無知の知
聖都と鉱山の間には、〝豊穣〟の名を冠する、大きな森が広がっている。その名の通り、ここは無数の動植物で溢れており、聖地に多くの恵みをもたらしている。
清涼なせせらぎ、木々のざわめき、枝葉の間から漏れる陽の光、獣たちの声、そして、
「止まってぇえええええええええええっ!」
私の渾身の叫びと、土煙を上げて爆走する鳥車。
「止まれって言ってるでしょうがバカ鳥ぃいいいいいいいいっ!」
「そんなやたら手綱を引っ張っても、今のこいつらには逆効果だよ」
私とは対照的に、隣に座るトーマは、他人事のように落ち着いていた。
「何呑気にふんぞり返ってるのよ黙ってないで何とかしなさいよ貴方の駆鳥でしょう地駆民──っ!」
「ろくに操れもしないのに、勝手に手綱を握ったのはそっちじゃないか。ったく‥‥‥」
と、この酷い揺れの中、トーマは何の躊躇いなく立ち上がり、
「ち、ちょっとっ?」
私の制止も気にせずに御者台から跳び上がると、当然のように駆鳥に乗り移った。そのまま、瞬く間に荷車を繋ぐ引き具を外し、
「ほれよ~しよし」
駆鳥をなだめながら、トーマは木々の向こうへ駆け抜けていった。一方の私はと言えば、荷車に取り残される。
「え、ちょ」
駆鳥を失ったとはいえ、暴走がすぐに収まるはずもなく、荷車は惰性で進んでいく。その先には、大きな岩があった。
「──っ!」
あたり一面に、光が爆発した。
後で聞いた話も統合すると──加減無しに前方に放った私の輝術によって、岩はおろかその先の全てを吹き飛ばしたとか。そして、その向こうからやってきた衝撃波が、惰性で進む荷車にぶつかり、姿勢が崩れ、大きく傾いた。
私は、咄嗟に翼を広げて飛び上がる。その真下で、荷車は大きな音を立てて横転した。積荷が、幌を破ってぶちまけられていく。
「うわぁ‥‥‥」
上から見ると、そんな呟きが思わず漏れるくらいの勢いだった。私にさえ、そう見えたのだ。
「‥‥‥そりゃ、覚悟はしてたけどさ」
駆鳥を連れてやってきたトーマは、その光景に呆然となっていた。
「ままならないもんだねぇ」
トーマは、私の方を見上げ、
「とりあえず荷車を起こすから手伝いなよ、そこの元凶さん」
確かに、彼の護衛を約束した。しかし、だからと言って足の遅い鳥車に合わせていては、時間がかかってしまう。
かつて読破した、御者の教本通りにすれば大丈夫──と思ったのが、大きな間違いだと気づいた時には、悲鳴を上げた駆鳥が暴走を始めていた。
そんなわけで、森の中間付近にて、私達は足止めを食っていた。聖都から出発して、二日目のことである。
だが、私の失敗は、それで終わらない。
「このっ」
私は、輝術を放つ。
攻性系輝術〝貫閃〟──先端を鋭利な形に形成された輝力が、矢のように放たれる。轟音と共に地面が噴き上がり、その音と衝撃に驚いた鳥たちが、悲鳴を上げて枝から飛び立っていった。土煙が晴れると、そこに残っていたのは、抉れた地面のみ。そこにあったはずの缶詰は、文字通り跡形も無くなっていた。
「‥‥‥僕はね、缶詰を開けろ、と言ったんだよ」
静かな声に、私は身を硬くする。そして、音が聞こえそうなくらいぎこちない動きで振り返る。
「吹き飛ばせ、消し飛ばせ、と言った覚えは無いよ」
引きつった笑みを浮かべたトーマが、そこにいた。
「ままならないもんだね?」
と、トーマは自然な動きで私に歩み寄り、自然な動きで私の両頬を引っ張りあげた。
「お~お~、伸びる伸びる」
「ひゃひふんほほひゃにゃひゃわひゃひひょひゃれはひょ~っ」
「ちゃんと分かる言葉で喋りな~よっ」
と、掴んだまま弾く。パチン、と我ながら良い音がした──気分は悪かったが。
「う~」
頬の痛みは、すぐ怒りに変換された。
「一方的に押し付けたのは、貴方じゃないのよっ!」
「そりゃ‥‥‥誰かさんが、ろくに動かし方も知らないのに、鳥車を勝手に動かして暴走させてぶっ壊した荷車を修理して」
「う‥‥‥」
「おかげで、メチャクチャになった荷物も整理して」
「うぐ‥‥‥」
「そのドタバタでこぼれた水を汲みなおしたりと、何かとままならなくてねぇ」
「うぐぐっ」
「まあ、そんなに酷いことには、ならなかったからね、過ぎたことは忘れよう‥‥‥と、思っていたんだけどさ」
トーマは、私から離れ、数歩歩いたところで身を屈め、
「まさか、缶切りの使い方まで知らなかった上に、ここまで力ずくとは思わなかったよ」
