28 運命の輪は、裏返る
女王が居室に戻らぬまま幾日もの時が過ぎた。
近衛兵に尋ねても、ただ無言で首を振るだけ。移住の支度を進める女医に聞いても、所在は教えられないという。侍女に確認しようにも、その彼女の姿さえも見つけられなかった。
――まさか、何かあったのでは?
不安がよぎったが、どうやら議会には顔を出しているらしい。道化師は、もはやその場への同席さえも禁じられたというのに。
「……何やったんだよ、お前。いよいよ飽きられちまったのか?」
行く宛てもなくふらふらと厨房へ向かうと、人参の皮を剥いていた料理人が、皮肉げな笑みを浮かべた。
寵愛を失った宮廷道化師――。
その噂はすでに王宮を駆け巡り、今ではどこを歩いても、嘲笑と憐憫の視線を浴びせられる始末だった。
「陛下の不興を買ってしまったようです。わたくしがいったい何をしたというのでしょう……よよよ……」
「お前が療養で呑気に寝てた間、暴徒への対策とやらで議会は荒れに荒れてたらしいぜ。陛下も誰かに八つ当たりしたくなる時期なんだろうよ」
「八つ当たりならいっそ構いませんが……。今や顔を合わせることすら叶わず……よよよよ……」
最後に女王と言葉を交わしたあの夜。鳥籠の鳥に、自らを重ねていたであろう彼女の、最後の問いかけ――。
きっとまた、答えを間違えたのだ。
けれども挽回の機会すら与えられないとはどういうことだろう。
自分だけでなく、女王もまた――道化師に、わずかながら心を許していたのではなかったのか。
それすらも、ただの思い上がりに過ぎなかったというのだろうか。
「……殺されかけたんだろ? 深入りするなって言ったのに、ほんと馬鹿な奴だよ。お前なんか遊びだよ、遊び」
「失敬な。……遊びですらありませんでしたよ」
「……おいおい。本気だったんなら頭の中がおめでた過ぎるだろ。まさか王配でもなるつもりだったのか? そんなの、この国ごと笑い者になるだろうが」
口ではそう言っていても、王配になろうなどと思ったことは一度もない。ただ、あの人の心を慰めたかっただけだ。
……たしかに。少しは己の価値を知らしめたいという思いはあった。あわよくばずっと傍にいられたら、などと夢想したこともある。
まさかそれを見透かされ、遠ざけられたとでもいうのだろうか?
「気まぐれと言えば――もうすぐわけの分からんパレードとやらがあるらしいな。興行のためだとかなんとか言って、また妙な税が課せられたよ。……俺の給金、半分になっちまったんだぜ」
「……それは奇妙ですね。わたくしは、陛下のへそくりで賄われると伺っていましたが」
「そうなのか? ……あの糞どもが。また陛下の名前を勝手に使って金を巻き上げやがったな」
料理人は呆れたように肩をすくめると、刻んだ人参をひとまとめにして、大鍋の中へと放り込んだ。
木のお玉でぐるぐると野菜煮込みをかき回せば、ふわりと芳ばしい香りが厨房に広がってゆく。
「……俺も、そろそろこの国からおさらばするかね。どうもきな臭い動きもあるみてぇだし」
「……と、申しますと?」
「暴動。郊外だけじゃ収まらず、城下の連中まで武器になりそうなものを集めてるんだそーだ。何かあれば俺たち城勤めにも飛び火しかねないだろ? 鍬で頭をかち割られるなんざ、ご免だぜ」
そんな状況でパレードなど――やはり止めたほうが良いのではないだろうか。
護衛はしっかりしているのか。
女王の身に危険は及ばないのか。
ぞわぞわと、鳥肌を伴った悪寒が背筋を這い上がる。
だが、忠言しようにも、女王と二人の時間を得ることなど今となっては難しいものだった。
