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「人形のようだ」と婚約破棄されたので、もう完璧を演じるのはやめようと思います  作者: 千乃


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 火にくべるのに最適な小枝を拾い集めてから川辺に戻ると、主人は呑気に釣りをしていた。古く小ぢんまりとした雑貨店で購入した、明らかに質の悪い竿を使って。市街地の中でも、もっとましな店は他に幾らでもあっただろうに。こういうのもまた一興、と言って嬉々と代金を支払っていた彼は、しかし先程から全く以て釣果に恵まれていない。


 とはいえ、彼が楽しんでいるのは“釣り”そのものではないのだから、釣れようが釣れまいが大した問題ではないのだろう。せっせと拾い集めてきた小枝――と、それにかかった時間と努力――がただ無駄になるだけだ。


「釣りがお好きなのですね」


 平たい岩の上に腰を下ろした女が、川縁に座るふたりの後ろ姿を眺めながらにこやかに笑う。確か名は、クロエといっただろうか。レティシアが最も信頼を置く侍女として、傍に控えさせている姿を目にすることは幾度かあったが、彼女の名を知ったのも、言葉を交わしたのも、ケレムは今日が初めてだった。


「ええ、まあ。政務の合間に、息抜きとしてよくされています」


 実際は息抜きというより、考え事に没頭する為なのだろうけれど。そう思いながら岩の傍に小枝を置き、ケレムもまた、川縁に仲良く並んで座る主人たちの背中へ、そっと目を向ける。少し距離があるので何を話しているのかまでは聞こえてこないが、レティシアが絶えず笑っているところからするに、何か面白いことでも話しているのだろう。


 そんな彼女が右側に座っているのは、恐らくイヴァンの意図してのことに違いない。振り向きでもしない限り、こちらから見えるのはレティシアの左顔だけだ。あの痛々しい右頬が、人の目のない反対岸――鬱蒼とした木々だけしかない――に向くよう、敢えてそう誘導したのだろうことは想像に難くなかった。何せあのイヴァンだ。それくらいは普通に、平然とやるだろう。


 そういうところが――。やれやれと肩を竦め、ケレムは苦笑をこぼす。そういうところが“だだ漏れ”なのだ、と思いながら。


 レティシアは、イヴァンが誰に対しても分け隔てなくやさしいと考えているのかもしれないが。しかし実のところ、そんなことはまるでなかった。皇太子妃候補として名が挙がっている令嬢たちに対して、彼はレティシアに対するような細々とした心配りを見せることは殆どない。表面上は穏やかに接していても、それは本当に“繕われたもの”に過ぎず、明確に引いた線を超えることは決してしないのだ。故に大臣たちは、主人の“興味のなさ”にひどく頭を抱えている。特に最近は、それが顕著だと思う。――皇帝が病に臥している今、万一のことを考慮すればそれも致し方ないことではあるのだけれど。


 それにしても――。腰を屈め、手近にある丁度良い大きさの石を拾い上げながら、ケレムは苦々しく思う。それにしても、あの赤みと腫れは何だったのだろう。最初に目にした時にはぎょっとしたものだ。うっかり転けてしまったと言っていたけれど、彼女はそこまで粗忽ではないし、何より転けてできるようなものではなかった。それくらいの見分けはつく。


「あの」

「何でしょう?」

「レティシア様の怪我ですが……あれは本当に、仰られていた通りなんでしょうか」


 単刀直入に問うと、クロエは僅かに目を見開き、それから弱々しく微笑んだ。


「奥様の仕業ですわ」

「奥様、って……ブランシャール夫人が?」

「ええ。癇癪を起こされてしまって」


 それで、まさか娘の頬を打ったとでもいうのだろうか。半信半疑ではあったが、しかし、彼女ならやりかねない、とも思う。そもそも当主夫妻は、昔からレティシアに対してひどく束縛的だった。娘可愛さ故の過干渉というわけではなく、駒が逆らわないように管理するという支配的なもの。彼等はそれを自慢気にひけらかすことはあっても、恥じることや省みることはついぞなかった。そんなふたりに対するイヴァンの嫌悪は、無論言うまでもない。


「よくあることなのですか」


 幾つもの石を組んで竈門を造るケレムの視界の端で、クロエがこくりと頷く。心底呆れたものだ。一体何が気に喰わなかったというのだろう。仮に婚約破棄の件だったとして、けれどそれはレティシアのせいではないだろうに。


「最近は辛いこと続きでしたから。偶然とはいえ、イヴァン殿下とお会いすることができて、お嬢様はとても救われたと思います」

「そうでしょうか」

「もちろんです。だって――」


 その時、川縁の方からどっと声が沸いた。どうかしたのだろうかと目を向けると、砂利の上で二匹の魚が、ぴちぴちと水滴を飛ばしながら元気よく跳ねていた。どうやらあの質の悪い竿で、運良く二匹同時に釣り上げたらしい。釣りは初めてだというレティシアが、針から魚を抜くイヴァンの手元を興味深げに覗き込んでいる。