そこに落ちていた、缶切りを拾う。先ほど、使い方が分からず置き去りにしたのだった。
「ああ、確かに僕が悪かったね。知らなかったとはいえ、〝籠の鳥〟には過酷だったね。必要以上に買い被って、本当に本当に」
ごめん──その言葉は、放たれた〝貫閃〟にかき消された。軸線上にあった木が、三本ばかり直撃を受け、音を立てて倒れた。
「十数年しか生きてない地駆民の幼生、と思って大目に見てきたけど」
堪忍袋の緒が切れる──たぶん今の自分の状態を事だろうと、私は他人事のように思った。この地駆民の、ナメ切った態度を改めさせる時が来たようだ。
「‥‥‥限界だわ」
「へぇ」
トーマは、困ったように笑う。
「なら、どうするんだい?」
まるで、駄々をこねる子供を相手にするかのように。
分かっていて、敢えて聞いている。そんな余裕ぶった態度は、余計に私を刺激してくる。
「命までは取らないわ」
と、私は剣の柄を握り、
「そこは我慢して」
距離にすれば、私の歩幅で五歩分はあった。時間にすれば、瞬きの間だった。剣を抜こうと、手に力を込めた瞬間には、確かにまだ缶切りを拾った位置から、少しも動いていなかったのだ。
なのに、
「あげ、る‥‥‥?」
トーマは、すぐ目の前にいた。
鞘から抜けかけた剣の柄尻を片手で押さえつけ、もう片方の手で、缶切りの切っ先を、私の喉元に突き付けていた。
自分はおろか、周りが諸共凍りついた──ような気がした。さっきまであった、風や木々の音が、聞こえなくなった。
長い長い、しかし実際は数秒の沈黙は、トーマが缶切りを下げ、柄尻から手を離した事で終わった。私が我に返ったのは、トーマが背を向けた時だった。思い出したかのように、周囲の音が耳に入ってくる。
「ちょ‥‥‥待ちなさいっ」
私は、鞘から剣を抜いて、切っ先をトーマの背中に突き付けた。トーマは、気にせず荷箱の一つから缶詰を取り出すと、缶切で切れ目を入れ始めた。私の方など、見向きもしない。
そんな態度が、私の態度を面白いほど逆撫でしてくれる。
「何の手品か知らないけどっ! こんなことで勝った気に」
「君は、今まで何をしてきた?」
振り返らないまま、トーマは私の怒声を遮った。何のことか分からない私に、トーマはさらに続ける。
「魔翼でも何でも、君は純粋な天翔民だろ。地駆民と違って、翼も輝力も持っている。実際、これだけの」
トーマは、手は止めずに、そちらを見やる。それを目で追うと、更地が一直線に伸びていた。鳥車の暴走中、私が無我夢中で放った輝力の爪痕だった。無我夢中で気づかなかったが、これだけの輝力量を内包する天翔民など、そうはいないだろう。
自分は、こんなにも強力な輝力を内包していたのか──高揚する私に、トーマが冷や水をかける。
「これだけの力を持つ君は、今まで何を‥‥‥というか、何かしたことがあったか?」
「それは‥‥‥だ、だって、私自身知らなかったし‥‥‥そもそも輝術を使うこと自体、許してもらえなくて‥‥‥だって、半聖半魔の私には、大人しくしてるしか無くて」
「要するに‥‥‥何もしなかったんだろ」
弱々しい言い訳を、トーマは容赦なく踏みにじった。
「じゃあ、これからはどうだ?。君はその〝力〟で、何をしようとしてる? つうか、何かしようと考えてるか? 今まで、それを考えたことがあったか?」
「私、は‥‥‥っ」
返す答えが無かった──つまり、それが答えだった。
「だから君は、〝籠の鳥〟なんだよ」
トーマは、真摯に、そして冷酷に断言した。
「な、何よっ! 地駆民ごときが、偉そうにっ」
私の口から出てきたのは、実に子供じみた悪あがきだった。
「その、ごときにさえ出来る事が」
そんな悪あがきが、少しでも通用するような相手ではなかった。
「君の言葉を借りれば──十数年しか生きてない地駆民の幼生ごときにさえ出来ることが、君には出来ないじゃないか」
ようやく振り返ったトーマの手には、きれいに蓋が開けられた缶詰があった。
「‥‥‥っ」
もう、悪あがきすら出なかった。剣を握る手は、とっくに力を失って垂れ下がっていた。手放さなかったのは、最後の意地──というよりも、拳を握りしめる形となったから、落ちなかっただけ。
「──っ」
目頭が熱くなり、私は慌ててトーマから顔を背けた。頬をなでる熱は一瞬で、すぐに冷たい感触に変わる。もはや私に出来るのは、逃げるように飛び去ることだけだった。
「そろそろ暗くなるから、あんまり遠くへ行くなよ~」
トーマの飄々とした声が、この上なく癪に障った。