第九章 花火の向こう側
「……そろそろ、花火が始まるぞ」
悠斗が空を見上げた。
遠くで、開始を知らせるアナウンスが流れていた。
「行くか?」
健太が尋ねた。
俺は、少しだけ迷った。
今の気持ちで、花火を見ても楽しめるのだろうか。
美咲が隣にいない花火。
美咲が、別の誰かと見ている花火。
それを考えると、また胸が痛んだ。
けれど、俺は頷いた。
「……うん。行こう」
「よし!」
健太が、俺の肩に腕を回した。
「今日は俺が隣にいてやる!」
「暑苦しいから離れろ」
「なんだと!」
「お前、汗かいてんだよ!」
「お前だって汗かいてるだろ!」
「俺はいいんだよ!」
「何が違うんだよ!」
「気分の問題だ!」
「意味わかんねえ!」
そんなことを言い合いながら、俺たちは河川敷へ戻った。
人混みの向こうで、最初の花火が上がった。
ドン、と腹の底に響く音がした。
夜空に、大きな光の花が咲いた。
「おおっ!」
健太が叫んだ。
「でけえ!」
「近いな、ここ!」
陸が笑った。
「場所取り、成功じゃん」
真帆が嬉しそうに言った。
「だから言っただろ!」
健太が得意げに胸を張る。
「俺の判断は正しかった!」
「はいはい」
千夏が笑った。
俺は、空を見上げた。
花火は、きれいだった。
大きな光が夜空を照らし、ゆっくりと消えていく。
そのたびに、周囲から歓声が上がった。
俺は、ふと、美咲のことを考えた。
今ごろ、どこかで翔太と一緒に花火を見ているのだろう。
同じ花火を見ているのかもしれない。
美咲は、笑っているだろうか。
翔太の隣で、楽しそうにしているだろうか。
考えれば、まだ胸は痛かった。
それでも、俺は思った。
ああ、これも、俺が選んだ結果なんだな。
美咲がバスケ部に入ると言ったとき。
俺は、一緒にやろうという誘いを断った。
それ自体は、悪いことではない。
苦手なことを無理に始める必要はないし、自分に合ったものを選ぶのは当然だ。
でも、俺はそのあとも、何もしてこなかった。
部活に入らなくても、応援することはできた。
練習試合を見に行くこともできた。
頑張っている美咲の話を、もっと聞くこともできた。
帰り道が合わなくなったのなら、自分から連絡を取ればよかった。
夏祭りに断られたのなら、別の日を提案すればよかった。
花火大会に断られたときだって、俺の気持ちを伝えることはできた。
それなのに俺は、何もしなかった。
何もしないことが、今までの関係を守ることだと思っていた。
でも、本当は違った。
何もしないという選択も、ひとつの選択だった。
俺は、美咲に嫌われることを恐れた。
だから、好きだと言わなかった。
その結果、美咲が誰かを好きになることを、ただ遠くから見ているしかなくなった。
もちろん、俺が告白していたら、美咲が俺を選んでくれたとは限らない。
そんな保証は、どこにもない。
それでも、俺は自分の気持ちを伝えることすらしなかった。
それが、今の俺にとっての後悔だった。
「……なあ」
俺は、隣にいる悠斗に声をかけた。
「ん?」
「俺さ、明日、美咲と会ったら、普通に話せるかな」
悠斗は、少し考えた。
「さあな」
「そこは、話せるって言ってくれよ」
「嘘はつけねえだろ」
「お前、ほんと正直だな」
「まあな」
悠斗は空を見上げた。
「でも、今までだって、いろんなことがあっただろ」
「……うん」
「喧嘩したこともあったし、気まずくなったこともあった」
「そうだな」
「それでも、俺たちは一緒にいた」
悠斗は、俺を見た。
「今回も、すぐに元通りになるとは限らない。でも、それで終わりってわけでもないだろ」
俺は、黙って頷いた。
「美咲が誰を好きでも、お前が美咲を好きだったことまで、なくなるわけじゃない」
「……うん」
「だったら、その気持ちを無理に消そうとしなくてもいいんじゃねえの」
悠斗は、少し笑った。
「まあ、俺は恋愛のことなんて、よくわかんねえけど」
「最後にそれ言うのかよ」
「だって、わかんねえもん」
俺は、笑った。
「……ありがとな」
「だから、礼はいらねえって」
「それでも言いたいんだよ」
悠斗は、少し照れくさそうに顔をそらした。
「……好きにしろ」
そのとき、夜空に、ひときわ大きな花火が咲いた。
光が、俺たちの顔を照らした。
健太が歓声を上げ、千夏がスマートフォンを構え、紗季と真帆が並んで空を見上げていた。
梨花は、少し離れたところから彼氏と合流するため、手を振って去っていった。
陸も、彼女からの連絡を受けて、途中で抜けることになった。
それでも、俺たちは笑っていた。
九人全員が、いつも同じ場所にいるわけではない。
それぞれの予定があり、それぞれの友達がいて、それぞれの大切な人がいる。
これからも、きっとそうだろう。
誰かが恋人を連れてくることもある。
誰かが部活で忙しくなることもある。
誰かが遠くの大学へ進学するかもしれない。
それでも、こうして集まれば、また笑えるのかもしれない。
そう思えたことが、今夜の俺にとって、何よりの救いだった。
「……なあ、みんな」
俺は、声をかけた。
「ん?」
健太が振り返った。
「今日は、ありがとな」
「またそれかよ!」
「いいだろ、別に」
「別にって言うな!」
千夏が笑った。
「じゃあ、次は何かおごってよ」
「え?」
「失恋したんだから、慰めてもらったお礼」
「お前、さっきの食べ物、俺が買ったわけじゃないだろ!」
