表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/10

第9話 1892年、パリ——洗練の都の亀裂

明治25年

・第2回衆議院議員総選挙と選挙干渉

・第2次伊藤博文内閣の発足

釈迦牟尼仏シャカムニブツの遺骨(仏舎利)奉迎

・正岡子規の『俳諧大要』連載開始

・北里柴三郎が伝染病研究所を設立

・「教育と宗教の衝突」論争の激化


 パリは美しかった。


 それが問題だった。


 美しすぎる場所は、人を錯覚させる。ここにいれば、すべてが解決するような気がする。ここで認められれば、出自も民族も関係なくなるような気がする。革命の都、啓蒙の都、「自由・平等・博愛」を世界に宣言した国の首都——その輝きの前では、どんな不安も些細に思えた。


 テオドール・ヘルツル、三十二歳。


 この街に来て一年が経った。




一 特派員、パリに立つ


 1891年十月からパリに駐在しているテオドールの仕事は、ウィーンの「新自由新聞ノイエ・フライエ・プレッセ」にフランスの政治と文化を報告することだった。


 これは、彼に与えられた最良の舞台だった。


 記者として、議会を傍聴し、政治家を取材し、サロンに出席した。劇作家として磨いた観察眼が、記事の中で生きた。彼の文章は鋭く、読みやすく、ウィーンの読者に好評だった。そして何より、パリという街そのものが、彼の知的好奇心を際限なく刺激した。


 カフェでは哲学者が議論し、画廊では前衛の絵画が論争を呼び、議会では共和国の命運が声高に語られた。十九世紀の終わりを目前にしたパリは、ヨーロッパ文明の全エネルギーが一点に凝縮したような、濃密な空気に満ちていた。


 街の壁は、色彩に溢れていた。


 モンマルトルの丘では、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックが夜の歓楽街を描き続けていた。ムーラン・ルージュの踊り子たち、カフェの常連たち、夜の闇に浮かぶ灯りと影——その平板な線と大胆な色彩は、貼り出された瞬間から街の空気を変えた。石畳の上を歩けば、至るところにポスターが目に飛び込んできた。これが「広告」ではなく「芸術」だという感覚が、パリという街にはあった。


 二年前に亡くなったフィンセント・ファン・ゴッホの作品が、死後になって急速に注目を集め始めていた。生前は狂人扱いされた男の絵が、今や「時代の先を見ていた」と語られる——テオドールはその逆転を、記者の眼で観察した。世界とは、生きている間には理解されず、死んでから評価される者に満ちている。預言者とは常に、時代より先を走る孤独な存在なのかもしれない——そういう思いが、一瞬よぎった。


 テオドールはこの空気を吸いながら、自分もこの都市の一部であると感じていた。


 ウィーンの劇場で得た承認よりも、この街での承認の方が、何か本質的なものに近い気がした。言語の壁はあった。しかし知性に言語は関係ない——そう信じたかった。




二 ノルダウという男との出会い


 1892年。テオドールはパリで、マックス・ノルダウと初めて会った。


 ノルダウはこの時、四十三歳。テオドールより十一歳年上だった。パリに定住して十年以上、医師として患者を診る傍ら、社会批評家として名声を確立していた。前年に出版した著作が各国語に翻訳され、彼の名はヨーロッパの知識人社会で広く知られていた。


 二人の最初の出会いがどのような場でのものだったか、正確な記録は残っていない。しかし会ってすぐに、二人は互いの中に何かを見出したことは確かだ。


 テオドールにとってノルダウは、鏡だった。


 同じルーツを持ち、同じ言語で考え、同じ文明の空気を吸いながら、その文明を外側から冷静に観察している男。医師の目で「時代の病」を診断し、文明の欺瞞を解剖する——その手法は、テオドールが劇作家として磨いてきた「社会への皮肉」と、深いところで共鳴していた。


 ノルダウにとってテオドールは、まだ「有望な若い記者」に過ぎなかったかもしれない。しかし後に振り返れば、この出会いは二人の人生にとって決定的な意味を持つことになる。


 この時点では、まだ世界を動かす計画など、どこにもなかった。




三 『退廃』——ノルダウの最大の爆弾


 この年から翌年にかけて、ノルダウは代表作『退廃(Entartung)』を出版した。


 これは彼のキャリアの集大成であり、同時に最大の爆弾だった。


 ノルダウは医師の眼で、十九世紀末のヨーロッパ文化を丸ごと解剖した。当時の前衛芸術——印象派の絵画、象徴主義の詩、ワーグナーの音楽劇——を、「退廃の症状」として容赦なく断罪した。これらは美の追求ではなく、道徳的・精神的な頽廃の表れである、と。


