第7話 1886年、プウォンスク——もう一人の種
明治19年
・ノルマントン号事件
・学校令の公布
・日本赤十字社の発足
・コレラの全国的大流行
・日本初の民間紡績工場(大阪紡績)が本格稼働を開始
・官設鉄道の武豊ー熱田間が開通
・官報の創刊
歴史の舞台には、不思議な「仕掛け」がある。
ある人物が夢の設計図を描いているその瞬間に、その設計図を現実に変える別の人物が、遠く離れた土地で産声を上げる。二人は出会わない。しかし、運命の糸はすでに結ばれている。
1886年。
ウィーンでテオドール・ヘルツルが劇作家として名声を積み重ね、夢のかたちを模索していたその年——ポーランドの小さな町に、一人の男児が生まれた。
一 プウォンスクという町
1886年十月十六日。ロシア帝国領ポーランド、プウォンスク。
ワルシャワの北西、約百キロメートル。人口数千人の小さな町である。
当時のポーランドはロシア帝国の支配下にあった。一八三〇年と一八六三年の二度にわたる独立蜂起がいずれも鎮圧され、ポーランド語の使用すら制限されるロシア化政策が押し進められていた。支配者は変わっても、被支配者の側では民族意識がかえって強く育っていた。
プウォンスクはその頃、静かな変貌の途上にあった。
ワルシャワ=ウィーン鉄道の幹線に近い立地を活かし、農産物の集散地として重要性を増しつつあった。伝統的な農業中心の街に、製粉や醸造などの小規模工業が芽生え、商業の活気が生まれ始めていた。木造家屋の密集する街区では、火災が最大の脅威だった。市民による自警消防団が組織され、共同体の絆を深めていた。
町のユダヤ人コミュニティは、人口の大きな割合を占めていた。
立派なシナゴーグがあり、子どもたちが学ぶ伝統的初等教育機関があり、困窮した者を助ける社会福祉組織があった。そのコミュニティを率いる一人が、法律家のアヴィグドル・グリーンだった。
アヴィグドルは、当時のユダヤ人指導者の中でも珍しい部類に属した。ロシア化の圧力と反ユダヤ主義の波に晒されながらも、彼は悲観しなかった。ユダヤ人はいつか自らの土地を取り戻す——その信念を、彼は公言してはばからなかった。一八八一年のアレクサンドル二世暗殺以来、帝国各地でポグロムが頻発し、ユダヤ人コミュニティを恐怖が覆う中でも、アヴィグドルは前を向いていた。
近くの街ルジュキ出身のエリエゼル・ベン・イェフダーという男が、パレスチナでヘブライ語を日常語として復活させようとしている——そういう話が、ユダヤ人知識人の間で語られ始めていた。シオン(パレスチナ)への帰還を夢見る「シオンを愛する者たち」の運動も、この地域の知識人の心を動かしつつあった。
アヴィグドルはその空気を、誰よりも深く吸い込んでいた。
そのアヴィグドルの妻シェインドルとの間に生まれた男児に、彼はダヴィド・ヨセフ、と名付けた。
後世はこの子を、ダヴィド・ベン=グリオンと呼ぶ。
二 父の夢が息子の血になる
ダヴィドの父アヴィグドルは、珍しい人物だった。
ロシア支配下のポーランドという、ユダヤ人にとって決して安全でない環境に生きながら、彼は徹底した楽観主義者だった。ユダヤ人はいつか自らの土地を取り戻す——そういう信念を、彼は公言してはばからなかった。彼はヘルツルのシオニズム運動の支持者となり、ウィーンで出版された小冊子『ユダヤ国家』を入手して読んだ(ただしそれはダヴィドが生まれてから十年後のことだ)。
父親の熱狂が、幼い息子の耳に注ぎ込まれた。
夕食の食卓で、父は語った。安息日の蝋燭の光の下で、父は語った。ヘブライ語とユダヤの歴史と、パレスチナという遠い土地のことを。その土地がいつか、ユダヤ人の手に戻る日のことを。
