08
なんとなく、こうなるだろうことは分かっていた。半ば投げつけられるようにして渡された封筒を見つめながら、レティシアはそっと、胸の内で溜息をこぼす。婚約の破棄が決まった時からずっと、いずれこの日が来るだろうことは分かっていた、と。
金の箔押しで装飾が施されたその封筒の表面には、丸っこい癖のある筆跡で、“婚約披露パーティー”と綴られていた。レティシアが把握している、数多いるアルバートの側近の誰のものとも違う文字。女らしさというのだろうか。ほんのりと赤みを帯びたインクにも、あどけない手蹟にも特有の可愛らしさが感じ取れ、すぐに、レティシアの頭の中には数日前に見たミリーの、鮮やかな水色の瞳が浮かび上がった。
アルバートとミリーの婚約を発表するパーティーということは、同時に、レティシアとの婚約を解消することを周知する場でもある、ということだ。噂は疾うに広まっているので、今更と思わないわけではないけれど。しかし、ふたりの仲を公の場でしっかりと知らしめることは、ミリーの立場を保護し、より盤石なものにする為には必要なことなのだろう。或いは、夫婦仲を、ふたりの絆をより深める為にも。
そんなパーティーの招待状を前に、しかしレティシアが考えていたのは、その宴に投じられる費用についてだった。ほんのひと月前にも、宮廷舞踏会を開いたばかりだというのに。エルミラード王国の財政は切迫こそしていないものの、だからといって潤沢なわけでも決してない。今後のこと――結婚式やパレード、更には御子が産まれた際の祭――を思うと、帳簿に記されている数字が些か心配だった。とはいえ今のレティシアに、国庫を憂慮する必要性はないのだけれど。
そんなことよりも、先ずは目先の問題を――。レティシアは再び重々しい溜息を密かに吐き出すと、封筒へ落としていた視線をちらりと上げた。眼前には、不機嫌そうに顔を顰めたマチルダが、組んだ腕を忙しなく指先で叩きながら立っている。ほんの数分前、廊下の方から陶器か硝子か、兎も角何かが割れる乾いた音が聞こえてきたけれど、恐らくは彼女のせいだろう。怒りやすく、且つ、ヒステリックなのだ。時にあのレイモンドさえ辟易とさせるほど。
「貴女、分かっているんでしょうね」
すっと眇められた目で射るように睨め付けられ、レティシアは静かに頷く。癇癪を爆発させるか否かのぎりぎりのラインに立たされている今、彼女を刺激しないように、余計な言動は控えるに限る。――ただ、それが必ずしも正しい道になるとは限らないけれど。
「そんなふうだから嫌われたのよ」
それは単なる言いがかりではないだろうか、と思った。思った瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。視界が、まるで光が明滅しているみたいに、白く霞む。最初に感じたのは、痛みではなく、じんわりと皮膚に広がる熱だった。ちりちりとした、ひりつくような感覚。小さな悲鳴が傍であがるのを他人事のように聞きながら、ああ叩かれたのか、と、レティシアは数秒遅れで漸く理解した。
「どれだけ私たちに恥をかかせれば気が済むのっ!」
「おやめください、奥様!」
今にも地団駄を踏みそうなほど気色ばんだ顔をぼんやりと眺め、レティシアはゆるゆると持ち上げた手で、熱を帯びた右頬に触れる。
マチルダが腹を立てるのも無理はない。“婚約を破棄された”というだけでも、彼女たちにとっては屈辱以外の何ものでもないというのに、あまつさえその事実を衆目の中で大々的に晒されるのだ。ブランシャール家にとって、それはただでさえ地に落ちた評判を、更に踏みにじられるようなものだろう。泥の上塗りに耐えられるような人たちではない。
結局、刺激しようがしまいが、今のマチルダにはまるで関係なかったのだろう。叩かれるのは、だから避けられることではなかった。
「パーティーには、貴女ひとりで参加するのよ。いいわね」
「……かしこまりました」
わざわざ宛名まで記して、直々に招待を受けているのだ。拒むことはできまい。それに、家の中から誰かひとりでも参加していれば、“逃げた”などという――マチルダたちにとっては不名誉な――言い草は免れることができるだろう。
責任は自分でとれ、ということか。荒々しい足取りで部屋を出てゆく継母の背中を見送り、扉の向こう側にそれが消えたところで、レティシアは詰めていた息を静かに吐き出した。右頬にはまだ、じくじくとした鈍い痛みが残っている。まるで熾火のような熱も、そしてきっと、自然ではない赤みも。
この後イヴァンと会う約束をしているけれど。果たして誤魔化せられるだろうか――。
▽
まだ王城に移り住む前、一度だけイヴァンに、邸の外へ連れ出されたことがある。
