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運命が交差する時:後編




あぁこの執着を、なんと呼ぶのだろう――




*****



春の芽吹きがはじまりつつある時期。

春の温かな陽光が辺りを包つつむ日、ついにその時はやってきた――



月宮殿の敷地内。穏やかな昼下がり、グレンは整然と植えられた草木や花々の間を抜けていく。そこが薬草や貴重な植物が育てられている植物庭園だと知っているグレンはその草花を傷つけないように砂利道に沿って歩く。訓練終わりともあって、騎士団服の上着は脱いでいる。ただでさえ訓練で体を動かし暑いというのに、黒い団服など着ていられない。シャツ一枚の着崩した格好であるが、装いなど特に気にせず歩を進めた。

植物庭園を抜け、さらに奥張った道を進む。静けさがより一層静寂となる木々の間を抜けた先、見つけたのは全面ガラス張りできた小さな建物だった。


グレンは自身の大きな手で、静かにそっとガラスの扉を開けた。その瞬間に、ぶわりと頬を撫でる温かい風を感じる。そして、視界一面に広がるのは植物の楽園。グレンはその光景に圧倒され、目を見開いた。大小なる植物達。瑞々しく茂る葉や咲き誇る花。芽吹き始めたものもあれば、すでに葉が散ってしまったものもある。地に植えられているものだけでなく、天井から吊された蔦や、ガラス製の球瓶に水で浮かぶものまである。所狭しに植物が並ぶその場所は小さな温室――美しき植物園であった。



静かであるはずの植物達の間に、パチリ、パチリという一定のリズムが温室の中で鳴り響ている。グレンは物音――恐らく植物達を剪定する鉄(はさみ)の音がする方向、人がいるであろう場所へ自身の気配を消しながらゆっくりと歩を進めた。



(いた……)



ある低木の前、一人の人物が立っている。

紺色の服を身につけたその人物は、白いほっそりとした手に持った鋏で小さな樹木の葉を切り落としている。パチリ、パチリと音がするたびに服の裾が揺れる。仕立ての良い紺色の生地に銀色の複雑な刺繍が施された服は魔術師のみが着用が許されるローブである。



魔術師――探し求めるは、魔術師の女。

手に入れた小さな糸口は、上級魔術師《朧月》。



今、魔術師の女の顔は見えない。作業するその魔術師はグレンに背を向けた状態で、後ろ姿しか見えず焦燥する。




こっちを見ろ、


顔を見せろ、


お前は、


お前は、あの月夜の女なのか――?




はやる気持ちは抑えることはできず、勝手にグレンの口から言葉が溢れる。




「よぉ、お前が《朧月》か?」



その女は、肩を奮わせると大きく振り返った。


その動きとともに、濃い灰色(チャコールグレー)の大きく結わえた三つ編みがふわりと揺れる。




そこにいたのは綺麗な女だった。


陶器のような色白な肌。すらりと高い鼻、艶めく唇。そして、何より目を惹くのが涼やかな目元を彩る、宝石の様な紫色の瞳。



グレンは息を呑む。



(あぁ、やっと、見つけた)



胸の中で、歓喜が込み上げる。高鳴る鼓動と、溢れ出た達成感と充実感、そして高揚感。そんな自分を悟られぬように、気持ちを抑えるように自身の手を握りしめた。やっと探し出せた。



魔術師《朧月》は、あの日、月夜の下で見かけた魔術師だった。



あの日と違い、今度は太陽の下に晒されたその女をしっかりと目に焼き付ける。


女は口をゆっくりと開いた。耳に心地よい落ち着いた声が、グレンの耳に届く。





「何のご用でしょうか…?」



女の表情は驚きから、一瞬にして警戒の色を含んだものになる。グレンは目の前の女に問われて初めて、自分の軽挙な行動を後悔して狼狽(うろた)えた。



(やっちまった!)


衝動的に声をかけてしまった。

後ろ姿しか見えない状況に、焦り、苛立ち、つい言葉をかけた。最初はただ確認だけするつもりだったのだ。上級魔術師《朧月》が、俺の探す人物かどうか。慎重に行動しなければと考えていたはずが、気づけば言葉が勝手に口から溢れてた。


女にしたら、突然現れた不審な男。警戒しないわけがない。グレンは危害など加えるつもりは一切ないが、相手にとってはそれは分からない事だ。誤解されぬように女と話をしなければならないが、女が質問した「何の用か?」という問いに、グレンは正直、言葉を返すのに躊躇(ちゅうちょ)した。





お前があの月夜の(もと)に見かけた女魔術師か確かめたくて、


お前の顔を見たくて、

お前を探していて、

お前に会ってみたくて…、



だが、これをはっきりと言葉にして相手に伝えるのは(はばか)られる。



この言葉はまるで――



(まるで、恋する男の言葉じゃねぇか……)



違う。そうじゃない。

俺はただ気になったから、そう、なんとなく気にかかったから探していたまでの事。


だが、素直にそのまま言葉を口にするには抵抗が大きかった。言うか、言わまいか。迷うように視線を漂わせ、言い(よど)む。端から見れば、やましさ満点な不審者である。それを自覚しながらも、グレンは考えをまとめようと、自身の頭を一度掻き回した。



(よし、決めた!言わねぇ事にしよう!)



やはり、お前に会ってみたくて…なんて恥ずかしい言葉言えるはずがない。そこから、なぜ?と聞かれても理由は自分でも分からんし、答える事ができない。だから正直には言わない事にする。


だがしかし、ここで自分から話しかけた手前、女の問いに返答しない訳にはいかない。

さて、どうしようかと思案する中、視線の端に彼女の横にある樹木が目に入った。彼女が先程まで剪定(せんてい)していた樹木。青々しい葉と赤い小さな実をたくさん付けた樹木。これだ!と、思いついたグレンは彼女に視線を合わせ、誤魔化しを口にした。




「…その実」


「えっ?」と女から戸惑いの声が上がるが、すぐに自身の横にある樹木の赤い実の事であると気づいたのだろう。すぐに「これですか?」とそっと白い手が添えられた。赤々と色めくその果実は、表面に傷1つ無く、瑞々(みずみず)しい。



「あの…、これが、どうかしましたか?」

「……うまそうだ」



最後まで言葉を口にして、グレンはすぐに自分が言ってしまった言葉を後悔した。その時は最良な誤魔化しだと思ったが、言ってしまってから、これはないと自分でも気づく。急いては事を仕損じるとはこの事だ。



(これじゃぁ、だだの食い意地のはったやつじゃねぇか!)



