第1話 脳内ギャル
豊春県緑川市。その市役所の市民生活部・戸籍住民課の窓口で、今日も淡々と業務をこなす私。
「こちらの書類、記入漏れが三箇所ございます。訂正印を押していただき、再度提出をお願いします。また、添付の本人確認書類ですが、有効期限が切れておりますので……」
感情を交えない平坦な声で、私は目の前の市民に書類を突き返した。
背筋を伸ばし、ネイビーのカーディガンに膝丈のタイトスカートという地味で清潔感のある服装。毎日、規則正しくミスのない書類処理を淡々とこなしている。それが地方公務員である私、瀬戸結衣の日常だ。
隣のデスクでは、新卒一年目の後輩、星草ララが怯えたような目でこちらを盗み見ている。彼女は無難なカーディガンを着ているが、クリアカラーのジェルネイルをしていたり、デスクの隅にこっそり小さなアクリルスタンドを隠していたりと、隠しきれない今どき女子のオーラが滲み出ている。私が少しでも視線を向けると、ビクッと肩を揺らして手元の書類に目を落とすのだ。どうやら私は「怒らせたらヤバいお局予備軍」として恐れられているらしい。
〈ゆいぽん、マジで氷の女って感じー。後輩ちゃんビビり散らかしてんじゃん。もっとスマイル、スマイル!〉
(仕事中に出てこないでって言ってるでしょ、ソニア。それに公務員に過剰な愛想は不要よ。正確性と公平性がすべてです)
脳内に直接響く軽薄な声に、私は心の中で冷たく返した。
私には、子供の頃から頭の中に『ソニア』という名のイマジナリーフレンドがいる。私が中学二年生の時、親の「常に模範的であること」を強要する厳しい教育から逃避するために、無意識に生み出したギャルの親友だ。
〈てかさー、いつになったら私の事を『そーぽよ』って呼んでくれるの? もっとフレンドリーにいこぉーよぉー〉
(静かにして。今は業務中よ)
いつものように脳内の騒音をシャットアウトし、私は次の方を呼び出すボタンを押した。
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休日の午後。よく晴れたリビングで、私は夫の健太郎さんと向かい合って座っていた。
健太郎さんは大手IT企業「株式会社クロス・ソリューションズ」で法人営業部のサブリーダーを務める敏腕営業マンだ。爽やかな短髪に、ジムで鍛えられた引き締まった体。休日のリラックスしたスウェット姿でも、常にアイロンの効いたシャツを着ている時と変わらず、初対面の相手にも安心感を与える洗練された雰囲気は隠しきれない。
「ごめんなさい、健太郎さん」
私は膝の上で両手をきつく握り締め、深く頭を下げた。
「どうしたの、結衣。そんなに思い詰めた顔をして」
健太郎さんが入れてくれたコーヒーの湯気が、二人の間で揺れている。
「実は……昨日スーパーみどりで買い物をした際、勝手に私の判断で、共有のお財布からポイントを五十円分使ってしまいました。事前の相談もなく、報告が一日遅れてしまったこと、深くお詫びします」
私たち夫婦の間には『隠し事はしない』という絶対の約束がある。結婚して以来、私はこの誓いを厳格に守り続けてきた。
健太郎さんはきょとんとした後、お腹を抱えて笑い出した。
「あはは!結衣、そんなことわざわざ謝らなくていいのに。五十円のポイントって……本当に結衣は真面目だなあ」
健太郎さんはそう言って笑うが、私にとっては笑い事ではない。私たちには「共働きでしっかり貯金をし、理想のマイホームを建ててから子供を授かろう」という、二人で決めた共通の人生設計がある。その目標のために、できるだけ無駄遣いをしないと誓い合っているのだ。
そんな私のこだわりを笑って許してくれる夫の寛大さに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
共通の友人の結婚式での出会いから、彼からの猛アプローチで始まった交際と結婚。私のような地味で面白みのない人間のどこが良いのかと戸惑う私に、彼は「その誠実さが一番の魅力だ」と真っ直ぐに伝えてくれた。
だからこそ、私は彼を裏切れない。
これから話すことは、間違いなく彼の理解を超える。狂っていると思われるかもしれないという恐怖がある。気味悪がられて、最悪の場合は見捨てられるかもしれない。
それでも、私は自分の中の醜い部分も含めて、本当にすべてを知って愛してほしかった。私の中に巣食う、自分でも制御しきれない異質な部分も含めて。
「もう一つ、重大な隠し事があります」
私の深刻な声色に、健太郎さんも笑いを収めて居住まいを正した。
「……何か、トラブルでもあった?」
「私、頭の中にギャルが住んでいるんです」
「……うん?」




