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どうかしている、と思った。ひどく卑しい考えだ、とも。宮廷という魑魅魍魎の跋扈する世界では、そういった性質の人間はごまんと蠢いているので、決して珍しいものではないけれど。しかしそうと分かっていても、理解も納得も同意もしたくはなかった。どんな事情があろうとも。
“聖女”とは主神の御子だと聞かされていたから――。安宿の片隅に設けられた、随分と年季の入った古い階段を登りながら、ケレムはそっと眉根を寄せる。“聖女”は主神の御子であり、故に尊く、慈悲と慈愛に満ちた存在なのだと聞かされていたから、てっきりそういう女なのだろうと思っていたのだけれど。蓋を開けてみれば、ただの強欲で見栄っ張りで打算的な、神聖とはまるで程遠いただの俗人――しかもかなりの性悪な――ではないか。
アルバートとの婚約発表の場に、レティシアを呼ぶなどどうかしている。しかもわざわざ彼女を名指しし、自らの手で招待状を認めているのだから、なかなかに底意地が悪い。突きつけたいのだろうか。レティシアから奪ったものを、彼女が失ったものを、これ見よがしに。
確かに衆目の中で大々的に知らしめることで、立場の違いを“分からせる”ことはできるのかもしれない。レティシアだけでなく、貴族や大臣たちにも。しかしそれで満たされるものなど、ただの優越感だけでしかないだろうに。悦に浸ることで、己に酔い痴れたいのだろうか。絶対的な立場を手に入れた、と。この国で最も名誉も地位も財産もある男を手に入れてやった、と――。
聖女というよりは、寧ろ悪魔といった方が似合うのではないだろうか。そう思いながら借りている部屋の前で足を止め、ケレムは深々と溜息を吐き出す。これからあの話――クロエに聞かされた話――を主人の耳に入れるのかと思うと、そう決断したのは自分自身でありながら、それでもどうしても気が重くてならなかった。クロエがどうこうというわけでは、ない。ただ、イヴァンの機嫌を損ねるだろうことが、考えるまでもなく分かりきっているからだ。
頬の赤みを見つけたせいで、暫くは内心ひりついているようだったけれど。墓参りを終えた頃にはどうにかもとの陽気さを取り戻していたので、安心していたのだが――どうやらその上機嫌も、これで潰えてしまうらしい。
とはいえ、クロエの頼みを無下にするのも忍びなく、ケレムは扉の前に突っ立ったまま頭を抱えた。それに、あんなにも楽しそうに、幸せそうに笑っていたレティシアを、悪魔が仕組んだ嘲笑の渦中にひとり放り込むなんてことは、したくない。何より、後々になってもしイヴァンの耳に入ったとしたら、叱責を喰らうことになるだろうことは明らかだ。
部屋番号の刻まれた真鍮製のプレートをじっと見つめ、扉のノブに手をかけたまま、ケレムは逡巡する。傍からはきっと、ひどく怪しい男に見えることだろう。うんうんと小さな唸り声をあげながら、少しずつ眉間の皺を深めていたケレムだったが、腹の底からたっぷりと重たい溜息を吐き出すと、意を決して扉を開けた。
これはもう、一波乱は避けられまい――。
▽
二日も経つと、右頬の赤みは綺麗さっぱり消えていた。クロエの入念なケア――鎮静効果のある薬草を配合した化粧品――のおかげかもしれないし、ケレムから貰った――帝国で指折りの薬草師が調合した――塗布薬のおかげかもしれない。兎も角、パーティー当日の朝にはもう、すっかりもとの白い肌へと戻っていた。
けれどレティシアは、ドレッサーの前に腰掛け、髪を丁寧に梳かされながら、そっと苦笑する。磨き込まれた鏡に映るクロエの顔はとてもひどい。目元は真っ赤に腫れ、蜂蜜色の瞳はとろりと溶けるように潤み、鼻先も仄かに赤みが滲んでいる。その上、ずび、ずび、と鼻を啜る微かな音が時折聞こえてくる始末だ。