その年はエルミラード王国建国のちょうど節目で、いつも以上に大掛かりな祝祭が執り行われていた。その祭に、皇帝の代理として参加していたイヴァンは、もちろん王城の一区画に滞在していたのだけれど。ケレムだけでなく、数多いる護衛や使節団員の目を掻い潜って、彼はわざわざ上流区にあるブランシャール家の邸にまで足を運んでくれた。正面から真っ当に訪ねてきたわけではなく、無論全く予期しないところから、ひょっこりと。その時彼の顔に浮かんでいた無邪気な笑みを、レティシアは今でも鮮明に憶えている。彼は大人の死角をつくのが、とても上手かった。
市街地を見て回りたい、というイヴァンを伴って、街を歩むのはひどく緊張したものだ。いくら平民と同じ服装をしているとはいえ、それでも彼が大帝国の皇太子であるという事実に変わりはない。万が一イヴァンの身に何かあっては、国同士の衝突にもなりかねないのだから、終始気を張り、なるべく目立たないようにと心がけた。当の本人は、全く気にしてはいなかったけれど。
とはいえ、子どもの足で行ける範囲など、高が知れている。幾つかの露店を見て回り、最終的に辿り着いたのが、大通りから逸れた場所に建つ、喧騒から隔絶されたあの廃教会だった。当時から既に人々の記憶から忘れ去られ、悲しいほどに寂れていたあの教会に何故足を運んだのかは、今ではもう思い出せない。自然の音以外に何もなく、ひとの気配からも遠のいたそこは、だからこそ、レティシアたちの“幼心”を刺激した。まるで秘密基地のようだ、と。
古びたベンチに腰掛け、他愛もない話をたくさんした。時間の許す限り、延々と。
その時と同じベンチに、あの頃よりもすっかり大人になった彼が、座っている。長い脚を組み、背もたれにゆったりと身体を預けて。その光景を、レティシアは暫くの間、少し離れたところからじっと眺めていた。今を過ぎればもう二度と戻ってはこない、“この瞬間”をしっかりと目に焼き付けるようにして。
「まさか本当にいらっしゃるとは……」
「あら、信じていなかったの?」
「いえ、そういうわけではないのですけれど……」
傍らに立つクロエの、驚愕に埋め尽くされた横顔を一瞥して、レティシアはくすりと小さく笑う。彼女がそうなるのも仕方がない。何らかの祝祭が催されているわけでも、外交上の用件があるわけでもないというのに、まさかあのゼハディア帝国の皇太子がこの国に居るなどとは、普通は考えないだろう。
「いつまでそこに突っ立てる気だ」
どうやら気付かれていたらしい。ゆっくりと腰を上げたイヴァンが、ケレムを連れて、悠然と歩み寄ってくる。今日も今日とて、真っ直ぐに向けられる黄金の瞳は、とても眩い。穏やかな陽光で大地を明るく照らす、燦然たる太陽以上に。
「気圧されていただけよ」
「君が? 今更すぎるだろ」
そう言ってけたけたと笑ったイヴァンは、しかし次の瞬間、ぴたりと声をとめた。長く濃い睫毛に縁取られた切れ長の目が、僅かに見開かれる。彼の視線が双眸ではなく、右頬に注がれているのを感じて、レティシアは諦めとともに苦笑をこぼす。あの後すぐに冷やしはしたし、幾分和らいだ赤みの上から化粧を施しもしたけれど。やはりまだ、うまく誤魔化しきれるほどではなかったようだ。
「どうされたのですか」
右頬を凝視したまま口を開こうとしないイヴァンに代わって、傍らに控えていたケレムが、ぎょっとした面持ちで問いかけてくる。なんとも素直な反応だ。ブランシャール家の使用人は誰も――もちろんクロエ以外――、頬の赤みや腫れに気付いていながら、顔色ひとつ変えなかったというのに。
「うっかり転けて、顔をぶつけてしまったの。もういい歳なのに、恥ずかしいわ」
戯けたように首を傾けて、レティシアはそっと笑みを深める。刹那、そんな彼女を、真っ黒い影が覆った。ばさり、と、布の広がる音と共に。それが外套だと気付いたのは、頭を――目深まで――すっぽりとフードに包まれてからのことだった。
視界の端に、フードを摘むイヴァンの、骨の張った指が見える。香が焚き染められているのか、嗅ぎ慣れない匂いがふわりと鼻先を掠め、思わず胸が高鳴った。仄かに甘く、それでいてエキゾチックなぬくもりの溶け込んだ、彼の生まれ故郷を彷彿とさせる薫り。
「イ、ヴァン……?」
「そろそろ行くぞ」
颯爽と離れゆく背中を追って視線を向けると、彼の逞しい身体には、先程まで着ていたはずの外套はなかった。袖や裾に独特の模様が織り込まれた丈の長い上衣が、風を含んで、揺蕩うように揺れる。
「えっ、ちょっと……! 今日は一体何処へ行くつもりなのっ」
慌てて声をかければ、彼は肩越しに振り返って、朗らかに目元を緩めた。
「墓参り」
「墓参りって……誰の……」
「君のお母さん」
思いもよらない発言に、レティシアは息を呑む。ケレムも聞かされていなかったのか、主人の後をついてゆきながら目を瞠っている。無論クロエもまた、表情こそ見えないけれど、唖然としていることだろう。
何故、と問いたかった。どうして墓参りなんかに、と。けれどそうするより先に、イヴァンはゆっくりと唇を開いた。どこか子どもっぽい、はにかむような顔をして。
「そういえば、まだ一度も挨拶してなかったと思ってな」