「気持ちの問題!」
「さっき俺が言ったことを使うな!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
「財布は減るだろ!」
みんなが笑った。
俺も笑った。
そして、もう一度、夜空を見上げた。
花火は、次々と打ち上がっていた。
光って、咲いて、消えていく。
どんなにきれいでも、同じ形の花火は二度とない。
今、この瞬間も、すぐに過去になっていく。
俺は、そのことを、少しだけ寂しく思った。
でも、だからこそ。
今あるものを、大切にしなければならないのだろう。
隣にいてくれる仲間たち。
一緒に笑える時間。
自分の気持ちと向き合うこと。
そして、次に何かを大切にしたいと思ったとき、今度こそ、何も言わずに見送るだけでは終わらせないこと。
「……ほろ苦い夏の思い出だな」
俺は、小さくつぶやいた。
「何か言ったか?」
健太が聞いた。
「いや、何でもない」
「またそれかよ!」
「うるせえな!」
俺たちは、また笑った。
その笑い声の向こうで、最後の花火が夜空に咲いた。
大きく、明るく、鮮やかに。
そして、ゆっくりと消えていった。
終章 明日から
花火大会が終わり、駅へ向かう人の波に、俺たちも混ざった。
「明日、何時に集まる?」
健太が尋ねた。
「何のために?」
千夏が聞き返す。
「ゲーム!」
「お前、今日も明日もゲームかよ!」
「夏休みだからな!」
「少しは勉強しろよ」
悠斗が呆れた。
「お前、俺の母ちゃんか?」
「お前の母ちゃんは、もっとまともなこと言うだろ」
「ひどくね?」
「事実だろ」
俺は、みんなのやり取りを聞きながら歩いていた。
少し前まで、俺の世界は美咲を中心に回っていた。
美咲が笑えば嬉しかった。
美咲が誰かと話していれば気になった。
美咲が遠くへ行ってしまうように感じると、不安になった。
その気持ちが、悪いものだったとは思わない。
好きだったのだから、仕方がない。
ただ、俺はその気持ちを抱えたまま、何もできずにいた。
好きだと言えばよかったのか。
誘い続ければよかったのか。
もっと早く、自分の気持ちに向き合えばよかったのか。
答えは、今でもわからない。
もし過去に戻れたとしても、俺が同じように行動できるかどうかは、自信がない。
怖いものは、怖い。
失うのは、つらい。
だから、言葉にできないこともある。
それでも、ひとつだけ、わかったことがある。
何も言わなければ、何も変わらないわけじゃない。
俺が何もしなくても、時間は進む。
誰かの気持ちは変わる。
新しい出会いがあり、知らなかった世界が広がり、昨日まで当たり前だったものが、いつの間にか当たり前ではなくなる。
それは、きっと恋愛だけの話ではない。
進路も、友達も、将来の仕事も。
何となく周りに合わせて選んできた俺には、まだ、自分が何をしたいのか、はっきりとはわからない。
でも、わからないからといって、何も考えなくていいわけではないのだろう。
「……なあ、健太」
「ん?」
「明日、暇ならさ」
「おう」
「ちょっと付き合ってくれないか」
「何に?」
「……まだ決めてない」
健太は、きょとんとした顔をした。
それから、声を上げて笑った。
「何だよ、それ!」
「うるせえな!」
「いいぞ。どこでも付き合ってやるよ!」
「ほんとか?」
「おう。ただし、昼飯はおごれ!」
「結局それかよ!」
「当たり前だろ!」
俺は、笑った。
まだ、何をしたいのかはわからない。
明日、何をするのかも決まっていない。
美咲と、これからどんな関係になっていくのかも、わからない。
でも、明日は来る。
そのとき、俺がどうするかは、俺自身が決めることだ。
駅の改札を抜ける前、スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『今日はお疲れさま! 花火、きれいだったね』
俺は、画面を見つめた。
きっと、美咲にとっては、何でもないメッセージなのだろう。
俺たちは幼馴染で、今日も同じ町の花火大会に出かけていた。
それだけのことだ。
俺は、少しだけ息を吐いた。
そして、返信した。
『うん。きれいだったな』
送信したあと、もう一度、画面を見た。
言いたいことは、たくさんあった。
聞きたいことも、伝えたいことも。
でも、今夜は、何も付け加えなかった。
今すぐ、すべてを変える必要はない。
失恋したからといって、明日から別人になれるわけでもない。
ただ、いつかまた、誰かを好きになったとき。
その気持ちを、怖いからという理由だけで、ずっと胸の奥にしまい込むことはしたくない。
そう思った。
「おい、置いてくぞ!」
前を歩く健太が叫んだ。
「待てよ!」
俺は、スマートフォンをポケットにしまい、仲間たちを追いかけた。
夏の夜風が、頬を撫でた。
まだ少し、目が痛かった。
胸の奥にも、消えない痛みが残っていた。
それでも、歩くことはできた。
俺の初恋は、終わったのかもしれない。
けれど、俺の人生まで、ここで終わるわけじゃない。
言えなかった言葉も、選ばなかった道も、もう過去には戻せない。
それでも、これから先の選択まで、諦める必要はないのだ。
夜空には、もう花火の光はなかった。
それでも、俺の隣には、仲間たちがいた。
俺は、そのことを確かめるように、みんなの背中を見つめた。
そして、少しだけ前を向いて歩き始めた。




