①
読んでいただいてありがとうございます。
シルバーウィーク短期決戦でがんばります。
カチリ、と何かがはまる音がした。
「……え……?」
「奥様!」
誰かの声がしたが、ウィステリアはそのまま倒れ込んだ。
ウィステリアは伯爵夫人として、今を生きていた。
『今』……それは、いつ、どんな時代?
私、は……。
カチカチという音が頭の奥で鳴っている。
ウィステリアの周りはまるで夜のように暗く、その中を多くの映像が流れていく。
明るい映像もあれば、悲しい映像もあって。
映像がまるでテレビのモニターのようだ、と思って愕然とした。
テレビって何?
モニターって何?
映像?
動く、絵?
再びカチカチという音が鳴って、ウィステリアの前に一人の女性が現れた。
黒い髪、黒い瞳。ウィステリアとは似ても似つかぬ容姿。
けれど、知っている。覚えている。
『彼女』は、私、だ。
カチリ、という何かがしっかりはまった音がした。
その瞬間、ウィステリアは全て思い出した。
ウィステリアは、かつて地球という世界で暮らしていた。
日本という国で暮らしていた彼女は、そこで結婚をした。
貴族でもお金持ちでも何でもない普通の家で育って結婚した彼女だったが、結婚して数年後、唐突に気が付いた。
会社員として働き、家の掃除や食事の準備をして、特に何もないまま眠る。
夫とは、色々な時間の関係で別々の部屋。
彼は食事を作るわけでもなく、洗濯をするわけでもなく、ゴミ出しはしても家の中のゴミを集めるのは彼女の方。テレビで名もなき家事のことを特集していても、黙って知らんぷりをしていた。
子供もいなかったから、共通の話題と言ったらテレビの内容だけ。
ただ、家での負担は、彼女の方が高かった。
きっと彼は、言えばやったのに、と言ったのだろうけど、彼女の方は彼が言わなくても動いていたのに、どうして彼の方は言わなければ動かないのか、どうして彼の親がし損なった教育を彼女がしなければいけないのか、親戚には男も家事をやった方がいいとか言いながら何故自分はしないのか、とか考えた時期もあったけれど、しばらくしたらけっこうどうでもよくなった。
……これって、家族として成り立っているのだろうか。
もはや彼のことを好きという感情はなくなっていて、ただ同じ家に暮らしているだけという状態だった。
家族だと思うから、一緒にやってくれることを期待する。
家族だと思うから、何もしないことにイラつく。
なら、ただの同居人だと思えばいいのではないだろうか、という結論に達したのはその頃だった。
家族じゃないのなら、一緒に暮らしているだけのただの同居人なら、まだマシだ。
そう思った彼女は、そこでスパッと切り替えた。
それは、家のことをしないことがどうでもよくなったのではなくて、夫という存在そのものがどうでもよくなった瞬間だった。
しょせんは他人。
彼は、夫という名前の同居人。
何もしなくても、ただの同居人、と一呼吸おくことで意識を切り替えられるようになった。
そうやって、彼女は自分自身を保った。
けれど、残酷なことに、彼女は病気を患ってしまった。
病室で、これで同居は解消ね、と思いながらそっと目を閉じた。
彼女がいなくなって、ゴミ袋のストックが置いてある場所が分からなくなろうが、彼女にはもう関係ないことだった。
ということを倒れながら一瞬にして思い出したウィステリアは、自分自身が今置かれている状況を考えて、ついもらしてしまった。
「……こっちの方が楽」
と。
幸か不幸か、その言葉を周りの人間に聞かれることなく、ウィステリアは意識を失った。
ウィステリアは、結婚してすでに三年ほどが経っている。
ただ、今のウィステリアは、領地に放置されている名ばかりの伯爵夫人だ。
それどころか、夫であるはずの人物とは、数回しか顔を合わせたことがない。
結婚式の後、ウィステリアは早い段階で領地に連れて来られた。
そのまま領地をまとめてほしいと言われて、年に数回、夫がこっちに来た時だけ会っている。
王都住まいの夫は、伯爵としての仕事と王宮での仕事が重なり、かなり忙しいらしい。
彼から来る手紙は、全て仕事関連に指示についてだけだ。
私的な手紙など届いたことがない。
ウィステリアは、彼から指示されたことを誰かに伝えるだけ。
……それ、いる?
