87- 帰ってきた日常
ツアーファイナルから、三日が過ぎた。
疲れが祟ったのか、帰ってきた翌日は使いものにならなかった体も、今ではすっかり調子を取り戻した。
玲たちは、俺とは比べものにならないほど疲れが溜まっていたようで、ここ数日は泥のように眠っている。今日も、きっと昼過ぎまで起きてこないだろう。
幸い、夏休みが終わるまでは、休みをもらっているらしい。
普段から多忙な分、こういうときこそゆっくりと休んでほしいものだ。
「あ、おはよう」
「え?」
リビングに下りてくると、そこにはソファーでくつろぐ玲の姿があった。
テレビでミーチューブを見ていたようで、猫がじゃれ合う動画が流れている。
「お前……よく起きられたな」
「ん、昨日もたくさん寝たから、今日は早く起きちゃった」
「そうか。体は大丈夫か?」
「元気が有り余ってる」
そう言って、玲は胸を張った。特に無理をしている様子はない。
「コーヒー淹れるけど、飲むか?」
「ん、お願い」
俺の人生において、目覚めのコーヒーは欠かせない楽しみだ。
いつも通り、お気に入りの豆をハンドドリップで淹れていると、香ばしい匂いがふわりと広がった。この時間が、何よりも幸せなのだ。
「ほい」
「ありがと」
専用のマグカップを渡すと、玲はふーふーしながら飲み始めた。
ちなみに、俺は夏でも朝はホットを飲む。玲たちも、体を冷やしすぎるとパフォーマンスが落ちるという理由から、ホットを飲むことが多い。
「ん、美味しい」
「そりゃよかった」
コーヒーを飲みながら、俺たちはしばらく無言でテレビを眺めていた。
テレビの中では、悪戯した猫が、飼い主に怒られていた。その表情は、まるで不貞腐れているかのようで、人間の言葉を理解しているようだった。
「……お前とこうしてると、前の家を思い出すな」
空腹で倒れた玲を、なんとか運び込んだ家。
来るたびに玲が泊まっていこうとして、そのたびに俺が説教して。
気づけば、こうして一緒に暮らしている。今の環境をあのときの俺が知ったら、泡を吹いて倒れるだろう。
「奇遇。私も同じこと考えてた」
玲は、驚いた顔で言った。
「最近、あんまり二人でゆっくりできてない」
「まあ、そうだな」
基本四人暮らしだし、玲も忙しくて家を空けることが多い。
実は、この時間はかなり貴重なのかもしれない。
「……久しぶりに、凛太郎の生姜焼きが食べたい」
「急だな。そういや、最近作ってないか」
「ん、初めて作ってもらったご飯は、生姜焼きだった」
「そうだったっけ?」
「私は、凛太郎が作ってくれたものは全部覚えてる」
「……嘘だろ?」
そう訊くと、玲は真剣な目で俺を見つめた。
どうやら本当らしい。ということは、下手なものを作っても、一生覚えているということか。
それは、ちょっとプレッシャーだな。
「じゃあ、今日は生姜焼きにするか」
「いいの?」
「今の俺が作る、スペシャルなやつを食わせてやるよ」
去年から成長しているのは、何も玲だけじゃない。
俺だって、料理の腕は確実に上がっている。毎日彼女たちの腹に合わせて、とんでもない量を作っているのだから、当然だ。
「ん、楽しみ」
そう言って玲は、思わず言葉を失ってしまうほど、魅力的な笑みを浮かべた。
「――――おや、なんの話をしていたのかな?」
「仲間外れにすんじゃないわよぉ~……」
振り向くと、そこにはミアとカノンの姿があった。
すでに普段通りのミアと違い、カノンはヘロヘロで、いかにも寝起きといった様子だ。
「……今日の晩飯の話だよ。生姜焼きでいいか?」
「いいね。もちろんだよ」
「あたしもさんせ~」
果たして、カノンは話を理解した上で返事したのだろうか。
カノンは眠そうに目をこすりながら、洗面所へと消えていった。
「そうだ、レイ」
「ん?」
「昨日葵ちゃんから来た連絡見たかい?」
「ううん、見てない」
「フェスに向けた新曲が完成したって。来週からまたレッスンだね」
――――フェス?
聞き覚えのない言葉に、俺は首を傾げる。
「そういえば、凛太郎にはまだ言ってなかった」
「秋に、色んなアイドルを集めた大きなイベントがあるんだよ」
俺が「ほう」と声を漏らすと、顔を洗いにいったであろうカノンが、ダッシュで戻ってきた。
「ツインズもキャンスプも! 人気アイドルはみんな出るわ! まさにアイドル大戦ね!」
「競うわけじゃないけどね」
ミアが、そう言いながら呆れたように笑う。
アイドルフェスか。なんだか、また忙しくなりそうな予感がした。




