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道化師は泣き、女王は笑う  作者: Mel


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29 最後の謁見

 冷え切った空気が充満する地下牢。

 窓はなく、差し入れられるのはカビの浮いたパンが一切れ。

 淀んだ水で落とした白粉の痕はくすみ、荒れた肌とともに心までじわじわと蝕まれていく。

 時の感覚すら、もはや曖昧だった。


 ――最初は演技なのだと思った。

 あまり褒められた方法ではないが、道化師を強く叱責することで、民衆への見せしめとするための。

 だから二、三日もすれば女王自ら迎えに来ると、高をくくっていたのだ。


『……お前には悪いことをしたな。だが、これでしばらくは民も貴族連中も大人しくすることだろう』


 そんなふうに、また居室で寝床を共にするのだと。

 そして寝物語を語る中で、女王は自分の隣で心穏やかに眠られるのだと。


 ――だが、どれだけ時間が経っても女王はおろか、誰一人釈放を報せには来なかった。

 牢番は無口で、こちらが何を言おうとも石像のように応じない。

 このままここで朽ちるのではないか、という不安だけが夜毎に重さを増していく。

 

 ――演技ではないのならば。どうして女王は自分を切り捨てたのだろうか。

 

 無遠慮に踏み込み過ぎたのか。それともやはり、あの夜の言葉が気に障ったのか。

 考えても答えは霧の中。それでも不思議と憎しみは湧かなかった。

 ただ、ただ――会いたかった。


 指先で、床に敷かれた藁の感触を繰り返し確かめる。

 あの時のものと同じだ。

 孤児だった自分が、藁の上で雑な芸を披露しては、欠けたお椀に銅貨を受けていた日々と。


 大雨の夜に座長に拾われ、そこから懸命に芸を磨き、ついに仕えるべき主を見つけたと思ったのに――。

 結局、自分はただの道化だったのか。


 ……いや。それでも、あの人の傍にいられたのなら。

 どれだけ虚仮にされようとも、あの冷たい背を、せめてこの手で支えてやりたかった。


 そうして、どれほどの時が流れたか。

 ――階段の奥、二つの足音が響いた。


 道化師ははっと顔を上げる。

 もしや、陛下ではないのか――そう思わせるには十分すぎる沈黙を破り、牢番が誰かに言った。


「五分が限界だ」

 

 そして彼は、足音と共に去っていく。

 代わりに鉄格子に手をかけたのは女王――ではなく、彼女の面影を宿した歌姫だった。


「――ハハッ、ひでえ有様だな。流石のお前も、牢獄暮らしは堪えるか」


 低く響いたのは、懐かしくも荒々しい座長の声。

 道化師も思わず鉄柵に縋りつく。

 その手の上から、白く細い指がそっと重ねられた。歌姫――いや、今は違う何かを背負った女が、そこにいた。


「……どうしてあんたたちがここに? まさか恩赦でも下りたのか?」


 湧き上がる希望とともに心臓が早鐘を打つ。だが歌姫は、少し困ったように笑みを浮かべただけだった。


「ごめんなさい、そうじゃないの。……まったく、あれだけ握らせたのに、五分だけなんてひどい話よね!」

「文句は後だ。時間がねぇ」


 座長が手短に切り出した言葉に、道化師は眉をひそめる。彼の口から紡がれる内容は、どれも信じがたいものばかりだった。


「この国は、もうじき民衆の蜂起によって王政が終わる。貴族院は解体され、貴族もろとも――女王陛下も囚われる。そして……お前は釈放されるはずだ」

「……蜂起? 王政が終わる? 陛下が囚われるって……冗談だろ?」


 理解が追いつかない。

 言葉だけが空回りする中、座長は表情ひとつ変えず、さらに続けた。


「本気だ。陛下は火刑に処される。……だが、そこまでが計画だ。間際で助ける。聖国が動く段取りになっているんだ」

「ふざけるな! なんでそんな回りくどいやり方を――!」


 怒声をあげる道化師を、今度は歌姫がそっと制した。


「……姉さまは、この国にはもう王は要らないとお考えなのよ。でも、貴族たちも討たないと、また傀儡が立てられるだけだって。だからこそ、民が自ら立ち上がる必要があると言ったのよ」


 その理屈は、まっすぐに道化師の胸を貫いた。

 国を見捨てなかった彼女らしい――あまりにも危うく、あまりにも酷な選択だった。

 まさか、そのために自ら――焼かれるというのか。


「……安心して。姉さまとあたしが入れ替わるから。貴方も、危険が及ばないよう遠ざけられただけよ」

「入れ替わる、だと? そんなこと、できるわけがないだろう!」

「もう手はずは整ってるの! 近衛騎士団だって動いているし、聖国も兵を送ってくれているの。民衆を抑えに必ず来るから、それまでの辛抱よ。……大丈夫、あたしは火の輪くぐりだってやったっことあるじゃない?」

