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長爪梵士

 この頃、ゴータマ・ブッダは主にラージャグリハの東北にある(りょう)鷲山(じゅせん)豚崛洞(とんくつどう)に住んでいた。そこへシャーリプトラの外伯父(おじ)が訪れた。

 粗衣を身にまとったその痩せた老人は、杖をつきながらしっかりとした足取りで山道を登ってくる。木々が少なくなったところで道は急な坂となり、ごつごつとした岩肌が目につく。頭上では、はるかな高みで一羽の鷲が弧を描き、悠々と舞っていた。

(山中にあって閑静。ここから教えを聴きたいものは皆、王も庶人も関わりなく自らの足で険しい道を歩かねばならぬのだな)

 彼は、この場が気に入った。

 老人の本名は、マハーカウシュティラ[摩()()倶絺(くぎ)()]という。すでに出家し、「一切の学成るまでは爪を切るまい」と誓って十数年、修行に励んできた。そのため、人は彼を長爪梵士(ちょうそうぼんじ)[ディーガナカ]と呼ぶ。

 彼の目指す山の(いただき)には、鷲の翼に似た巨石がある。強い陽射しを避けて、修行者たちは各々(おのおの)洞窟で坐禅を行っていた。

(他の教派の弟子たちは、集まれば無駄話をし、騒がしいことだが、ここの人たちは実に静かである。それに、ウパチッサは幼き頃より眼から鼻に抜けるような聡い()であった。その甥が師と仰ぐ者、さていかなる器量か……)

 老人は、甥の師匠を見ようとやってきたのであった。

 彼は経行(きんひん)[そぞろ歩き]をしていた弟子を捕まえて師の居場所を聞き、豚崛洞(とんくつどう)の前まで来た。咳払いをして中へ入ると、そこにはひとりの沙門が坐っていた。彼の甥がその人物の背後に立ち、扇を持って煽いでいる。

(なんと、いま仏陀と評判の者は、吾が甥とさして年が違わぬではないか)

 梵士はその若さに驚いたが、丁寧に挨拶を交わし、前へ坐った。

「大徳よ、私は一切の存在を疑い、(ゆる)さぬという主義であります」

「梵士よ、一切を(ゆる)さぬというならば、(あなた)はその『(ゆる)さぬ』という主義をも認めないのであろう」

 矛盾を突かれて、長爪梵士は一瞬、言葉につまった。

「……その通りであります。もし(ゆる)さぬという主義を認めれば、すべてを認めることになりましょうから」

「梵士よ、(あなた)のように非を見ていながら、その非なる主義を捨てないものは多く、その主義を離れるものは少ない。世間には一切を(ゆる)すという者もあり、一切を(ゆる)さぬという者もあり、また或る部分を(ゆる)し或る部分を(ゆる)さぬという者もある。こういう見解の内、概して一切を(ゆる)すという主義は、貪欲(どんよく)繋縛(けばく)と執着とに近く、一切を(ゆる)さぬという主義はそれに遠いものである。しかしいずれにせよ、これらの主義に強く執着すれば敵が(あらわ)れて争い、障碍(さわり)ができ迷惑がかかる。智慧ある者はこれを知って、その主義を捨てるのである。

 梵士よ、この父母より生れて食物に保たれる肉体は、無常であって壊れるもの、苦しみのもの、無我のもの、空しいものである。この道理をみて身体(からだ)に対する欲と執着とを離れねばならぬ。また我らの感覚には苦と楽と不苦不楽の三種があるが、この三つはみな縁によって生じたもので、無常にして滅びるもの、執着をすべきものではない。この教えによる私の弟子たちは、苦と共に楽をも不苦不楽をも(いと)い、貪欲(どんよく)を離れて解脱し、誰とも争わずに生活するのである」

 このとき、世尊の後ろにいたシャーリプトラは思った。

(あの弁のたつ伯父(おじ)()が何もいえず考え込んでいる。まこと我が師は、欲を離れる正しき道を心得ておられることだ)

 長爪梵士は、自分の内なる硬いものが崩れてゆくのを感じた。

「目覚めたる人よ、……私はこの爪を、ついに切る(とき)がきたようであります」

 彼は、かすかに笑みを浮かべた。心中、喜びの中にも一抹の寂しさがある。

 そして老人は、仏と法と僧伽に生涯帰依する信者となった。



 


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