むくむくと羞恥心が込み上げてくる。人様の庭園の果実を物欲しそうにするなど浅ましい。

仮に腹が減ってるならば、それぞれの宮殿付きの食堂へ行けという話だ。ちなみに陽宮殿の食堂は、利用者が体力勝負な騎士のため、常に腹ぺこ野郎に対応できるよう24時間営業だ。それを目の前の女が知っているかは分からんが、『うまそう…』などと、まるで食べたいと主張する意地汚い発言をした自分が何と言われるだろうか。恐々としながら、グレンは視線を女に戻した。


彼女は紫の瞳を何度かゆっくりと瞬かせる。

そして、(ゆる)りと目尻を下げた。


なぜかは分からないが、グレンに対して警戒していた表情が無くなっている。この時相手が、グレンの言葉を信じて、あぁ腹ぺこさんなのね、可哀想に、と警戒心を薄めたのにグレンは気づくはずもなかった。




「すみません。この実は食べる事ができないのです」



女は視線をそっと赤い実に向け、残念そうな声色で話す。この樹木、ルコの木と言うらしい。おいしそうな小さい果実は食用ではなく、煎じて傷薬の軟膏になるのだと女は説明すると、今度はグレンの方を見た。グレンの黒い瞳と、女の紫の瞳が絡まりあう。




「でも、よろしかったらお茶でもいかがですか?」




女は小さく微笑みをこばした。


小首を傾げ、宝石の様な紫の瞳を細めて、小さく微笑んだ。


その変化はとても小さく、一瞬の出来事だった。




その微笑みを目にしたグレンは大きく目を見張る。





(お前は、そんな風に笑えるのだな…)





闇夜に月明かりで見たあの表情を思い出す。

悲しそうな、寂しそうな、何かを諦めているような、すべてを(うれ)いているあの表情。


それが、小さく微笑むと、どうだろう…。




惹きつけられ、目を離せなくなるのはどうしてだろう。




穏やかな気持ちを抱くのはどうしてだろう。




それでいて、心が落ち着かなくなるのはどうしてだろう。




もっと、もっと笑えよ、と願うのはどうしてだろう。






* * *





お茶の誘いに、コクリと頷いたグレンは朧月の後をついて行く。案内された場所は、温室の最奥。踏み入れた場所は、植物に囲まれた(ひら)けた小さなスペースだった。

外からの陽光が植物の葉から溺れ落ち、明るく照らす。中央に置かれた小さなテーブルと、小さな椅子。テーブルの上には数冊の本が積み置かれているし、椅子には落ち着いた柄のクッションと、外套のような服がひっそりと置かれている。穏やかな空気が流れるその場所は、朧月の休憩スペースなのだろうと容易に想像ができた。


グレンは椅子を薦められ、素直に着席する。そして朧月の行動を眺めていると、テーブルに置かれた本を片付け、椅子に置かれていた外套に手をかけていた。そのまま、外套も他の場所に寄せるのだろうかと考えていると、朧月がそれをそのまま羽織ろうとする姿を目敏(めざと)く気づき、思わずグレンは声をかけた。



「どうして温室にいるのに、なぜ外套を羽織る?」

「…これが、私の正装なのです」



そう答える朧月に、グレンは心の中でそういえば…と思い出す。

上級魔術師《朧月》。その人物はいつも外套を深く羽織り、顔を晒す事はほとんどないらしい。グレンが初めて彼女を見た夜も、そういえば闇夜の中だというのに外套を深く被って顔はおろか、体型も分からない状況であった。



もしかしたら顔を見られたくないのだろうか――


なぜ?


どうして?



隠す理由は分からない。だが、自分はすでに見てしまっているのだ、その顔貌を。今更その顔を隠すのは腑に落ちない。なんだかもったいないと感じてしまう自分がいて、つい言葉をかける。



「外套はない方が良いだろ。動きつらくないか?」

「…そうですね、でも…」

「一緒にお茶をするのだろう?相手の顔は見えた方が良いだろ」



そう、一緒に茶を飲むのだ。顔をつきあわせてお茶をするには、ちゃんと表情が見えた方が良い。そう言葉をかけると、朧月は躊躇(ちゅうちょ)をみせた。ここでなぜか負けるわけにはいかないという気持ちが芽生え、相手をジッと見つめた。人に言わせると狼みたいな鋭い眼力で。そのお陰か、朧月はグレンの言葉にたじろぎをみせる。さらにジッと見ていると、しぶしぶではあるが了承するように頷きを見せ、外套を椅子に置いたままお茶の準備を始めた。



(ずいぶん手慣れているな…)



朧月がお茶を淹れる様は流れるようで、手際が良い。いつも自分で淹れているのだろうか、お茶が好きなのだろうかと考えていると、いつのまにか準備を終えた朧月が目の前にいて、心の中で1人驚く。


「どうぞ」と柔らかい声が聞こえると、グレンの前に上品な柄のティーカップに入った紅茶が差し出される。

湯気が立つそのお茶から良い香りが漂い、鼻をくすぐる。朧月が向かいの席に座ったのを確認すると、グレンは視線を外し、無骨な手でカップをがっつり持ち上げ口をつけた。




正直に言おう。

お茶の味はさっぱり分からなかった。


普段から紅茶を楽しむという習慣がグレンには一切ない。そもそも、上品な舌は持っていない。一応身分は貴族の枠組みに入っているが、上品な貴族という部類に自分が入らない事は自覚している。

うちの家柄は辺境伯家であり、隣国からの侵略を阻止する役目を負う領地を持っていることもあり、家族は皆武人である。しかも、母親以外はすべて男の野郎ばかりの家庭環境。野郎共の食卓と言えば、質より量。けっして粗悪な食事なわけではないが、やはり上流階級特有の上品な食事とは言えない。


飲み物に関しても、酒ならなんでもいけるくちだが、繊細な紅茶などグレンにはとんとご縁はなかった。さすがに紅茶の〈うまい〉〈まずい〉くらいの自己判断はできる。だが、紅茶を飲んで、「この茶葉の産地は○○だな」とかいう、知識も上品な舌も持っていない。もしこれが、我が友人達、王太子エドワードや宰相補佐を務めるダニエルだったら上手に褒めて、これをきっかけに会話を弾ませ、会話を楽しませる事ができるのだろうと思うと、なんだか悔しい気持ちになる。


本来グレンはそれほど口が回る方ではない。男ばかりの騎士団で過ごすグレンは、女との関わりも少ない。時折自分の容姿に惹かれて寄ってくる強気な女もいるが、別にその女達と会話を楽しむという事はしない。だから、残念ながら女との会話を盛り上げるような話題を持っているはずもない。朧月とのお茶の時間は、紅茶を一口含み、二言三言で話して言葉は途切れ、また紅茶を飲み、ちょっと話して沈黙という繰り返し。ただ無難な、天気の話や、何気ない話しかできないのが自分が口惜しい。



だが、彼女と共有するこの時間は決して悪いものではなかった。

たぶんそれは、彼女の気質によるものである事が大きい。物静かな性格なのだろう、言葉は数少ない。だが、決して冷たい言い方する訳ではなく、言葉の端は柔らかい。表情も決して豊かではないが、落ち着いた印象を抱かせる。そんな彼女とのお茶の時間は、悪い感情を抱かせない、穏やかな時間であった。



