4、散りゆく
どこか、誰にも見つからない場所へ―――会場の隅へと逃げて、それでも周囲の視線が怖くて、思わず近くの扉から外に出た。
その扉は、庭園に繋がっていたらしい。
蝋燭の光で仄かに照らされた石畳を歩くと、生垣で囲われた場所に辿り着いた。
中央に設けられた長椅子に、崩れ落ちるように座り込んだ。
小さな白い花から甘い香りを感じるが、自分の心を癒してはくれなかった。
(どうして……)
アンヘルはキャロルを見捨てて、ドロシーが本当の婚約者であったかのように振る舞った。
くるくる、くるくると二人は踊り――頭の中から、先程の光景が、ずっと離れない。
「どうして……」
何度も同じ言葉を繰り返す。
(私、二人で踊るんだって……婚約者として頑張らなきゃって……一生懸命、練習したのに……)
望まれない婚約者だったとしても、何一つ役に立たないお荷物だったとしても、せめて、出来る事は努力しよう――そう、思っていた。
しかし、自分の努力は、全て台無しになった。
(どうして、ドロシーは直前になってあんな事を……それとも、最初から、あの二人で踊るつもりだったの?)
痴情の縺れでキャロルに瑕疵が付くだけなら、我慢するしかないのだろう。
しかし、王太子妃を披露する場で、あのような醜聞を起こしてしまった。
トリアン家の体面にも関わる事態になれば、兄の結婚にも影響を与えてしまうのではないか――怒りや情けなさや恐怖心、様々な感情がキャロルの心を押し潰していた。
(まずは、ペダルファ家に掛け合ってもらって、婚約を無かった事にしてもらわなければ……でも、先に、王室から沙汰を下されてしまったら……せめて、私だけの処罰に留めてもらうように嘆願しなければ……でも、私ごときが王家の方々にお目通りを願えるかしら……)
せめて、大事に育ててくれた父や兄だけには迷惑を掛けないようにと思いを巡らせて――それでも、ふと、暗い考えが過ぎってしまう。
(どうして、私一人で悩まなければいけないのかしら。全部、全部……)
「ドロシーの所為よ……」
自分を日陰の向こうへ、向こうへと押しやっていく、眩い笑顔を思い出した。
(ドロシーは、お母様と一緒に来たんじゃなかったの? どうして私達の所へ来たの?)
会場で娘の婚約者と踊るドロシーを見て、母は何を思うだろうか。
流石にドロシーを叱り、自分を慰めてくれる――ふと湧き上がった妄想に、キャロルは自嘲した。
(あの人は、そんな事、絶対しないわね)
きっと、母はドロシーを優先する筈だと分かっている。
(どうして、私よりドロシーばかり愛されるの……)
生まれ持った見目や体質の所為か、それとも、このような事を考えてしまう醜い心の所為か――自分を責める思いは止まらなかった。
(ダンスはまだ続いているかしら……)
ふと、来た方角をみやるが、喧騒はここまで届かない。
(これから、どうすればいいの?)
いつまでも隠れているわけにはいかない。
しかし、あの会場に戻る勇気はないし、婚約者と対面して平静でいられる自信はない。
それに、いつの間か泣いてしまっていたらしく、ドレスにも染みが出来ている。
(何処か、遠くの……)
誰にも見られないような、遠くへ逃げ出せたら――そんな事を考えて、体が動かなくなっていた。
ふと、小さな音が聞こえた。
足音のようなそれは、少しずつ大きくなっていく。
誰かが来てしまった――キャロルは身を強張らせ、俯いた。
「ああ、困った……」
低く、籠った、聞き取りづらい男の声だった。
苛立つような呟きに、思わず身を震わせる。
しかし、キャロルに向かって放たれたものではないようだ。
「このままでは……どうすれば……」
キャロルの視界に、庭園を忙しなげに歩き回る足元が映った。
どうやら先客には気付いていないらしい。
「困った」「困ったぞ」と繰り返しながら、一人でダンスをしているかのようにぐるぐると。
(何を、そこまで困っているのかしら……)
困った自慢なら、自分も負けてはいない――そんな思いと共に、キャロルは顔を上げた。
おそらく、今まで見た事の無い男性だった。
まず印象に残るのは、身に纏う黒い服。
外套も、ズボンも、靴も、全て黒一色で装飾の類は見受けられない。
(折角の、祝いの場なのだから……もう少し華やかさがあっても……)
会場にいた男性達の姿を思い出し、キャロルは呆気に取られる。
黒髪は少し長く、顔の一部を覆い隠していた。
薄暗い場所でも、鋭い目つきと眉間の皺はよく目立つ。
背が高く、長い手で頭を掻き毟る姿は近寄り難い空気を放っていた。
(この方は、一体……)
唖然としていたキャロルの視線に気付いたらしく、男は勢いよく振り返る。
「う、うおっ」
キャロルの姿を確認するなり、男は軽く飛び上がり、数歩下がった。
「あ、あの……」
謝罪の為に立ち上がり、歩み寄る。
しかし、男はキャロルが足を進める分後退り――生垣にぶつかっていた。
(そこまで逃げなくても……そんなにひどい見た目かしら)
そんなに自分の存在が動揺を与えたのかと、些か気分を害したが。
「驚かせてしまい、申し訳ありません……少し休んでいただけなのです」
知らない相手ではあるが、おそらく他家の貴族。
不要な軋轢を避けるために、頭を下げた。
「は、あ、ああ……」
生垣に少し身を沈めながら、男はキャロルを見つめる。
やがて、ぽかんと開けていた口をさらに大きくし――何度か深呼吸すると、姿勢を正した。
険しい目つきはそのままに、口角を不自然に引き攣らせる。
「これはこれは……鈴蘭、いや、あれは毒だった……あ、そうだ。百合の妖精かと思いましたよ」




