80-1 ツアーに向けた準備
茹だるような暑さの中、俺は汗だくになりながら、なんとか学校にたどり着いた。
もう数日辛抱すれば、念願の夏休み――――なのだが、三年生ともなると、そんな甘っちょろいことは言っていられない。
待ち受ける受験勉強。連日夏期講習が行われ、休みが存在しない生徒もいる。
登校してきた途端、机に突っ伏してうめき声を上げている竜二がそうだ。
「どうしたんだ? あいつ」
「夏期講習のせいで、夏休みが憂鬱なんだって」
雪緒が、竜二に同情の視線を向ける。
去年はあれだけはしゃいでいたのに、一年で人は変わるものである。
「俺もうかうかしてられないんだよなぁ」
暗い顔をしながら、祐介が近づいてきた。
「お前までどうしたんだ?」
「前の模試の結果がよくなくてさ。ここで気合いを入れないと、ちょっとまずいんだ」
祐介は眉根に深いしわを寄せながら、そう言った。
優等生の顔すら歪めてしまうのだから、まったく受験というのは恐ろしいものである。
すると、祐介はハッとして、下手くそな笑みを浮かべた。
「悪い! 愚痴みたいになっちゃって! 朝っぱらから気分悪いよな」
「別に気にすんなよ。みんな同じようなもんだし」
雪緒が、うんうんと頷く。
いくつかある人生の分岐点のうち、大学受験というのは非常に重要である。
ここで失敗すれば、理想とする人生を送れないかもしれない。誰もがそんなふうに考えて、大きなプレッシャーを抱える。
志望校のA判定をキープしている雪緒ですら、不安は常にあるはずだ。
「……ありがとう。そう言ってもらえると助かる」
祐介は、どこか安心した様子を見せた。少しは助けになったのだろうか。
予鈴と共に、祐介が自席に戻っていく。
「ねえ、凛太郎」
「ん?」
「人の心配もいいけど、ちゃんと自分のことも労わってる?」
雪緒の目は、やけに真剣だった。
自分を労わるなんて、普段意識したこともないが、追い詰めているつもりもない。
「なんだよ急に。別に、今まで通りだけど」
「もう、夏休みは凛太郎だって忙しいんでしょ? 全国を飛び回ることになるんだし」
「ま、まあ、それはそうだけど、別に俺は――――」
「大変な思いをするのは自分じゃないって?」
雪緒が顔を近づけてくる。
俺は呑気に「こいつの睫毛長いなぁ」なんて考えていた。
「君は、困った人を見ると、自分のことのように心配してしまうんだ。そして、自分にも何かできることはないか、真剣に考えてしまう。違う?」
「ち、違いません」
思わず敬語になってしまったが、そもそも、どうして説教されているのだろうか。
とりあえず、雪緒が心配してくれていることだけは伝わってくるが。
「なんでもかんでも背負おうとしすぎないで。人に親切にできるのが、凛太郎のいいところだけど、ちゃんと自分の体力と相談してね?」
「は、はい」
「まったく、僕は君が心配でならないよ……」
雪緒は、深くため息をついた。
いつの間にか、俺は膝を合わせ、姿勢を正していた。
こいつがここまで言うということは、本当に俺に言い聞かせたいことだったのだろう。
経験上、雪緒の話はためになる。心に留めておいて損はない。
「分かったよ。無茶はしないようにする。しんどくなったときは、お前に相談していいか?」
「もちろん。いつでも待ってるからね」
嬉しそうに笑った雪緒を見て、内心苦笑する。
人の心配ばっかりして、自分だって同じではないか。
まあ、指摘したところで、「僕はいいの」の一点張りだろうし、ここは黙っておく。
「あ、そういえば、マネージャー体験はどうだったの?」
「体験ってほど出番はなかったけど……まあ、大変だったな」
実際に体験して分かったが、マネージャーは想像以上に広い視野を持つ必要がある。
