廿陸
先日、クロツキが運んできた手紙を読んでから、イツキの仕事が激化したらしい。
あれから四日。
アオイは、朝の菜園での収穫の時も、朝と夜の食事の時も、イツキと会えない日々が続いていた。
(いままで……夜はだめでも、朝は必ずいっしょに、ごはん……食べてたのにな)
自室でションボリと本を読んでいると、たまに窓の外に大きな影が過ることがある。
気がついて窓を開けると、挨拶をして以来頻繁にクロツキが入ってくるようになった。
屋敷の隣の馬場に行けばヨヅキがいるが、彼女はイツキが仕事のときは連れ立って行ってしまうから、滅多に会えない。
イサクも宣言どおりアサギリを連れてなにやら忙しくしており、ヤゲンもイツキに付き従って登城しており屋敷にはいない。
ユヅルは護衛で残ってくれているが、彼はそもそもアオイが一人のときに部屋に入ってくることはない。アオイがどれだけ言っても、頑なに入室を拒み、あまつさえ「主に殺されます」と真っ青な顔をして真面目な口調で言うものだから、アオイも早々に諦めた。今もきっと、戸口の外で立って侍っていることだろう。
だから、クロツキがこうやって遊びに来てくれることは純粋に嬉しかった。
今日も、窓辺に影が近づいてコツコツと叩く音が聞こえた瞬間、アオイは小走りで駆け寄り大きく開け放つ。
「クロツキさん、いらっしゃい、です。ごはん、食べますか?」
「カァー! クゥン」
アオイの伸ばした腕にずっしりとした体を乗せ、クロツキは嬉しそうに翼を広げて鳴く。
バサバサと巻き上がった風がアオイの長い黒髪を乱し、開きっぱなしにしていた本の頁を捲ってしまう。
腕のなかにクロツキを抱えつつ、長椅子に戻ったアオイは、苦笑しながら何ページも進んでしまった本を閉じた。
そして、傍らに用意していた干し果実の袋の口を開ける。
これは、イツキが忙しくなった初日の夜——クロツキが訪れ始めた最初の日に、イツキから「あげてもいいよ。ただし、少しだけね」と言われて渡された、クロツキのおやつだ。
「ちょっと、待っててくださいね……お皿に出します……って、ああっ、だめですよ、クロツキさん! 袋に頭突っ込んじゃ……!」
目を離した隙に突撃したクロツキから袋を取り上げ、アオイは慌てて中身を皿に出した。
イツキに言われたとおり、少しだけ。
若干不満そうな表情を見せるクロツキが、上目遣いで首を傾げるけれど、アオイはぐっと詰まってから首を振った。
「だ、だめ……です。イツキさんに、怒られちゃいます……」
「キュゥン?」
「だ、だめ……」
「カァーカァー!」
「うっ、うう……あ、あと、三つだけ、ですよ……?」
ウルウルとした瞳に押し負け、アオイは袋から三つだけ、干した果実を取り出して皿にのせた。
嬉しそうに食べ始めるクロツキの羽を、ゆっくりと撫でる。
「……イツキさんには、ないしょ、ですよ?」
唇に指を一本だけ立てると、アオイは小さく首を傾げてクロツキを見下ろした。
「カァーー!!」
まるで返事をするように翼を広げるクロツキに柔らかな笑みを見せ、アオイはまたクロツキを撫でることに専念するのだった。
おやつを食べ終わりアオイにじゃれつくクロツキの片脚で、丸い水晶が外の陽射しをキラリと反射した。
◇◇◇ ◇◇◇
アオイが部屋にいることにも飽き、日がな一日家庭菜園やら果樹園やらで過ごすようになって数日が過ぎた。
飽きたと言っても、本を読むことが嫌になったわけではない。アオイの部屋にどんどん増えていく本は、忙しくなったイツキが申し訳なさそうな顔で持ってきてくれるものだ。「アオイなら、こういうの好きかなって思ったんです」と言いながら差し出してくれる物語は、どれもおもしろいし、楽しい。
でも、隣にイツキがいてくれるから、本を読んでいても何をしていても楽しいのだということに、アオイは気がついてしまった。
ユヅルは相変わらず、部屋には入ってこない。けれど、アオイが外に出るといつも一歩離れたところにいてくれる。
転びそうになれば手を差し出してくれるし、会話をしたい時には相手にもなってくれる。