ダヴィドはその話を聞きながら育った。
思想は、言葉として学ぶ前に、まず空気として吸い込まれる。アヴィグドル・グリーンは息子に、シオニズムという思想の「空気」を与えた。その空気が、後のベン=グリオンの鉄のような意志の、最初の素材となった。
三 同じ年のテオドール——二十六歳の試行錯誤
一方、ウィーンでは。
テオドール・ヘルツル、二十六歳。
法学博士号を持ち、法律事務所も経験し、そして劇作家としての道を選んだ。この時期の彼の生活は、外から見れば順調だった。新聞への寄稿が定期的になり、文壇での知名度は着実に上がっていた。社交の場では機知ある発言で場を沸かせ、若い文化人として一目置かれていた。
しかし彼は、根本的な問いを抱えたままだった。
書いているのは喜劇だ。読者は笑う。批評家は褒める。しかしこれは、自分が本当に書くべきものか——その確信が持てなかった。彼の内側には、まだ言葉になっていない何かが渦巻いていた。その「何か」を、彼はまだ劇という形式で表現しようとしていた。
しかし劇は本質的に、個人の物語だ。恋愛、野望、裏切り、和解——それらは確かに人間の真実を映す。だがテオドールが感じていた「何か」は、個人を超えていた。一つの民族の、数百年にわたる苦しみと夢——それを劇という器に収めることができるのか。
まだ答えは出ていなかった。
答えが出るのは、パリの広場に立ってからだ。しかしその転換点まで、まだ五年ある。
四 アハード・ハアム、オデッサで筆を研ぐ
同じ年、アシャー・ギンズベルク(後のアハード・ハアム)三十歳。
オデッサに移住して二年が経っていた。父の事業を手伝いながら、彼は思索を続けていた。「シオンを愛する者たち」の活動を内側から観察し、その熱狂と浅さを同時に見ていた。
熱狂は分かる。ユダヤ人がパレスチナへ戻りたいという願いは、本物だ。
しかし浅さも、目に見えた。この運動に参加する多くの人々は、「どこへ行くか」は知っていても「何者として行くか」を考えていない。ロシアで迫害されたユダヤ人が、パレスチナへ逃げる——それは解決ではなく、場所の移動だ。
アシャーはその問いを、まだ誰にも語っていなかった。オデッサの書斎で、静かに言葉を研いでいた。
五 ジャボチンスキー、六歳——父を失う
オデッサのゼエヴ・ジャボチンスキー、六歳。
この年、あるいはその前後、父エヴゲニーが世を去った。
六歳で父を失う——それは、子供の心に何を残すか。
記録はない。ゼエヴ自身も後年の回想でこの喪失を多くは語らなかった。しかし人は語らないことで、最も深く傷ついていることを示す場合がある。
以後、ゼエヴを育てたのは母ハヴァと、オデッサという街だった。母は商売を続けながら息子を育てた。オデッサは——多言語・多文化の港湾都市として——少年に、世界の複数性を教えた。
父の不在は、別の意味での「強さ」への渇望を生んだかもしれない。
後年のジャボチンスキーが強調し続けた「ハダル(誇り・気品・強さ)」という概念——ユダヤ人は俯いて生きるのではなく、胸を張って立つべきだという信念——の感情的な根が、この少年期の喪失と無縁だとは思えない。
六 ノルダウ、名声の絶頂で何かを見失う
パリのマックス・ノルダウ、三十七歳。
『習慣の嘘』の反響はまだ収まっていなかった。ヨーロッパ各地の知識人が彼の著作を論じ、一部の国では発禁処分を受けたことがかえって名声を高めた。医師として、作家として、彼は生活のすべてにおいて充実していた。
しかし、充実していたからこそ、一つの問いが後景に退いていた。
