19:はじめての気持ち
初めて力の制御ができた、翌日――
「レティシア様!」
切羽詰まったようなクレアの声で、レティシアは目覚めた。寝起きのぼんやりとした視界に、クレアのほっとした顔がある。
彼女越しに見える窓から、朝陽が差し込んでいた。
「……!」
微睡んでいたレティシアは一瞬で覚醒した。部屋はすっかり明るくなっている。
「良かったぁ……部屋に来たらまだお目覚めになっていなかったので、驚いちゃいました。おはようございます」
クレアが一歩引いて、ぺこりと頭を下げる。
「おはようございます。すみません。昨日の訓練の疲れのせいかもしれません」
昨日の訓練は、思ったよりレティシアの身体に負担をかけていたらしい。
夜は早めに寝たのに、夢も見ないで眠り通してしまった。寝過ごすなんて初めてのことだ。思わず動揺してしまう。
「世間様ではこの時間に起きるのが普通ですよ。レティシア様は普段はいつ起きられるんですか?」
クレアは朝の準備を手伝いつつ、そんなことを聞いてきた。そういえば、一度も彼女に起床時間を伝えたことがない。
「えっと、夜明け前です。実家では仕事をしなくてはいけなかったので」
素直に答えたら、クレアはしかめ面になり、髪を結う手を止めた。
「レティシア様、ここではそんな心配しなくていいですから。いつも今日と同じ時間でいいくらいです。酷いおうちのことなんて、忘れちゃった方がいいですよ。……簡単には、いかないと思いますけど」
クレアは手を動かし始めたけれど、口調はいつもより刺々しい。
「……頑張ってみます」
忘れようと思ってすぐ忘れられるのなら、きっとこんなに苦しい気持ちにはならない。ただ、そう言ってくれるクレアの心遣いが嬉しかった。
「でも、早起きはしないと」
「なんでですか?」
「だって公爵様と……」
レティシアの言葉が、中途半端なところで途切れる。
あの朝の時間を、何と形容したらいいのか迷ったのだ。毎朝欠かさず話をしているけれど、約束をしているわけではない。話だけの日もあれば、庭や温室を見に行く日もある。
それを一言で纏める上手い言葉が見つからなかった。
なぜか鼓動が早くなり、レティシアは俯く。
「え……初日の一回だけじゃなかったんですか? 早朝にサイラス様と何してるんですか? そこで切られると気になります!」
クレアが勢い良く食い付いてきたので、何でもないと言って誤魔化すことができなくなってしまう。
「……毎朝、会ってますから…………」
結局、そんな曖昧な言葉しか出てこなかった。クレアはまた手を止める。ドレッサーを通して見えている彼女の頬は、林檎のように赤く染まっていた。
「それってその、あ、あ、逢い引き……っ!?」
「ち、違います!!」
クレアのとんでもない勘違いを慌てて、全力で否定する。
「その、お互い起きているから、少し歩きながら話すくらい………………です」
そう言いながら、胸の奥がわずかにざわついた。ただ話しているだけなのに、それを他人に説明しようとすると、途端に落ち着かなくなる。
この変化に、自分が一番戸惑っているかもしれない。
その回答で納得してくれたらしく、ようやくクレアは髪結いを再開してくれた。
「そ、そうですか。良かった。レティシア様がサイラス様に騙されてしまったのかと、私とても心配したんです!」
クレアの声にはかつてないくらいの熱が籠っている。
「騙す……?」
「はい。サイラス様は婚約者もいないですし、ご令嬢の皆様方からとってもおモテになるんです。でも、途中でみんな現実に戻っちゃうんですよ」
人柄も良く、若くして公爵の身分を持っていて、婚約者なしのフリーとくれば、きっと令嬢たちは放っておかないだろう。そこまではレティシアにもわかる。
だけどクレアの言葉の後半が読み解けなくて、レティシアは首を傾げた。
「魔法の話は止まらないし、妙な研究ばっかりしてるし。それで、寄ってきた女性はみんな逃げます。逃げないのはレティシア様と、サイラス様の妹君くらいですよ」
クレアは苦笑いで教えてくれる。レティシアが思い出したのは、子供のようにキラキラと、瞳を輝かせていたサイラスの姿。
(そういうところも、素敵な方だと思うけど……)
考え方は人それぞれだろうし、あまり踏み込んで聞くのはやめておいた。
朝食の席に、やっぱりサイラスはいなかった。
朝食どころかこのダイニングで彼が食事をしているところを未だに見たことがないので、当たり前といえば当たり前なのだけれど。
昨日までと違って、今朝は何となく物足りない気持ちを覚えていた。
朝起きた後、サイラスと話すことはもうレティシアの日常の一部になっていた。
それがないことで収まりが悪いような、うまく言葉にできないモヤモヤした気持ちが、心で渦を巻いていた。
「公爵様は来ないのですよね?」
一応確認してみても、当たり前のようにクレアは頷いた。
「はい。……もしかして、お会いしたいですか?」
そう問われて、はっとした。
レティシアの中に澱のように溜まっている、モヤモヤした気持ちの名前は――
(会いたい。寂しい……?)
心の中で呟いてみた瞬間、どきりと心臓が跳ねた。
いつの間にか、こんなにも彼の存在は大きくなっていた。その事実から目を逸らすように、考えることをやめる。
「……約束はしていないですけど、今朝のことを謝りたいんです」
この気持ちを素直に告げることができなくて、取り繕った。言った言葉だって嘘じゃない、レティシアの気持ちのひとつだ。ただ全部言わないだけ。
ちらっとクレアの様子を確認すると、珍しく難しい顔をしていた。
「今はお会いするのは難しいですね……。もしお話されるのなら、午後、いつもの研究の時間が良いと思います」
クレアの表情や、即答したことを考えると、公爵としての仕事中か何かなのかもしれない。
レティシアはそれ以上追及せず、表向きはクレアに頷いてみせた。
午後まで待てばいいだけだと、頭ではわかっている。けれど胸の奥のざわめきは、なかなか収まってくれなかった。