「うまかった」



グレンは自然と言葉が出た。手にしていたカップは、すでに空っぽ。紅茶を飲み干す頃には、不思議と紅茶がおいしいと感じた。この一時を楽しかったと感じる自分がいる。

そしてこのお茶会も、もう終わりだ。グレンはそこで、はたっとある重要な事に気づいた。ぽつりぽつりと話をしていたが、お互い名を知らない事実にやっと気づいた。



名前と言っても、本当の名の方――



朧月の本当の名前が知りたい。



だが、人の名前を聞く前には自分の名前から名乗らなければと思い、グレンは口を開いた。





「そいえば、名を名乗っていなかったな。俺の名は――」



言いかけた言葉が、途中で何かに遮られた。

目の前には、椅子から軽く身を乗り出した朧月の姿があった。自分の口元には、目の前の人物から伸ばされた人差し指。唇に触れるか、触れないかの所でそっと止められている。自分が言葉を続ければ、簡単に彼女の白い手が触れてしまうと考えると、変な気がして思わず言葉を止めた。




「また、今度にいたしましょう」



彼女は静かに告げた。



「どういう事だ?」



グレンはその言葉に不機嫌になり顔を歪める。




「また、今度会った時に名前を教えてください」

「今度だと?」

「えぇ、その方が楽しみが増えませんか?」

「…楽しい、か?」

「はい」



そう言われて、グレンは一瞬考える。


今度、


そう今度。


今度というのは、また次の機会にということだ。それは次に会う約束である。



次に会う約束は、グレンにとって願ってもない事なのではないだろうか。


これで最後にするのが名残惜しいと感じるの自分がいる。

それはなぜ?に対する答えを、言葉に表すのは難しい。

だが、彼女ともっと会ってみたいと、もっと話してみたいと思う気持ちがあるのも事実である。


これで会う口実ができたと思えば、相手の申し出は好都合である。ただ、残念なのは、朧月の本名も知らずこのまま別れてしまう事。だからこそ、グレンは念を押すように確認した。



「その時、お前も名を教えるのだな」

「えぇ」

「約束だぞ。次会った時、必ず約束を守れよ」

「はい。約束します」




そして、目の前の女は、綺麗なその顔貌で静かに微笑んだ。





「では、またお会いしましょう」








*****



あれから、数日が経った。

陽宮殿、第1部隊隊長室の執務机で腕を組んで険しい表情を浮かべる男がいた。その傍らには、優雅に来客用の椅子に腰を掛ける2人の男達。


「どうして、見つけられない」

「どうしたんだい、グレン」

「例の彼女とはやっと会えたのだろう」

「あぁ」

「良かったじゃないか」

「…」


そう、グレンはやっと目的の人物と会う事ができた。成り行きではあったが、一緒に紅茶を飲むこともでき、ぽつりぽつりではあったが会話もできた。そして、次の約束を取り付け別れたはずだった。だが、次の機会はいっこうにやってこない。


待っているだけは始まらないと、痺れを切らしたグレンは動いた。もともと思い立ったら即行動派なグレンである。部隊長として仕事や訓練の合間をぬって、積極的にあの温室に足を運ぶが、温室の扉は再び開かれる事はなかった。なら…と、月宮殿内の至る所をウロウロしてみたが再会を果たす事はできていない。


これは意図的に避けられているかもしれないと、グレンの直感が告げる。



不機嫌さを隠しもしないグレンに、宰相補佐であるダニエルは大きなため息をついた。


「グレン、いい加減しろ。今はそれより、禁術の件だ。調べはどうなっている」

「あぁ、盗賊達は魔獣を闇取引である貴族から買ったようだ。もともとはただの破落戸(ごろつき)。禁術に使用する特殊な薬を作る知恵もない。材料を手に入れる伝手もなければ、その術を施せる術師の伝手もない」

「貴族か。私利私欲に走った愚か者だな。お前の事だ、売った貴族の方も調べているだろう」

「当たり前だ。今は俺の部下数名を家に張り付かせてる。当事者はなにも知らず、のうのうと享楽に耽ってるぜ。自分の娘と王都で贅沢に買い物をしたりお幸せなもんだ。その喉笛に刃が突きつけられてるとも知らずにな」

「そうか。私は禁術方面から調べてみたが、薬の主原料となる植物はずいぶん稀少な植物らしい。マギの葉というのだが、生息しているのも極一部の地域。王都から一番近い場所は、資源豊富な森を所有するセドラーシュ領だ」

「俺達が張り付いている家じゃねぇな。こっちはまだ余罪の調べ中だが、その家も共犯か?」

「いいや、自領で採れる稀少な植物を禁術の為に使うなど自分を疑って下さいと言ってるようなものだ。そもそもあそこの現領主は禁術などという大それた事ができる人間ではない。正規ルートでも出回っていないし、おそらく密猟だろう」

「だろうな。あの男爵家、手広く悪事に突っ込んでるな。叩けば埃が出すぎて今すぐにでも締め上げたくなってきたぜ」



「ところで、この事件を調べて知ったのだが、お前は気づいているのか?」

「何をだ」

「お前が探していた彼女も少なからず関係者だという事だ」

「は?何の事だ?」



ダニエルが言う彼女とは、誰の事だと首を傾げる。それに答えるように、ダニエルは一冊の分厚い本をグレンの目の前に差し出した。その本の表紙を見て、グレンは大きく目を見開いた。



「おい、魔術師名簿じゃねぇか!どうしてここにある!」



その名の通り、魔術師の称号を受けた者達の名を記した本である。本来、国家の機密書類として厳重に保管されているもの。閲覧できる者は極一部であり、持ち出す事は言語道断だが唯一の例外はある。グレンはその唯一の例外である、自分の親友に視線を向けた。そこには相変わらず、穏やかに見える顔立ちで少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた王太子エドワードがいる。

ダニエルが言った、彼女――とは魔術師《朧月》の事であるとグレンはここでようやく悟った。



「余計なお世話をしようとして見つけてしまったんだよ。ごめん」

「…どういうことだ」

「まず、名簿を見てみて」



エドワードに促されるが、グレンはなかなか本に手を出す事ができない。目の前には魔術師名簿。それを見れば朧月の事を詳細に知ることができるだろう。だが、躊躇(ちゅうちょ)した。グレンが思い出したのは、朧月と別れる間際の事。彼女の言葉が脳裏で流れた。



《また、今度会った時に名前を教えてください》

《その時、お前も名を教えるのだな》

《えぇ》



静かに微笑んだその顔を思い出し、グレンは躊躇した。そうだ、約束だ。今度会った時に名を教え合う。その時にちゃんと名前を知るのが筋ではないのか。ここで、魔術師名簿を見てしまうのは違う。



なかなか手を出さないグレンに、エドワードは静かに告げる。



「グレン、もしかしたら近い未来、彼女に危機が迫るかもしれない」

「エドワード、さっきから何を言っている」

「グレン、前に僕の弟が最近おかしいと話したことがあったね」



エドワードの弟、第二王子のバージル・ウェル・ネベチア。現在は王立ネベルチア学園の第二学年騎士科に所属しているはずだ。エドワードの弟という事もあり面識はある。何度か剣の練習につきあった事もある。剣の腕は俺にはまだまだ及ばないが、年齢のわりに強い方である。このまま訓練を積めば将来は有望な剣の使い手になるだろう。性格は、まぁ王族らしいっていえば王族らしい人物である。正直、俺は好かねぇが。

