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夢見る鹿島の星間戦争  作者: 遊観吟詠
十八章、歪の国のリリヤ
126/189

18-(7) 歪みの国のリリヤ

 戦艦ラビエヌス――。

 いま、ラビエヌスのブリッジに目立つは大きな造花の髪飾り。戦艦にも軍隊にも不釣り合いな存在。そんな髪飾りをつけているのはリリヤことアイリ・リリス・阿南あなん

 

 ――もうすぐお兄ちゃんに会える。

 

 リリヤとって待ちに待ったこの日がおとずれていた。再開をこい願った相手はもう目と鼻の先。リリヤが、はやる気持ちを抑えつけ立つるなか、ブリッジでは次々と報告があがりはじめていた。

 

「ラビエヌスは予定の待機座標で最小周回に入りました。誤差一万分の一。良好な投錨位置とうびょういちです」

接続艇ランチのエネルギーのチャージは完了。異常なし」

宇宙基地ステーション内の安全を確認。音声映像に問題なし」

 

 予定の場所についたことから始まった報告は最終的には安全確認報告の連続に。宇宙ではとかく多いのがセーフティの確認だ。

 

 リリヤといえばそんな報告の聞いているのかいないのか。だが今回は聞き流していても問題はない。交渉官として戦艦ラビエヌスに乗り込んでいる。艦長も部隊司令も別にいて、リリヤは運航の責任者ではない。

 

 ブリッジ中央の巨大なモニターにはいま宇宙に浮かぶ十字の巨大な構造物。

 リリヤはそれをうつろな目で見つめている。


「あれが交渉場所になる宇宙基地ステーションね」

「はい。音声と映像は共同管理、交渉の場面はブリッジに中継されるだけでなく、第一執政のおられるザルモクシスへも中継されます」

 

 そういって応じたのは技術官の兵科章へいかしょうをつけたやせせ型の男。その男は手のひら大の小さな箱をリリヤへ差しだしフタを開けた。

 なかには脱脂綿にのせられた2ミリ四方ぐらいのチップ。技術官の男はそれをピンセットでつまむと、

「小型のスピーカーです。これを耳のなかへ貼り付けますので――」

 といった。

 

 ようは耳のなかへ貼り付けるので、髪の毛をかきあげてくれ、という願いだ。

 リリヤが右耳にかかっている髪の毛をかきあげた。同時に大きな造花の髪飾りも揺れた。表面がエナメル質の髪飾りは室内灯の光を反射し美しい。

 すぐさま技術官の男がリリヤの耳のなかへ超小型スピーカーを貼り付けた。


「これでキング・ランス・ノールからの指示が聞こえるわけね?」

「ええ。ただ、スピーカーといっても実際は音声が出るわけではなく脳に直接ウエーブを送信するタイプです。いま、テストしますから」

 

 技術官の男はそういってザルモクシスの技術班と通信を開始。

 

 すぐにリリヤの耳にピーピーというテスト音が、

「聞こえましたか?」

 と問いかけてくる技術官の男にリリヤはうなづいた。技術官の男はすぐに、次は喋ってくれ、などとザルモクシス側へ要求。肝心の本番で聞こえないでは意味がない。しかもこの通信システムを利用するのが第一執政ランス・ノールとなれば失敗は許されない。テストは入念だ。

 

 ――時間かかりそう。

 と思ったリリヤは国軍旗艦こくぐんきかんザルモクシスをでるときのことを思いだしていた――。

 

 リリヤはザルモクシスつ折にランス・ノールとシャンテルから直接の見送りを受けていた。

 

 見送りにきたランス・ノールはかしこまって敬礼するリリヤへ、

「阿南――」

 と真剣な表情で言葉をかけてきた。

 口頭での重要な指示がある、とリリヤは感じた。


「はい、なんでしょうかキング・ランス・ノール」

「最初に握手を交わすだろう」

「握手ですか?」

 

 リリヤは敬礼の姿勢のまま、けげんな表情で問い返した。

 

 このやり取りを横で見ていたシャンテルは思わずクスリと笑ってしまった。

 なぜっていまのお兄さまの物言いは性急にすぎて言葉足らずです。これではリリヤさんでなくとも、なんのことだかわかりませんよ。

 証拠にリリヤさんの顔ときたら、

 ――誰と? いつこどで?

