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国士侠剣  作者: 赤月
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義殉徒花

 一度目のしくじりで豫譲の顔と声は露見した。なお彼が趙襄子を殺すことを諦めないとなると、彼は顔と声を変えなければならない。整形手術など当然ない時代である。豫譲は顔面に漆を塗り、すり潰した炭を飲んで病人に見せようとしたのである。顔面は被れ、声は潰れ、おそらく知り合いでも判別はつかぬだろうと豫譲は思った。だが、あくまで豫譲自身の判断である。万に一つの間違いもないよう、彼は市場で物乞いをして、趙襄子を討つための情報を集めつつ知り合いと会うのを待った。自分の変装がどの程度かを試すためである。

 しばらく、器を両手に腰を低くして病人を演じていると、そこに豫譲の妻が現れた。智伯から与えられた、美人の名高い彼女は良人(おっと)がこのような身になった今でもこれといって貧乏をしている様子はない。見た所、どこか裕福な商人の家にでも嫁いでいるようだった。

 豫譲は妻が近づいて来ると両膝をつき、手に持った器を両手で持って差し出し恵みを乞うた。彼女は、それがかつての良人だとは気付かずに持っていた銭をいくらか差し出したのである。

 豫譲が次に試した相手は飛燕である。周りに民家の少ない、少し寂れてはいるが土地は広い彼の家を訪ね、門をくぐった。そこで豫譲はさっきと同じように膝をつき、病人を装って恵みを請うのである。だが、彼はその何気ない仕草一つに何かを感じた。そして、君は豫譲かと問うのである。

 驚いたのは豫譲のほうだ。だが、飛燕が言うにはその根拠は彼の仕草だと言うので、豫譲は安心した。少なくとも、何気ない仕草で旧知の友に気付かれたからと言って、それが趙襄子にまで気付かれるとは限らない。

「苦労したようだが、大分病は重いのか?」

 飛燕は豫譲を家に招き入れると、取り敢えずはと言って酒を差し出した。座らせると盃を自分と豫譲の前に置き、注いだのである。

「いや、元気だ。炭と漆で病人を装っているだけだ。流石に君には気付かれたが、これであれば君以外には分かることはあるまい」

 これに、飛燕は不思議そうな顔をするのである。いや、当然だろうか。

「俺は一度、趙襄子を討ち損じた。その際に趙襄子や家臣に顔を覚えられてしまったのでこのようなことをした」

 炭で潰した声で、彼はいつもの調子で語り始める。威風堂々と、思想の異なる二人の国主から国士と見込まれたその舌で。

「しかし、君のその方法は想像を絶する苦労を伴うぞ。君にはせっかく才があるのだから、その才で趙襄子に取り入ればいずれ側近となろう。その路を考えなかったのか?」

「趙襄子本人にそう誘われたが、断った。確かにそうすればたやすかろうが、それでは俺の生き方に反する。俺はあくまで智伯の家臣であり国士として趙襄子を斬らねばならないのだ」

 不可能だ、と飛燕は止める。そうすることの無意味さを知りつつ。

「事に挑むに際して不可能などない。不可能とは俺の命が尽きたまさにその瞬間から始まるものだ」

 飛燕は、それきり説得を諦めた。無言で、まったく別世界の生き物を眺めるような虚ろな眼差しで呆然としている飛燕に向かって合掌すると、彼の家を去っていった。

 それから豫譲は、ひたすら趙襄子の日ごろの外出予定を徹底的に探った。多少うろついていても、所詮は物乞いである。その上彼はその際剣を持ち歩いていなかったので、万が一趙襄子の側近に勘ぐられてもただの浮浪者だと認識されて終わりである。

 そうしている間に、豫譲はついに決定的な情報を掴んだのである。趙襄子の外出の道筋と、具体的な時間帯をある筋(・・・)から掴んだのである。

 豫譲はその日、朝、まだ視界がはっきりとしないほど早くからその道筋の一つにある橋の下に宝剣を携えて潜んだのである。やがて日が昇り、馬車の車輪が地を踏む音が豫譲の耳に届いた。今度は殺気を直接趙襄子に気付かれる心配はない。趙襄子が豫譲の殺気に気付く頃はもう豫譲は宝剣を抜いて趙襄子の前に飛びだしているのだから。

 だが、趙襄子の馬車が橋の前に掛かったとき、突然馬車馬が激しくいななきだした。御者が手綱を引いてなだめようとするが、一向に馬は収まらない。趙襄子はこれに、流石に普通ではないと思いだし、突き従っていた兵に命じて橋の周囲を調べさせた。

 そうなれば、豫譲が潜んでいる端の下も当然例外ではない。鎧で見を固め矛を持った兵士達が何人も、続々と駆けつけて来てあっという間に豫譲を囲んだ。いかに豫譲が腕が立つといっても、これだけの兵士に囲まれてはもう成すすべがない。

 おそらく、いかに趙襄子が士を愛するといっても二度目まで見逃すような度量は無いだろう。そして、今この人相の豫譲がここで数名の兵士を巻き込んで斬り死にしても、所詮はただの錯乱者の奇行で済まされてしまう。喉元に矛の刃を当てられた豫譲は、反抗せずに大人しく兵士達のなすまま、趙襄子の元へ連行されていった。