そんなバージル殿下が最近同じ学年の女子生徒にご執心らしいと兄であるエドワードから以前に聞いている。しかし、なぜ今その話をするのだとグレンは眉をひそめた。突然の話の転換と、今回の事と何が関係あるのか。そして、朧月に危機が迫るなどという物騒な物言いに(いぶか)しむ。



「弟がご執心なその女子生徒、弟の他にも取り巻きがいてね…。残念なことに学園でも優秀と言われてた男達だったのだけど、愚かな事にその女子生徒の愛を巡って騒動を起こしていてね。しかも、学園の他の生徒達や男達の婚約者達を巻き込んで」

「へぇ、あのバージル殿下が。で?」

「その女子生徒が問題。なにせ、君が書いてくれた報告書に名前が載っている人物――黒幕の娘だから」

「はっ!?」

「そして、君に魔術師名簿を見て貰いたい理由はね、弟と一緒にその女子生徒の取り巻きになっている男子生徒の婚約者が…、君の探し求めてた彼女だから」



グレンはその言葉を聞き、せき立てられたように乱暴に魔術師名簿を開いた。

《朧月》――その項目まで荒っぽくめくると、彼女の本当の名前を記された場所を指でなぞった。



「セドラーシュ…」

「そう、さっきダニエルが言ってたけど禁術の材料…マギの葉が採取できる領地、セドラーシュ家のご令嬢」

「まさか…」

「さっきも言ったでしょ、セドラーシュ家は悪事に手は染めてない。それに、彼女は我々と同じみたいだ」

「どういう意味だ」

「彼女もベリルの町での魔獣事件の時に気づいたみたい。魔獣に禁術が施されているって。だから、秘密裏に独自で調査してたみたい」

「あの時に…」

「それに彼女も真相に辿り着いているみたい…黒幕がバラーク男爵だってことに」

「!」

「ねぇ、グレン。僕は恐ろしくなってくるよ。なんだか、運命の絡まり合いを見ているようだ」




ベリルの町、盗賊・魔獣事件。

魔獣を使役する禁術。

黒幕の男爵に、その娘の男爵令嬢。

男爵令嬢を取り巻く、学園の男子生徒達。


禁術に気づいた騎士(自分)と上級魔術師。

調査を指示した王太子はある男子生徒の身内。

調査しているのは王太子の側近達。もちろんある男子生徒とも面識がある。

魔獣事件に居合わせた上級魔術師は、ある男子生徒の婚約者――。



魔獣事件を調査する者、そして追われる者。

何の因果だろう。自分達を含めてこの事件の関係者は少なからず接点がみつかる。



これは、偶然なのか、それとも運命なのか――。



答えは分からない。



調査は佳境を迎えている。事態が終息するのは、もうすぐだ。その時がやってきたら、この事件の関係者はそれぞれが影響を受ける事となるだろう。



それこそ、秘密を抱える彼女も――。







「ねぇ、グレン。それでも、君は彼女を探すのかい?」



目の前のエドワードは穏やかな表情で、グレンに問いかける。魔獣事件で見かけて以来、上級魔術師《朧月》を捜し求めるグレン。調査の過程で知ってしまった、上級魔術師《朧月》の秘密。



顔を隠した上級魔術師《朧月》


なぜ、顔を隠すのか。


それは――貴族令嬢だったから。



本来であれば、貴族令嬢が魔力を有しているならば家をあげての(ほま)れである。国でも魔力持ちは稀少な存在。その不思議な能力は、畏怖されると同時に権力と財産を得る可能性が十分高く、貴族にとっては喉から手がでるほど欲しい存在である。そして、ひとたび手中に収めれば、その稀少性・有益性を兼ねる魔力持ちを周りに顕示したくなるのが貴族なのである。

だが、彼女は隠していた。頑なに隠す素性。貴族令嬢が上級魔術師であるこも、上級魔術師が貴族令嬢であることも、彼女は隠すように行動してきた。


彼女の望みは、他人に知られたくないということ、なのだろう――



グレンはもう探し求めない方がいいのかもしれない。


現に、再会を約束したというのに避けられているのか会うことはできない。それは関わって欲しくないという本人の意志の表れなのかもしれない。





ここは、彼女の願い通りにするべきだろう…





と、思いはしたが、グレンはすぐさまその考えを否定した。




思い出すのは、彼女の表情――


月夜の下で見た、悲しそうな、寂しそうな、何かを諦めているいるような表情。心に何かがひっかかる表情する彼女に、どうして、なぜそんな顔をすると問いただしたい。お前の憂いは何だと、どうすればその憂いを晴らせるのだと問いたい。


春の木漏れ日が降り注ぐ温室で、ふと見せた小さく小さく零すような微笑みをする彼女をみて、もっと、もっと笑えよと願う自分がいる。



俺は――会いたい。



(相手が嫌がろうとうも知ったこっちゃねぇ)



もともと相手に気を遣うとか、そんな丁寧で繊細な事はできないタチだ。



(俺は思うがままに、動くぜ)




「探してやるよ」



グレンは決意をこめて、言葉を口にする。




「君は諦めないのかい?」


「諦めるはずがないだろう」




彼女が隠したい秘密があろうと、

彼女が秘密を隠すために俺を避けようと、




俺は、あいつを――





「必ず見つけ出してやるよ」







グレンは挑戦的な黒い瞳をぎらつかせ、口角を上げ不敵に笑った。










****



やっと、その姿を見つけた時、



俺は綺麗に舗装された石畳を力強く蹴り上げ、学園の制服を着た1人の女子生徒に手を伸ばした――






王立ネベルチア学園、薔薇庭園。

強い薔薇の香りが辺りに漂い花は見事に咲き誇る中、地に響くような慟哭が耳に入る。薔薇に囲まれたその場所にいるのは、異形で異物なモノ。黒い瘴気を纏うその魔獣は、四肢に絡んでいた茨を引きちぎり、その場にいた濃い灰色の長髪を持つその女子生徒に向かって飛びかかろうとしていた。


グレンはぎりっと唇を噛み、利き手に愛剣を握りしめ、もう片腕で女子生徒の体を庇うように抱きしめた。頭1つ分以上の差がある、その細身の体に腕を回すと、抱きしめた腕から女の体温がじんわり伝わる。そして濃い灰色(チャコールグレイ)の髪がふわりとグレンの頬を優しく撫でた。



「油断するな」




自分でも低くなったと自覚する声で呟くと、グレンは剣を大きく一降りした。


キラリと鈍い光が一瞬横切る。


次の瞬間には魔獣の飛び散った真っ赤な鮮血と、魔獣の首が空を舞い、切り離された胴体がズシリと音を立ててゆっくりと倒れる。血溜まりが広がり魔獣が絶命した事を確認すると、グレンは剣に軽く一降りし、剣に付いた血糊を払った。



