第2話 vs.御者
私には前世の記憶がある。
信じてもらえないだろうから誰にも言わなかったけれど、前世で私は『会社員』というやつだった。父親のコネで顔パスでもぐりこんだ『総合商社』で、『営業マン』たちが毎日送ってくる数字を意味もわからず入力したり、コピー用紙を言われた数だけ発注したりしていた。
仕事はあんまりやる気がなくて、将来性のあるイケメンをつかまえて早く仕事を辞めたいメンドくさいって毎日毎日考えていた。顔は武器。化粧は武装。そんな風に生きてきたから、正規入社して『営業マン』たちと対等な目線で会話しているシゴデキの女の先輩がとっても苦手だった。決して嫌いではなかったのだけど、でも。
私は、あんなにがんばれない。歯を食いしばって一生懸命に打ち込めるものがない。そんな劣等感を、まぶしく照らされている気がしたから。
◆
「着きましたよ。お嬢様」
馬車に揺られているうちに、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。御者の声に目を覚ました私は、あくびをしながら固い座席から身を起こした。付き人もいない今、仕方なく自分の手でカバンをつかみ馬車を降りた私は、周囲の光景を見渡して唖然とする。
「……ここは、どこ!? ここは、なに!?」
まず目に入ったのは枯草におおわれたひたすらに広大な荒れ地だった。いや、申し訳程度に木の枝の柵で囲われていたり農具のたぐいが置かれていたりするので一応畑ではあるのだろうか。しかしすでに夕暮れ時を迎えているためか人の姿はない。そう、人の気配というものがまるでないのだ。
そんな畑モドキの周りを囲むのは背の高い木が密集する黒々とした森で、どことなく身に迫るような不気味さを感じて私は思わず首をすくめる。
きらびやかな王都の中心で生まれ育ち、最新のドレスやアクセサリーや香水を追いかけ、華やかな王宮に出入りしては流行りの歌劇やお菓子や恋愛の話題に花を咲かせる毎日を送っていた私にとっては、カルチャーショックどころの騒ぎではなかった。いったいなんなのここは。陸の孤島? それとも流刑地?
言葉を失っている私に、御者が面倒くさそうに口を開く。
「どこって、ヒエメ村ですよ。お嬢様をここにお送りするようにとお父上からことづかってましたんで」
「お父様が!?」
「ご親類の、レイブン男爵の領地なんでしょう? もっとも、いくら手紙を送っても返事がないと気を揉んではいましたが。でもほら、お父上も今それどころじゃないもんで」
私の父ことグリゴール伯爵はいま、数々の悪事がバレて投獄中の身だ。それはいいとしても、迎えの使者どころか人っ子ひとり姿が見えないのはどういうことだろう。
「じゃ、お送りしましたんで」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! こんな何もないところに私を置き去りにする気!?」
カッとなって怒鳴りつけると、御者はさっさと馬にまたがり肩をすくめた。
「私の仕事は終わりましたんで。というか先月のお給金ももらえるか分からないってのに、ここまでお送りしただけでもお嬢様には感謝してもらわないと」
「な、なんですって!? なんて無礼な……っくしゅん!」
激高したついでにくしゃみが出た。というか今気づいたが、王都から丸一日近く北上してきただけあってここは寒い。異様に寒い。親類に会うのだからと着てきたピンクのドレスはひらひらとして生地が薄く、首も肩も二の腕までもがむきだしだ。私は両手で肩を抱いて身震いをした。
「あー、ここはだいぶ冷えるみたいですね。じゃあ私はこれで」
「あっこら待ちなさい! せめて誰か人を呼ん……っくしゅん!」
二発目のくしゃみを合図にしたかのように、無情にも馬車は砂煙を上げて走り去ってしまった。乾燥した道に舞い上がる土ぼこりに巻かれてゴホゴホと咳をして、顔を上げた時には馬車の姿は影も形もなくなっている。
「……そんな……」
私は、身の回りのものと少しの着替えだけを詰めたカバンひとつを足元に置いて、田舎道の真ん中に呆然と立ちつくした。それ以外の持ち物はすべて、給金の代わりだといって使用人たちに屋敷から持っていかれてしまったのだ。お気に入りの夜会ドレスも、宝石が散りばめられたブローチも、真珠のネックレスも、私が持っていた価値のある物はなにもかも。
私はもう何も持っていない。
そしてひとりぼっちだ。
身も心も寒々としてしまって、私は力なくカバンを拾い上げて歩き出した。まさかこんなに足元の悪い道を歩かされるなんて思っていなかったので、いつも通りはいてきてしまった高く小さなヒールの靴がかかとに容赦なく食い込んでくる。寒い。痛い。情けない。涙がにじみそうになったけれど、ぐっと上を向いてこらえた。
「泣いてなんか、やるものですか……!」
『元』伯爵令嬢のプライドをふりしぼり、唇をかみしめて目的地もわからないままとぼとぼと歩いた。そして自分に言い聞かせる。会ったことはないが親類だというレイブン男爵の城に着きさえすれば、温かな食事とふかふかのベッドに迎えられて王都ほどではないにしても元の快適な生活が戻ってくるはず。こんな屈辱も今だけのガマンだ。
「あの御者、絶対許さないんだから! あの恩知らずな御者……」
あれ。
あの人、名前なんだっけ。
御者は我が伯爵家に十年以上勤めたベテランで、馬車に乗るたびに顔を合わせていたからもちろん顔は覚えている。けれど名前は知らなかった。そもそも知ろうとも思わなかった。御者は御者だ。
「……まあいいわ。もう二度と会うこともないんだし?」
フン、と首を振ってまた歩き出す。しばらくすると、やがて薄闇せまる景色の中にぼんやりと明かりがともっているのが見えたので私は思わず目を見開いた。
「人の家だわ!」
とにかく、完全に日が落ちる前に誰か人間に会わなければ。人間より先にオオカミやクマやイノシシに出会うようなことになったら目も当てられない。私は足の痛みをこらえて小走りに明かりの方へと向かった。食事! ベッド! 食事! ベッド! と内心おまじないのように唱えながら。