記憶が戻った今、率直な疑問だ。
別にウィステリアを経由する必要はない。
領地にいる妻という存在を経由させているだけな気がする。
おそらく、領地は妻に任せている、という建前がいるのだろう。
ちょうど倒れたことだし、次からはここを実質的に仕切っている執事にそのまま渡してしまおう。
ここの執事は先代から仕えている初老の人物で、夫の信頼も厚い。
名ばかり妻よりよほど夫のことを知っていると思う。
彼は放置状態のウィステリアに同情してくれていて、何かと尊重してくれている。
彼が最初からそういう態度だったので、周りの使用人も同じように接してくれた。
おかげでここでは奥様として仕事が出来ていたのだが、よく考えたらウィステリアがいなかった時代からきちんと回っていたようなので、これから先、ウィステリアがいなくても同じようにまわすことが出来る。
つまり、ウィステリアは最初からいらない存在だったのだ。
結婚は……おそらく世間体のことを考えてしたのだ。
お年頃の伯爵で妻がいなければ、まだまだ若造と思われても仕方がない。
一つ下の子爵家の娘で出しゃばってくるような身内もいなくて性格も大人しいと評判の娘がちょうどよくいたので、建前妻として結婚しても問題ないと判断したのだろう。
前世の経験値を得たウィステリアは、今まで分からなかった夫の思考が少しだけ分かるようになっていた。
「奥様、本当に大丈夫ですか?」
「えぇ、問題ないわ。少し体調が悪かっただけよ。大げさにすることもないわ」
最初の頃は、領地に放置された奥様とどう接していいのか手探り状態だった使用人たちだが、ウィステリアがいわゆる傲慢な令嬢というわけではなかったので、今ではそれなりの信頼関係を築いている。
前世の記憶が戻った時、今世の自分がそういう性格でよかったとウィステリアはちょっとほっとした。
「ですが、旦那様にも言わないというのは……」
「うーん、もしばれても特に問題なかったって言えば、あの人は何も思わないでしょう」
前世の夫がそうだった。
テレビを見ながらあれこれ会話はするが、それ以上の深い話はしない。
彼女が病気になって入院することになった時も、手続きなどの問題はない、と言ったら、そうか、とだけ言って終わった。
結婚してからいつの間にか、彼女のことを自分から知ろうとは思わない人になってしまっていた。
必要だったら彼女の方から言う、そんな風に思っていたのだと思う。
けれど、あの時の彼女にもう彼は必要なかった。
だから、何も言わなかった。
それで別に彼女の心が痛むことはなかったし、悲劇ぶるようなことでもなくて、あの時の彼女に必要だったのは、妻が何もかもやってくれると勝手に思い込んでいた夫ではなくて、自分自身の時間だった。
家族じゃない同居人なんて、そんなもんだ。
「あの、ばれた時に、旦那様に怒られませんか?」
「滅多に来ないから大丈夫よ。それにあのまま寝込んでいた方が怒るんじゃないかしら?もし私がひどい病気だった場合、世間体も考えたらこっちに来るしかなかったでしょう?そうしたら彼の予定が狂うもの。そっちの方を嫌がるんじゃないかしら」
「そうではなくて、奥様のことを想って……」
「……あると思う?」
「奥様こそ、どうして旦那様が奥様の体調を気にかけていないと思っていらっしゃるんですか?」
侍女が不思議そうに聞いた。
「だって、妻だもの」
「妻だからこそ、真っ先に気にかけられるのでは?」
「いいえ。妻ってね、空気よ」
「え?」
「自分の役に立つ間は、いるのが当たり前の存在なの。だからあの人の中での順位は、仕事、友人、領民……という感じできて、最後の最後が私よ」
「そ、それは……」
侍女は、違うのでは、と言おうと思ったのだが、確かに言われてみればそうなのかもしれない、と思い始めてもいた。
旦那様は仕事で忙しくて王都にずっといて、ここには滅多に来ない。