(俺が学園の方を選んで良かったぜ)



ネベチア王国騎士団第1部隊。現在、任務中であるグレンは(おのれ)の判断を褒めた。

任務は罪人の捕縛。黒幕の住む王都の屋敷か、娘のいる学園か。部隊の戦力を二分にして捕縛にあたると決めた際、グレンが選んだのは学園の娘の方であった。普通であれば隊長である自分は黒幕の方に行くのだが、今回グレンは学園にいる娘捕縛の方を選択した。

黒幕の娘の取り巻きになっている王族――友人(王太子)の弟が素直に罪人を渡すとも限らない。馬鹿に権力があると面倒この上ない。第二王子の顔見知りで、権力をちらつかせられても無視でき、何があっても武力で押さえつけられる自分が黒幕の娘を捕縛する適任であった。

そして、さらに言えばグレンの若干の私欲も混じっている――自身の腕の中に収まる、その体に回す腕に少しだけ力が入る。



(だが、まさか魔獣が襲いかかっている所に出くわすとは思わなかったぜ)



想定外な事はおこるものだ。罪人の娘がまさか学園内に魔獣を引きこんでいようとはグレンも予想もしていなかった。愚者な娘は、どこまでいっても愚者なのだ。学園にはたくさんの生徒がいる。魔獣が解き放たれたら、最悪の場合学園の生徒達に大多数の死傷者がでる所であった。



(一気にケリがついて良かったぜ)



魔獣はグレンの手によって葬られた。グレンが胸をなで下ろすと同時に、自分が抱きしめていた人物も息をホッとこぼした。安堵したのは自分だけじゃない。まさに魔獣に襲われそうだった、腕の中の人物も同様だった。

いつまでも抱き留めているわけにはいかない。グレンは名残惜しい気がしながらも、腕の力をゆるめた。体が離れ、振り向いた女は顔をあげ、グレンと視線が混じり合った。




大きく見開いた宝石の様な紫の瞳に、ふわりとした濃い灰色(チャコールグレイ)の髪が揺れる。



学園を選んだ理由、グレンの私欲の部分――探し人の女はグレンとの再会を驚いた表情で向かえた。





「よぉ、やっと会えたな。約束を果たそうぜ、《朧月》」




自分でも愉快そうな表情をしているのが分かる。実際、そうなのだから。やっと会えたのだ。探して、探して、やっと出会って次の約束までしたのに、避けられて。だが、やっと見つけた。約束を果たす機会が訪れた事に胸の中で歓喜していると、耳障りな感高い声がグレンの思考と視界の邪魔をした。



「なんで!?なんで、黒狼様がいるの!?」

「黒狼様と会うのはもっと先なのにっ!」

「だって、彼は王宮編のキャラのはずっ!」

「なんでっ!なんでゲームと違うのよ!」



肩までの金髪に、桃色の瞳。小柄で可愛らしい顔貌をしているが、可愛いさなんて今は微塵もない。興奮して感情的に(わめ)き散らし、半狂乱な女。悲鳴に近い声で叫ぶ女にグレンは苛立(いらだ)った。



こいつが、バラーク男爵の娘か。



意味不明な言葉を口にして、声高に叫ぶ女にグレンは「チッ」と舌打ちした。まず罪人の娘を片付けなければ、ゆっくり時間も取ることができない。



「黒狼様っ!なぜそんな女を庇っているの!私を助けてよ!」

「なぜそんな事しなきゃならねぇんだ」

「黒狼様は私の味方よね!ねぇそうでしょ!」

「はっ?」

「黒狼様っ!」

「そもそも、その呼び名はやめろ。小っ恥ずかしい」

「黒狼様は私の事好きよね??」

「お前とは初対面だろう」

「でも好きでしょうっ?!だから助けてよっ!」

「意味が分からねぇな。俺がお前を好き?そんな事あるわけねぇだろ」

「どうしてっ!だって私はヒロインなのよっ!」

「俺にとってお前は、ただの 罪人 だ」



キャンキャン吠える女にグレンは最高に苛ついた。なんだこの自意識過剰な馬鹿娘は…、と胸の中で罵倒する。

黒狼様なんて恥ずかしい名前で呼ばれるのも屈辱だが、勝手に俺が娘に好意を持っているなどと勘違いにもほどがある。虚言妄想も大概にしろ。脳みそ湧いてるんじゃないか…、いや脳内花畑すぎておかしいのだ。こんな愚図な小娘に惚れ込む男達がいるなど世も末だ。


グレンは娘の近くに佇む3人の男子生徒を見た。そのだれもが見目麗しい。1人は第二王子、他の2人に面識はないが学園でも成績優秀な生徒達だったと聞く。実際は恋に踊った阿保野郎どもだ。娘に常に(はべ)り、愛を囁き、貢ぎ物をする。不作法な娘を(たしな)める他の生徒がいれば、娘を庇い相手を悪として責め立て問題を起こす。恋の園で守られ、ちやほやされた娘はつけあがったに違いない。自分が一番な存在だと。男に好かれて当然な存在だと。――勘違いも(はなは)だしい。



グレンは好意など微塵も感じさせない鋭い瞳で娘を睨みつけた。突き放す拒絶の言葉は冷徹で、グレンの態度に娘は顔貌をひどく歪め絶望した様な表情をとった。そんな顔をしてもグレンの心が動かされる事はない。



「なんでっ!だって私はヒロインなのに!なんでゲーム通りに進まないの!こんなはずじゃないのに!」



娘は絶叫し、その瞳に憎悪の色が滲んだ。

そして、視線を娘の傍らになぜか落ちていた1本のナイフに向けてから、ある人物に好戦的な視線を向けた。


視線の先――それが誰で、愚か者な娘がこれから何をしようとしているのか気づいたグレンは、自身の剣を強く握りしめ、瞬発的に地を足で蹴り飛ばした。



「動くな。その首堕ちるぞ」



鋭くきらめく剣の刃を娘の首に突きつける。薄皮1枚の距離で突きつけられた剣は、簡単に血に染める事ができる。娘からくぐもった呻き声が聞こえたが、もし逃げるようなら容赦はしない。グレンは殺気を込めた瞳で睨み付けた。


この娘が敵意を向けた人物――《朧月》を傷つけるのは許さない。


そもそも、この娘は罪人。罪を重ねようとするならば、慈悲などいらない。


バラーク男爵。かの男は私利私欲で、悪に手を染めた。国への税収虚偽申告・横領、魔獣使役の禁忌術含めた闇取引など複数の罪を犯した。そしてこの娘もまた、男爵の行いを知っていた。あまつさえ、この娘は魔獣使役の禁術を施した主犯でもある。娘の知識で造られた魔獣は闇取引で悪人の手に渡り、いくつかの街で暴れ回り、多くの民に被害をだした。傷ついた人々、奪われてしまった命。それをこの娘は償わなければならない。