 顔はかぶれて人相がはっきりせず、薄汚れていて浮浪者にしか見えない。その浮浪者が、何者か、との趙襄子の問いに対して智伯の家臣、豫譲であると答えたのだから、趙襄子はその変貌ぶりに何か、背筋に氷を当てられたような恐怖を感じた。それでいて、そこまで豫譲を突き動かした原動力に対して自ら、貴方を討つためだと一言で済ませるのだから、趙襄子も飛燕よろしく、豫譲を別世界の生き物を見ているような錯覚に陥った。

「貴方は、かつて范と中行にも仕えたそうですね。ですが、その仇に仕えその仇の仇を討つために顔まで変えたというのですか?」

「あの愚者共はこの俺に対して凡人という評価しか与えなかった。凡人の値札しか付けなかった者に対して国士格の働きをしてやる必要などありません。それも、立身出世にも繋がらないのですから。私が国士として仕えるのは、初めて私を国士として認めた智伯様一人だ」

 趙襄子は、手を打って豫譲を称賛する。

「見上げた心意気ですが、流石に私も二度目はありません。智伯への義理は十分立てさせてあげたことですし、これ以上の度量を見せて次を与えれば、それもう寛大ではなく愚です」

 その言葉と同時、剣を持った側近が剣を抜く。一度豫譲を救った趙襄子自身の命令である。もう彼を救う者は一人もない。それを悟っているので、豫譲もじたばたしない。いや、普段の豫譲を見ていれば彼をどんな状況に放り込めばじたばたするのかも分かりにくいが。

「分かっております。私を一度放免しただけで、天下の人々は貴方を盟主とほめたたえていますし、私も僅かとはいえ名を響かせて死ぬことが出来ます」

「潔し。ちなみに、何か言い残すことはありますか? 私の命は差し上げることは出来ませんが、私に可能なことならば貴方の願いを叶えてあげることも出来るかもしれませんよ」

 勿論、趙襄子はなんでもかんでも聞いてやるほどのつもりはない。家族を養えなどと言われたならば、当然断る。せいぜい死体の始末程度に考えていたし、そしてまた豫譲が何を願うかにも興味が会った。

「では、貴方の上衣をいただきたい」

 そんなものを貰ってどうするのだろうかと考えたが、趙襄子は取り敢えず替えの上衣を侍従に言って取り出させ、手に取った。豫譲は趙襄子がそれを持って近づいてくる時に斬りかかろうと算段し、最後の機会を作ろうとしたのである。

「ですが、今から死ぬ貴方がこのようなものをどうするつもりですか?」

 だが、それはあまりにも淡い希望、短絡的で浅はかな考えだった。上衣を放り投げて、豫譲が斬りかかっても絶対に刃が届かない位置に佇む趙襄子を眺めつつ飛んでくる上衣を受け取り、豫譲は言う。

「これを斬り、気持ちだけの仇討ちでも果たすことが出来れば死ぬに当たり悔いは残りません」

 ハァッ、と真上に投げられた上衣が風にあおられてばさりと膨らむ。その上衣を、智伯から与えられた豫譲の宝剣が勢いよく斬り裂く。

「これで悔いはありませんか?」

 おそらく、趙襄子は豫譲が上衣を求めた裏の意図を読み取っていたのだろう。得意げに、しかしそれを豫譲以外には悟られぬようにしたたかに嗤う趙襄子を見て、豫譲はそれでも爽やかに嗤い返す。

「はい、あの世で智伯に会ってもなんら後ろめたさは感じません」

 言うなり、豫譲の宝剣が豫譲の臓腑を貫く。突然の行動に騒然となった側近や兵士達を余所に、趙襄子は一人、あくまで嗤いながらそれを眺めていた。

「豫譲は智伯を生かすことを知らず、智伯は豫譲を生かすことを知らず。智伯が豫譲を、豫譲が智伯を殺した」

 後日、義士として豫譲を丁重に葬った趙襄子は、そう呟いたと言う。智伯の旧領の者は勿論の事、趙襄子の領内の人々まで、心ある人はこの義挙に涙し、その死を悼んだそうだ。

 この話は、歴史的に見れば晋陽の戦いの後日談としての価値すらない、ただの一刺客の話だ。刺客といえど時として歴史を変える場合もあるが、その大半は名も残らずに歴史の激流の中で零れ堕ちてゆく、徒花(あだばな)にすらなれぬ存在だ。史記『列伝』は、国家の存亡や王侯将相(おうこうしょうしょう)の偉業の影に隠れた、豫譲のような不遇の人物についても多く扱っている。

 どうも、ここまで「国士侠剣」を読んで下さった方、ありがとうございました。

 自己紹介遅れましたが、十日月と申します。中国の歴史大好きで、小説も中国の、史記の話を書いてます。今回は豫譲でしたが、次は戦国時代の趙奢の話を書くつもりです。

 似た用な内容を活動報告にも書いてますが、今俺逆お気に入り0の状態でこの活動報告見てるひといるのかなってこと感じでこっちにも同じようなことを書きました。


 ちなみに、取り敢えずの目標としてはいずれ「秦の昭襄王」を主人公にした小説を長編で書くことです。言ってしまえば豫譲や趙奢はその準備に過ぎない訳で。

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