 という表情。出発直前のせわしないときとはいえ、お兄さまったら慌てすぎです。


「交渉のさいの話だ。天儀のやつと顔をわせたら最初に握手をするだろ」

「あ、はい。わかります。握手、わかります。最初の挨拶の」

「その折に天儀に抱きつけ。なるべく長くだ。そうだな再会の喜びに感極まったという体でいい。その場面をバッチリ抑えられればそれだけで成果だ。加工を加えスキャンダルにしたてて大々的にバラ撒く」

 

 いま、リリヤを見据みすえるランス・ノールの金目銀眼オッドアイは、

 ――いいか絶対に抱きつけよ。

 というように強圧的だ。だが、リリヤといえば不敵に笑ったかと思ったら、

「いえ、ダメですよ。それでは」

 あっさり否定。

 

 これにはランス・ノールだけでなく横にいたシャンテルも驚き顔。リリヤが許諾以外の言葉を口にするとは思わなかった、というより別の解答があるとは思えないとすら考えていたのだ。


「抱きついたらそのままキスします。首に両腕を回して逃さない」

 

 リリヤが虚ろな目で、だがしっかりとランス・ノールを見据えて、

「ね。それでいいんでしょ?」

 と口元に薄ら笑いを浮かべていった。

 

 ランス・ノールがきわめて満足そうにうなづいた。


「それでいい。成功すれば天儀のやつはグランダに居づらくなる。お前のもとへきてくれるぞ」

 

 リリヤがそんなことを思いだしているうちに超小型スピーカーのテストは終了。動作はきわめて良好だ。

 リリヤはきびすを返しブリッジの出口へ、接続艇ランチに乗り込み宇宙基地ステーションへ向かうのだ。

 ラビエヌスの通路を進むリリヤは宇宙基地ステーションで入念に想像。交渉が決まってから頭のなかでなどもくりかえしたシミュレーションだ。


 まずは笑顔。これは大事。そしてとっても自然な感じで進んで近づく。慌てちゃダメ。警戒されたら成功しない。右手を差しだして、握手して、そうしたら体重をあずけるようにして後ろに引いて、きっとお兄ちゃんはリリヤが倒れないように抱きかかえてくれる。いえ、そんなことせずにもっと単純に、お兄ちゃんがバランスを崩したところに左手を首にまきつけてチュウする。

 

 ――そしてなるべく長く放さない。

 

 舌を滑り込ませれば反射的に乗ってくる可能性もある。必ずではないが可能性はある。理性と本能は別だ。

 

 が、実際の場面を思い描くに、お兄ちゃん大好きのリリヤからしても、顔面と顔面がぶつかるようにしてムードもへったくれもない修羅場の可能が大だ。唐突にキスを迫られれば、恐らく嫌がって逃げる。誰だってそうだ。それをリリヤは逃さない! と全身でフォーミングすることになるのだ。必死のつかみあい。ひどい場面が想像できる。けれどこれでも唇と唇が重なれば監視カメラ越しなどの第三者視点なら熱烈なキスに見えるだろう。

 

 今回のリリヤの決意は壮烈。


 ――歯がゴッチンってぶつかって痛くてものけぞっちゃダメ。我慢。――


 こんな状況すら脳内ではシミュレートずみだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 天儀とリリヤの乗ったそれぞれの接続艇ランチは、ほぼ同時に宇宙基地ステーションの両端へとドッキング。十字の形の宇宙基地ステーションを真っ直ぐ進めばおのずと十字の交差部分へ、そこが交渉場所とされた部屋だ。

 

