第13話 1898年、エルサレム——預言者、約束の地に立つ
明治31年
・第1次大隈重信内閣(隈板内閣)の発足:日本初の政党内閣
・第2次山県有朋内閣の発足
預言者が、約束の地を踏んだ。
しかし約束の地は、預言者の夢通りではなかった。
砂塵と貧困と、複数の民族の複雑な思惑が交差する土地——それが、テオドール・ヘルツルが初めて目にした「パレスチナ」だった。
一 1898年の世界
バーゼル会議から1年が経った。
世界は、相変わらず「進歩」という名の疾走を続けていた。
パリではマリー・キュリーとその夫ピエールが、新しい元素ラジウムを発見しようとしていた。放射能という、目に見えない力——それが人類の医学と物理学を根底から変えることになるとは、この時点ではまだ誰も知らなかった。しかしキュリー夫妻の実験室の片隅で、新しい時代の扉が静かに開かれつつあった。
遠く東アジアでは、列強による清国の分割が進んでいた。ドイツ、ロシア、イギリス、フランス——「文明」を旗印とする帝国主義が、アジアの大地を切り分けていた。ユダヤ人問題を「国際政治の問題」として解決しようとするヘルツルの構想には、この帝国主義的な世界秩序への鋭い理解があった。大国が動かない限り、何も変わらない——だからこそ、大国を動かさなければならない。
ドイツではヴィルヘルム2世が、中東への影響力拡大を狙ってパレスチナ旅行を計画していた。
テオドールはその情報を掴んだ瞬間、動いた。
二 皇帝を追って——イスタンブールへ
1898年10月。
ヘルツルはイスタンブール(コンスタンティノープル)へ飛んだ。
ヴィルヘルム2世がオスマン帝国を訪問する前に、まず皇帝の側近と接触する——それがヘルツルの戦略だった。ユダヤ人国家建設へのドイツの支持を取り付ければ、オスマン帝国への交渉も、世界への発信も、まったく違う次元に引き上がる。
会談は実現した。皇帝の側近カイザーリング伯爵との会談。そして、皇帝本人との短い接見。
ヴィルヘルム2世はヘルツルに言った。「この問題は、研究に値する」と。
それだけだった。約束はなかった。確約もなかった。しかし皇帝が「研究に値する」と言った——その事実だけで、ヘルツルは次の1手を打てると確信した。外交とは、言葉の重みを最大限に活用する技術だ。
三 初めての「聖地」
イスタンブールから、ヘルツルはパレスチナへ向かった。
これが、彼の生涯で初めてのパレスチナ訪問だった。
オスマン帝国領のパレスチナ——ユダヤ人が「約束の地」と信じ、2000年にわたって祈りの中で向き合い続けてきた土地——に、ヘルツルはようやく足を踏み入れた。
しかし彼が目にしたのは、夢の中の「約束の地」ではなかった。
荒れた大地。砂塵。マラリアが蔓延する沼地。貧しいアラブ人の村落。そしてその中に点在する、ユダヤ人入植者たちの農場——「ミクヴェ・イスラエル」農業学校で、ヘルツルは入植者たちと言葉を交わした。ロシアや東欧のポグロムを逃れてここに来た人々。泥と汗にまみれながら、荒れた土地を耕している人々。
これが、「第1次アリヤー」の現実だった。
彼らは、ヘルツルを見て泣いた。「ようやく来てくれた」と。
テオドールは、その涙の意味を受け取った。
自分が書いた設計図は、既にここで、この人々の手と汗によって、1枚ずつ現実に変えられていた。遅すぎた訪問だと、彼は思った。もっと早く来るべきだった。
四 エルサレムの門をくぐる
1898年11月2日。
テオドール・ヘルツルは、エルサレムに入城した。
ヤッファ門をくぐり、旧市街の石畳を歩いた。
しかし、そのヤッファ門は、数日前とは姿が変わっていた。