「何を馬鹿な……! おい、アンタは……本当にそれを、ぜんぶ承知の上でやらせるつもりなのか? 死んじまうかもしれないんだぞ……!」

「それは――」


 苦悶の色を浮かべた座長がようやく口を開こうとした、その時――。

 無情にも、階段の上から足音が響いた。牢番が戻ってきたのだ。


「時間だ。とっとと帰れ」

「もう少しいいじゃない! お金なら……!」

「それならまた出直すことだな。こっちだって首がかかってるんだ」


 無情な命令に従い、座長と歌姫は引き剥がされるように背を向ける。

 それでも、座長は最後に振り返った。


「いいか、腐るんじゃねえぞ! 必ず出られるからな!」


 その言葉が、がらんどうの地下室に響き渡った。

 やがて足音も消え、残されたのは、呆然と佇む道化師と、胡乱な目を向ける牢番だけ。


 ――一体、何が起こるというのか。

 ――入れ替わるなどと言っていたが、陛下も歌姫も本当に無事で済むのだろうか。


 鉄格子から離れるよう命じられ、道化師は諦めたように藁の上に身体を投げ出した。けれども心だけはなおも乱れたまま、思考も纏まらない。


「……まあ、この国も潮時なんだろうな」


 しばらくして、牢番が椅子に凭れたまま、ぼそりと漏らした。それは独り言とも、誰に聞かせるでもない空虚な響きだった。

 

「そんなに、民衆の間に不満が高まっていたのでしょうか?」

「……各地で暴動が起きてるらしい。最初は烏合の衆と侮られてたが、鎮圧に向かった貴族騎士が――殺されたそうだ」

「どうして、そこまで……。こう言っては何ですが、彼らにそこまでの気構えがあったとは……到底思えません」


 以前、城下に足を運んだ時は暴動に発展するような気配はなかった。

 不平不満こそ口にしていたが、それでも均衡は保たれていた。

 過激派と呼ばれる連中ですら、酒場でくだを巻くばかりだったはずなのに――。

 

「それを、お前が言うのか? ……俺は現場を見たわけじゃねぇが、お前が捕まった日の話は聞いてる。それまでは、女王に同情する声も確かにあった。けどよ。わざわざ金集めてパレードなんぞやって、道化の芸すら笑えねぇ余裕のなさを晒して、あまつさえ罵倒まで飛ばしたってなりゃ……民も悟るさ。――もう、この国に未来はねぇってな」


 ――まさか、自分の芝居が導火線だったのか。

 

 吟遊詩人が煽った不満の種を、民衆は燻らせ続けていた。

 そんな彼らの前で――道化師が、あからさまに辱められた。

 積もり積もった怒りは、その瞬間についに火を噴いたのだ。 自分の芝居が、それを引き起こすきっかけになったのだと。いまさらながら、ようやく気付いた。


「俺は心中する気はねぇよ。時が来たら、とっとと逃げるさ」

「……その時は、餞別代わりにでも鍵を置いていってくださいませんか?」


 気の抜けた冗談に牢番も思わず笑い、手元の鍵束をじゃらりと鳴らした。


「ここにいるのはもうお前一人だ。あとは毒を盛るよう命じられた女中やら、着服の罪を擦りつけられた会計役やらがここに追いやられたが……。たまにいるんだよな、忽然と消える奴が。……果たしてお前はどうなるのやら」


 牢番はそれだけ言い残し、目を閉じて沈思しはじめた。今後の身の振り方でも考えているのかもしれない。


 ――待つ間に、民は本当に決起するのか。

 この国の命運は、果たして決するのか。

 女王は、無事に助かるのか。

 歌姫は、本当にその身を投げ打つつもりなのか。


 そして――その時、自分は?

 


 不安は尽きないまま、ついに「その時」は訪れた。


 

 怒号と悲鳴が混じる地下階段。

 牢番はさっさと鍵束を放り投げ、一目散に逃げ去った。

 鉄の鍵は鈍く音を立て、床を転がったが、道化師はそれを拾おうとはしなかった。ただ座り込んだまま、ぼんやりと鍵を見つめていた。


 ――まだ、俺にはやるべきことがあるだろう?


 自問する暇もなく、やがて地下牢の静寂を打ち砕くように、入口から荒々しい足音と怒声が一斉に押し寄せた。


 階段を下りてきたのは、あれくれた男たちに囲まれた、一人の女。

 その顔には憔悴の色がにじんでいたが、気高さと威厳は決して失われてはいなかった。


 ――女王、だった。


 道化師と目が合った瞬間、彼女は信じられないというように、わずかに目を見開く。


「……なぜ、まだここにいる」


 その声は低く、わずかに震えていた。

 問いかけに、道化師はいつものように、とびきりの軽口で返す。


「わたくしの頭の中の花が、すっかり枯れ果ててしまいましてね。……水を注いでくれる方がいなければ、逃げることすら思いつかなかったのですよ」


 女王の顔が、ゆっくりと歪む。

 それは怒りでも侮蔑でもなかった。

 

 何を想っているのか――それは分からない。

 ただ、その表情は、ひどく人間らしいものだった。

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