「あんなにも純粋に楽しんでおられるお嬢様のお姿を見るのは、本当に久しぶりのことですから」


 くすくすと笑うその声の奥に、心做しか憂いが滲んでいるように感じ取れ、ケレムは静かに振り返る。クロエは穏やかな表情で、主人の様子をじっと見つめていた。僅かに伏せられた睫毛の影が、目元にほんのりと翳りをさしているように見えるのは、果たして気の所為だろうか。川を渡ってきた冷たい風が、彼女の豊かな髪の毛をふわりと靡かせ、その姿につい、ケレムは釘付けになる。


「今まで大変な思いをしてきた分、お嬢様にはうんと幸せになっていただきたいのです」


 随分と芯のある物言いをするな、と思った。そういえばふたりは幼少の頃からの付き合いと言っていただろうか。主従関係を飛び越え、ひとりの“幼馴染”として相手を慮るその気持は、でも、ケレムにも分からなくはなかった。従者として、騎士団の一員としての役目を優先するなら、そもそも嘘の報告に目を瞑ってまでこんなところにはいない。


「レティシア様のことを、とても大事にされているのですね」

「デミル卿も似たようなものではありませんか」

「それは……」


 石を積み上げていた手をとめ、ケレムは口籠る。確かに彼女の言う通りではあるが、それを認めるのは何となく癪だった。クロエがというより、当の主人に散々振り回されたばかりである故に。


 これまでは何だかんだと絆されて、大目に見てきたけれど。これからはそうもいかなくなるに違いない。――即位がより現実的なものになってくれば、なおのこと。


 もうアルバートの婚約者ではないのだから――。最後の一段を組み立てながら、ケレムは胸の内でそっと溜息を吐く。もうあの王太子の婚約者ではないのだから、迷う必要なんてないだろうに。気持に蓋をして諦める必要も。釣りの最中は基本的に誰も傍に置かないくせに、彼女だけにはそれを許すくらい、その存在を必要としているのだから。


 しかし、彼が思い悩んでいるのもまた、理解できないわけではなかった。大帝国の皇太子妃、そして皇妃という座は、ひどく過酷なものだ。その重圧と責任を、イヴァンは誰より知っている。孤独であり、不自由であるということも、身を以って。彼女のことを大事に思っているからこそ、誰より幸せになってほしいと願っているからこそ、だからレティシアをそんな息苦しい立場に引き入れたくはないのだろう。元々、王太子妃になる予定だったとはいえ。イヴァンの考え方は、アルバートや侯爵一家のそれとはまるで真逆だ。彼女が辛い状況に立たされるくらいなら、手を離すことくらい躊躇うことなくやってのけるだろう。


 さっさと腹を括ってしまえば良いものを。何があろうと絶対に護り抜く、と――。いや、覚悟がないわけではないのだろう。ただ彼は、それを己の我儘と思っているだけで。理性と想いの間で葛藤しているせいで、いつまでもどっちつかずの宙ぶらりんになっている。少し前――皇帝が臥せる前――であれば、まだ思考も自由がきいたのかもしれないけれど。状況が状況なだけに、そうもゆかないのは仕方がないのかもしれない。


「――あの」


 不意に声をかけられ、ケレムは手元に落としていた視線を上げる。なんとも印象的な、ぱっちりとした二重の大きな目。その中心で、蜂蜜のような深い琥珀の瞳が不安げに揺らいでいた。けれど、臆することなく真っ直ぐ向けられる眼差しに、ケレムは思わずたじろぐ。


「何、か……」

「こんなことをお願いするのはおこがましいと分かっているのですけど……その、ひとつ私の話を聞いていただけないかと……」


 問題がなければで構わない、と、焦ったように顔の前で手を振るクロエに、ケレムは目を瞬かす。相手がイヴァンであれば兎も角、国も主人も違えど、互いにただの従者同士でしかない。そこまで気を遣われる必要はないのだけれど、と思うものの、しかしだからといってどう接すれば良いのか、ケレムにも分からなかった。レティシアには緊張しないのだが、どうもクロエには同じようにいかない。緊張というより、調子が狂う、と言った方が正しいだろうか。不思議と落ち着かない気持ちになってしまう。イヴァンの目がないからか、それとも単に、知り合ってまだ間もないからか――。


「べつに、気軽に仰っていただいて大丈夫です」


 ほっと胸を撫で下ろしたように顔を綻ばせ、クロエは傍らに積まれていた枝木を持てるだけ腕に抱えると、竈門の傍まで歩み寄り、ケレムの目の前にすっと腰を下ろした。その拍子にふわりと、覚えのある薫りが鼻先を掠める。ほんのりと甘やかな、清くやわらかい花の薫り。外套を身に着けているせいで、今はすっかりイヴァンの香の匂いに紛れてしまったけれど。でもその薫りは確かに、レティシアがよく身に纏っているそれと同じだった。


 同じ香を用いるぐらい仲が良いのだな、と感心する。だからだろうか。そっと見上げてくる彼女の瞳に、いいようのない怒りと哀しみが滲んでいるように見えるのは。


「実は――」

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