タレントに気を配るのは当然として、現場スタッフとのコミュニケーション、収録物の監修、スケジュール管理など、単調な仕事はひとつもない。
予定通りに進まないなんてことはざらで、常に臨機応変な対応が求められる。
「その様子だと、凛太郎が彼女たちのマネージャーになるっていうのは、あり得ないみたいだね」
「まあな。俺は自分の持ち味を活かしたいんだ。そのために色々資格を取ろうとしてるわけだし」
ツアーに同行するなんて、今回がおそらく最初で最後になるだろう。
だからこそ、いい結果で終わりたい。
俺は、そう強く意識していた。
三限目が終わった途端、竜二が勢いよく席を立つ。
「ようやくこのときが来たぁああ!」
そう叫びながら、竜二は教室を飛び出していった。
あまりの勢いに、クラスメイトたちは唖然とする。
「急に元気になったね……」
「よっぽど体を動かしたかったんだろうな……」
四限目の授業は、水泳だ。
炎天下で、冷たい水の中を泳ぐというのは、俺としても惹かれるものがある。
さっさと移動して、着替えてしまおう。
「はぁ、僕も入れたらなぁ」
一緒に教室を出た雪緒が、残念そうにつぶやく。
雪緒は肌が弱く、体育にはあまり参加できない。
特に、直射日光に晒されるプールは、こいつにとって拷問に近い。
「今度一緒に、屋内プールでも行くか? 泳ぎ方教えてやるよ」
「ほんと⁉ 約束だからね!」
子犬のように跳ねる雪緒を見て、思わず頬が緩んだ。
ふと、後ろから気配がして、恐る恐る振り返る。
すると、隠れて雪緒に視線を送る、複数のクラスメイトの姿があった。男女比は、半々といったところ。おそらく、全員雪緒のファンだ。
噂によると、雪緒の水着姿を見たがっているらしい。なんとも低俗な連中である。
残念ながら、今日も彼らの欲望が満たされることはない。
更衣室に入ると、そこには謎の熱気に包まれた男子たちがいた。
その雰囲気は、さながら大事な試合に臨もうとしているスポーツ選手のようだ。
「き、気合い入ってるね……」
雪緒の顔が引き攣っている。
ここにいる野郎どもは、女子のスク水姿が見たくて必死なのだ。中には、少しでも目に焼きつけたいのか、目薬を差している者までいる。
冷静なのは、俺と雪緒、そして今入ってきた祐介くらいである。
竜二に関しては、今すぐにでもプールに入りたいらしく、すでにプールサイドで待機している。やつだけは、別の意味で飢えている。
「……大丈夫か、祐介」
「まあ、これも授業だし、仕方ないことだから」
祐介は、そう言って困った顔をした。
彼らのターゲットの中には、無論二階堂も入っている。
彼氏として、彼女の水着姿を見せたくない気持ちは、俺にも分かる。
「しゃあ! 行くぞぉぉ!」
「「「おおおお!」」」
雄叫びを上げながら、目を血走らせた男子たちがプールサイドに駆けていく。
あれじゃ猿の群れだ。
「馬鹿どもめ。ああはなりたくねぇな」
「凛太郎、漏れてるよ」
「おっと」
口を押さえ、俺は肩を竦めた。
――――さて、我がクラスには、雪緒以外にも多くの関心を集める者がいる。
皆様ご存じ、乙咲玲である。
男子たちの関心のほとんどは、玲に集まっていた。
アイドルのスク水姿を生で拝める機会なんて、そうある話じゃない。特に、玲ほどの知名度ともなれば、なおさらである。
ひと目でいいから見たい――――そんな馬鹿どもの欲望は、一瞬にして打ち砕かれた。
プールサイドにいたのは、ジャージ姿の玲。
「「「そんなぁあああ!」」」
馬鹿どもの悲鳴が響く。
夏休み前、最後のプールの授業。これまで、アイドル業でプールの授業を休み続けていた玲が、ここに来てついに出席したというのに、まさかの見学。
馬鹿どもが、膝から崩れ落ちていく。ひどく滑稽な姿であった。
「「「こうなったら! 他の女子でもいい!」」」
失礼すぎるだろ。




