第10話 唐揚げ
そして、数日後。
出勤前、私は窓際に置かれた『バジぽよ』の前に立っていた。
……何度見ても、凄まじく異質で派手な物体だ。
〈ほらほらゆいぽん、バジぽよの土が乾いてるよ! お水お水!〉
「……言われなくてもやります」
「おはよう、結衣。……おっ、バジぽよ、今日も元気だね」
起きてきた健太郎さんが、その派手な鉢植えを見て嬉しそうに笑う。
「健太郎さんまで、そのふざけた名前で呼ばないでください」
私はため息をつきながらも、水差しを手に取ってバジルの根元に慎重に水を与えた。文句を言いつつも、毎日少しずつ新しい葉を広げていくこの植物の生命力は、思いのほか私の心を癒してくれていた。
私はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動した。
カシャッ。
〈あれー? ゆいぽん、文句言いながらバジぽよの写真撮ってんじゃん!〉
(……成長記録です。植物の生育状況をデータとして残すのは、管理責任者として当然の義務です)
私は顔を少し赤くしながら言い訳をした。実際には、毎朝の『バジぽよ』をスマホで撮影し、成長記録として見返すことが私の密かな楽しみになりつつある。
「結衣は本当に真面目で、優しいね」
健太郎さんは、そんな私の一部始終を、コーヒーを飲みながらこの上なく愛おしそうに微笑んで見守っていた。
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豊春県緑川市の市役所・戸籍住民課の窓口は、月末ということもあり朝からごった返していた。
「ですから、こちらの書類には戸籍謄本の原本が必要だと、前回もご説明したはずですが」
「そんなの聞いてないぞ! お役所仕事は融通が利かないな!」
理不尽に声を荒らげる市民に対しても、私は表情一つ変えずにマニュアル通りの平坦な声で対応を続ける。どれだけ理不尽なクレームを受けようとも、公務員としての冷静さを失ってはならない。
しかし、機械のように業務をこなす私の内側では、確実に疲労が蓄積していた。連日の残業と、細かい書類のチェック作業。肩は重く、目はかすみ、家に帰ってからの家事のルーティンをこなすだけの気力が、今の私に残されているだろうか。
〈ゆいぽん、マジでお疲れ。顔色ヤバいよ? 帰ったらソッコーで寝なよ〉
(……そうもいきません。今日は水曜日ですから、水回りの掃除と、週末までの栄養バランスを考慮した夕食の準備があります。休むのはすべてのタスクを完了させてからです)
脳内で気遣ってくれるソニアの声を振り切り、私は重い足取りでマンションへの帰路についた。
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「ただいま戻りました……」
玄関のドアを開けると、ふわりと揚げ物の匂いが鼻を突いた。
「おかえり、結衣。お疲れ様」
リビングから顔を出したのは、エプロン姿の健太郎さんだった。敏腕営業マンとして普段は完璧なスーツを着こなしている彼が、今日はどういうわけか早く帰宅していたらしい。
「健太郎さん、お早いですね。それに、その匂いは……」
私がリビングに入ると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
ダイニングテーブルの上には、スーパーのプラスチック容器に入った茶色いお惣菜――おそらく唐揚げやコロッケ――と、大手ファストフード店の紙袋が無造作に置かれている。
さらに、部屋の隅には掃除機が雑に立てかけられており、フローリングには無数の足跡と、掃除機のヘッドが通った不規則な軌跡が残されていた。
「結衣、最近仕事で疲れを見せているみたいだったからさ。今日は僕が、掃除機をかけておいたよ。夕食も、たまには手抜きでいいと思って、お惣菜とファストフードを買ってきたんだ。ゆっくり休んで」
健太郎さんは、完璧なイケメンスマイルでそう言った。
彼の優しさは痛いほど伝わってきた。私を気遣って、わざわざ早く帰って家事を手伝ってくれたのだ。妻として、「ありがとう」と微笑んでその好意を受け取るのが正解なのはわかっている。
しかし、極度の完璧主義者である私の脳内では、緊急事態を告げるエラーコードが激しく点滅していた。
「……健太郎さん」
「ん? どうしたの?」
「今日の夕食は、豚肉と温野菜の蒸し料理にする予定でした。唐揚げとファストフードではカロリーと脂質が過多で、今週の栄養バランスの計算が完全に狂ってしまいます!」
「えっ? あ、いや、でもたまにはジャンクなものも美味しいだろ?」
「たまには、ではありません。食事の栄養管理は健康の要です」
私はヒートアップして、リビングの棚から分厚い家電のマニュアルを引っ張り出した。
「それに、この掃除機の跡についてですが。掃除機は、部屋の奥から手前へ、そして必ず壁際からかけるのがルールなのに!」
私はマニュアルの該当ページを乱暴に開き、健太郎さんの目の前に突きつけた。
「見てください。ノズルの角度は四十五度を維持し、一秒間に約二十センチの等速で動かさないと、吸引力が最大限に発揮されません! さらに、フローリングの目地に沿って動かすのが基本です。健太郎さんの適当な掃除のせいで、目地にホコリが押し込まれています!」
さらに私は、棚に並んだ洗剤のボトルを指差した。
「水拭きの際も、中性洗剤の希釈率はミリ単位で規定されています。適当な分量で薄めると、床のコーティングを傷める原因になるんです!」
矢継ぎ早に言葉をぶつける私の前で、健太郎さんの顔から次第に笑顔が消えていった。
「……せっかく結衣を休ませようと思って、好意でやったのに。そんな言い方しなくてもいいだろ」
「好意は感謝しますが、私のルーティンが崩れるのはストレスなんです!」
言ってしまってから、私はハッとした。
違う。こんなことが言いたいわけじゃない。仕事で疲れ果てて帰ってきた私にとって、彼が用意してくれた食事も、不器用ながらもかけてくれた掃除機も、本当は涙が出るほど嬉しかったのだ。
それなのに、予定外の事態にパニックになり、甘え方がわからずに、気がつけば理屈で彼を責め立てていた。
健太郎さんは深くため息をつき、ソファにドカッと腰を下ろしてスマホをいじり始めた。彼が不貞腐れてしまうのも無理はない。せっかくの好意を、あんな風に全否定してしまったのだから。 静まり返ったリビングに、重く険悪な冷戦状態の空気が流れる。
謝らなければ。そう思うのに、喉の奥がキュッと締まって、素直な言葉が出てこない。私は立ち尽くしたまま、自分の愚かさに泣きたくなっていた。
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〈ゆいぽん、マジで何やってんの。素直じゃないにも程があるっしょ〉
重苦しい沈黙を破るように、脳内にソニアの呆れた声が響いた。
(……わかってるわよ。でも、今更どうやって謝ればいいか……)
〈ほら、さっさとアタシに代わりな! このお通夜みたいな空気、アタシがぶち壊してやるから!〉