コクウ家の使用人たちは優しくて、アオイが歩いているとみんなが笑顔で挨拶をしてくれる。
たまには忙しそうに走り回っているイサクとアサギリに出会い、そうするとなにこれと世話を焼かれた。
祭祀礼館にいた時には考えられないことだ。
だが、忙しそうにしているイサクとアサギリの手を、アオイの世話で止めさせるのは心苦しい。
ユヅルは「まったく気にしなくていいんですよ」などとシレッと言っていたが、アオイは悩んだ。悩んだ末に、食事の時以外は屋敷の外に出ることにした。
敷地の外に出てしまうとイツキが真っ青な顔で飛んでくる気がしたので、あくまで建物の外にだけ。行くところと言えば、いままでと変わらず家庭菜園のある中庭か、果樹園のあたりだ。
朝餉のあとに、忙しそうなイサクたちをなんとか宥めてひとりで着替えをする。それから気合を入れて中庭へと向かうのだ。そうすると、ユヅルが野菜の収穫を手伝ってくれるし、お喋りもしてくれる。
小屋から出てきた朝告鳥がアオイに群がって卵を産み落とした時には目を剥いていたけれど、ユヅルはなぜか納得したように頷いていた。ちょっと謎だった。なにに納得したのだろう。
それからも、卵をもらって食堂に届けたり、野菜や果樹の様子を見たり、それなりに忙しくしていると、今までは部屋に飛んできていたクロツキが空からそのままアオイの元に降りてくるようになった。
「クロツキさん! おはよう、ございます。 今日も、お羽がツヤツヤで、かっこいい、です!」
にこにこと笑うアオイに向かって、クロツキが心なしか胸を膨らませて反らす。
クロツキの細い——普通の烏よりは太い片脚では、相変わらず透明な水晶が陽を受けてチカチカと光っている。
その様子を眺め下ろしたユヅルが、呆れた様子で溜め息を吐くのはもう、何度目か。
アオイもまた、不思議そうな顔をしてユヅルを見上げる。そのたびに、ユヅルは「なんでもありませんよ」と言う。
なにかを諦めたように遠くを見るユヅルの表情は、絶対に"なんでもない"ことないと、アオイは思うのだけれど。
「まあ……アオイ様なら、変なことしないでしょうし。イツキ様が一人で悶えるだけでしょうから、いいんじゃないですかね。……バレたときは知りませんけど」
悟ったように呟いたユヅルの言葉は、微塵もアオイに届きはしなかったが。
◇◇◇ ◇◇◇
皇王城の上階にある、皇太子専用の執務室内で、イツキは窓から大鴉を飛ばした。相棒としての仕事を終わらせたクロツキの脚から、本日二度目の水晶を受け取っていた。
機嫌良く飛んでいくクロツキは、すっかりアオイに懐いたようだった。その脚にはまた新しい水晶が括り付けられている。
「アオイのことを頼みましたよ、クロツキ」
定期的なクロツキの訪問を、アオイはなにも知らず嬉しそうに出迎えている。
彼の押しに負けて、毎回おやつを三つ多くあげている姿など、悶絶するほどに可愛らしい。
少し困るのは、アオイもまたクロツキに懐いていることだろうか。ユヅル以上に、アオイがクロツキと戯れる様子が、可愛いのに少しだけ——ほんの少し——いや、だいぶ——羨ましくもある。
イツキのそんな葛藤も、アオイは何も知らずにいる。
イツキは、それでいいと思っている。彼女は、何も知らなくて。
(なにも知らぬまま、アオイが心穏やかに過ごせれば、それで充分です)
祭祀礼館で虐げられていたアオイを引き取って、自身の心の赴くまま彼女を手に入れた。
あとは、彼女を縛る政略的な柵を全部取っ払って、名実ともに自分のそばにいられる口実を作るだけだ。
(そのために、慎重にコトを進めたかったのですが……)
そうも言っていられなくなった。
手のなかに収めた水晶をコロリと転がしながら、イツキは無表情のまま僅かに目を細めた。
水晶を持ったまま、拳を胸元へと押し当てる。
数日前、クロツキが持ち帰った書簡が、今も懐に入っている。
その内容を思い出すだに、イツキの頭に鈍い痛みが過る。
「なんっで今になって帰ってくるんですかね……」
イツキの思わずと言った独り言に、執務机に齧りついて筆を動かしていたサクが胡乱な視線を向けた。