ヴィルヘルム2世の馬車が旧市街にスムーズに入れるよう、オスマン帝国当局は門の隣の城壁を部分的に壊し、広い通路を作っていた。十字軍以来初めて、キリスト教国の君主が大規模な形でエルサレムを訪れる——その歴史的な「入城」のために、2000年の歴史が刻まれた城壁が、静かに削られた。その痕跡は、現在も残っている。
皇帝を迎えるための準備は、街全体に及んでいた。道路が舗装され、街灯が設置され、大規模な清掃が行われた。街中の物乞いや野犬が1時的に排除された——歓迎の「演出」のために。1週間前の10月31日には、旧市街のムリスタン地区でドイツ福音派の聖救世主教会の献堂式が行われ、皇帝自らが出席していた。
帝国の意志は、石と建築となってエルサレムに刻み込まれていた。
何千年もの時間が積み重なった石の迷路。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教——3つの「聖地」が数百メートルの範囲に凝縮された、地球上でおそらく最も複雑な場所。そこに今、ドイツ皇帝とユダヤ人の指導者が同時に立っていた。
ヘルツルは日記に書いた。「エルサレムは何か古い文化の積み重なりで、息が詰まりそうだ。ユダヤ人区域は私を深く悲しませた。不衛生で、廃墟のような環境の中で、苦しんでいる人々がいる」
美化しなかった。
それがヘルツルという人物の正直さだった。彼は「約束の地」の現実を、感傷なく見つめた。この状態では駄目だ。清潔で、近代的で、経済的に自立した都市を作らなければならない。それが「ユダヤ国家」の目標であるべきだ——と。
五 皇帝との会見、エルサレムにて
11月2日。
ヴィルヘルム2世がパレスチナを旅行中だった。ヘルツルは代表団を率いて、皇帝の1行が通過するルートに立った。
会見は短かった。
皇帝はヘルツルの話を聞いた。ユダヤ人国家建設へのドイツの支持を求めるヘルツルの言葉を。しかし皇帝の返答は曖昧だった。「大変興味深い」という言葉と、それ以上の何もなかった。
この会見には、後世に語り継がれる小さな挿話がある。
カメラマンが二人を一緒に収めようとしたが、撮影に失敗した。そこで後日、ヘルツルだけを写した写真と皇帝だけを写した写真を合成し、「共に写った」ように見えるコラージュ写真が作成された。世界最古級の「政治的フォトショップ」とも言われるこの1枚は、当時の外交の「演出」という側面を、皮肉なほど正直に体現している。
ドイツからの支持獲得という、この外交の試みは、実質的に失敗に終わった。
しかしヘルツルは表情を変えなかった。
外交の失敗は、外交で挽回する。一つの扉が閉まれば、別の扉を叩く。皇帝がノーと言ったなら、次はスルタンに、次はイギリスに、次はロシアに——大国を一つ一つ、粘り強く回り続ける。それ以外に道はない。
この姿勢が、ヘルツルという人物の本質だった。
六 ヴァイツマン、初めてヘルツルを見る
同じ年、スイスのバーゼルで第2回シオニスト会議が開催された。
ハイム・ヴァイツマン、24歳。前年の第1回会議に出席できなかった彼は、この会議でついにヘルツルと対面した。
ヴァイツマンが感じたのは、複雑な感情だった。
ヘルツルは確かに圧倒的な存在感を持っていた。演壇に立つ姿、語る言葉の力、その威厳——カリスマとはこういうことか、と思った。しかし同時に、ヴァイツマンには引っかかりがあった。
ヘルツルは「外交」を信じすぎている。大国の承認を得ることに全力を注いでいる。しかし、パレスチナの現地では、既にユダヤ人たちが土を耕し、言語を復活させ、文化を育てている。その地道な積み上げを、ヘルツルは軽く見ていないか——。
