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3、 謁見 (3)

 ひれ伏すキリャコの耳にはしばらく、空気の流れる微かな音しか聴こえなかった。そこにはたくさんの人が集っているというのに、彼らの息遣いさえも聴こえてこない。皇帝とその周囲に居たはずの人々は、いつの間にか音を立てずに広間から出て行って、顔を上げれば独りきりになっているのではないかと錯覚するほどだった。

 キリャコの不安を和らげるように、やがて前方から衣擦れの音とひそひそと囁き合う声が聴こえてきた。孤独だった空間に再び人々がぞろぞろと舞い戻ってきたように感じられた。そして次の声で、キリャコは一気に謁見の場へと引き戻された。


(おもて)を上げよ」


 皇帝のすぐ横に居る重鎮の声らしい。面を上げると言われても、皇帝の姿を真正面に見据えてはいけないことは、キリャコも使者たちも心得ている。彼らは上体を斜めに倒した位置まで身体を戻し、視線は相変わらず石の床を見つめていた。


「この見事な宝物の数々。そして手許に在る縄文字(キープ)には北の邦(チンチャイ・スーユ)の一等地に、この宮殿にも劣らぬ別荘を建て、(ちん)を招きたいとある。先ほどの祝辞といい、アタワルパも必死に無礼を取り繕ったのであろうな」


 声音は相変わらず重鎮のものだった。正式な謁見の場で皇帝が自ら参列者に声を掛けることはない。しかし重鎮は皇帝の言葉をそのまま復唱しているだけである。抑揚や強調するところも同じ。つまりワスカルの肉声を聴いているのと同じことである。その『ワスカルの言葉』は、労いよりも僅かに不満や怒りの方が強いように感じられた。


「しかし、これが朕に対してどのようなことを意味するのかまでは思い至らなかったようであるな。さすがは戦の駆け引きには()けた者よ。何事も一所懸命為せばそれで済むと思うておる」


 ワスカルの言葉にさらに怒りが加わっていくのをキリャコは感じ取った。しかしこれほどの気遣いをして、何故ワスカルの不興を買わなくてはならないのか理解できない。おそらく他の使者も同じ思いだろう。一筋冷たい汗がキリャコの背中を伝った。


「この宮殿は世の中心である。大地で最も神聖で誇り高い場所である。その神聖なる場所を、田舎で掻き集めたガラクタで埋め尽くし、さらにはその田舎にこの宮殿に劣らぬ建物を築いてみせるとは。朕と、この首都を築いていた祖先への侮辱も(はなは)だしい。身の程も分からぬ大馬鹿者か、それとも朕への挑戦か。そのどちらかに他ならぬ!」


 キリャコの手足が震え、鼓動が高鳴り、汗が全身から噴き出た。ついた掌から滲み出た汗が石の床をひんやりと濡らしていく。震える両腕で何とか身体を支え、気持ちを落ち着けようと必死になった。

 やがて鼓動が少し収まってきたところで辺りに音が響かないようにゆっくりと深呼吸をし、やっとのことで声を絞り出した。


「誠にご無礼つかまつりました。よもやその様な深刻な意味合いも併せ待つとは、わたくしもここに居る者たちも、一切思い至りませんでした。わが主とて我らと同じにございます。仰せの通り、我ら北の者は伝統も格式もない田舎で暮らすうち武器を扱うことしか能が無くなってしまったようにございます。陛下のお言葉に、我らがいかに物事の道理をわきまえておらぬのか身に沁みましてございます。しかし田舎者は田舎者なりに、どうすれば陛下への深い敬愛の念をお伝えできるのか、考えに考え抜いた末のことでございます。わが主に代わり、この場にてご無礼を深く陳謝いたします。しかしどうか主アタワルパ殿下のご本心をお察しいただきたく、なにとぞなにとぞお願い申しあげます」


