ep31. 幕間・氷骨堂より
元通りに片付いた銀針堂の作業場には、打ち直された骨針と真新しい肉糸の匂いが満ちていた。棚の空白はまだ残されていたが、磨かれた革の作業台には陽光が落ち、整然と並ぶ銀の針が鈍い光を返している。
カラン、と入口のベルが短く鳴った。
作業台から顔を上げたエルヴの視界に、背の高い影が入ってくる。黒い軍服の上から無造作に外套を引っ掛けた男が、店内に足を踏み入れていた。
「クロイゼンさん」
クロイゼンは返事をせず、店内をゆっくりと見回した。荒らされていた棚、引きちぎられていた革の仕切り、打ち捨てられていた作業用具。それらがすべて元の位置へと収まり、寸分の狂いもなく整えられている様を確かめるように、静かに首を一度だけ縦に振る。
「どうしてここに」
「…たまたま近くに来ただけだ」
短く答えると、クロイゼンは視線をカウンターの脇へと移した。エルヴは彼の少しぶっきらぼうな言い回しの裏にあるものを察し、胸の奥で小さく息を吐いた。彼なりに、こちらの様子を気に掛けて足を運んでくれたのだろう。
一通り近況の報告を終え、針箱の蓋を閉めたエルヴは、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「あ、そうだ。一つ頼みたいことがあるんですが……」
「なんだ」
クロイゼンがわずかに眉を寄せる。
「こっちへ」
エルヴは作業場の奥、地下倉庫へと続く階段を指し示した。薄暗い階段を下り、魔石灯をかざすと、地下の保管棚が灯の中に仄白く立ちあがる。
棚という棚を埋め尽くしていたのは、大量のナザルク式保存槽だった。脈動する半透明の外殻の中には青白い保存液が満たされ、高位の魔物から採取された希少な臓器や骨格が漂っている。
「その…ナザルク先生が再開祝いだといって送ってくれるんですけど…。使い切れないですし、こんな高位の素材をただでもらうのは気が引けて」
エルヴが振り返りながら困り顔で言った。だが、クロイゼンからの返答はない。
不思議に思ったエルヴが横顔を見上げると、クロイゼンの身体が硬直していた。ただでさえ青白い皮膚からさらに血の気が引いている。
(…あ)
エルヴは自分の迂闊さに気づいた。
密閉された地下倉庫に充満しているのは、薄荷によく似たあの保存液の匂いだ。エルヴは、水から引き上げたときの、青ざめたクロイゼンの顔、そして、同時に立ち上った保存液の匂いを思い出した。
「…戻りましょう」
エルヴは短い声をかけ、すぐさま魔石灯を掲げて階段を上がった。クロイゼンが重い足取りで後に続く。作業場へ戻り、木扉を開けて外気を通すと、クロイゼンが深く肺の空気を吐き出した。
「すいません」
「…いや」
クロイゼンは手袋をはめた指先で額を軽く押し、視線をちらりと扉脇の水槽へ向けた。小さなカエルが、水面で脚を伸ばしている。
「…素材の件については、俺からナザルクに言っておく」
「ありがとうございます」
エルヴが頭を下げたその時、外の石畳を鳴らす車輪の音が聞こえた。ガラガラと音を立てて止まったのは、鋼骨工房の仕入れにも使われる大型の魔導車だ。
「お届け物です!」
カラン、ベルの音とともに扉が勢いよく開き、顔を出したのは鋼骨工房の見習い職人、トビアスだった。腕には厳重に封をされた大きな木箱が抱えられている。
「…氷骨堂?」
エルヴが木箱の表に記された文字を見て呟くと、トビアスは苦笑いを浮かべて頷いた。
「氷骨堂からです。ナザルク様から直々に『銀針堂へ届けておけ』と頼まれまして」
エルヴが木箱を受け取ろうと歩み寄る。クロイゼンに気づいたトビアスが、木箱を抱えたまま慌てて頭を下げた。クロイゼンはトビアスをすり抜け、窓の外の街路へ顔を向けた。
エルヴは木箱の付票を確認してから、慎重に封印を切った。またしても怪しげな魔物の内臓や触手の類いが入っているのではないか—エルヴは警戒しながら木箱の留め金を外し、蓋を持ち上げた。
薄荷の匂いはしなかった。
保存槽の内部に収められていたのは、冷たい液体ではなく、木枠に整然と敷き詰められた無染色の肉糸の束だった。一目で高品質のものだと分かるそれは、真珠のような柔らかな光沢を放っている。
添えられた紙片を開くと、見慣れたナザルクの癖のある筆跡が踊っていた。
『魔物素材は使いように困る、とのことだったのでこちらにした。好きに染めて使いなさい』
「…これは助かる」
エルヴが感嘆の声を漏らすと、いつの間にか横から覗き込んでいたクロイゼンが、低く言った。
「…意外だな」
「あのナザルクが」とクロイゼンは呟く。エルヴもやや拍子抜けしたような思いで、保存槽を木箱から持ち上げた。
「…あれ?」
エルヴは、保存槽の構造に視線を落とした瞬間、奇妙なことに気づいた。
その密閉蓋の裏側、“内側”に向けて、小さな金属製の取っ手が接合されている。
「これ、内側に取っ手がある」
エルヴが指先でその小さな金具を突くと、トビアスも首をかしげた。
「え? 本当だ。つけ間違いですかね?」
エルヴは手紙の裏面に、さらに小さな文字で書き足された一文を発見した。
『追伸:新型保存槽の試作品だ。中から開けられるようにした』
エルヴは、迷いながらもその手紙をクロイゼンに差し出した。クロイゼンが文面に素早く目を走らせる。
クロイゼンは冷ややかな目でその小さな取っ手を見つめた後、淡々と言い放った。
「…もう入るつもりはない」
エルヴは、黙って保存槽の蓋を閉めた。
「ナザルク先生に俺からのお礼を伝えておいてください」
トビアスは首を傾げながらも「はい」と答え、木箱や梱包材をまとめ、再び石畳を鳴らしながら去っていった。
後日。
王都では、氷骨堂の地下保管庫から「内側から保存槽の蓋を開けた死体」が抜け出し、夜な夜な歩き回っている、という不気味な噂が実しやかに囁かれることとなった。