この直感は、後にヴァイツマンが「綜合的シオニズム」を唱える基盤となる。外交だけでも、入植だけでも足りない。両方を同時に進めなければならない——という立場へと彼を導く、最初の問いがここにあった。
しかし今は、ヘルツルという巨大な存在の前で、ヴァイツマンはまだ若い学生だった。
七 ノルダウの葛藤
1898年1月。
マックス・ノルダウが結婚した。
相手はプロテスタントのデンマーク人女性、アンナ・ドルフォウスだった。
ノルダウはヘルツルへの手紙に、その複雑な心境を書き送った。「ユダヤ人としてのアイデンティティを声高に主張しながら、私生活では異教徒の女性と結婚した」という矛盾——それを彼は、自分でも苦しんでいた。
これは単なる個人の話ではなかった。
ノルダウという人物が体現していたのは、「同化したいと思いながらも同化しきれなかった西欧ユダヤ人」の矛盾そのものだった。ヘルツルのシオニズムに共鳴しながら、パリの知識人として生き続ける。ユダヤの運動を演壇で語りながら、私的な生活ではヨーロッパに深く根を張っている。
その矛盾は、解決されなかった。しかし、だからこそノルダウの言葉には、矛盾を生きる人間の痛みがあった。
ヘルツルはその手紙を読み、静かに返信した。
八 ジャボチンスキー、ベルンへ
18歳のゼエヴ・ジャボチンスキーは、オデッサの新聞社の海外特派員としてスイスのベルンへ渡った。
そしてベルン大学で法学を学び始めた。
「アルタルナ」——彼はこのペンネームを使い始めた。オデッサのユダヤ人街の「アルタルナ横丁」から取った名前だ。後に彼は、このペンネームをやがて手放し、「ゼエヴ・ジャボチンスキー」という本名のみで世界に向かって語ることになる。しかしこの頃はまだ、ペンネームの影に隠れながら、世界を観察していた。
ベルンという自由な大学都市で、ジャボチンスキーは多くの思想と出会った。ロシアの革命運動、ヨーロッパの自由主義、そしてシオニズム——それらを貪欲に吸収しながら、自分の中で何かを育てていた。
後年の彼が「鉄の壁」という概念を打ち立てる——その思想の原形が、この留学期間に培われた。
九 ゴルダ・マボヴィッチ、キエフに生まれる
1898年5月3日。ロシア帝国領ウクライナ、キエフ。
モシェとブルーメ・マボヴィッチの家に、女児が生まれた。ゴルダ、と名付けられた。
後にゴルダ・メアとして知られるこの女の子は、ヘルツルとヴィルヘルム二世がエルサレムで会見したその年、同じロシア帝国の支配下に生を受けた。ヘルツルが「ユダヤ国家が必要だ」と世界に訴えていたそのとき、未来のイスラエル首相は産声を上げていた。
キエフのユダヤ人家庭で育つということは、ポグロムの恐怖と隣り合わせで育つということだった。
この年、エルサレムではドイツ皇帝が石畳を馬車で走り、ヘルツルが「清潔で近代的な都市を作らなければ」と日記に書いていた。その同じ地球の上で、幼いゴルダはまだ、自分が何者になるかを知らなかった。
しかし歴史とは、こういうものだ。
预言者が夢を描いている時、その夢を現実に生きることになる人々が、世界のどこかで生まれている。
十 外交という消耗戦——1899年から1901年
エルサレムからウィーンへ戻ったヘルツル、38歳。
彼の外交活動は、その後も続いた。止まることができなかった。
オスマン帝国のスルタン・アブデュルハミト2世との交渉。ロシアの内務大臣プレーヴェへの接触。イギリスの植民地大臣チェンバレンとの会談——ヘルツルは文字通り、ヨーロッパ中の権力者の扉を叩き続けた。
しかしどこへ行っても、成果は限られていた。
スルタンはパレスチナへのユダヤ人集団移住を認めなかった。ロシアは自国のユダヤ人を手放すことに乗り気ではなかった。イギリスは関心を示したが、具体的な行動には至らなかった。
