第四章 出発、あるいは置いていくものと持っていくもの
朝、エリィは荷物を四回詰め直した。
三回目まで神学書と着替えの折り合いがつかなかった。四回目でようやく着替え一枚を諦めて神学書の第七章「境界論」を持つことにした。
「エリィ。もう出発の時間だよ」
「四回目をしてる」
マリアは額に手を当てた。
財布を入れ忘れたことに気づいたのは、聖堂の門を出てからだった。
「あ」
「何?」
「財布」
「確認した?」
「……してない」
「まあ」とエリィは言った。「なんとかなるかな」
「なんとかなるかなって言いながら、いつもなんとかなってるから困る。それで世界が回っていいのかって話なんだけど」
「回ってるならいいんじゃないかな」
「よくない」
門の前で見送りが始まった。ヴェルト師はすでに外で待っていて、空を眺めていた。晴れていた。山脈の方だけ、少し雲があった。
今回の旅には、新たな同行者がいた。
カイ・ヴァルターという青年で、背が高く、肩幅が広かった。去年、山の近くで遭難しかけたのをヴェルト師に助けられたという。元騎士で、物事を真面目に受け止めるタイプだった。全部が。
「道中の護衛を務めます。どうかよろしく」
「よろしくです」
「あの……本当に行くんですよね。山へ」
「気になるので」
「気になる、以上の理由は?」
「今のところないですが、多分行けば増えます」
カイはしばらく黙った。「……今のところない、というのは」
「ないです」
「ないんですか」
「ないです」
カイは何かを飲み込むように頷いた。彼の中で何かが決まったらしかった。物事を決めるときの顔だった。
マリアが最後だった。他の子たちが少し離れて、マリアとエリィだけになった。
マリアは何も言わなかった。何か言おうとして、やめた。また言おうとして、やめた。エリィは待った。マリアの目が、少し赤くなっていた。
「……なんか。行かないでって言えないのが腹立つ」
「なんで」
「だってエリィらしすぎて。止める理由がない」
「止めていいよ」
「止めない」マリアがきっぱり言った。「でも腹立つ」
「ごめん」
「謝らないでよ余計腹立つ」
エリィはどうしたらいいかわからなくなって、とりあえずマリアの肩を叩いた。二回。
「痛い」
「ごめん」
「力加減おかしいんだよエリィは、いつも」
マリアがふっと笑った。泣きそうな顔のまま笑った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
エリィは振り返って歩き始めた。三歩目で、石畳の段差につまずいた。転ばなかったが、あわや、という体勢になった。
「大丈夫?!」マリアが声を上げた。
「大丈夫。段差があった」
「そこに段差があるの、三年間知ってたでしょ」
「……知ってた」
「エリィ!」
「うん」
「絶対帰ってきなさいよ」
エリィは振り返らずに手を上げた。振り返ると自分も泣きそうな気がしたので、前だけ見て歩いた。
ヴェルト師が隣に並んだ。
「財布、持っておるか」
「……師が持つと思っていました」
老人はため息をついて財布を渡した。
街を出ると、道は白くなった。雪が積もった街道を足跡をつけながら進む。空は青い。風は冷たいが日差しがある。
「師、山の話を、知っていますか」
「大聖堂で聞いたか。到達した者に宝が与えられると」
「それだけですか」
老人は前を見たまま歩いた。
「歴史の中で、あの山へ向かった者は少なくない。王がいた。国の飢饉を救うため、山の金を求めた」
「得られましたか」
「得た」
「では国は救われた?」
「救われた。その王の代は」
「……その代は、とは」
「次の代の者が、その金を奪い合って戦争を起こした」
エリィは黙った。しばらく雪を踏んだ。
「医師がいた。全ての病を癒す力を求めた。それも得た」
「その医師は」
「千年生きた。己が癒した者たちが全員死んでいくのを見届けながら」
しばらく、街道の雪を踏む音だけが続いた。
「……なんか」エリィはゆっくり言った。「呪いみたいですね」
「どういう意味だ」とカイが言った。
「うまく言えないんですけど」エリィは歩きながら考えた。「王様って、金が欲しかったんじゃなくて、安心が欲しかったんだと思うんです。でも来たのは金だけで、安心は来なかった感じで」
「続けろ」とヴェルト師が言った。
「お医者さんも……苦しむ人を見たくなかったから力が欲しかったのに、力だけ残って、見たくないって気持ちが消えないまま千年いる、みたいな」
「つまり何が言いたい」カイが前を向いたまま聞いた。
「うまく言えないんですが」
「さっきも言った」
「……欲しかった時の気持ちだけ、ずっと残っちゃう感じなのかな、って。でも人が欲しいものって変わるじゃないですか。だからちょっと怖くて」
「まあそうだな」
「昨日は金林檎が欲しかったけど、今日はもう別に——あ、でも今はちょっと欲しいかもしれない。朝からあまり食べてないので」
カイが天を仰いだ。
ヴェルト師が声を出して笑った。小さな笑いだったが、確かに笑った。
「師、笑うんですね」
「失礼な」
「いえ、なんか、よかったです」
老人はすぐに真顔に戻ったが、口元がまだ少し緩んでいた。
