第六章 入口の話、あるいは雨の理由
山が近くなると、空気が変わった。
匂いが変わった、というより——音が減った。街道沿いには風の音も獣の気配もあったのに、山のふもとに差し掛かるにつれ、それらがひとつひとつ抜けていくような感じがした。雪は積もっているのに、踏む音がやわらかすぎた。足の下に、綿でも敷いてあるみたいだった。
「静かですね」エリィは言った。
「うん」カエルが答えた。
少し間があって、「気持ち悪い」と付け加えた。悪口ではなく、ただの観測だった。
ヴェルト師は何も言わなかった。少し後ろを歩いていた。
山道に入る手前の、岩が積み重なった場所で、それはいた。
最初、エリィは見間違えたと思った。岩の上に、何か小さいものがある。鳥か、と思ったが、鳥ではなかった。猫か、と思ったが、猫でもなかった。
座っていた。
岩の上に、脚を組んで、両手を膝に置いて。
小さかった。子供くらい、いや、それより少し小さいか。外套を着ていたが、外套が大きすぎて、肩から全部ずり落ちそうだった。顔は帽子の陰になっていて、最初はよく見えなかった。帽子もやはり大きすぎた。
エリィが近づくと、それは顔を上げた。
目が、大きかった。ひとみが金色だった。形は人間だが、目だけが鳥か獣のような輝き方をしていた。ただし怖くなかった。どちらかというと、向こうが面白そうにこちらを見ていた。
食堂で見たものとは違った。あれは丸くて目だけが大きかった。これは別のものだった。
「来たね」とそれは言った。声は軽かった。高くも低くもない、年齢の判断がつかない声だった。
「……だれですか」エリィは言った。
「だれとも言えるし、だれでもないとも言える」
「どっちですか」
「今日のところはどっちでもいい」
エリィはその答えをしばらく頭の中に置いた。納得はしなかったが、これ以上追っても同じ答えが返ってくる気がした。それより、目が気になった。金色の目が、こちらを見ているようで、こちら以外の何かも見ているような気がした。
カエルが手を剣の柄に当てた。「何者だ」
「怖い人だね」そのものは言った。「大丈夫、食べない」
「食べる食べないの話をしてない」
「してるよ。全部そういう話だよ、こういうとき」
カエルは答えなかったが、手は柄から離れなかった。
「ちょっと待って」
そのものが岩から降りた。音がなかった。大きすぎる外套が後ろに流れた。
「入口、こっちだよ」
エリィたちが来た方向とは別の、岩と岩の間を指さした。
エリィは岩の間を見た。隙間があった。人が一人、やっと通れるくらいの隙間が。奥は暗かった。ただの岩の割れ目にしか見えなかった。
「あそこですか」
「そう」
「狭くないですか」
「狭い」
「荷物が引っかかりませんか」
「引っかかるかも」
エリィは自分の荷物を見た。確かに引っかかりそうだった。
「正面には大きな入口があるように見えますが」エリィは山の方を指した。道がまっすぐ続いている先に、確かに門のような岩の形がある。
「見えるね」
「あちらではないんですか」
「見えるだけ」そのものは言った。「見えるものが入口とは限らない。知ってるでしょ」
エリィはその言葉を頭の中で転がした。それから荷物を前に抱え直した。
「わかりました」
「えっ」カエルが言った。
「行きましょう」
「ちょっと待て。本当に入口なのか、あそこが」
「なんか、こっちな気がするので」
「なんか、て」
「他に理由はないですが」
カエルはそのものを見た。そのものはにこりともせず、ただ目だけが金色に光っていた。
「……」カエルは一つ息を吐いた。「わかった」
ヴェルト師は最初から何も言っていなかった。岩の隙間をちらりと見て、それから外套の前を合わせた。寒いわけではないのに、なぜか身支度をするような仕草だった。
岩の隙間は、やはり狭かった。
エリィは荷物を体の前に抱えて、横向きになって入った。石が背中を擦った。少し進むと暗くなった。あとは感覚だけが頼りで、足の裏で地面を確かめながら進んだ。
後ろでカエルが何かに引っかかって低く言った。悪口ではなかったが、悪口に近いものだった。
もう少し進むと、光があった。そのものが先に出ていた。岩の向こう側で、手招きしていた。大きすぎる外套の袖が、手招きのたびに揺れた。
出ると——
扉があった。
巨大な扉だった。石でできていて、大聖堂の正門に似た形だが、もっと古く、もっと重たそうだった。彫刻がある。羽を持った生き物、祈る手、葡萄の蔓。全部、上を向いていた。
エリィは無言で上を見た。
扉の上に、天井がなかった。あるはずの場所に、空があった。雲があった。
「ここ、外ですか、中ですか」
「さあ」そのものは言った。「開けてみれば」
エリィは扉の取っ手に手をかけた。重かった。両手で引いた。少しずつ、扉が開いた。
中は、大聖堂だった。
正確には、大聖堂に似た空間だった。高い天井。石柱。アーチ。壁に沿って蝋燭が並んでいて、ゆらゆらと燃えている。正面には何もなかった。祭壇があるはずの場所に、ただ光があった。白い、まっすぐな光が、床から天井へ柱のように立っていた。
「さっきの大聖堂より広い」エリィは言った。
「広い」とそのものが同意した。
「どうやって岩の向こうにこれが」
「どうやってだと思う?」
「わかりません」
「正直でいい」
カエルが中を一通り見渡した。「罠じゃないのか」
「罠にしては豪勢すぎる」そのものは言った。「もてなしだよ」
「もてなしにしても過剰だ」
「そういうとこが人間は面白い」