議会の終わりを見計らって部屋の前で待ってみても、彼女はただちらりと目を向けるだけ。貴族たちに囲まれたその中では、さすがの道化師も声をかける余地などない。
明確に避けられている。けれど、なぜなのかが分からない。
機嫌を損ねたというのなら謝りたいのに。
それすら許されず、会話の機会もないままに。
――ついに、パレード当日の朝が訪れてしまった。
乾いた空に、空砲が鳴り響いた。
鼓笛隊の号令が高らかに響き渡り、華やかな楽の音が城下を彩る。
行列は威勢よく往来を進み、道の両脇には見物客がぎっしりと詰めかけていた。
笑顔を浮かべる者もいれば、険しい表情で眺める者もいる。その顔ぶれは、まさに今の民心を映す鏡のようだった。
広場の中央には特設の舞台が設けられ、先頭を行く御座車がそこで止まった。
簾の奥から、ちらちらと女王らしき姿が覗く。
それほど長い時間が経ったわけではないはずなのに、彼女を目にするのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
女王が公の場に姿を現すのは、なんと女王の御子の葬儀以来のことだという。当然、民の視線は鼓笛隊や踊り子たちではなく、その御座車に注がれていた。――だが、祝祭に満ちたはずの空気には張り詰めたものがあり、見えない緊張が満ちていた。
道化師はいつものように白塗りの化粧と縞模様の衣装をまとい、鼓笛隊に混じって奇妙な踊りを披露していた。
子どもたちが指をさして笑い、道化師もまた、にんまりと笑みを返す。その目は笑うことなく、じっと人波を観察していた。
警備体制は万全だった。兵士たちが等間隔に並び、不穏な動きを見せた住人は即座に連れ出される。そのたびに残された者たちは、兵士や御座車を睨みつけて口を閉ざす。
緊迫した空気を敏感に感じ取った道化師は、御座車の前へと躍り出た。
「お集まりの皆々様がた! 本日は、誠に目出度き日!」
道化師は高らかに声を上げ、大きく腕を広げる。
「飛蝗の脅威を退けた皆々様に、改めて敬意を表します! この偉大なる国に、栄光あれ――!」
観客に向かって深々と一礼すると、広場からは歓声が沸き起こった。
「わたくしも微力ながら奮闘いたしましたが……なんとまぁ、尻を齧られてしまいまして!」
そう言って、穴の空いた尻をふりふりと振って見せると、子どもたちを中心にどっと笑い声が広がる。
だがまだだ。――まだ、足りない。
鬱積した胸の内を晴らすには、もっと強烈な何かが必要だ。
民の不満を和らげるために女王が命じたのは、王家を嘲る即興劇。
――気は進まないが、やるしかない。
「ああ麗しき女王陛下! 本日は栄えある御催し、誠にありがとうございます!」
道化師は芝居がかった動作で額に手をやり、御座車を仰ぎ見る。その大仰な仕草に、民衆の笑いがじわりと広がっていく。
「さあ皆様、しかと御覧あれ! 王城の高貴なる方々が、今日も民のために血と汗を流しておいでですよ!」
叫びながら帽子を紙の冠に取り換え、間抜けな顔でぐるぐるとその場を回る。
「まずは我らがお貴族様だ!」
声を張ると同時にふらりと倒れ込み、懐から偽の金貨をばらまく。
「おっと、お疲れのようだ。昨夜も宴に明け暮れておられたのでしょう! だがご安心を、金貨は皆様の重税から賄われております! さあ拾え、酒の中から!」
民衆はどっと沸いた。
罵声と笑い声が交じり合い、これまで鬱積してきた不満が、あちこちで顔を覗かせはじめる。
「お次は我らが大臣殿! ……あれ? どこだ? おーい、いないぞ! 逃げたか? それとも毒にでもやられたか?」