娘はグレンの刃に屈した。自分の死が目の前に突きつけられた事で、抵抗しても無駄な事を悟ったのだろう。それか、グレンの殺気で恐怖心がまさり動けなくなったか。その間に娘は部下の騎士に囲まれ、手枷を嵌められた。そして、拘束された娘は、部下の騎士によって連行される。



娘の行く先は、暗く、寒く、冷たい……絶望と恐怖に縁取られた奈落の底だ。






* * *




グレンは部下の騎士達を見送ると、声を上げた。



「おい、朧月!」



女の名を呼ぶと、彼女は視線をグレンに向けた。グレンはやっと話ができると、女の前までズンズン歩く。



「朧月、ようやく会えたな」

「……えぇ、お、お久しぶりでございます」

「さてと…前に会った時にした約束を果たそうじゃないか」



約束――


《また、今度会った時に名前を教えてください》

《その時、お前も名を教えるんだな》

《えぇ》


実はもうグレンは、朧月の本当の名を知っている。バラーク男爵を調査する過程で、知ってしまった。ダニエルとエドワードに見せられた魔術師名簿。事件の関係者と聞いて、調べざるをえなかった。名も、身分も、そして家族状況も。



だが、俺は聞きたい。



俺はお前の口からちゃんと名前を聞きたい――。




グレンが口にした約束と言う言葉に、朧月は躊躇っている様子をみせた。さらに気合いを掛けようかと口を開きかけたとき、丁度良いタイミングで「隊長!」と自分を呼ぶ声が聞こえた。

すぐに部下の一人であること気づき、自分に指示を仰いでいるのだろうと分かってはいた。今だ薔薇庭園には血で染まった魔獣の体と首がいまだに転がっているし、罪人の娘に(はべ)っていた愚かな第二王子含めた阿呆な男達に、締め上げと言う名の事情聴取をしなければならない。その他にもやる事はたくさんある。グレンは眉をひそめながら舌打ちをした。



「お前はここで待っていろよ」

「えっ?」

「必ず戻る。まだ約束が果たされてないだろ」

「…」

「返事は!」

「は、はい」

「ちょっと行ってくるから、待ってろよ」



本当はこの場を離れたくない。やっと朧月に会えたのだ。この機会を逃したくない。だが、仕事は放り出せる訳も無く、仕方なく、本当に嫌だがグレンは仕事に戻る事にした。ある程度現場を処理したらこの話の続きをするつもりで、何度も朧月に念を押しながら部隊の騎士達の中に戻った。


だが、部下達に指示を飛ばすため、朧月から目を離したのがいけなかった。





朧月は、美しく咲き誇る薔薇に身を隠し、静かに薔薇庭園から姿を消した――





グレンは、ぎりっと唇を噛みしめた。




「今度は絶対逃がさねぇ」










どこまでも、


何度でも、



探し求めるこの執着は、なんだろう――。








*****





太陽は沈み、月が昇る。

暗闇が空を支配する刻、グレンは黒い騎士団服を大きく(ひるがえ)し、息を弾ませ、地を駆け抜ける。視界に巡るのは、ここ最近何度も通った月宮殿内の風景。堅牢で、それでいて幻想優美に魅せる宮殿内を抜け、夜空が開けた場所に出る。整然を植えられた草木や花々が夜風によって揺れているが、グレンはそれに目をくれる事無く、走り抜ける。月宮殿付きの植物庭園、砂利道に沿って、さらに、さらにと奥へ進む。



(間に合えっ!)



グレンははやる気持ちを抑えて、ただ必死に足を動かす。時間との勝負だった。

やっと視線の先に目的の場所…ガラス張りでできた小さな建物が見えたとき、グレンは自分が勝負に勝った事を確信した。ガラス張りでできた建物――そこが数多の植物で溢れる温室であると知っているグレンは大きく安堵の息をついた。温室の扉の前には、黒い人影。


グレンは歩を緩め、息を整える。走ってきたことで体は火照っているが、息が切れることはない。普段から並大抵じゃない訓練を行っているグレンにとって、これしきで息が上がる訳もなく、呼吸はすでに整っている。息を殺し、物音も気配も消し、グレンは温室の前に佇むその人物――この温室の主、ネベチア王国上級魔術師《朧月》に向かって歩を進めた。



彼女はグレンに背を向け状態で、扉に手をそっと添えている。そして、彼女の小さな呟く声が夜の静寂に響いた。




「次の主が来るその時まで、静かな眠りを」





その言葉を耳にしたグレンは、カッと自分の心が乱れたのが分かった。


次の主?


それは、どういう意味だ。




この温室は、上級魔術師《朧月》の植物園。



お前の、



お前の植物園だろう―!





「主はお前だろう、朧月」





朧月の背後から、扉を押さえつける様に腕を伸ばす。その拍子にドンっと大きな音が鳴り響いた。温室の扉と自分の腕の間に、朧月を閉じ込める。



「この温室はお前のだろう。それとも…、お前はどこに行くつもりだ。朧月?」



そう言葉をかけると、朧月は大きく肩を揺らした。そして、グレンからの束縛から逃れるように朧月は身を捩らせた。

グレンとて朧月を本気で組み伏せるつもりはない。だから、腕の間から逃れようとする朧月の行動を見逃すために自身の腕を緩めた。朧月はローブを翻し、動いた拍子に外套のフードが外れたのも気にしない様子でグレンの腕から逃れる。よろめく足で、グレンと数歩の位置であるが距離をとると、朧月は歩を止めた。そしてゆっくりと顔を上げる。その表情は、ひどく困惑と驚きに満ちていた。



「どうして…」


「どうして、だと?決まってるじゃねーか」





そんなの決まってる。




《また、今度会った時に名前を教えてください》

《その時、お前も名を教えるんだな》

《えぇ》



――約束だからだ。




「なぜ、待っていなかった。俺はお前に待っているようにいったはずだろ」

「…申し訳、ありません」

「そのせいで、お前を捜し回るはめになった」

「…え、あの…探したのですか?」

「探すだろ。約束しただろう」

「やく、そく…」

「この温室で茶を一緒にした時、約束しただろう。次に会ったとき、お互い名を名乗ると。それが今日だ。昼間は逃げられたが、今度は逃がさねぇぞ」



そう、逃がすつもりはない。今度こそ、約束をはたしてもらう。そのために、ここまで追ってきたのだ。



お前の口から、名前を聞きたいから。



グレンは朧月を真っ直ぐ見つめる。




「約束をはたそうぜ」




捕らえた獲物は逃がさない。グレンは狼の様な鋭い瞳で、口角を上げ笑った。




「お前の名は?」



グレンは言葉を繰り返す。

その言葉に対して、朧月はグレンからすっと視線を外した。その唇はきつく結ばれ、沈黙が2人の間に落ちる。朧月は手を震わせ、それを押さえるように両手をぎゅっと胸の前で握りしめていた。そして、戸惑うように口を開くと、か細い声で呟いた。





