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カグヤのきせき  作者: 桜海
参の月

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26/26

廿伍

 ざざぁん、ざざぁん……という波の音を聞く。

 空は一面の深い蒼。眼下には穏やかな青い海。

 船は、その大いなる水をかき分けながら東へと向かっている。

 白波が立ち、幾度も船縁に当たる。そのたびに飛沫が細かな霧となり、肌や服をしっとりと濡らしていく。

 けれど、それもすぐに照りつける太陽に乾かされ、塩を残して消えてしまう。

 甲板に立ちながら水面のきらめきを眺めていた女は、潮風に巻き上げられた髪を押さえると、その口元に上品な笑みを浮かべた。

 青みがかった長い黒髪が、ふわりとなびいて傍らの男の目を奪う。


「……ずいぶんと楽しそうだな」


 自分と同じような髪色の、けれど瞳の色だけは違う男に向かい、女はさらに笑みを深めてみせる。

 男の濃碧玉色の瞳が、眩しそうに細められた。


「もちろんよ。だって、息子のお嫁さんに会えるんですもの!」


「……まだ、嫁にはできないぞ」


「そんなものどうとでもなるわよ。ああ、早く帰りたいわぁ!」


 "どうとでもなる"というより、()()()()()()()のだろう?

 そう思ったが、男は口を噤むことを選んだ。

 ただ単に、未来の嫁の姿を思い浮かべて嬉しそうにはしゃぐ女を、このまま眺めていたいという思いのほうが強かっただけかもしれない。


 帆檣に止まった二羽の鳥が、甲板でやりとりする夫婦を見つめ「カア!」と鳴き声を上げた。


 ◇◇◇ ◇◇◇


 コケーッ、コケコケーッ!

 朝告鳥が啼く声を聞きながら、アオイは目の前で青々と葉を揺らしている野菜の茎を、鋏でチョキンと切った。

 今朝の収穫は上々だ。——いや、今朝も、と言うべきか。

 暦はすでに初花の月(はつはなのつき)(二月)から月夜桜月(つくよざくらづき)(三月)に変わり、暖かな陽射しが届くようになっている。

 それでもまだ、胡瓜(きゅうり)は時期として早いんじゃないかなぁ? と思いながら、アオイは籠に放り込んだ。


「アオイ? 朝早いですね。寝れなかった?」


「……イツキさん!」


 しゃがみ込んでいたアオイの頭の上から、柔らかな声が降ってくる。

 振り仰いだ彼女の目に、少しだけ汗を滲ませたイツキの姿が映った。濃碧玉色の瞳が、緩やかにアオイを覗き込んでいる。

 太陽を遮るように立っていてくれるから、上を見ても少しも眩しくない。

 風が吹いて、イツキの黒髪がサラサラと揺れている。


「あ、あの! おはよう、ございます……!」


「うん、おはよう」


 慌てて立ち上がろうとするアオイに、さりげなく手を貸しながら、イツキがふんわりと笑う。

 家庭菜園の野菜に埋もれてしまって、外から姿が見えなかっただろうに、きっとイツキは探してくれた。

 そう思うと、申し訳なくなってしまうが、イツキに謝られることを禁止されているアオイは、モゴモゴと口を動かしただけで結局なにも言葉を発さなかった。オシオキは怖くないけれど、すごく恥ずかしいのだ。

 最初は、鼻をツンてするだけだって言っていたはずなのに。

 思い出して顔を赤くするアオイを、イツキは首を傾げながら見た。


「アオイ……熱ある?」


「い、いいえ! ない、です」


「そう? なんか顔が赤いけど……それならやっぱり寝られなかった?」


 ぶんぶんと首を大きく振るアオイに苦笑しながら、イツキがそっと頭を撫でる。首が取れちゃうよと以前も言われたのだった。

 イツキに頭を撫でられると、アオイはすぐに動きを止める。

 それがわかっているから、彼もすぐにアオイに触れようとする。


「すごく、よく寝ました……。朝告鳥よりは、遅く起きました、よ?」


 いっぱい寝て、いっぱい食べて、いっぱい動くこと。

 以前、イツキに言われたことを思い出しながら、アオイはそろりと目の前の男の顔を伺う。

 大きな琥珀色の瞳が、下から見上げるようにして向けられるものだから、イツキの心臓はおかしいぐらいに跳ねてしまう。だが、アオイはそんなこと考えもしないのだ。

 まさか、イツキが理性と必死に闘っているなどと思いもせず、いつもより距離のある二人の隙間を埋めようと動く。


(こ、恋人……っ、同士なら、いい、よね?)