ざわめきが一段と大きくなった。
――誰もが知っている。王城から、名のある者たちが、次々と姿を消していることを。
「まあ、よい。では最後に――我らが女王陛下!」
道化師は舞台の中央に進み出ると、ひときわ大袈裟に姿勢を正した。
目を細め、冷ややかに顎を上げる。その仕草は、誰が見ても女王をなぞったものだった。
そして、静かに語り出す。
「『民の声? 知ったことか。今日も美酒と香の薫りに包まれて、気ままに眠り、気ままに起きる日々。……なに? わが顔を拝みたいと申すか? 無礼な。そこの道化とでも戯れておれ』」
「――おやおや、わたくしをご指名とは! 陛下のためとあらば、火の中水の中――飛蝗の群れの中だって、泳いでみせましょう!」
「『私は、蒙昧なる連中の顔を見るだけで気分が悪くなるのだ。下賤の者の相手など、お前で十分であろう?』」
一人二役の即興劇。
皮肉と誇張に満ちたやり取りに、観客のあちこちから野次が飛ぶ。
手を叩く者、口笛を鳴らす者、拳を突き上げる者。
誰もがこの風刺劇に、溜め込んだ怒りと興奮とを重ね合わせていた。
そしてこの瞬間、確かに女王は――その姿を見せぬまま、道化師の滑稽な仮面を通して、人々に嘲られていた。
「さすがは偉大なる王家よ。蒼河を隔てるあの堤防のごとく、民の涙も怒声も、ことごとく堰き止めておいでだ!」
民の大いなる不満の象徴。――堤防までも引き合いに出せば、彼らの鬱積した怒りも多少は発散されるはずだ。
……これで女王から命じられた役目は果たした。
そう肩の荷を下ろしかけた、その時だった。
「……黙れ」
鋭い声が空気を裂いた。
御座車の簾がはらりと払いのけられ、そこに立ち上がったのは――女王、本人だった。
瞬間、歓声が凍りつく。
さっきまで声を上げていた民衆が一斉に息を呑み、水を打ったような沈黙が広がる。
道化師も慌てて紙冠を脱ぎ捨て、石畳の上にひれ伏した。
「貴様……この我を、王家を、ここまで愚弄するとはな……!」
その声は氷の刃のように広場を突き刺す。
張り詰めた沈黙のなか、女王を守る近衛兵がすばやく動いた。
両腕を後ろ手に捉えられ、地面に押し倒される。
戸惑いと恐怖がない交ぜになった民衆のざわめきが、波のように広場を揺らした。
「投獄せよ。この不敬の輩が、二度と陽の目を見ることがないように」
道化師の体が引きずられていく。
必死に地面を蹴り、懇願の声をあげる。
「陛下……! どうか、御慈悲を……!」
だが、女王の瞳には、道化師の姿すら映っていなかった。
「下賤の者が我が名を軽々しく呼ぶなど……なんと悍ましきことだ。……見よ! これが王に楯突いた者の末路だ。しかと胸に刻むがよい!」
女王が投げつけた扇が、鋭く道化師のこめかみを打つ。金の装飾が裂いた皮膚から、生ぬるい血がつうと頬を伝った。
太鼓の音も止み、風の音すら遠くなっていく。
ただ、引きずられる彼の姿だけが、重く人々の記憶に焼き付いた。
兵士たちの無言の威圧に、見物人は視線を逸らし、やがて観衆は解散させられる。
民衆の気を晴らすはずのパレードは、こうして幕を閉じた。
貴族たちはほくそ笑む。
――これでいい。民の怒りは女王へと向けられ、暴徒への抑圧にも都合よく働いた。
王家への信頼も、これで見事に潰えてくれただろう――と。
石と鉄に包まれた牢の世界。
道化師は、鉄格子の影の中でひとり呟いた。
「……陛下。わたくしを駒に使うとは、あまりにも人が悪うございます……」
ようやく気づいた女王の真意。
その答えを冷たい牢の中で噛み締めるには、あまりにも、苦く。重く。――遅すぎた。




