9話 彼女のために
「姫とともにエルファードに行きたいだと?」
低く深みのある声が、王族用の執務室に落ちた。王の前に立つエルシオンは声色を変えずに返す。
「はい」
国王、レオンハルト・グランヴェル。
玉座ではなく執務机に座るその男は、老いてなお獅子のような威圧感を纏っていた。
その髪は白く、長く伸ばした髭もまた、同じように白銀に染まっている。
頬には深い切り傷があり、歴戦をくぐり抜けてきたことを示すその姿は、王というより老将に近い。
エルシオンと同じ金色の瞳が、息子をじっと見据えていた。
「理由を聞こうか」
「エルファード領の統治安定化のためです。
現地には未だ不満の火種が残っていますから」
「ほう。
王太子自ら同行するなんて、まるで新婚旅行だな。なぜそこまでするのかね」
からかうような口調。
エルシオンは王の前に立ったまま、淡々と答える。
「彼女がグランヴェルで王太子の婚約者として、正式に保護されていることを見せるためです。
彼女は民からの支持が厚い。
その彼女がグランヴェルと共に生きる道を選んだと直接的に示せば――彼らの不満や不安も多少は和らぐはずです」
レオンハルト王は髭を撫でつけながらエルシオンを見上げる。
「随分エルファードに優しいのだな。
そんなにその姫を溺愛して、ベルディンとの関係はどうする?
レティスは未だ婚約を諦めていないぞ?」
「……たとえベルディンに攻め入られたとしても、我が国が勝ちます。
私の戦績をご存じでしょう。
だから父上も今回の結婚をお許しになったのでは?」
その言葉に、レオンハルト王は腹の底から豪快に笑った。
「そう来るか、青二才め!
フィオリア姫と婚約できなければ軍を降りるなど、本来謀反者で処刑よ。
お前だから許したのだ」
エルシオンを見上げるその瞳は、鋭く光っていた。
「ベルディンの姫レティスと結婚していれば、あの国の魔法技術も手に入ったものを」
「……彼らの魔法技術は、そのほとんどがベルディン固有のものではありません。
彼らが拒むのなら、他の国家と手を結べばいいでしょう。
ーーただ、エルファードの精霊魔法は、エルファードだけのものです。
彼らだけが、自然を操り、死んだ大地をも蘇らせることができるのですから」
「それだけか?
それだけが理由で、エルファードの姫を側室でもなく、正妻にするつもりで婚約を申し出たのか?」
「ええ」
その返事を聞き、レオンハルト王は呆れたように言った。
「王宮侍女を解雇し、第三王子を牽制したと聞いたぞ。
全て、彼女のためだとな。
それからまた彼女のためにエルファードへ行こうとはな」
エルシオンは初めて、レオンハルト王から視線を逸らした。
王はしばらく黙った後、口を開く。
「お前は王太子としては非常に優秀だ」
「それはどうも」
「だが、人間としては厄介極まりない」
「否定しません」
何の反論もしないエルシオンに、王は鼻をならして笑う。
「姫とエルファードを救いたいがあまりに、我が国を蔑ろにすることは許さんぞ」
エルシオンは一瞬だけ目を伏せる。
「承知しております」
「……では好きにしろ」
諦めたかのように、王が手を振った。
「ただし、ベルディンとの問題はこの後ずっとついて回るぞ。
私は次の国王となるお前の決定を尊重するが、必ずしもお前の味方ではない。
心せよ」
「心得ております」
エルシオンはそう答えてから、わずかに間を置き、言った。
「その上で――全て引き受ける覚悟ですから」
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「お待たせしました、姫君」
エルシオンが王宮の中庭に出ると、その先でフィオリアが庭の花を見ながら待っていた。
白を基調に、淡い青色のレースを重ねたドレスを着こなす彼女の金色の髪は、夕日に透けて柔らかく輝いていた。
エルシオンを見るなり、フィオリアの表情は明るくなった。
「殿下!」
その声だけで、エルシオンの先ほどまでの疲労は少し薄れるようだった。
「……どうでしたか?」
少々上目遣いになり、恐る恐る聞いてくる姿はまるで小動物のようだった。
エルシオンは微笑みながら返す。
「許可をいただけました」
次の瞬間、フィオリアの顔がぱっと輝いた。
「本当に!?」
「はい」
「帰れるんですね……!」
その笑顔は、王宮ではあまり見せないものだった。
心からの嬉しそうな、可憐な花が開いたかのような笑顔。
最近やっと、彼女本来の天真爛漫さが垣間見えるようになったことを、エルシオンは嬉しく思っていた。
彼女が笑顔でかわいらしく歩き回っているのを見ると、自然と口角があがる。
「そんなにお喜びになっていただけるとは」
「皆に会えるのですよ? 嬉しくないはずがありません!」
その瞬間、中庭に咲いている花の蕾がふわりとふくらみ、桃色の花が咲いた。
「あっ」
フィオリアが慌てて口を押さえる。
エルシオンは気づかないふりをした。
彼女は感情が大きく動くと自然へ影響を与えてしまう体質のようだ。
本人は隠しているつもりらしい。
「早く帰って準備を」
「はい!」
元気よく答えたフィオリアは、小走りで馬車に向かっていく。
(どんなに踏みつけられても必死で生きていく姿は、きっと彼女の母親譲りなのだろうな……)
エルシオンは遠い記憶と、彼女の後ろ姿をぼんやりと重ねていた。