 著作は激しい論争を呼んだ。芸術家たちは激怒し、保守派は喝采した。英語、フランス語、ロシア語など複数の言語に翻訳され、大西洋を越えてアメリカでも読まれた。


 しかし、この著作の本質的な問いは、芸術批評ではなかった。


 ノルダウが本当に問うていたのは、こうだ——文明は今、正しい方向に進んでいるのか。「進歩」という名の下に、人間は何かを失っていないか。理性と科学が勝利した時代に、なぜ人々の心はかくも空洞になっているのか。


 テオドールはこの著作を読んだ。


 「時代の病」——その診断は、彼が日々パリで観察していたことと、深く共鳴した。繁栄しているように見えるこの都市の、表皮の下に漂う何か。熱狂しているように見える群衆の、その熱の正体。


 まだテオドールには、その観察を一つの思想として結晶させる言葉がなかった。しかし、問いは確実に育っていた。




四 同化への最後のあがき


 1892年から翌1893年にかけて、テオドールの日記には奇妙な記述が現れる。


 彼は真剣に、ある「解決策」を検討していた。


 ユダヤ人がキリスト教へ集団改宗することで、差別の問題を根本から解決できないか——と。


 これは後世から見れば、信じがたい発想に思える。「ユダヤ人国家」を提唱した男が、ユダヤ人の集団改宗を検討していた。しかし当時のテオドールにとって、それは決して荒唐無稽ではなかった。


 彼の論理はこうだった。個人の改宗は「入場券を買う」行為として同化の欺瞞を体現する。しかし社会全体が一斉に改宗するならば、それは欺瞞ではなく、一つの政治的な決断ではないか。差別の根拠を消し去ることで、問題そのものを消せないか——。


 この発想は、最終的に自ら否定することになる。集団改宗という考えは、数ヶ月後には日記から消えていった。


 しかし、この「同化への最後のあがき」は、テオドールという人物の本質を示している。


 彼はユダヤ人問題を、あくまで「解決すべき問題」として捉えていた。感情ではなく、論理で。詩ではなく、設計図で。問題があるなら解決策がある——その思考が、やがて「ユダヤ人国家」という、より大きな設計図へと向かわせることになる。


 しかし今はまだ、その設計図は白紙のままだ。




五 パリの亀裂——見えてきたもの


 パリで暮らし、観察し、書き続けるうちに、テオドールの眼には、ある種の「亀裂」が見えてきていた。


 1892年、パナマ運河建設を巡る巨大な疑獄が発覚した。


 パナマ会社が多数のフランス政治家に巨額の賄賂を渡していたことが暴露され、首相経験者から閣僚まで百名以上が関与した前代未聞のスキャンダルとなった。フランス第三共和政は激しく揺れた。「自由・平等・博愛」を掲げた共和国の中枢が、金権腐敗によって内側から腐っていた——その現実が、白日の下に晒された。


 テオドールは記事を書いた。冷静に、精密に、事実を並べた。


 しかし書きながら、奇妙な既視感を覚えた。


 人々は怒った。しかし怒りは、腐敗を生み出した「制度」や「構造」には向かわなかった。怒りは、スケープゴートを求めた。「ユダヤ人が関与していた」——そういう声が、スキャンダルの周辺に漂い始めた。根拠は薄かった。しかし声は広がった。


 「自由・平等・博愛」を世界に宣言したフランスで、ユダヤ人への疑惑が静かに膨らんでいた。


 軍部では「ユダヤ人将校はフランスに忠誠を誓えるのか」という声がくすぶっていた。カトリック系の新聞は、ユダヤ人をフランス社会の「異物」として繰り返し描いた。経済的な不満が高まるたびに、その矛先がユダヤ人へと向けられる構図が繰り返された。


 テオドールはこれを、記者の眼で観察した。


 分析した。記事にした。しかしまだ、自分自身の問いとしては受け取っていなかった。


 「フランスのユダヤ人問題」——それはあくまで、取材対象だった。自分が洗練されたウィーンの記者であり続ける限り、それは「外」の問題のはずだった。


 しかしパリは、その距離を少しずつ縮めていた。


 「自由の都」の美しい表皮の下に走る亀裂を、テオドールは毎日少しずつ、確実に見ていた。




六 ヴァイツマン、西へ


 同じ年、遠く東欧のピンスクで、十八歳のハイム・ヴァイツマンが旅支度をしていた。


 ロシア帝国を出るために、彼は父の運ぶ木材のいかだに乗り込んだ。高額なパスポートを買う金を節約するための、荒削りな方法だった。目的地はドイツ帝国のヘッセン州。そこでユダヤ人寄宿学校の教師として働きながら、工科大学で化学を学ぶ計画だった。


