07
「――婚約破棄ぃ!?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまい、ケレムは慌てて口を閉ざす。既の所で声量だけでも潜められたのは、骨の髄にまで刻まれた従者としての癖のおかげだろう。イヴァンの傍にいれば、“驚く”ことには事欠かない。何せ、当人の性格があんなふうなのだから。
「一体何故、今になって急に……」
困惑を吐露しながら、ケレムは昼間見たレティシアの、穏やかに綻んだ顔を思い浮かべる。大広場に面して造られた酒場のテラス席に、イヴァンと向かい合う形で腰掛け、のんびりと酒や料理を楽しんでいた、エルミラード王国の“未来の王太子妃”――。
その姿を見つけた時には、ぞっとしたものだ。まさか王城から無理矢理連れ出してきたのではないか、と。普通では有り得ないことだけれど、イヴァンならやりかねない。事実、遠い昔に彼は、大人の目を掻い潜ってレティシアを連れ出し、好き放題遊び回ったという前科がある。幸いにもそれは――直接聞かされたケレム以外――誰の知るとろこにもならなかったが、まさかまた同じことをしたのではと思うと、背筋が凍りそうだった。
それにしても――。窓辺に置いた椅子に座り、夜更けだというのにまだ僅かに賑わいの残る通りを見下ろしつつ薔薇酒を呷るイヴァンの、仄かに憂いを帯びた横顔をちらりと盗み見ながら、ケレムは思う。全く想像だにしていなかったこの展開を、果たしてどう受け止めれば良いのだろう、と。
確かに、アルバートとレティシアは、決して仲の良い関係というふうには見えなかった。連理の枝と評される皇帝夫妻を間近で見続けてきたからこそ、余計にそう感じてしまうのかもしれないけれど。しかしそれでも、特にアルバートの方に関しては、婚約者に対してまるで興味がないのは明白だった。
レティシアの方はといえば、それでも健気に頑張っていたように思う。あんなにも素っ気ない男に、どうしてそこまで甲斐甲斐しく尽くせるのだろう、といっそ呆れてしまうほど。幼い頃からずっと、彼女は“王太子妃”となる為の勉強を欠かさず、寧ろし過ぎなほど懸命に取り組んでいた。それは、国に迷惑をかけない為、ひいては夫となるアルバートに恥をかかせない為の、彼女なりの矜持、或いは誠意だったのだろう。そんなレティシアを、皇妃はとても気に入っていた。
「しかし、よくもまあ、すんなりと通りましたね」
「既に次の相手がいたからだろ」
「えっ、もういるんですか」
聖女ミリー、と、イヴァンは落ち着いた声で告げた。感情の起伏のない、平坦な、だからこそ彼の心中が――幼馴染であるケレムだけには――垣間見えてしまう声。
怒っている時こそ、この男はひどく静かだ。それはある意味で、“皇帝”にとって必要な資質なのかもしれない。時に感情を――特に負の感情ほど――律することは。王城へ出向くつもりでいたのに、それを取り止めたのは、訪ねる理由がなくなったからといえばそれまでだが、しかしそれだけでないことは容易に察しがついた。彼が顔を見たくないのは、国王ではなくアルバートやミリーの方であって、故に、レティシアに王城行きを勧められた時、彼はあれほどまでに顔を顰めたのだろう。「聖女様もいることだし」という、あの一言に感情を引っ掛けられて。
難しいものだな、と、空になった主人のグラスに薔薇酒を注いでやりながら、ケレムは思う。こんなつもりではなかったのだけれど、とも。
――最後の頼みを、きいてくれないか。
国を出る前、彼はそう言った。顔には笑みこそ浮かんではいたけれど、どこか切羽詰まったような、見ている方が胸を締め付けられそうになるくらいの、真剣な瞳をして。
あの言葉は、皇太子としてではなく、ひとりの幼馴染としてのそれだった。長い年月を共に過ごしてきた、互いに信頼し合っているからこその、切実な頼み。いつもは好き勝手に振る舞うくせに。普段通り、こちらの言うことなど聞かず、ただ押し切れば良かったのに。狡いな、と、あの時の澄んだ金色を思い出しながら、ケレムは胸の内で苦笑をこぼす。あんなふうに言われては、断ることなどどうしてできようか。
だから、旅程の変更にも、天候や街道の都合で帰還が遅れるという嘘の報告にも、ケレムは大人しく目を瞑った。ただふたりだけの旅なのだから。それに、これはイヴァンにとって恐らく最後の、ひとり自由でいられる旅にもなるのだろうから。従者としてではなく、ひとりの友人として、彼の望みを叶えてやりたかった。
愛する女に、ひと目逢いたい――。大陸では右に出る者はいない大帝国の皇太子でありながら、どんなに恋焦がれても、決して手に入れることのできない大切な人と、最後に一度でも。
しかし、まあ、事情が変わった。ケレムは自身のグラスに注いだ薔薇酒を飲み下しながら、ぼんやりと天井を見上げる。これから一体、この男はどうするつもりなのだろう。アルバートとの婚約を解消し、“未来の王太子妃”でなくなったレティシアとの関係を。
募らせ続けた想いを、漸く告げるのだろうか。それとも、彼女の前を去り、宮殿に数多届いている縁談のどれかを、受けるつもりなのだろうか――。




