことだ!」
コーリタは喜び、ふたりで仲間のところへ行って、アッサジとの出会いを語った。
「あなた方は、その沙門の師のもとへいかれるおつもりですか」
仲間のひとりが尋ねた。
「そうしようと思う」
「では、我らもお連れください。いま師事するサンジャヤどのの教えより優れているように感じます」
仲間たちが、口々に云う。
「しかし、師はどう云われるか。我らふたりが離れることだけでも激しい怒りを覚悟しておるのに」
コーリタが困惑の表情を浮かべた。
「我らが出家したのは覚を得るためであって、師の世話をするためではありませぬ」
仲間たちはそう言い張り、二百五十人がウパチッサとコーリタと共に出てゆくこととなった。
彼らは師の庵へ赴いて、ウパチッサが事の次第を語り、コーリタが許しを請うた。すると、サンジャヤの態度が一変する。
それまで言葉つきも優しくいかにも聖者といった様子であったのに、腹立ちのあまり頬には朱を刷き、両眼を剥いて怒鳴った。
「どこのならず者にたぶらかされたか、愚か者め!」
ウパチッサとコーリタの後ろに控えている弟子たちは、身を竦ませた。そして、各々(おのおの)思う。
(やはり本性は判らぬものだ。人に知られた六人の大沙門のうちに数えられていても、自分に不都合な出来事がなければ、その人物も教えも真贋のほどは知れぬ)
(ウパチッサとコーリタは人柄もよく、優秀な弟子だ。このふたりが抜ければ、サンジャヤどのも打撃であろう)
しかし、ウパチッサとコーリタは頭を垂れ、師の健康を祈り、別れの言葉を告げた。
「物狂いをしたか、弟子たちよ。ウパチッサ、コーリタ、入門して間もないおまえたちを上座に据えた恩義を忘れたか!」
立ち去る弟子たちへ向かって、サンジャヤはさらに云う。けれども、誰ひとり戻ろうとするものはなかった。
「裏切り者め!」
そしてサンジャヤは、聖人の顔をかなぐり捨てて罵る。
「恨んでやるぞ、ウパチッサ、コーリタ。呪われるがいい!」
だが、何を云われようと背を向けたまま、ふたりは二百五十人を率いて竹林精舎へと向かった。
一方、釈迦牟尼世尊は遥かに彼らが来たのを眺め、弟子たちへ告げた。
「ここへ二人の友がやってくる。彼らは私の大弟子となるであろう」
やがてウパチッサとコーリタは世尊のもとでその弟子となり、上座として敬われた。この後、ウパチッサはシャーリプトラ[サーリプッタ・舎利弗、舎利子]、コーリタはマウドガリヤーヤナ[モッガラーナ・目犍連、目連]と呼ばれた。
しかし、古参の弟子たちの間にはさまざまな不平が起こった。彼らの師はそれを知り、諭す。
「弟子等よ、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナとを上座の弟子としたのは依估の沙汰ではない。これは前生の善根と志願によって定まっているのである。無上の涅槃を志して出家したものが、地位の高下を争うことは似合わしくない。自ら心を浄くして脇目も振らず一心に進まねばならぬ」と。
また、この両人が仏陀のもとで修行を始めると、マガダの名高い家々の子弟が相次いで出家するようになった。そのため、残された家族は非難して云う。
「ゴータマは親をして子を無くさせ、妻をして夫を失わせ、家の後継ぎを絶つものだ」
そして、ラージャグリハの人々は、
「千人の火を祭る者が出家し、二百五十人のサンジャヤの弟子が出家し、マガダの名ある家々の子弟が出家した。この次には誰を引き入れるであろう」
と噂し合い、弟子たちを見れば、嘲りの歌をうたう者さえ現れた。
「摩竭陀の山の都に、大いなる出家あらわれぬ。
刪闍耶の弟子を引き入れ、次に誰を奪うや」
弟子たちはこれを師に告げた。
「弟子等よ、この声は永く続かぬ。七日の後には消えるであろう」
彼らの師は、謗られて意気消沈としている弟子たちへ静かに云う。
「弟子等よ、もし市に出て、その声を聞いたならば、かように答えるがよい。
正しき御法もて、御仏は導きたもう。
さらばげに、嫉みの矢も何かあらん」
人々はこれを聞き、やがて嘲りの声もすべて消えたのだった。