「貴方様は、すでに…知っているのではないですか?」



言葉が震えそうになるのを必死に押さえながら話す朧月の表情は不安で満ちている。もはや怯えといってもよかった。

それに対してグレンは虚をつかれた。まさかグレンが朧月の秘密を知っていると、今、本人に指摘されるとは思ってもいなかった。


確かにグレンは知っている。

彼女が隠していた秘密を知っている。

彼女が隠したいと願う秘密を、グレンはすでに暴いてしまっている――。


問いかけは疑問系であったが、彼女の中で確信を持っているようだった。2人でした約束を反故にして、彼女の情報を手にしているのは事実である。だから、言い訳はしない。誤魔化しても朧月はグレンに対して猜疑心と不信感しか抱かないだろう。




「お前の事は知っている」


「…やはり、そうでしたか…」



朧月は瞼を震わせ、瞳を伏せた。




「お前の事は書類上は知ってはいる」



朧月の秘密――彼女の本当の名前も、年齢も、貴族令嬢であるということも知っている。だが、それを手にしても、グレンは決してそれを悪用しようなどとは思っていないし、他人に流布するつもりもない。



だから、そんな不安そうな、怯える表情をするな、と心の中で言い募る。



俺が求めるのは――。



「お前の名を聞かせろ」


「…えっ?」


「お前の口から、お前の名前を俺はまだ聞いていない」




そう、俺はお前の名前を、お前の口から聞きたい。書類上で知っていても、それは知識なだけ。ちゃんと言葉を交わして、名乗りあってからじゃないと意味がない。本人の言葉で聞いてこそ、名を呼ぶ権利があるのだ。



「お前が名乗らなければ、俺はお前の名を呼べない」



グレンは朧月をその黒い瞳で射貫くように見つめた。

朧月は、グレンの言葉に瞳を大きく見開き、息をのむように呼吸を一瞬止めた。それが良い兆候か、悪い兆候は分からず、グレンは次の言葉を待った。

朧月は何かを決めたような決意をこめた瞳で、グレンに視線を向ける。そして、その小さい唇をゆっくりと開いた。




「名は、名乗りません…」



その言葉に、グレンは切れ長な瞳をスッと目を細めた。



「なぜだ。お前の名を呼べないだろう」

「…呼べなくてよいのです」

「どういう事だ」



グレンはその言葉の意図が分からず朧月に聞き返した。



「必要がないからです」

「必要ないとはどういう事だ。意味が分からん」

「言葉の通りです。名を知ったとしても、もう名を呼ぶ機会はもうないでしょう」

「なに?」



暗闇に映える月にかかった(もや)がはれ、朧月の表情を月明かりで照らす。切なさを含むその表情は、グレンの胸を強く締め付けた。



「私はこの地を去ろうと思います」



朧月が静かに告げた言葉に、グレンは表情を歪めた。

血が沸き立つような激情が胸の中を駆け巡る。疑問と混乱、憤怒と焦燥が混沌とする。




「どういう事だ。お前はどこへ行くつもりなんだ」

「どこか遠い、遠い、静かな場所へ」

「どうして」

「王都は私にとって華やかで、賑やかで、そして眩しすぎるのです」

「だから何だ。ここから離れる理由にはならないだろう」

「私は疲れてしまったのです。秘密を隠し続ける事に、頑張り続けることに。それこそ、貴族令嬢であった私が向かえた結末を貴方様も知っておりますでしょう?」



朧月は切ない表情でグレンに問うように、首を傾げた。

朧月の本来の姿――ネベチア王国、セドラーシュ伯爵家の令嬢。だが、それも数日前までの事。彼女は当主である父親から絶縁を言い渡された事を、すでにグレンは情報として得ていた。その理由は伯爵家の名誉を汚したかから。

原因は彼女が婚約破棄をされたから。婚家に入るには著しく能力が足りないと――無能だと相手側から突き立てられた。性格も素行も、貴族としての品格・能力もないと仕立て上げられた。禁術事件の黒幕の娘に執心した伯爵令息によって。恋に踊った伯爵令息は、婚約者を陥れた。自らの欲望の為に。


そして彼女は、嫌悪と憎悪の瞳に晒され、罵詈雑言を浴びながら、1人となった――。



グレンは唇を噛みしめる。



朧月は決して無能ではない。

例え魔術師であるという事を隠していても、彼女をきちんと見れば、本質を見極められたはずだ。


物静かで、慎ましい姿勢――。それは、周りに対する思慮と配慮深さに繋がる。彼女の宝石の様な瞳は、知性をはらんで真っ直ぐ物事を見つめる。思考し、行動する様は真面目さが窺える。そして、貴族令嬢として洗練された所作は美しく、彼女をより一層引き立てた。



無能なのは、セドラーシュ家の者達、そして婚約者であった伯爵令息の方。

いや、無能と言うより――愚か者。彼女の良さに気づく事もなく、手放した愚か者達。



グレンはきつく、きつく自身の手を握りしめた。



「ひとりで行くのか?」


「はい」


「お前はそれでいいのか」


「はい」


「お前はそれで大丈夫なのか」


「はい、大丈夫です」




グレンの質問に、朧月はその綺麗な声で肯定の言葉を繰り返す。グレンは一息ついて、最後に朧月に問いかけた。







「それがお前の本当の望みなのか」



「はい」




朧月はグレンに対して、静かに微笑んだ。


憂いの表情を浮かべ、儚く、今にも消えそうな雰囲気を(まと)いながらで綺麗に微笑んだ――。




それはまるで――《朧月》の様だと、グレンは思った。


霞や靄によって隠れている、ぼんやりと朧気な月。

朧気であるその月は、ひとたび霞や靄が濃くなればいとも簡単に見えなくなってしまう。人の瞳に映らなくなってしまう。誰の瞳にも映らなければ、無い存在と同じになる――存在が消えてしまう。



(俺の前から、消えるというのか――?)



上級魔術師《朧月》――実力ある魔術師。だが、その実際はまだ年若い女だ。

魔獣から庇った際に抱いた体が、細く頼りないものだと知っている。不安や恐怖で震える声を知っている。その存在が儚く、か弱い存在である事を知っている。



グレンは握りしめた手が自身の爪よってさらに食い込むことすら気にせず、さらに握りしめる。



(許さないっ!)


(俺の前から、その姿を消すなどっ!)



胸をしめるのは焦りと苛立ちだ。


俺はお前に会いたいのに。

もっと話をしたいのに。

……お前の切ない表情でなく、お前の笑顔を見たいのに。


離れていくなど、許したくない。俺の目の前から姿を消すなど許せない。




なぜ――?


