四十二話
水中で人はここまで動けるものなのか。
驚愕の念と畏敬の念の両方を抱きながら、海中でアドラはエイサと殴り合いを続けている。
エイサの武威を聞き及んではいたが、剣も用いずここまでやるとは思ってもいなかった。
水中において魚人種は無理の強さを誇る。肉体機能のあらゆる部分が、水中で生活するために適応した種であるのだからそれは当然だ。水中において魚人種は地上の数倍で効かない強さを発揮する。それこそ、龍種ですら魚人種とは水中での戦闘を避ける程に。
その上でアドラは魚人種における最優だ。
その男が死力を振り絞ってなお、目の前の只人に一撃さえも入れられない。
戦闘が始まって既に五分。
拳が交錯した回数は既に百を超える。
そうでありながら、アドラはエイサにただの一撃すらクリーンヒットさせる事が出来ていなかった。
極まっている。
技量もそして肉体も。
これが人の極み。
これが魔王軍最強。
エイサの強さはアドラの想定の遥かに上を行き、その上で手を抜いていることが目に見える程にわかってしまう。
「だが、俺にも魚人としての誇りがある」
エイサに向けてアドラはそう宣言した。
それに対してエイサは何も答えない。
いや、そもそも海中で答えたところで、言葉は泡となって消えてしまうのが関の山ではあるが。
しかし、それに応じるようにエイサも再び構えた。
「がはははは。人にしておくには惜しい益荒男だな」
そんなエイサの動きを見て取ってアドラは大声で笑った。
ひとしきり笑った後に、その笑みを消してエイサへと向き直る。
場所は海中。
アドラには数多の手練手管がある。
常に海で生き、海と共に育ったのだから当然だ。
今まで重ねた年月は、間違いなく彼に数多の技巧を与えている。
だが、その手練手管を使う事をアドラは選ばなかった。
それは魚人種として、海で敗北する事の恥辱よりも、さらに深い根本より生み出される思いより派生した感情だ。魚人種を統べる長ではなく、ただ一介の男として小細工なしで全力をぶつけてみたいと言う願望より生まれ出た感情だ。
魚人種の長としては失格だろうが、それが嘘偽りのない彼の本心だった。
肉体の変身魔法を解除する。
足が人のそれと同じ二本よりたった一つへと変化する。
尾びれと背びれが彼の纏うシャツを引き裂いて海中へ露わとなった。
海の中を泳ぐ際の最速のフォルム。
それをもって真正面よりぶち抜く。
水を掻いた。
その一掻きでトップスピードに乗り、そのまま拳を叩きつける。
なんの小細工もない、酷く単純な一撃。
だが、何の小細工もないが為に受けることは難しい。そんな一撃。
それを、エイサは容易くクロスカウンターを取って見せた。
アドラは海底にたたきつけられそして、その勢いのままに海面近くにまで浮上する。
エイサはそれを追う様に海面へと浮上し、一息だけ呼吸をすると、再びアドラへと向き直る。
「まだするか?」
「いや、ここまでだ。凄まじいなエイサ将軍。差はあるだろうって簡単に考えていたが、これ程とは思わなかった」
「そうかい。それは良かったぜ。これ以上やり合うなら、船を泳ぎで追いかけなきゃいけなくなるところだった」
「ははは。すまぬすまぬ。本当は最初の一撃だけで測るつもりだったんだが、将軍が実力があまりにも深すぎて、一撃では見切れなかった。熱くなってしまったんだよ」
「……それで? お眼鏡には適ったかい?」
「おうとも。俺程度では測れぬ程に底が深い。それだけは十分に堪能させてもらった。その深さまさしく海溝が如しよな」
笑うアドラに対してエイサも苦笑で返した。
実力を測りたければ、最初からそう言っておいて欲しいものだとエイサは思う。実力試し、断るほどエイサは狭量であるつもりは無いのだが。
「次は最初から言っておいてくれ」
「そうはいかん。俺の部下に八百長などと見られては意味がない。エイサ殿が知らぬからこそ、意味があるのだ。何も告げず喧嘩を売った俺を容易くいなし、その上で余裕を見せてエイサ殿が勝つ。そのくらい出来ないのであれば、魔王軍最強の名が廃るだろう」
「俺が負けたらどうするつもりだその策は」
「龍相手に相手の土俵で勝利するほどの大戦士が、海とは言え俺程度に敗北するものか。負けていたのであれば、それこそ最強の看板は下ろしてもらうつもりだったさ」
水をかき分けながらエイサとアドラはそんなことを話し合っていた。
そうこうしているうちに、船の側にまでたどり着く。エイサは船の出っ張りに手をかけると、そのまま体を上空へと跳ね上げ、甲板の上に飛び乗った。
「戻ったぞ、モンリス」
「お疲れ様です将軍。首尾はいかかでしたか?」
「無論負けねえけどさ。そのつもりなら、最初からそう言っておけよ。お前を庇った俺は良い面の皮じゃないか」