雨が、降り始めた。
天井から。
室内なのに、確かに雨が降っていた。蝋燭の炎は消えなかった。石床が少しずつ濡れていった。エリィは手を出してみた。冷たかった。本物の雨だった。
「なにこれ」エリィは言った。
そのものは少し黙った。
「……僕の涙だ」
静かな声で言った。さっきまでの軽さとは少し違う声だった。
エリィはそのものを見た。目が濡れているようには見えなかった。でも、言い方が、冗談には聞こえなかった。
「……そうですか」とエリィは言った。それ以上何も言わなかった。
しばらく間があった。
「嘘」とそのものが言った。さっきの声に戻っていた。「僕らの恵みさ」
「どっちですか」
「どっちだと思う?」
「どっちも本当じゃないかと思います」
そのものは何も言わなかった。ただ、目が少し細くなった。笑ったのかもしれなかった。
カエルは雨が自分の外套に当たるのを手で払いながら、「どっちでもいいから屋根をくれ」と言った。
「屋根はない」そのものは言った。「でももうすぐ止む」
「止むのか」
「止まない。変わる」
変わった。
雨が、風になった。静かに吹いていた風が、少しずつ強くなった。蝋燭が一斉に揺れて、消えた。暗くなった。光の柱だけが残った。風はさらに強くなった。外套が後ろへ引っ張られた。荷物が体ごと持っていかれそうになった。エリィは踏ん張った。
嵐、と呼んでいいやつだった。
視界が閉じた。白くなったのか黒くなったのかわからなかった。ただ、何も見えなくなった。
「目を閉じて」とそのものの声がした。風の中で、不思議に、はっきり聞こえた。
エリィは目を閉じた。
風が、ある。冷たい。でも痛くない。
金属の音が、した。
今まで聞いてきたどの音より近く、はっきりと。金貨が一枚、石床に落ちる音ではなく——何か大きなものが、鳴っている音。鐘ではない。もっと古いもの。
ああ。
とエリィは思った。
ずっとこれが聞こえていたのか。
風が、止んだ。
エリィはゆっくり目を開けた。
花が、あった。
一面に。
地面が見えないくらい、白と黄色と薄紅の花が咲いていた。草が伸びていた。遠くに木がある。空が青い。雲がない。光が、まっすぐ降りてきていた。
「え」エリィは言った。
石柱も、蝋燭も、アーチも、なかった。どこから来たのかもわからなかった。ただ、花野原の中に一行と、そのものが立っていた。
カエルは足元の花を見ていた。剣の柄から手が離れていた。
ヴェルト師は目を細めて、遠くを見ていた。何かを思い出しているような顔だった。老人がああいう顔をするのを、エリィは初めて見た。
そのものが、エリィの隣に立っていた。
「変わった場所でしょ」と言った。
「変わっています」エリィは正直に答えた。それから少し考えて、「きれいですね」とも言った。
「うん」
「雨は」
「降ってた」
「今は」
「降ってない」
「どっちが本当でしたか」
そのものは少しの間、黙った。花野原を見渡した。
「どちらも」
と言った。それだけだった。
エリィも花野原を見た。風がなくても、花が少し揺れていた。揺れる理由が、見当たらなかった。でも揺れていた。
腹が鳴った。
「……すみません」
「お腹が空いてるの?」そのものが少し驚いた様子で言った。
「歩いてきたので」
「ここに来てもお腹が空くんだ」
「空きます」
「面白い」とそのものは言った。本当に面白そうだった。
カエルがため息をついた。「先があるんだろう。案内しろ」
「先はあるよ」そのものは言った。「急ぐ理由があるの?」
「ある」
「そうか」そのものはカエルを見た。「お前のはわかりやすい」
「なんの話だ」
「においの話」
カエルは黙った。
そのものはエリィを見た。
「お前のはわからない」
「そうですか」
「読めない。だから来てみた」
「向こうから来てくれるんですね」
「来るよ。面白い人には」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「面白いって……何がですか」
そのものはしばらくエリィを見た。
それから、ゆっくりと言った。
「お前が使ったお札。あれを見てた」
「……あの板を」
「集落で使ったやつ。山のためのものを、最初に会った子供のために使った」
「はい」
「なぜそうした」
「子供が寒そうだったので」エリィは答えた。「他に理由はないです」
そのものは静かだった。
花が、また揺れた。
「そうか」とそのものは言った。
答えには聞こえなかった。でも、それで何かが決まったような言い方だった。
「行こうか」
そのものが歩き始めた。花野原の中を、細い道があった。最初から見えていたはずなのに、気づかなかった道だった。
エリィはヴェルト師の隣を歩いた。
「師」
「うん」
「知っていましたか。こういう場所があることを」
老人はしばらく花野原を見ていた。
「花の色が、少し変わった」と老人は言った。
「え?」
「前に来たときは、もっと白かった」
エリィはその言葉を聞いて、黙った。
前に来たとき。
それだけで十分だった。
「師の来たときと、色が違うんですね」
「うん」
「なぜですか」
「さあ」ヴェルト師は言った。「花に聞け」
「花に聞き方がわかりません」
「だから花を見るんじゃ」
エリィは足元の花を見た。白と黄色と薄紅。揺れている。理由のない揺れ方で。
金属の音が、またした。
今度は足元からだった。
土の下で、静かに、一定のリズムで。まるで最初からここにあったように。まるでエリィが来るのを、ずっと待っていたように。