外交の壁は厚かった。その壁を打ち続けながら、ヘルツルの体は少しずつ、確実に削られていった。
ヘルツルが外交の消耗戦を戦っていた同じ頃、ウィーンとオデッサという二つの都市は、それぞれ別の方向に走り続けていた。
ウィーンでは1899年、「ワルツの王」ヨハン・シュトラウス2世が世を去った。帝国の繁栄と享楽を音楽で体現してきた男の死は、一つの時代の終わりを告げた。しかし同じ年、別の巨人が新しい地平を切り開いていた——ジークムント・フロイトが『夢判断』を出版した。人間の意識の表層の下に広大な「無意識」の海があるという発見は、人類の自己理解を根底から変えることになる。奇妙なことに、フロイトはこの記念碑的な著作に「一八九九年」ではなく「一九〇〇年」と刻印させた。新世紀の幕開けにふさわしい書物として、世に送り出すために。
オデッサでは、1900年から1901年にかけて、労働運動が激しくなっていた。港湾労働者や工場労働者のストライキが頻発し、帝国への不満が街全体に滲み出ていた。これは後の1905年革命へと続く「前奏曲」だった。その騒乱の街で、20歳のゼエヴ・ジャボチンスキーが新聞記者として頭角を現し始めていた。オデッサの紙面で鋭い論考を書き、その文才と弁舌の才が注目を集め始めていた。
ウィーンは夢を内側に向かって深め、オデッサは変革を外に向かって爆発させようとしていた。
その二つの都市の狭間で、ヘルツルは扉を叩き続けた。
止まれば、運動が止まる。運動が止まれば、夢が消える。夢が消えれば——東欧のポグロムの中で「あなたを待っていた」と言った人々の目が、脳裏に浮かんだ。
それが、彼を動かし続けた。
* マリー・キュリー
放射能研究の先駆者。後にノーベル賞を2度受賞した。
* ピエール・キュリー
マリー・キュリーと共同で放射能研究を行った科学者。
* ラジウム
1898年に発見された放射性元素。
* 清国
中国最後の王朝。19世紀末には列強の圧力を受け半植民地化が進んだ。
* ヴィルヘルム2世
ドイツ帝国最後の皇帝。中東政策を推進した。
* ヴェルトポリティーク(世界政策)
ヴィルヘルム2世時代のドイツの対外拡張政策。
* カイザーリング伯爵
ヘルツルと接触したドイツ側人物。
* パレスチナ
当時オスマン帝国領だった歴史的地域名。
* ミクヴェ・イスラエル
近代ユダヤ人入植運動初期の農業学校。
* 第1次アリヤー
19世紀末に始まった初期ユダヤ人移住運動。
* エルサレム
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地。
* ヤッファ門
エルサレム旧市街西側の主要城門。
* ムリスタン地区
エルサレム旧市街内の歴史地区。
* 聖救世主教会
ドイツ福音派による教会。1898年に献堂。
* 第2回シオニスト会議
1898年開催のシオニスト国際会議。
* アンナ・ドルフォウス
デンマーク出身の女性。ノルダウと結婚した。
* ベルン
スイスの首都。留学生・亡命知識人が多く集まった。
* ゴルダ・メア
後にイスラエル第4代首相となる政治家。
* キエフ
当時ロシア帝国領だった都市。
* アブデュルハミト2世
19世紀末のオスマン帝国君主。
* ヴャチェスラフ・プレーヴェ
帝政ロシアの高官。
* ジョゼフ・チェンバレン
イギリス帝国主義政策を推進した政治家。
* ヨハン・シュトラウス2世
「ワルツ王」と呼ばれた作曲家。
* ジークムント・フロイト
精神分析学の創始者。
* 夢判断
フロイトの代表作。1900年刊行。
* 1905年ロシア革命
帝政ロシアで発生した革命運動。