「申し訳ありません。ですけど、最初から伝えておいて、将軍演技できました?」
モンリスの言葉にエイサは沈黙した。
エイサは自分が演技のできる器用なタイプだとは思っていない。そうであるならば、今回の事先に知らされていても、きちんと演技できたかは怪しいところだ。ならば、何も知らせない方が自然でいいと言うモンリスの考えは正しい。
「まあ、それはお前の言うとおりだな」
「でしょう?」
にこやかに言うモンリスにエイサは小さくため息をついた。
自身よりも正確について把握しているこの男に、良いように利用されている気がしないでもないが、それをエイサはモンリスに許している。戦略、戦術に関してモンリスに勝るところは無いと自覚して投げたのが自分自身である以上、それ以上文句を言うのは筋違いだと納得し、言葉を収めて甲板に置いておいた自身の剣を回収して背負いなおす。
「乾かさないと錆びますよ?」
「上に上がるついでに海水は払った。微量の塩水では錆びないように魔力で加工してあるから、これで十分だ」
「上ってくるときにえらく回って上ってきたと思ってましたが、そう言う事ですかい」
「将軍にモンリス。中に入ってくれ。これからの予定を話しておきたい」
グダグダと下らない事を話しているモンリスとエイサに向けて、甲板に上がってきたアドラが声をかけた。船の中へつながる扉を開いて二人を呼びかける。その声に従って船内に二人は入っていく。そして船長室へとアドラの先導で向かっていった。
「予定としてはナグラムまで一日。そこで半日かけて荷物を下ろして、その後は王国軍の補給線を叩く。んで、奴さんの補給物資をしこたまいただいた後に、すたこらさっさと逃げ戻ってくる。期間としては三日くらいを考えている。ザックリというとそんなもんだが、何か質問はあるかい将軍」
「無い」
船長室にて予定をエイサへと伝えていたアドラは、エイサの即答に眉をひそめた。そして、それに苦言を呈する。
「おいおい……それでいいのかよ将軍」
「モンリスとは詰めたんだろうアドラ将軍。なら、俺が口を出す必要はないからな」
「はぁー。信頼してるんだな将軍」
「普通は信頼してても確認くらいとると思うんっすけどねぇ」
感心したようなアドラの言葉に、モンリスがため息交じりに言葉をこぼした。
信頼されていることをうれしく思わないでもないが、エイサの場合はそんな些事に構っていられないと切って捨てるためにモンリスに投げていると言うのが正しい。ある意味では自身のものぐさのためにエイサに仕事を投げ渡しているのと同義だ。その事は素直には喜べなかった。
エイサやアドラ、そして前回の責任者であったヒヴィシスのように、能力さえあれば小鬼だろうとなんだろうと気にしないタイプの将軍ばかりとは限らない。
魔王軍は寄り合い所帯だ。
様々な種族が魔王の名のもとに集う。
だが、集っているからといって軋轢がないわけではない。
強大な力を持つ種族であればあるほど他の種族を見下してみている傾向は残っている。そんな中では小鬼の男が副官に据えられているという状況に、従えないと反発する者だって当然いる。魔王軍最強であるエイサでさえ、只人であることが表ざたになれば、彼の命令に従うかどうかは怪しい。そんな只人でさえ見下す傾向が強い小鬼族ならなおさらだ。
その状況になった時、せめて意思疎通くらいは行えるように作戦の最終決定権はエイサに握っておいて欲しいとモンリスは思っているのだが、エイサはその言葉をあまり聞き入れなかった。
それは面倒であるという理由もあるが、そもそもからしてモンリスの言葉を受け入れないならば、エイサの言葉を受けいれるかも怪しい。そうなれば結果は同じだ。結果が同じであれば、過程に力を費やすだけ無駄だとエイサはモンリスに答えた。
「そもそもお前の言葉を受け入れないのであれば、こちら側が相手方の言葉を受け入れる必要もない。将軍位における関係は対等だが、勇者に関してだけ、俺は優先的介入権を魔王様より保証されている。ならば、何の問題も無いだろう?」
「問題は無くてもしこりは残るっすよ? 恨みつらみは窮地に陥った時にこそ表に出るんすから、そういったしこりは出来る限り残したくないんっすよ」
エイサの言葉にモンリスはため息をつきながらエイサに向けてそう言った。
その言葉にエイサは肩を竦めるとモンリスの肩を叩く。
「ならば任せる。それも踏まえて俺はお前を重用しているつもりだぜ? モンリス」
「面倒な事を全部投げるためだと思ってましたよ、将軍」
「ああ。それもあるな」
エイサの言葉にモンリス何も言えず沈黙するしかできなかった。
その二人の様子をアドラは面白いものを見る目で見ていた。