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道化師は泣き、女王は笑う  作者: Mel


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33 名もなき語り部たち

 残された民衆は、己の手で国を治めると言い出した。

「王亡き今、この国は民のものだ」と。

 中途半端に破壊された堤防もやがて徹底的に崩され、美しき蒼河は再び民のもとへと流れ戻った。


 しかし、不安を訴える者も少なくはなかったという。

 いっときは狂乱に呑まれたとはいえ、あんなことは本意ではなかったと。

 あの空気に迎合しなければ、嬲られるのは自分だったかもしれないから仕方がなく続いただけだ、と。

 堤防とて、不満はあれど必要なものだったと。声を潜めて語られた。

 一部の暴徒の仕業に過ぎぬと弁明する者もあったが、中心にいたはずの農民は、いつしか姿を消していた。


 血みどろの革命を起こした民衆など、受け入れられるはずもない。

 多くの国々がそう言って目を背ける中で、唯一、聖国だけが違った。

 彼らの受け入れを正式に表明したのである。

「望む者は、騎士団とともに聖国に移り住むがいい」と。

 

 それが誰の尽力によるものか。果たして、どれほどの者が気づいただろうか。

 ――やはり、見捨てきれなかったのだ。

 民衆に焼かれた女王は、最期の最期まで、王としての責務を果たしていた。


 

 そして、ほとぼりが冷めた頃――。

 城に身を潜めていた道化師はそっと抜け出した折、ひとりの女の亡骸を見つけた。

 一座に密命を託したあの侍女が、裏庭の池の畔で、静かに命を絶っていたのだ。

 喉元に突き立てられた短剣は、彼女が本懐を成し遂げたことを何よりも雄弁に物語っていた。


 最初から最後まで、すべて彼女たちの計画だったのだとしたら。

 ……道化師が女王を愛してしまうことも、織り込まれていたのだろうか。

 

 

 

 ほどなくして。


 女王が焔に包まれたあの日を境に空は涙を流し続け、その雨は、数百年に一度と謳われる豪雨へと姿を変えた。蒼河の上流に築かれていた水門が、ついに決壊するほどの。

 

 下流にあるのは、三方を山に囲まれた、かつての王都。

 堤防に守られていたはずのその国は、今や無防備な更地地帯。

 新たな旗を掲げていた民たちは、愛する蒼河によって城も、家も、未来さえも、ことごとく呑み込まれたという。


 母なる河は、すべてを沈めた。

 母なる河は、すべてを洗い流した。


 すべては、かつての王の血とともに。

 

 

 ………………


 …………


 ……



 木組みの梁が支える酒場の片隅。

 酔客たちのざわめきの中、ひとりの吟遊詩人が竪琴を抱え、清らかな声で歌っていた。


「彼の堤は 民を守る盾となり

 王冠を戴く女王は その盾の前に立ち尽くす

 嗚呼 いつしか愚者は忘れ

 その盾に石を投げつけた

 それでも女王は微笑みて

 己を焼く焔の中 なおも民を見つめ続けた」


 哀愁を帯びた旋律は、次第に酔いも醒めるほど、厳かに場を支配していった。

 沈黙の中、ふと若い旅人が首を傾げる。


「……それって、本当の話なのか? たしかにどこかで国が水没したって話は聞いたけど……そんな馬鹿な話、あるのか?」

「そんな国の女王なんて大したもんじゃないだろうさ。滅びるべくして滅びたんだろ」

「……さあ、それはどうだろうな」


 カウンターに佇む料理人が、鍋をかき回しながら、苦く笑った。


「そんな馬鹿な国があるとは思いたくねぇもんだがな。――もし、そんな女王様が本当にいたってんなら……俺は、天国でうまいもんをたっぷり食ってることだけを祈ってるよ」


 詩は夜更けまで続き、やがて民のあいだに「亡国に導いた女王」の詩が、語り継がれるようになっていった。

 


 *

 