 ドイツ語はまだ不自由だった。しかし彼は、その不自由さを恥じなかった。言語は道具だ。使えば上達する。それより大切なことがある——この西欧という世界を、自分の目で見て、学ぶことだ。


 ヴァイツマンがドイツで目にしたのは、衝撃的な光景だった。


 同化したユダヤ人たちが、ユダヤ人であることをほとんど隠すように生きていた。名前をドイツ風に変え、宗教的な習慣を捨て、ドイツ市民として認められることに全力を注いでいた。その姿に、ヴァイツマンは複雑な感情を抱いた。


 理解はできる。しかし、これが答えなのか。


 自分を消すことで得られる「受け入れ」に、本当の価値があるのか——。


 この問いを抱えたまま、ヴァイツマンはヨーロッパでの生活を始めた。彼が後年、大英帝国を動かす外交官として活躍する姿は、まだ想像もできなかった。しかしその問いの種は、すでにここに蒔かれていた。




七 ハゾン・イッシュ、独学の道へ


 同じ年、ベラルーシでは十四歳のアブラハム・イェシャヤフ・カレリッツが、一人で書物に向かっていた。


 ブリスクで師事していた高名なラビが、この年、世を去った。カレリッツは師の死とともに故郷のコスォヴァへ戻った。そしてそれ以降、どの宗教学校(イェシヴァ)にも属さない道を選んだ。


 これは、後に「ハゾン・イッシュ」として知られるこの人物の生涯を象徴する選択だった。


 制度に属さず、誰かの権威に依拠せず、ただ書物と向き合い続ける。タルムードとユダヤ法(ハラーハー)の原典を、独力で読み、考え、解釈する。その姿勢は一生変わらなかった。


 パリで劇作家が同化の夢を見ていた同じ年に、ベラルーシで一人の少年が伝統の海に潜り込んだ。


 この二つの営みが、後に「世俗国家イスラエル」と「超正統派(ハレディ)社会」という形で激突することになるとは、この時点では誰も知らなかった。




八 1893年——問いは深まる


 1893年。テオドール三十三歳。


 パリに来て二年が経った。


 記事を書き続け、サロンに出席し、議会を傍聴し、人々を観察した。フランスの政治の混乱を、ドイツ帝国の膨張を、ヨーロッパ全土に広がる「科学的」反ユダヤ主義の波を、記者として冷静に分析し続けた。


 しかし冷静さの奥で、何かが変わりつつあった。


 パリの亀裂は、日々少しずつ広がっていた。


 軍部の中でユダヤ人将校への疑惑が高まっていた。反ユダヤ的な新聞の部数が増えていた。「ユダヤ人はフランス人になれない」という声が、以前より大きく聞こえるようになっていた。


 テオドールはこれを外側から観察しようとした。しかし観察しながら、内側に何かが蓄積されていくのを止めることができなかった。


 まだ爆発はしていなかった。


 しかし、火薬は着実に積み上げられていた。


 その火薬に点火する事件が、翌年、この街で起きる。

・パナマ運河疑獄(パナマ事件): フランスのパナマ運河会社が破綻した際、政界工作のために巨額の賄賂をばらまいた汚職事件。関与した金融関係者にユダヤ人がいたことから、大衆の怒りが反ユダヤ主義へとすり替えられる一因となりました。


・『退廃(Entartung)』: マックス・ノルダウの著作。当時の前衛芸術を精神的な病理の現れとして批判し、世界的なベストセラーとなりました。


・ノイエ・フライエ・プレッセ: ウィーンを拠点とする当時ヨーロッパで最も影響力のあった新聞の一つ。ヘルツルはここのパリ特派員として名声を得ました。


・ハイム・ヴァイツマン: 後に世界シオニスト機構の会長、およびイスラエル初代大統領となる人物。化学者としてイギリスの軍需産業に貢献し、バルフォア宣言の引き出しに重要な役割を果たしました。


・ハゾン・イッシュ(アブラハム・イェシャヤフ・カレリッツ): 20世紀の超正統派(ハレディ)ユダヤ教における最も権威ある指導者の一人。イスラエル建国後、初代首相ベン=グリオンと宗教のあり方を巡って歴史的な会談を行ったことでも知られます。


・タルムード: ユダヤ教の聖典の一つ。モーセ五書に記された律法を日常生活に適用するための議論や解釈をまとめた膨大な文献群。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