 だって、いつもはイツキが容赦なくアオイを腕のなかに囲うのだから。

 そう考えて一歩踏み出せば、イツキも一歩下がる。

 もう一歩踏み出すが、やっぱりまた一歩下がる。


「……イツキ、さん?」


 どうして? と不安に思って見上げたアオイは、困ったように笑うイツキの表情に釘付けになる。


「ちょっと、さっきまで剣を振ってたから……俺いますごく汗をかいてるの。だから、あんまり近づかないで」


「剣……お稽古?」


 だから、先ほど汗が滲んでいるように見えたのか。


「うん。そろそろ朝餉の時間だよ。部屋に戻って、先に身を清めましょう?」


 そう言って笑うイツキの服の袖を、アオイはそっと摘んだ。そして、自身の指が土で汚れていることに気がついて、慌てて手を離す。

 その手を、イツキが躊躇うこともなく自分の手で包み込む。


「わ、わたしも、土で、汚れてます」


「アオイは汚れてなんかいないよ。大丈夫」


「じゃ、じゃあ……イツキさんも」


「え?」


 繋がれた手をぐっと引っ張って、屋敷へと戻ろうとするイツキをアオイは引き止めた。

 驚いたように振り向くイツキの胸へと、アオイは「えいっ」と掛け声をかけて飛び込んでみる。

 耳元から、ドクン! と一際大きな鼓動の音が聞こえてきた。


「あ、ああああアオイ……? ど、ど、どうしたんです?」


「えっと……なんだか、ぎゅってして欲しくて……ぎゅって、したく、なりました……」


 イツキが気にしないと言うなら、アオイももう少し積極的になっても良いのかもしれない。そう思いながら、土の付いた指のままアオイはイツキの胸元の服をきゅっと握る。

 剣を振っていたと言う通り、イツキの体温はいつもよりも高いようだ。確かに、服は微かにしっとりしている。

 イツキの香りの合間に、汗の匂いも混じっているが、アオイはまったく気にならなかった。

 むしろ、普段よりも強いイツキの香りに包まれて、アオイの胸がドキドキと煩くなっていく。

 すりっと頬を擦り寄せた瞬間、イツキの体がビクリと跳ねた。頭上から、押し殺したような声が届く。


「ぐ、ぅ……我慢、していたのに。ああ、もう! アオイのせいですからね……!」


 その言葉が終わらぬうちに、アオイの体が見た目以上に逞しい腕にすっぽりと包まれる。

 力強く、けれどアオイを潰さないように加減された優しさで抱きしめられ、アオイは肩に入っていた力を抜いた。


 早朝の中庭でお互いに抱きしめ合っていた二人は、様子を見に来たユヅルとイサクに呆れられながら、それぞれの部屋に連れ戻された。

 土や汗で汚れた体を清め、新しい服を着て朝餉を食べる。

 そして、アオイが驚いたように肩を跳ねさせたのは、食後のお茶を飲んでいる最中のことだった。

 朝餉の間の窓に大きな影が過ぎり、バサリと羽撃くような音がした。


「……ああ、クロツキか」


 窓辺に視線を向けたイツキが、呟いて席を立つ。先に動いたユヅルが窓を開け放つと、普通よりも二回りも三回りも大きな鴉がイツキの伸ばした腕に舞い降りた。

 頭を擦り付けてくる鴉をそのままに、イツキが黒々とした羽をゆっくりと撫でる。

 擦り付けが、徐々に頭突きに変わり始めた頃、イツキが苦笑しながらアオイを手招いた。


「おいで、アオイ」


「……は、はい」


 柔らかなイツキの声音にホッとしながらも、アオイはそろそろとイツキへと近づいていく。

 真っ黒で小さな瞳が、興味深そうにアオイを見つめている。朝の陽射しを受け、まるで黒曜石のようにキラリと光る。


「アオイは、名家八家と呼ばれる俺たちの家に、それぞれ相棒(パートナー)となる動物がいるのは知っている?」


 差し出された手を躊躇うことなく握り返しながら、アオイは小さく頷いた。


「え、と……はい。その、皇都に来る前に、叩き込ま……お、教えられました」


 ピクリと、イツキの指先が微かに振れた。

 思わず口走ってしまい、アオイはバツが悪そうに片手で口を押さえて言い直す。


(ううっ、はしたない言い方、しちゃった……)


 口元に不穏な笑みを浮かべる主人のことなどなど露知らず、腕に乗ったクロツキがイツキの髪に嘴を突っ込んだ。

 梳くように顔を動かす様は、まるで羽繕いをしているようだ。


「かわいい……」


「彼は、クロツキと言います。俺のパートナー鴉です……って、痛い。クロツキ、痛い」


「ふ……ふふふっ」

 