主人の手紙の内容などは知らないが、奥様からの手紙が主に仕事の報告だったのは知っている。
何故なら、奥様は内容に相違がないかの確認のため、手紙を執事や使用人たちに見せるからだ。
あれは、見事な業務報告だったと思う。
しかも、その場で封をして執事に渡していた。
毎回、私的な内容は含まれていなかった。
「あの、奥様……」
侍女は何と言っていいのか分からず、言葉に詰まった。
「気にすることはないわ。慣れているもの!」
そう。前世の記憶が戻ったウィステリアには通算二度目の出来事なので、もう慣れた。
どこの世界に行っても、夫という生き物はそう変わりはない。
ただ、前世と違って、ここでは家事をすることがない。
そういうことは使用人たちがやってくれるので、ウィステリアがやる仕事ではない。
つまり今のウィステリアには、妻という役職の人間がやるべき仕事しかない。
その他の時間は、自分の好きに出来るのだ。
そのことに気が付いて、ウィステリアは嬉しくなった。
前世は、自分の仕事→家事という名の仕事→ちょこっとだけ自分の時間、だったのだが、今世は、伯爵夫人としての仕事→残りは自分の時間、になり、間にあった仕事という名の家事が抜けた。
「伯爵夫人としての仕事をしていれば、私が倒れようと気にしないわよ。だからあの人に何か言う必要はないわ。それよりも、これからのことを考えないと」
「これからのことですか?」
「えぇ。伯爵夫人としての仕事が終われば、自分の時間を持てるわ。なら私の好きなことをしたいもの」
「好きなことって何をなさるおつもりなんですか?」
「あら、もちろん、倫理に反することはしないわよ。伯爵夫人としての体面は保ちます。そうね、たとえば好きなだけ本を読むとか、思いっきり刺繍するとか、街に出かけるとか」
「その程度でしたら」
ごく普通の趣味だと思う。
「そもそも、ここに私の仕事はないのよね。だから、伯爵夫人としての仕事もほとんどないし……」
王都にいれば夜会など、夫婦同伴の行事に出たり夫人同士のお茶会という名の情報収集戦をしなければならなかっただろうが、ここではそんな煌びやかな行事はない。
ある意味、気楽だ。
「あ、そうだ。何か別の仕事をしようかしら」
「奥様!」
別の仕事、と聞いて侍女は咎めるような声を出した。
「小さな商会でも立ち上げようかしら。伯爵領は大きいから、紛れ込めるでしょうし。後ろ盾で私の名前を使えば、うるさく言われることもないでしょう。一応、伯爵夫人だし」
文句を言えるとすれば夫の伯爵だけだが、そもそも彼は領地のことは任せっきりなので出す文句もない。
「ですが、奥様にそのような知識や経験はありませんよ……ね?」
急に不安になったのか、最後の方が微妙な疑問形になっていた。
「その辺は心配しないで」
知識も経験もある。
前世のだけど。
前世では販売系の会社に勤めていて、店頭販売から営業、経理などの事務仕事まで一通りやってきた。
常に人手不足に悩まされていた会社は、使い勝手のよかった彼女を使い潰す勢いだった。
そろそろ転職を考えようかな、と思った頃に病気になってしまった。
あんな会社にならないように気を付けよう。
ただ、何をやるにしても、ここの使用人たちに説明はしないといけないと思う。
放置されっぱなしだったらともかく、使用人たちはウィステリアを気にかけてくれている。
となると、夫へも何かしらの形で報告が必要だろう。
「……いつもの業務報告書でいいわね」
「奥様……」
一応、あれが業務報告書だという自覚はあったんですね……。
「いつも確認のサインだけはもらっているから、それで報告しましょう」
いつも通りの手紙だと思っていたら、隅々まで読むと爆弾が仕掛けられているやつですね、奥様。
侍女は、一応、執事にだけは伝えておこうと思ったのだった。