「イツキ……おまえ。それは俺の台詞なんだが? おかげで計画は前倒しせざるを得なくなるわ、それでも仕事は溜まる一方だわ、なんにもいいことがねぇじゃねぇか」
サクの苦々しさを隠しもしない言葉に、イツキもウンウンと頷いた。
その途端に、サクから冷たい視線が飛んでくる。
だが、仕方ないではないか。
予期せぬ人物がいきなり帰ってくると言うのだから。
そのせいで仕事が増えた。
イツキの当主代理としての仕事が増えれば、サクだって皇太子の仕事が増える。そして、サクの仕事が増えれば、皇太子直属の護衛剣士である側近のイツキも付き添いでまた忙しくなる。完全に無限連鎖である。
「んで? ソイツはなんだ」
護衛剣士らしくサクの側に侍りながら、ついでに侍従のように主の身の回りの世話や文官のような書類仕事までこなすイツキに向かって、サクがあごを軽くしゃくる。
その視線の先には、イツキの手のなかに握られた水晶がある。先ほどクロツキが定期で届けに来たものだ。
彼の脚には新しい水晶を括り付けた。きっと今度はアオイの可愛らしい仕草を、その水晶に焼き写してくれるに違いない。
そんな事を考えながら、イツキへ不敵な笑みを口元に乗せる。
「書類ばかりの証拠では、我々も、相手方も、納得いかないでしょう?」
「はぁ……記録水晶、それなりに役に立つな」
「それなりではないですよ」
「わぁーったわぁーった。いいから、さっさとソレを見せろ」
筆を止めて、サクが執務用の椅子から立ち上がる。長椅子へと移動する主を見て、イツキは執務室の入り口へと足を向けた。
扉を開いて、外を確かめる。入り口付近には、同僚の護衛剣士仲間が二人、静かに立っている。
彼らに「しばらく誰も通さないように」と釘を刺し、イツキは扉を閉めた。
ついでに戸棚から防音用の魔術道具を取り出し、魔力を込める。ほわんと浮き上がった魔術式が円を描き、部屋の隅々へと消えていく。
「茶なんかいらねぇから、さっさとしろよ、イツキ」
「仕方ありませんねぇ」
せっかちに急かすサクに溜め息を吐きながら、イツキもまたソファに腰を落ち着けた。
手に持っていた水晶を奪おうとするサクからさりげなく死守しながら、懐へと片手を伸ばす。
「? おい。なんで服の中から出てくる? そっちの水晶はなんだ」
イツキの行動に眉を寄せたサクから、もっともな問いを投げかけられ、イツキはふふふっと笑みを見せた。普段は見られない、イツキ本来の、ふんわりとした優しい笑みだ。
サクの眉間にますます皺が寄っていく。
長年の経験から、彼はわかっていた。イツキの、他者を見下すような冷たい笑みのときはまだいいのだ。なにを考えているのかすごくよくわかるから。
でもこの笑みはよろしくない。どう対処していいか見当もつかないような、嬉しそうな笑みだからだ。そして、とてつもなく、碌でもないことになりそうな笑みでもある。
「これは、俺の宝物ですよ」
「た、宝物だぁ……?」
「ええ」
にっこりと笑うイツキが、元々手に持っていたほうの水晶に魔力を込めた。強く冷たい力がぶわりと吸い込まれていく。
そして空中に映し出された像を見て、サクは口を半開きにするしかなかった。
空中に、儚い笑みを浮かべるカグヤがいる。
『クロツキさん、今日も、かっこいい、です。イツキさんの髪と、おんなじで、黒くて、サラサラで、ふわふわ、です』
とうとう音声まで聞こえてきて、サクは片手で目元を覆って天を仰いだ。
今までの記録水晶は映像のみだったはずだ。それをいつの間にか音声付きにまで改良したらしい。
「いや、待て。もういい。さっさと消せ。よくわかった。俺にはまったくもって宝でもなんでもねぇことがわかった。別に見たくもねぇから、いいから、消せ。早く消せ。おいイツキ聞いてんのか? 消せっつってんだろうが!」
「はぁ……今日のアオイもかわいいですねぇ。早く仕事やらなんやらを片付けて、アオイとまったり過ごしたいです」
その映像は今日の分だったらしい。
そこまで考えて、サクはゾッとした。
イツキが書簡を握りしめながら登城して、忙しくなってから数日が経っている。