 容赦なく髪を引っ張られるイツキが、思わずといったふうに声を上げるものだから、アオイもうっかり笑ってしまう。

 そんなアオイの様子を横目で見つめ、イツキもまた口元を緩めた。


「ずっとね、あなたを紹介しろとせがまれていたんだ。ヨヅキを先に紹介したからずっと拗ねてたんだけど……待ちきれなかったみたい? あ、でももう一ヶ月以上経ってる……ごめんね。機会(タイミング)がね、なかなかなくて……」


 イツキの言い訳のような言葉がわかっているのか、クロツキと紹介された大鴉がカァー! と鳴いた。

 バサリと両翼を広げると、アオイの姿などすっぽりと隠れてしまいそうだ。

 わざと羽撃いているのか、翼がバシバシとイツキの顔を直撃している。


「クロツキ、さん……あの、よろしくお願い、します……」


 ジッと見つめてくる黒い瞳に魅入られながら、アオイはゆっくりと手を伸ばしてみた。

 触れる直前で止まれば、クロツキのほうから顔を寄せてくる。つるりとした嘴の感触が指先に伝わり、アオイが目を煌めかせた。

 そのまま頭を押し付けられ、そろりと指を動かしてみれば、アオイを見つめたままのつぶらな瞳が気持ちよさそうに細くなる。


「よかった。大丈夫そうだね。——おや?」


 安堵の息を吐いたイツキが、アオイの腕のなかにクロツキを渡した。腕にクロツキの脚が乗る。服の上からでも、大鴉の爪の感触が分かる。そして、ずしりと重い。

 あわわ……と慌てるアオイの首筋に、クロツキが頭を擦り付け始めた。落とさないように、もう片手でクロツキの大きな体をしっかりと支えた。

 そんなアオイたちを微笑ましそうに眺めながら、イツキはクロツキの片脚へと手を伸ばす。

 そこには、書簡が括り付けられていた。


「イツキ様、どなたからですか?」


「クロツキを呼び寄せられる者など限られているが……」


 ユヅルの問いかけに、眉間に皺を寄せたイツキが答え、書簡を開いて読み進める。

 イサクも興味津々とそばに寄ってきて、三人で書簡に頭を突っ込むようにして目を通す。

 アオイのそばにはアサギリとヤゲンが近づき、ともにクロツキに挨拶をした。

 アサギリは、アオイと同じく初対面だったらしい。ヤゲンはすでに面通しを済ませていたようだ。

 クロツキは、ヤゲンの腕を戯れのように突き、アサギリにはスリスリと甘えている。

 ヤゲンが涙目になっているのを、アサギリが宥めると、クロツキはどこか馬鹿にしたようにフフンと鼻息を漏らした。

 その様子を笑いながら見ていたアオイの耳に、イツキたちの絶叫が届く。


「えっ? い、イツキ、さん!? ユヅルさんに、イサクさんも……ど、どうしたんです、か?」


 慌てて顔を向けたアオイの視線の先に、床に落ちた書簡を同じく床に手をついた状態で取り囲む三人の姿があった。

 アオイの驚いたような声に瞬時に立ち上がったのはユヅルだけ。絶望の表情を見せながら視線を遠くにやっている。

 未だに床で項垂れているイツキとイサクの二人は、何ごとかをぶつぶつと呟いては首を振っている。

 そして、ノロノロと起き上がったのは、イサクだった。

 覚束ない足取りでアオイの元に近寄ると、ゆっくりと頭を下げてきた。


「い、イサク、さん……?」


「申し訳ありません、アオイ様。わたくししばらくはお構いできないかもしれません。身の回りのお世話はこれまでどおり致しますが、それ以外はユヅルを置いていきますので、この愚弟になにもかも言いつけてくださいな。アサギリも、忙しくなりますよ」


「……ふえ?」


「え、あ……はい!」


 よくわからないままアオイは謝罪を受け、よくわからないままアサギリも返事をする。

 その横でヤゲンも怪訝な表情で首を傾げている。


「アオイ……」


「わっ!? い、イツキさん……?」


 床で項垂れていたはずのイツキが、いつの間にかアオイのそばにいた。

 クロツキを抱えていることなど意に介さず、イツキの腕がアオイの体を引き寄せる。バランスを崩したクロツキが、あっという間に床へと落ちていく。器用に脚から着地した大鴉が、抗議のためか力強く鳴いた。

 バサァッ! と広がった翼から、いくつかの羽根が零れ落ちた。


「アオイ……大変です」


 カァカァ不満を訴えるように、クロツキが足元で鳴いている。けれどそちらに視線を向けることなく、イツキはアオイの髪に鼻を突っ込んで囁いた。


「嵐が来ます」


 深刻な声音で告げられた一言に、アオイはきょとんと瞬きを一つ返したのだった。

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