第一章:飢えと、保証人の壁
「チート能力」も「魔法」もない。ただ、泥にまみれた交渉と、冷徹な数字の盾で、世界の支配権を奪い取れ。
シンが異世界――この「ガルドランド」と呼ばれる泥臭い土地に落とされてから、まもなく三ヶ月が経とうとしていた。
元の世界において、彼の名は「進藤 衛」。大手総合商社で広域物流網である「グローバル・サプライチェーンの構築」を専門とし、数千のコンテナと在庫の動きを秒単位で管理するシステム改善を統括していた男だった。さらに、彼はベンチャー起業家として独立した経験もあり、「運転資金の枯渇」という地獄のような極限状態で、金融機関や投資家、はては怪しげな金貸しとまで泥臭い資本交渉を繰り広げ、数字と契約書だけを武器に生き残ってきた「交渉と財務のプロ」でもあった。
だが、そんなエリートとしての華々しい経歴も、この中世さながらの閉鎖的な暗黒社会では最初の三日間で消え失せた。
「現代知識で無双する」などという夢想は、ただの妄想だった。紙の作り方も、火薬の調合比率も、現場の製造プロセスを抜きにした頭の中の曖昧な知識だけでは、何一つ形にできなかった。
何より、この街でまともな仕事に就くには、必ず「身元保証人」が必要だった。身元不明の余所者は、犯罪者か逃亡奴隷とみなされる。文字も読めず、この世界の複雑な貨幣制度もわからないシンを雇う商家などあるはずもなかった。港の荷運びといった安全な肉体労働さえ、地元の「荷役ギルド」が利権を握っており、余所者が手を出せば容赦なく袋叩きにされた。
(くそっ……前世でどれほど巨大な富を動かしていようが、身元保証のない人間は、ただの「透明な存在」でしかないのか……)
すべての道から拒絶されたシンが行き着いたのが、誰もが嫌がる、生存率最悪の仕事――「スカベンジャー《迷宮の煤払い》」だった。身元保証も不要、ただ命を賭けてゴミを拾うだけの使い捨て。しかし、シンにはこの過酷な探索に志願した、もう一つの切実な「目的」があった。
「おい、シンもたもたするな、置いていくぞ!」
前方を歩くベテラン探索者、ゴドリックが低い声で威嚇するように言った。
シンの真の目的は、このゴドリックだ。腕は立つが気難しく、誰も組みたがらないこの男を命がけでサポートし、信頼を得る。そしてあわよくば、町でまともな職に就くための「身元保証人」になってもらうこと。
前世で破産寸前の企業を再建した際、シンが学んだ最大の教訓は「強力なパートナーと利害を共有すること」だった。今の彼にとって、命を賭けるに値する唯一の資産が、目の前を歩くゴドリックという男だった。
シンにまともな装備を買う金はなかった。ギルドから支給されたのは、錆びかけた短い短剣一本と、前の持ち主の血が染み付いた革鎧だけ。
左手に構えている小振りの木製円盾は、前回の探索の際、命を落とした他の煤払いの遺品から「使えそうなゴミ」としてシンが拾い上げ、泥を拭って自分のものにしたものだった。表面はひび割れ、いつ砕けてもおかしくない代物だが、それでも今の彼にとっては唯一の命綱だった。
「……すぐ行きます」
シンは乾いた喉を鳴らし、湿った地下迷宮の岩肌に手をつきながら歩を進めた。商社マン時代に鍛え上げた「徹底的な現場観察眼」と、死線をくぐり抜けてきた「冷徹な計算力」だけを武器に、シンは暗闇の奥へと足を踏み込んだ。




