はじめての困難1
白いもの集団は、極度の怖がりらしい。
テピテピと楽しそうにごはん粒を食べている最中でも、客が来ると即座に隙間などに隠れてプルプルしている。いつもはてぴてぴとゆっくり歩いているのに、そういうときだけは機敏だ。
なので、バイトを始めて5日目の今日も、接客業務は完全に私ひとりでやっている。他のことも大体ひとりでやってるけど。白いものは完全に癒し担当として私の中では戦力外認識されていた。
カリカリ、と引っ掻くような音が聞こえて、私は椅子から立ち上がった。
ノックというよりは引っ掻いているような音である。捲った袖を戻しながら返事をしてドアを開けると、そこには犬がいた。
「いらっしゃいませー」
小型犬か中型犬か判断に迷うサイズ。白っぽく羊のような毛をしていて、ちょっと長めの毛で目が見えにくい。耳は垂れていて、手足は細めだけど地面と接する肉球部分がちょっと大きい。鼻は黒だった。
このお客さんが来るのは今日で3日連続だ。
迷宮にも、犬はいるらしい。魔王よりは身近に感じる。
ちょっと撫でさせてほしいけれど、お客だったら撫でるのはよくないだろうしいつも見るだけだ。
しょぼしょぼと見えていない目で私を見上げてから、犬はフンフンと鼻を鳴らしながら中へと入ってきた。
ポヌポヌポヌポヌ、ポヌポヌ。
この犬、なんか歩くのに合わせて謎の音がするのだ。
黒い鼻をフンフンと鳴らし、床を嗅ぎながら歩く犬。その一歩一歩が、ポヌ、ポヌ、とどこか気の抜ける音を発している。少なくとも地球上の犬の足音としては一度も聞いたことがないような音である。
肉球部分に特殊なサポーターでも付けてるのだろうか。
聴き慣れない音を発している犬は、この場所が安全かどうかを確かめるようにフンフンとあちこちを嗅ぎながら歩き回っている。のんびりしてそうな見た目だけれど、警戒心の強い犬らしく今日も一通り嗅ぎ回るつもりのようだ。
フンフンポヌポヌ。フンポヌポヌ。フンフンフンポヌ。ポヌポヌポヌ。
ポヌポヌ音も3日連続で聞いていると、なんか結構いい音な気がしてきた。
フンフン嗅ぎ回る犬の邪魔になるといけないので、私はカウンターの中に戻る。価格表を用意しつつ、嗅ぎ終わるのを待つことにした。
カウンターから見ると左の壁にある入り口のドア近くから始まり、左右にウロウロしつつも犬はポヌポヌと歩く。向かいの壁まで到着すると、今度は壁をフンフンと嗅いでいた。それからおもむろに一歩を踏み出して進む。
垂直に。
「おぉ……」
今日で3回目だけど、本当に目を疑う。
見ていてつい声を上げると、犬がフンフンするのをやめてちょっとこっちを見た。白いモジャ毛のせいで目が合ったかはわからないけれど、しばらくすると犬はまたフンフンと嗅ぎ回り始める。ポヌポヌと壁を歩きながら。
いや、何事もなかったかのように歩き回ってるけど、壁歩くってすごいよね。
一風変わった足音よりもびっくりだわ。
やはり迷宮の犬、見た目は似ていても地球のそれとは全く違うようだ。
犬はそのままフンフンと壁を歩きながら嗅ぎ回り、ついでに天井もポヌポヌ歩いて匂いを確かめている。逆さまになっている犬だけれど、垂れ耳まで重力に逆らっているのはどういう仕組みなのだろうか。ポヌポヌ音と関係があるのだろうか。謎である。
初日はガン見してしまったけれど、今では感心しながら眺めるくらいの余裕ができた。
カウンターのイスに座りながらポヌポヌ歩くのを見ていると、ようやく確認が終わったらしい犬が戻ってきたのはそれから10分後くらいだった。
歩き回った犬が床に戻ってきて正しい方向でポヌポヌと歩き始め、数歩で止まって後ろを振り向く。雑巾がけした床に、灰色の足跡がポヌポヌ音の分スタンプされていた。じっとそれを眺めた犬が、私の方を見上げてくーんと鳴く。鳴き声は普通だ。
「あ、すいません、昨日軽く掃除したんですけどまだ埃っぽかったですか。今度天井と壁も拭き掃除しておきます」
新しい雑巾を濡らして絞り、そっと犬の手足を拭く。犬は大人しくされるがままになっていた。拭き終わった足を地面に下ろすとちいさくポヌと音がするのが地味に楽しい。
足跡も拭くと、犬の尻尾がちょっと左右に揺れた。
「お買い物していきますか?」
聞いてみるとまた尻尾が左右に揺れる。犬はポヌポヌと歩き出し、カウンターの壁もポヌポヌ歩いて天板へと登る。
壁、歩けると便利だな。
「こちらが価格表です」
文字が彫って記されている板をカウンターに載せると、犬がそれをフンフンと嗅ぎながら眺める。
しばらくしてから、私の方を向いてた犬が、くーん、と一声鳴いた。
この姿も3回目だ。
「あの、欲しいものがあれば手か鼻で指してもらえると……ないですか?」
再び鳴かれたので、私はマニュアルを広げる。
「えっと、価格表に載ってないものもこの辺にあるんですけど……あと、お手伝いとか請け負いたい場合は、こっちで」
ページをめくりながら見せてみるけれど、犬は少しフンフンしただけであとはくーんと鳴くだけだった。
白いものと同じで、残念ながら犬の言いたいことがわからないのだ。理解しにくい声と言葉とはいえ人語を操る魔王はかなりコミュニケーションの取りやすい相手だと今更気付いた。
くーん、しかわからないけれど、犬はどの品物も指すことはなく、サービス一覧のページも悲しそうに鼻を鳴らすだけだ。それも3日目となると、何か欲しいものがあるけれど見つからないのか、もしくは私が理解できていないかなのだろう。
「あの、欲しいもの、ないですか? 名前がわかれば、問い合わせもできますけど……」
魔女おばちゃんからは何かあったら気軽に連絡してと言われているので、商品がわかればお取り寄せできるか訊くこともできる。犬語で品名をいわれても難しいけれど。
犬は価格表をもう一度フンフンしたあと、私を見てくーんと鳴き、それからポヌポヌとカウンターを歩いて床に降り、そのまま店を出ていってしまった。
「ありがとうございましたー……」
買い物したかったっぽかったけれど、目当ての物がなかったのか、私の理解力が低かったからか、今日も犬は何も買わずにポヌポヌ帰ってしまった。
今日もダメだった。悪いことしたなあ。
何が悪かったのかもわからないので、とりあえず今日やったことと反応をノートにメモしておいた。
明日はちゃんと買ってもらえるようにと願いつつ、ノートと価格表を棚の横にしまうと、白いもの集団がソロソロと戻ってきた。




