第22話 Dehydration
汗が頬に流れる。足の筋肉が脳にSOSを送るが、それを無視するほどの強固な「意思」が、私の足が止まるのを許さない。
「あと5周!」
海馬の声がアダマントスーツの内臓スピーカーから聞こえる。
そう。私たちは走りこみの練習中だ。アダマントスーツをつけて、私たちはランニングをしているのである。もちろん、アダマントスーツの補助パワーを使わずに。補助パワーなしでこの4キログラムのスーツを来て走るのがどれだけ辛いかは想像に難くない。
そしていま私たち四人が走っているのは地下の陸上部がいつも使うトラックだ。一周400メートルもあるのを、25周、つまり10キロメートル。制限時間50分。海馬は私たちを拷問しているとしか思えない。
海馬の声に続いてアラームが鳴り響く。
「心拍数2.5ポイント上昇。危険な状態です」
機械じみた声色がそう告げる。
しょうがない。ペースを落とそう。
というのも私の時間の猶予は14分もある。普通のペースで走れば十分間に合う。
オリバーはもう完走している。4キロのスーツを纏って36分完走は私の元の身体でもなし得ないだろう。
問題は後ろの2人だ。遥も薫もあと7周。平均よりもかなり体力のあるはずの2人だが、流石にこの厳しい条件では音をあげてしまう。
*
気づいたら私は完走していた。
私はトラックの内側に仰向けに倒れこむ。
スーツが重くて息がしづらい。
「気づいたら」というのも、私は本当に完走した時に意識が戻ったからだ。
運動するとき、脳に考えるエネルギーを供給するのは無駄だ。だから特殊部隊では、ME(Mind Evacuation)という訓練をさせられる。その名の通り、頭を空っぽにして、不必要な考えを除去する訓練だ。欠点は、運動していて車に轢かれるなどしても、死ぬまで気付かないということだ。それも、もし死後の世界があればの話だが。
「お疲れさま〜。着替えて二号館に戻ってきたら次は射撃ね〜」
海馬の声が響く。私は重力加速度が3倍になったのかと思うほど重い身体を起こし、更衣室へ向かう。振り向くと、辛そうに、でも確実にトラックを周回する2人が見えた。
「あの二人大丈夫だったか」
二号館に戻ると、優雅にコーヒーを飲んでいるオリバーが心配そうに聞いてきた。
「多分あの感じじゃ時間までに完走はできないわね。まだまだ特訓が必要ね」
私は疲れをオリバーに悟られないように言った。口で思いっきり息を吸いたいのを抑えて、鼻から精一杯呼吸をする。呼吸量が足りなくて頭が痛くなる。
「お見事、ゆりなさん」
どこからともなく現れた海馬がそういう。
「先輩、流石にこの練習キツくないっすか」
私は少し声に棘を混じえて言った。
「本来はこういうはずじゃなかったんだけどなぁ〜」
海馬が私の口調を歯牙にもかけない様子で言う。
「なんでですか?」
私は出来るだけ穏やかな声色でそう言った。
「だってこれ本来は完走できないような設定にしてあるんだよ。君たちに自分の限界を知ってもらうために。でも君たち2人は余裕で完走しちゃうんだから困ったもんだよ」
海馬が本当に困ったような顔をする。
その顔に無性に腹が立った。
「もともと完走できないようなのをなんでやらせるんですか?!」
私の頬は今、おそらく、怒りで赤に染まっているだろう。
「まあ、そう怒らないでよ。確かに無理だとは思っていたけど同時に君たちの可能性にも期待してたんだ。もしかしたらって。逆説的に聞こえるかもしれないけど」
海馬がそう弁明する。私はそれを無視して射撃場へ向かった。
*
私がここに来て撃つのはいつもベレッタ92。私の始まりと終わりの象徴。なんだかんだ言ってこの銃の性能は作られてからずっと群を抜いている。イタリアのベレッタ社が数十年前に潰れてからも、サードパーティがより安価な値段で製造し続けている。実際、このベレッタ92はガーマメント社製のベレッタ92だ。
質感も性能も射撃感も変わらないのに、ベレッタ社製の本物よりも安っぽく感じてしまう。これは多分心の問題だろう。
ふと後ろを振り向くと、ガラス越しに遥の姿が見えた。顔が恐ろしくやつれている。さっきのランニングが相当辛かったのだろう。無理もない。
私はすぐに遥たちがいる方へ向かおうとした。
その時だった。
遥が目を閉じ、その場で重力に任せて倒れたのだ。
痛々しい振動がこっちまで伝わる。
私は急いで遥の方へ行った。
異変に気づくのに時間は要さなかった。
脱水症状
私はすぐに自分バッグから経口補水液を取り出し、遥に飲ませた。
しかし遥には意識がなく、飲んでくれない。額に触れる。
炎
遥の皮膚の持つ熱エネルギーが、私の手へと流れた。
「オリバー!早く救急車呼んで!」
「わかった」
オリバーも事態の深刻さに気づいたらしい。
「俺は先生呼んでくる!」
海馬はそう言って部室の外へ走り出ていった。
重度の熱中症は人を死に追い込む。
すると、遥が目を開けた。
「..たよ」
なにかを呟いているのはわかったが、聞こえない。私は泣きそうになった。
「これ飲んで」
私は経口補水液を遥の口へと入れる。遥かは震える手でペットボトルを支えて、少しずつ口に含んで行く。
「無理しないでよ...」
私は嗚咽にも近い声を漏らす。なぜ私は泣きそうになっているのか、自分でもわからない。
遥かは震える手で私の頬に触れた。