それは、


それは――。



宵闇の月夜に初めて見かけたあの日から、求める姿。



どこまでも、何度でも、求めるこの執着。


高鳴る鼓動に、高まる興奮。乱れる心に、心を焦がすようなこの想い。




俺の前から消えるかもしれないという事実を突きつけられて、やっと気づいた。





あぁ、この執着の名は――




(俺はこいつのことが…、)




グレンは黒い瞳に、強い意志を込める。



朧月とグレンの距離はたった数歩しか離れていない。



今、手を伸ばさなければ、


俺はこいつを手に入れられない――。





「俺の手をとれ」



無骨な大きな手を朧月に突き出す。その手には剣を握りしめ鍛錬づくしの日々によりできた剣ダコや、治癒した切り傷もある。とても上品な手だとは言えない。だが、誇りだけはある。騎士として、男として剣に誇りをもっている。そして、この手は女1人を支えるだけの力も持っている。





「道に迷うのであれば俺が側にいてやる。


 だから、行くな。


 朧月のように、霞に隠れて消えるな。


 いなくなるな。」




朧月は華奢な体の肩を大きく震わせた。その瞳の奥には、感情の揺らめきが見える。本当の気持ちを隠して、すべてを諦めたような表情ばかりする朧月。不安と孤独さを滲ませて、今にも儚く消えそうな存在感は危うさしかない。グレンは真っ直ぐと朧月を力強く見つめ続けた。



「迷うな」



戸惑いをみせる朧月に、グレンは言い募る。それでも、朧月は躊躇(ちゅうちょ)した様子でグレンが差し出した手をなかなかとろうとしない。そこでグレンは、はたっと気づいた。


躊躇はみせるが、否定はされていない事に。


その事実に気づいた時、グレンは足を動かした。黒い騎士団服の裾を翻し、靴音が月夜の静寂に響くのを耳にしながら、グレンは両腕を伸ばした。手に伝わるには、温かい感触。耳元から、「きゃあっ」と小さく悲鳴が聞こえるのを無視して、グレンは自身が抱き上げた人物を見つめた。数歩の距離だった先程より、ぐっと近くなった瞳と視線がぶつかる。



「動くんじゃねぇ」

「しっ、しかし、!」

「こうしないとお前は逃げるだろ。俺は逃すつもりはねぇよ」

「っ…」

「そして、離すつもりもねぇ」

「…どう、して」



グレンに力強く抱き上げられた朧月は、大きく瞼を見開き、小さく呟いた。



「お前はごちゃごちゃと考える性質らしい。迷って、混乱して、仕舞いには心に蓋をしちまう。自分の気持ちを押し込めながら生きて何が楽しい?お前はそれで幸せのか?」



静かに微笑む、朧月。

だが、その微笑みは切なく、悲しく、寂しく。

幸せそうとは、ほど遠い。




「俺は引き留めるぜ、お前が辛そうに笑っているうちは何度でも。それこそ力ずくでも。」



グレンは黒い髪を風で靡かせ、黒い瞳で朧月の瞳をのぞき込む。

生憎とグレンは腕には自信がある。戦闘狂と言われるくらいだ。日々鍛錬を積んでいる剣の腕もあれば、体術も得意である。強引な手段だと分かっている。だが、グレンは引けない。引きたくない。気づいてしまったこの想いを、無にはできないし、突き動かされるこの体を止める事はできない。


だから、朧月を逃がしはしない。


離したりしない。


朧月を、決して独りにしない――。





グレンの腕の中にいる朧月は、震える様な声で小さく呟いた。




「どう、して、そこまで…」



「俺が見たいんだよ」



「…何を、でしょうか…」



「お前が幸せそうに笑う顔を」




グレンは願う。



もっと、もっと笑って欲しいと。



昼間の温室でふと見せた、朧月の微笑み。

宝石の様な綺麗な紫の瞳が細められ、目尻が下がった目元は優しさを滲ませる。桃色の唇は、少しだけ口角を上げて穏やかさを滲ませる。その小さな小さな溢れ落ちたような微笑みは、グレンの心を強く惹きつける。



笑って欲しい、幸せそうに。




そして、願わくば、その微笑みが自分だけのものになって欲しい――。






「俺の名は、グレン・ラングフォード。お前の名は?」



「わた、しは…」





耳を(くすぐ)るような、それでいて耳に心地よい綺麗な声が(ささや)く。






「私は、エミリアと申します…」


「そうか、エミリア…」





グレンは切れ長な目尻を下げた。そして、頬を(ほころ)ばせ、口を開けて破顔した。





「やっとお前の口から、名を聞けた」





これで、お前の名前を呼ぶ事ができる。




魔術師の呼称――《朧月》じゃなく、



本当の、やっとお前の本当の名を呼ぶことができる。




俺はこれから、何度でも、何度でも、お前の名を呼ぶだろう。





俺は胸に蠢くこの激情を諦めるつもりは一切無い。

お前を手放すつもりも、離れるつもりも一切無い。

俺は引き留め続けるだろう、お前の名前を呼んで。









だからお前も、俺の名を呼んでくれ。













*****




あれから、季節が巡る。




王都、ラングフォード邸。

質実剛健な造りをした邸宅の一角に、緑豊かな場所がある。一つの四阿(あずまや)を中心に、生い茂る瑞々しい木々に華憐な草花。決して派手さはないが、丁寧に手入れされた植物達は綺麗に咲き誇り、穏やかな空気を漂わせている。

グレンはその場所に音を立てぬように足を踏み入れる。木々の葉の間から木漏ぶ柔らかな陽光が、四阿で1人読書をする人物を包んでいる。後ろ姿しか見えぬその人物を目にしたグレンは、そっと目を細めた。


あの夜――。若干強引に腕に抱き上げ連れ去り、その足で向かったのは王都の自邸。

俺の保護下に入ったのだからと言い訳のような戯言で説き伏せて、自邸に招き入れた。一緒に暮らし始めた日々は決して穏やかな日々ばかりではなかった。困惑や不安を浮かべる表情はなかなか消えなかったし、自分のガサツな性格と粗暴な行動で怖がらせ、傷つけてしまった事も幾度とある。それでも、少しずつ、少しずつ、一進一退を繰り返しながら互いに歩み寄ってきた。




そして、手に入れたものがある――。





「エミリア」



その人物はグレンの声に気づき、ゆっくりと振り返る。

濃い灰色(チャコールグレー)の波打つ髪が動きとともに揺れ、宝石のような紫の瞳がグレンに向けられる。その瞳は驚くように一瞬大きく見開かれた。気配を消して歩く癖があるグレンに、背後から近づくといつも気づけない彼女。いつも突然現れるグレンに驚く彼女のその表情の変化が楽しくて、グレンは何度だって同じ事を繰り返してしまう。




いつも彼女は驚いた表情をした後に、ゆるりと目元を和ませるのだ――。






「はい、グレン様」






宝石のような綺麗な紫の瞳に映るのは、黒い髪に、黒い瞳をもつ――俺の姿。





エミリアは静かに微笑む。




――とても穏やかに、とても幸せそうに。









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― 新着の感想 ―
[一言] 久方ぶりの読み返し。静かで大好きな物語です。
[良い点] なんと言っても、ハッピーエンドでいい。 印象深く忘れられない作品ですが、評価がないことに自分がびっくりした。ID取得前だったかもしれません。 [気になる点] ハッピーエンドなんだけど、書…
[一言] 後半の文章酔っぱらいすぎだろ
2021/11/12 08:26 退会済み
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