それでも髪を梳く手のやさしさや、道具を持ち変えるてきぱきとした動きはいつもと変わらない。身体に沁みついている、というのはこういうことを言うのだろうか。そんなまるで関係のない感心を抱きながら、レティシアは少しばかり肩を竦めた。
「どうして貴女が泣いているの」
「だ、だって……」
昼食の迎えに来た時はまだ普通だったのだけれど。パーティーに向けての支度を始めてからというもの、ずっとこの有様だった。
「やっぱりこんなの、あんまりですっ……!」
切実に、というふうに絞り出されたその声は、涙を含んだように湿り、微かに震えていた。レティシア自身は疾うに諦め、仕方がないと割り切っていたのだが、どうやらクロエは未だにそうではないらしい。貴女が行くわけではないのに、と呆れがないわけではないけれど。しかしそれ以上に、まるで我が身のことのように心を寄せてくれることが嬉しく、そういう彼女のやさしさがたまらなく愛おしい、と思った。
「大丈夫よ。目立たないように、壁際で静かにしているつもりだから」
「お嬢様がそのように気を遣われても、絶対に聖女様たちの方からちょっかいを出してくるに決まっていますわ!」
哀しんでいたかと思えば、急に眉を吊り上げて怒り出したクロエの、唇を尖らせたり、大きく瞬いたり、歯を鳴らしそうなほど強く噛み締めたりと、ころころと変わる表情に、レティシアはつい笑みをこぼす。ソフィアに愛情深く育てられたからか、彼女はとても感情豊かだ。ふたりきりの時は特に。――羨ましい、と思ってしまうほど。
「さて、出来ましたわ、お嬢様。一度姿見でご確認なさってください」
クロエに誘われて席を立ち、レティシアは姿見の前に佇む。アカンサスなどの植物を彫り込んだ、どっしりとした金色の縁。まるで澄んだ湖面のような、曇ひとつない楕円形の鏡にいっぱいに映り込むティール色は美しく、裾にたっぷりと施された金銀の刺繍が、布を動かす度にきらきらと小さな輝きを瞬かせている。
深い海底を、或いは、けぶるように薫る瑞々しい木々を思わせる、暗く艶やかな青緑のドレス。波の間から覗くやわらかな純白は、波が立てた泡のようにも、はたまた滑らかな花弁のようにも見える。であれば、胸元から腰にかけて鏤められた繊細な宝石は、さながら夜空に浮かぶ星々だろうか。海をも木々をも彩る、清冽なきらめき。
王城に住んでいた頃に買ったドレスや装飾品類は、追い出された際に、全て“国庫入り”として返還させられた。そもそも望んで購入したわけでも、自らの懐からお金を出したわけでも、邸へ持って帰りたいと思っていたわけでもないので、惜しむ気持ちはまるでなかったのだけれど。だからこそ、と言うべきか。大臣を伴って部屋を訪ねてきたミリーに、「泥棒にはしたくない」と言われたことだけは、どうにも納得がいかなかった。返還を拒んだわけでもあるまいに。
結局王城から持ち帰ったのは、移り住む際に持参したドレスと宝石、それから、個人的に贈られた幾つかの品々だけだった。
でも、それだけで十分だった、と、レティシアは胸元で一際神々しく輝く黄色の宝石を見つめながら思う。たとえ、他の全てを奪われたとしても。これさえあれば、それで構わなかった、とも。
「とてもよくお似合いです」
「ありがとう、クロエ」
振り返って礼を告げると、クロエは赤い目元を綻ばせ、レティシアの右手を両手で包み込むように握りしめた。真っ直ぐに見据えてくる目は、潤みを帯びているのに、けれど不思議な力強さもあって。その確かな想いが、まるで掌をつたってじんわりと沁み込んでくるような気がして、レティシアは僅かに目を見開く。心地が良い、と思った。それと同時に、寄り添いながらも背中を押してくれているようだ、とも。
「ご安心下さい、お嬢様。きっとその宝石が、お嬢様のことを護ってくださるはずですから」