「ユダヤ人であること」——その問いだ。
パリのサロンでは、彼はまず「著名な批評家ノルダウ」として歓迎された。「ユダヤ人のノルダウ」ではなく。彼自身も、その区別に慣れ始めていた。あるいは、慣れようとしていた。
しかしパリの空気は、その慣れを許さない瞬間を、折に触れて突きつけてきた。
反ユダヤ主義はフランスでも、静かに、しかし確実に膨らみつつあった。サロンの温かい空気の外では、別の言葉が囁かれていた。ノルダウはその声を聞いていた。しかしまだ、それに正面から向き合う言葉を持っていなかった。
その言葉は、六年後にヘルツルという人物によってもたらされる。
七 世代の地図——1886年の群像
この年の登場人物たちの年齢と立場を、一度整理しておく価値がある。
読者が現代のイスラエルを理解するためには、この「世代の地図」が手がかりになるからだ。
テオドール・ヘルツル(二十六歳)——夢の設計者。まだ設計図を描いていないが、頭の中で何かが形を取り始めている。
マックス・ノルダウ(三十七歳)——批評の巨人。ヘルツルより十一歳年上の「兄貴分」として、後に設計図の最初の共鳴者となる。
アシャー・ギンズベルク(三十歳)——思索の人。オデッサで静かに「精神の問い」を育てており、ヘルツルの設計図に最大の異議を唱えることになる。
ゼエヴ・ジャボチンスキー(六歳)——次世代の闘士。今は父を失った少年に過ぎないが、ヘルツルの夢を「武力」という現実に翻訳する者として成長する。
ダヴィド・ベン=グリオン(生後数週間)——実現者。ヘルツルと一度も会うことなく、ヘルツルの夢を実際の国家として建設する男。
そしてこの年はまだ、ゴルダ・メア(十二年後)も、イツハク・ラビン(三十六年後)も、ベンヤミン・ネタニヤフ(六十三年後)も、この世にいない。
しかし彼らが生まれてくる「場所」——すなわちユダヤ人の問いと夢と苦しみの歴史——は、この年すでに、着々と形作られていた。
八 設計図は、まだ白紙だ
1886年末。
テオドール・ヘルツルの机の上に、白紙がある。
設計図は、まだそこにない。答えを引き寄せる事件も、まだ来ていない。
しかしこの白紙は、ただの白紙ではなかった。
ウィーンの社交界で積み重ねた観察が、アルビアの集会で感じた疎外感が、法律事務所での短い挫折が——それらが全部、白紙の下に層をなして積み重なっていた。見えないが、確かにある地層。
人が何かを書くとき、それはペンが紙に触れる瞬間に始まるのではない。
書かれるべき何かが、書き手の内側で十分に熟した時——その時初めて、言葉は紙の上に降りてくる。
テオドール・ヘルツルの中で、何かがゆっくりと熟していた。
まだ、もう少し時間が必要だった。
・シオニズム:離散状態にあるユダヤ人が、故郷パレスチナ(シオンの丘)に自らの国家を再建しようとする政治・文化的運動です。
・ポグロム:ロシア帝国などで発生したユダヤ人に対する集団的迫害・暴動。1881年の皇帝暗殺後、当局の黙認・扇動により激化した。
・ヘデル:ユダヤ教の伝統的な初等教育機関。主にヘブライ語や旧約聖書、祈祷文を学ぶ場。
・エリエゼル・ベン・イェフダー:現代ヘブライ語の父。死語に近い状態だったヘブライ語を日常会話として復活させることに生涯を捧げた。
・ダヴィド・ヨセフ(ベン=グリオン):誕生時の名はダヴィド・グリューン。後に「ベン=グリオン」というヘブライ名に改名した。
・ハダル:ジャボチンスキーが提唱した「誇り高い態度」「気品」を意味する概念。弱々しいユダヤ人像を払拭すべきだとした。