 キリャコは再び上体を深く折り曲げ、床に額を押し付けた。他の使者もキリャコに倣う。彼らの背中が微かに震えているのを見て、その場に集っていた者たちも身を固くした。ワスカルがここまで北の者を憎んでいるとはその時まで気付かなかったからだ。確かにワイナ・カパック帝とニナン・クヨチ皇太子の死去に際し、ワスカルを蔑ろにしてアタワルパを擁立させようという動きがあったことは否めない。しかしアタワルパとその周辺が動き出した実績は無い。しかもアタワルパも彼の信頼するこの使者たちも、ここまで(へりくだ)ってワスカルに敬意を払っているのだ。それすらも悪意として捉えようというワスカルの姿勢に、狂気に似たものを感じざるを得なかった。

 一方、主を貶めてまでもワスカルの怒りをかわし、何とか事を穏便に済ませたいというキリャコの悲痛な願いは、そこに集う多くの者の心を打った。


「…………そなた、名は何と申す」


 緊迫の時が流れる大広間に再び響いた声は、これまで皇帝の言葉を代弁していた重鎮のものではなかった。キリャコはその言葉が自分に向けられているのだとすぐに気付き、相変わらず額を床に押し付けたまま答えた。


「陛下の御前では畏れ多く、名乗ることはできませぬ。わたくしはアタワルパ殿下の影。それ以上の身分はございません」


 キリャコの頭頂の向こうでゆっくりと衣擦れの音が響き、それは段々と彼に近づいてきた。同時に周囲にさざめきが起きるのが分かった。衣擦れの音は彼のすぐ前で止み、さっきの声がすぐ近くで再び響いた。


「アタワルパは、このような大事に名も持たぬ影を寄越したというのか? それこそ朕に対する侮辱であろう」


 冷静ではあるが奥歯を噛みしめるように憎々し気に、声が言い放った。キリャコの額から噴き出した汗が、みるみる床を濡らしていった。


「決してそのような意味ではございません! 陛下の御前ではあまりにも畏れ多く、わたくし自身が名乗る勇気を持つことができなかっただけにございます。お赦しいただけるのなら名乗らせていただきます。

 畏れながら……わが名は、キリャコ・ウクマリにございます」


 衣擦れの音が上から降ってきた。そしてキリャコは髪を掴まれ、伏せていた頭を一気に上に引き上げられた。そこには、朱色の房飾りと黄金の装飾をあしらった頭帯を戴く彫りの深い顔があった。鋭い眼光がキリャコを射る。しかしキリャコの視線が重なると、その眼は俄かに穏やかな曲線を描いた。


「ウクマリ……。ほう、アタワルパの四大武将のひとりか。これは貴重な人物に出会えたものよ」


「いえ、将軍ウクマリは、わが父にございます」


「御曹司か! さてはこれも貴重な人物じゃ。老将では使い道も限られておるからのう!

 さてキリャコよ。どうだ、このまま首都(クスコ)に留まり、朕のために働かぬか? 皇帝直属の武将になれ! さすればそなたは父親よりも高い身分を手に入れられようぞ!」


 ワスカルの眼がさも愉しそうに輝いた。対してキリャコの顔から血の気が引いていくのが周囲の者たちからもはっきりと見て取れた。


「わたくしをそのように高く評価していただき、なんという幸せでございましょう。しかしながら、此度のわたくしの役目はアタワルパ殿下のお言葉を陛下にお伝えすること。アタワルパ殿下に此度のご報告を持ち帰るまではその任を解かれることはございません。いったん北の邦(チンチャイ・スーユ)に戻り、任を解かれてのち改めて上京いたしたく……」


「そうやってはぐらかすつもりか? 再び戻る気など毛頭無いのだろう。

 それなら条件を変えようぞ。そなた、わが娘がだいぶ気に入っていたそうだな。娘コイリュルをそなたにやろうではないか。さすればそなたは朕の身内となる。これほどまでに高い地位はあるまい! 同時に美しい妻も手に入れることができるのだ。どうだ!」


 キリャコの髪を掴んだままワスカルは彼の眼を覗き込んだ。その威圧的な眼光から視線を外そうとキリャコは必死になった。いやすでに意識は遥か遠くを彷徨っていた。



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