 陽が傾き、人々が帰路を急ぎ始める頃。

 広場の一角に、小さな輪ができていた。


 その中央で、ひとりの曲芸師が三本の木の棒を巧みに操っていた。

 空高く放り上げ、軽やかに手の甲や肩で受け止める妙技に、子どもたちは歓声を上げ、大人たちも足を止める。


「さあさあ、お立ち会い。今日の演目は――『民の、民による、民のための断罪劇』!」


 一本の棒を地面に突き立て、それが「玉座」だと高らかに宣言する。


「かつて、この玉座の上には高貴なお方が鎮座しておりました。遠く下々を見下ろし、こんなふうに――ほら!」


 曲芸師は棒の上に片足で立ち、得意げに顎を上げてみせる。

 観客は嘆息し、子どもたちの笑い声が響いた。


「しかし――」


 地面に降り立った曲芸師は、残る二本の棒を高く投げ、玉座にぶつける。

 ガシャン、と音を立てて、玉座はあっけなく崩れ落ちた。


「時は流れ、民の声が高まり……とうとうお偉い方も転げ落ちた、というわけです!」


 三本の棒を拾い上げ、空中に投げては掴み、また投げる。

 その動きが徐々に速くなると、喝采と笑いが広場に広がっていく。

 曲芸師は、一本の棒を空高く放った。


「……ですが、皆様。どうかお忘れなきよう。盛り上がって棒を投げつけたその手に――いつか、別の棒が返ってくるかもしれません」


 ひとつ、ふたつと棒を受け取る。

 最後の一本は、彼の手に当たり、するりと落ちた。

 曲芸師は軽く肩を竦め、悪戯めいた笑みを浮かべる。


「気がつけば誰よりも熱狂したはいいものの、すべてを失った後だった。……なんて、ね」


 静まり返る中、曲芸師は地に落ちた棒を拾い上げ、崩れた玉座を組み直す。

 そして、深々と礼をした。


 ぱちぱち、とまばらだった拍手が次第に大きくなる。


 その輪の外。

 年若い娘がひとり、冷ややかな目線を送っていた。


「……こんな私のことですら逃がしてくださるなんて、本当に馬鹿な人。私たちのことなど捨て置いて、さっさと自分が逃げてしまえば良かったのに……」


 風の中に紛れるような、小さな声だった。

 誰に向けたものでもない。

 ただ、己の胸の奥でずっと燻っていた悔恨にすぎなかった。


 

 * 


 

 歌姫の舞台が盛況のうちに幕を下ろした、静寂の楽屋。

 座長、歌姫、そして姿をくらましていた道化師が薄明かりの下に座していた。


「……あんたも、俺と同じだったんだな」

 

 ぽつりと呟く道化師の言葉に、座長は苦悶の表情を浮かべて頷く。

 彼はかつて、前王の友としてその孤独を慰め――そして産まれたばかりの歌姫を密かに託されたのだという。


 この血みどろの政争に巻き込まれることがないように。

 姉はもはや手遅れだが、この娘だけは庶民として幸せに生きてほしいと、そう願われたそうだ。


 だが、それを許さなかった者がいた。

 あの侍女である。

 彼女はあの馬車の中で、歌姫にすべてを暴露したようだ。


『貴女の姉たる御方がどれほど苦しんでおられるか。知らぬまま、のうのうと生きていくおつもりですか』


 女王は彼女を巻き込むことを望んではいなかった。侍女の暴走だったに違いない。

 だが歌姫は知ってしまった以上、目を背けられなかった。女王を救わんと奔走し、聖国へ赴き、幾度もの交渉を重ね――処刑の日も、火刑台へ上がる覚悟を決めていたという。


「……あたしは、本気だったのよ」


 歌姫は唇を噛み、涙ながらに声を震わせた。


「姉さまを救うためなら、どんなことだってするつもりだったのに……それなのに!」

「馬鹿を言うな。……陛下が真に願っていたのは、死だ。国を見限ったあの方は、ただ死ぬことを望んでいた……」

「どうして……!」


 言葉を失った歌姫を慰めるように座長がそっと肩を抱く。道化師はその光景を無言のまま見つめていた。

 歌姫の嘆きを一身に受け止めて、座長は深く息を吐き、小さく首を振る。


「……死は、時に救いでもある。少なくとも、陛下はそれを知っていた」

「それならどうしてあたしを巻き込んだのよ……! 知らなければ、こんな思いはしなくて済んだのに!」

「陛下だってあいつの娘だ、本気で救って差し上げたかったんだ……! だが、万が一にでもお前に何かあればと、土壇場で日和ってしまった俺の弱さを許してくれ……」


 血の繋がらぬ親子は、互いを抱きしめ合い涙を流している。

 それは悲劇の終幕を飾る美しい場面であったが、道化師の胸に残されたものは、ただ虚しさだけだった。


 

 *


 

 時は流れ、とある村の祭りの日。


 賑わいに満ちた広場の片隅に、白粉を塗ったひとりの道化師が立つ。

 観衆の期待を一身に浴びながら、彼はにこりと笑い、両手を広げて高らかに宣言した。


「さあ皆さま。今宵はひとつ――美しき女王と、愚かなる者の物語を!」


 語られるのは、国に縛られた一人の女王と、彼女を燃やし尽くした者たちの記憶。

 哀しみと怒り、そして、わずかな優しさに彩られた滅びの寓話である。


「……こうして愚かなる者たちは流され、賢き者たちは聖なる国の庇護に入りました。されど、はたして愚者とは誰だったのでしょうか? ――わたくしには分かりかねますが、ただひとつ。雲の上より、今もなおこの地を見下ろす静かな瞳があると……信じたいものですね」


 語りは静かに終わりを迎え、観客は物語に酔いしれた。

 笑い、涙し、そして、惜しみない拍手が広がっていく。


 喝采に包まれる中、深々と一礼した道化師の頬には――。

 かつてはなかった紅の涙が、ひとすじ。色濃く彩られていた。


 ……だって、一生分の涙を流し尽くしてしまったから。

 かの女王に捧げるはずだった、決して消えない想いそのものを、この身に刻みつけたかった。


 語り継ぐ者として。

 愛に殉じることも出来なかった、愚かなひとりの男として。



「さて……次は、どの国を巡りましょうか。なにせ生涯をかけて語り継がねばなりませんからね」


 本当に、これ以上にないほどの大役を仰せつかってしまった。

 後を追えればどれほど楽だったことか。それすら許してくれないのだから、最後まで突き放されたような気分だ。


「……ああ、聖国にも一度は行ってみましょうか。かの地にはお世話になった方々がいらっしゃいますから。一緒にご挨拶に行きたいと思っていたのですよ」


 胸元のチェーンを手繰り、銀色の小さな筒にそっと口付けを落とす。

 そこには、彼が愛した人のすべてが、確かに在った。



 ふと、道化師は空を仰ぐ。


 晴れ渡る蒼天の彼方、ひと羽の白い鳩が舞い――やがて光に溶けるように消えていった。


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