その間、この男はほとんど朝から晩まで城に缶詰だったはずだ。
サクはまだ、皇王城内の皇太子棟に結月がいるから、仕事終わりに顔を見て話すことができる。
だが、いくら近いとは言えコクウ領までは馬を飛ばして半刻はかかるだろう。そうなると、イツキはおそらくあのカグヤの顔を見ることもできていないのではないだろうか。
「まさかおまえ……この数日、昼間ずっとカグヤを監視してんのか……?」
どうりで、文句も言わずサクに付き合っていると思った。いや、おかしいな、とは思ったのだ。帰りたがる素振りをあからさまに見せなかったから。
「ふふ……嫌ですねぇサク様。監視ではなく見守りですよ」
「……盗撮かよ」
うっとりしたイツキの笑顔が、氷のように冷たくなってサクに突き刺さる。
こんな映像が水晶となってイツキの手元にいくつもあると思うと、俺はコイツの主で良いのか? という気持ちがサクにも湧いてくる。
イツキが優秀すぎるが故に手放せないのが、なんとも居た堪れない。
「はぁ……もう、いい。ソッチじゃなくて、懐から出てきたほうを見せろ」
未だに聞こえ続けるカグヤの声に片手を振りながら、サクは話を先に進めるようにイツキへと促す。
だが、ここまで来れば、なんとなく理解はできた。
プツリと音声が途切れた。若干残念そうな顔をしたイツキが、アオイの映った水晶を大事そうに懐へしまうのを見て、サクは頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てた。
己の側近はいつからこんなポンコツになったのだろうという思いがふと、頭の片隅を過ったのだった。
「まあ、いいですよ。これ以上サク様にアオイの可愛い姿を見せたくありませんし。……本題は、コチラです」
「…………」
疲れたようなサクの溜め息を気に留める者はこの部屋にはいなかった。
イツキは、今度こそもう一つの水晶に先ほどと同じように大量の魔力を送り込む。
すると、空中にどこかの部屋が映し出された。
装飾から察するに、祭司官寝舎の最上階にある、祭司官長の部屋だろうか。
あそこは本来、カグヤに与えられた部屋だったはずなのだが。
祭司官長は、祭祀礼館の中で最頂に立つ身分ではある。祭祀礼館の決定は、地方の祭儀館にまで届き民を動かすものにまでなるのだ。
だが、祭司官長はカグヤに仕える身分でもある。当代にカグヤが存在する場合、祭祀礼館の実権はカグヤに移行する。
これまで、カグヤを裏から操ろうとした祭司官長はおれど、カグヤを堂々と虐げ実権を握り続けようとする祭司官長などいなかったはずだ。
それがなぜ、ここまで横暴なことができるのかといえば——
「父上……」
祭司官長の部屋には、サクの父である皇王がいた。
少し不鮮明だが、二人で話している声もバッチリ記録水晶に残っている。
鋭い視線で父を見るサクのその瞳の中に、隠しきれない悲しみが宿っているのを、イツキは見つけてしまった。
けれど、そっと瞳を伏せ、見なかったことにする。
慰める役目は、イツキのものではない。
以前ならなんとか言いくるめてどうにかしていたが、今はもう、サクにも守りたいと思う大事な者がある。その役目は結月のものだろう。
そしてイツキもまた、自身の胸のうちにどす黒い感情が渦巻いていくのを感じていた。
祭司官長の隣に、以前アオイを足蹴にして容赦なく骨を折っていた、あの上級祭司官の姿があったからだ。
あの時の光景は、未だにイツキの中に根を張っていた。
守りきれなかったこと、駆けつけるのが遅かったこと、アオイを傷つけさせてしまったこと。
そのすべてをまだ、イツキは許しきれていない。
アオイはもうなんとも思っていないようだけれど。
「イツキ……仕掛けるぞ」
「はい」
浮かんだ悲しみをすぐに底に沈めたサクが、そう言った。イツキもまた頷いて返す。膝の上に置いた拳にぎゅっと力を込める。
(さっさと終わらせて、アオイを俺のものにしましょう。……父上と母上が戻ってくる前に)
そう——。特に母には要注意なのだ。