昼過ぎ、街道を歩いているうち、気がつくと後ろから別の旅人がついてきていた。
喋る白い狼だった。
「……誰ですか」
「聖典の知識をお持ちの方とご一緒したく。山への巡礼者に同行させていただけますか」
「聖典の知識は私より師の方が詳しいですが」
「承知しています。ヴェルト師、律の書 第十七節にある『山の業の返し方』について、現代語解釈をお教え願えますか」
ヴェルト師は少しだけ目を細めた。「……ついてくるがいい」
ルーメンはルーメンという名だった。聖典を暗記していて、何かあるたびに「律の書の○節に……」と言い出した。カイが「頼もしい」と言い、エリィが「役に立つ」と言い、ヴェルト師が「うるさい」と言った。ルーメンは三つとも事実として受け取った。
夕方、小さな集落に迷い込んだ。地図を見誤ったエリィのせいで、完全に逆方向だった。
集落は五軒ほどだった。疲れ切った種類の静けさだった。一軒の家の前に、女の人が立っていた。目が赤かった。
「旅の方ですか」
「はい。道を間違えてしまって」
「よければ中に入りませんか」
中に入ると、火がなかった。暖炉に木はあったが、燃えていなかった。部屋の隅に子供が二人、毛布にくるまって縮こまっていた。
「火打石が壊れてしまって。もう三日、火がなくて」
三日。
エリィはその言葉を一度だけ頭の中で繰り返した。
荷物を下ろした。内側のポケットに手を入れた。金属板が三枚あった。聖堂に戻ったとき机の上に置かれていたもので、師が「使う時がきたら、わかる」と言っていた。
赤みを帯びた板を取り出した。暖炉の前にしゃがんで、板を薪の上に置いた。何と言えばいいかわからなかったので、何も言わずに、ただそこにあってくれ、と思いながら板に触れた。
暖炉に、火が入った。大きくはなかった。でも安定していた。消えない火だった。
子供たちが毛布の中から顔を出した。女の人が、声を出さずに泣いていた。
板を拾おうとしたが、板はもうなかった。火の中に溶けるように消えていた。
——ああ、使い切ったんだ。
残念とも思わなかった。もったいないとも思わなかった。ここで使うものだったと、ただそれだけだった。
残り二枚になった。
外に出たとき、カイが立っていた。
「あの聖印、使ったんですね」
「はい」
「あれは山のためのものだろう。なぜここで使った」
「火打石が壊れていて、三日火がなかったと聞きました。三日は長いと思いました」
「それだけか」
「それだけです」
カイはしばらくエリィを見ていた。それから前を向いた。
ヴェルト師は少し離れた場所で空を見ていた。何も言わなかったが、口の端が少し動いていた。
翌朝、出発のとき、女の人が言った。
「昨日の火……消えなかったんです。今朝も、まだ燃えてて」
「わからないです。でも消えなくていいんじゃないですか、今は」
「……そうですね」
三人と一匹は、また山の方へ歩き始めた。金属の音は、今日は最初から聞こえていた。
川沿いの道に差し掛かったとき、水の中に人がいた。
水面が、変だった。揺れていない。風もないのに光が動いていた。水の中に、空があった。
エリィは覗き込んだ。
黒地に金のボタンが縦一列に並ぶ、あまり見かけない仕立ての上着を着た男が、ゆっくりと回転していた。学のある者が着るものだろうか——あるいは、どこか別の場所の、別の流儀の服なのかもしれなかった。ネクタイのようなものが揺れていた。目が半分開いていた。沈んでいるのか浮いているのか判断できなかった。
「……何かいます」
「川に?」カイが来た。
「中に男の人が」
カイが覗いた。「……本当にいる」
「溺れていますか」
「溺れているように見えないが」
「助けますか」
「何から助けるんだよ」
エリィは腕を伸ばした。手が水面に触れた瞬間、視界が青くなった。
——溺れた。
水ではなかった。空気だった。でも溺れた。
視界の端に、半目の男が近づいてきた。遅かった。でも確実に近づいていた。
「こんにちは」
「溺れています」
「そうね」
「助けてもらえますか」
「うん」
助けなかった。エリィは気を失った。
気づいたら、川岸に戻っていた。
男が隣に体育座りをして、手帳を読んでいた。
「なんで溺れたんだろ、あんなドジ……」
「それはきっと僕と出会うためです」
「ん?」
「落としたの、私を」
少し間があった。
「……落としたの?」
「落としてないよ」
「……あなた、たまに怒られるでしょ」
「そうなんだよ。彼女にも怒られる」
「彼女いるの!!」
食堂に、知らない顔がいた。
丸くて小さかった。目だけが大きかった。椀を両手で持って、椅子の上にふわりと浮いていた。
「確認」と、椀から目を離さずに言った。「三枚のうち一枚、もう使っただろう」
「火の板を。集落で」
「そう。あと二枚」
「……あなたは何ですか」
「試練の担当」
「山の方から来たんですか」
「そう。状況確認。それだけ」
椀を置いて、ふわりと浮き上がり、窓から出ていった。窓は閉まっていた。
カイが固まっていた。「……今のは」
「試練の担当の人らしいです」
「なぜ宿にいる」
「確認だそうです」
カイは何か言いかけて、廊下へ出た。
翌朝、アールがいた。