 二人は同時に部屋に足を踏み入れていた。


 明るい室内の中央には大きなローテーブル。それを囲むようにして三人がけのソファーが四脚。


 部屋へ入って、そのまま挨拶、とはならなかった。二人は入ったところで停止。見つめ合った。

 

 リリヤは感無量といった感じだが、天儀は表情こそ柔和だが、

 ――これといった感情はない。

 というのが鹿島の印象だ。モニター越しに見ても天儀のたたずまいに質感がないのだ。心身は半透明。まるで存在しないかのように総てを素通りさせてしまうような雰囲気だ。天儀司令はかなり警戒しているな、と鹿島は思った。攻撃は防ぐより流す、力は受けるより素通りさせる。戦いの基本だ。

 

 そう、すでに交渉のライブ中継は開始されている。

 ――LIVE。

 と左上にでている陸奥改では中央の大モニターをブリッジにいる面々は見上げている。ザルモクシスにいるランス・ノールもシャンテルも同様だ。


「あら、見つめ合ってしまってロマンチックですこと」

 

 天童愛の皮肉の混じった冗談に横にいる鹿島は苦笑だ。


「うふふ、幼いころの恋心に目覚めたかも?」

 

 が、天儀からすればそんな甘い心境ではない。

 天儀は正面の扉が開かれた瞬間、顔面に強烈な激風をうけた感覚。そして耳鳴り。思わず一歩下がりそうになったからだ。


 目の前にあらわれたのは、きずかたまりが人の形をなしたもの。引っかき傷のようなものが大量により集まり人のシルエットを形作っており、目の部分にぽっかりと真っ黒な穴が開いていた。

 

 天儀はなんとか踏みとどまったが目だけは驚愕の色が隠せない。天儀は落ちつきを取り戻すように、ゴクリとつばを飲み込み傷の塊を見据えた。

 

 ジっと見据えているとだんだんと傷が吹き飛んでいき、最後に黒い穴が大きな瞳となって現れた。傷の塊はリリヤだった。

 

 ――心で見えるものが先行したか。

 と天儀は思った。目で見たのではなく心で感じた。それが視覚を奪って脳内で形を作った。単純な幻覚の原理だが、よほどの精神障害か、クスリでも決めなければそうそうはない現象だ。

 

 俺は薬物などつかわんぞ。ま、精神がまともかは知らんが。それにしても、なにがどうしたらこうなる。

 

 いま、天儀の眼の前にいるのは、満面の笑みのリリヤ。大きな瞳と小さな口と鼻が幼いころの彼女を連想させる。

 

 天儀はリリヤの笑顔に会釈で答礼。それが切っ掛けとなったか、二人は同時に部屋の中央へと進んだ。

 向かい合った天儀とリリヤ。

 言葉より先にリリヤがサッと手を差しだした。握手だ。

 天儀も応じて手をだすと二人の手が交わり、かたく握られる。

 

 ――やわらかく小さな手だった。

 

 こんな感触だったろうか。と天儀は思った。紫龍の遺体受け取りのさいにスキンシップはあったが、こうしてあらためて手をにぎると感ずるところがある。幼いころにリリヤを抱き上げたりしたが、そのときの感覚はよく覚えてない。

 手も繋いだはずだ。

「て、つなご」

 と幼いリリヤから差しだされた手。天儀は戸惑ったのを思いだした。女の子の手を握るなど初めてだったのだ。しかも目の前の女の子はとびきりに可愛いのだ。そんなふうにして初めて繋いだ女の子の手は、小さく熱い感触だった気もする。

 

「お兄ちゃんの手。かたくて大きくなってて驚いたよ」

「はは、ふしくれがあるな。綺麗な手ではない」

「そういうことじゃないよぉ。頼もしいよ」


「ありがとう」

 と天儀がいい着席をうながした。

 二人はローテーブルをはさんで対面して座った。

 

 なごやかに開始されたように見える交渉。が、ザルモクシスのブリッジではランス・ノールが真っ赤になっていた。


阿南あなんはなぜ計画を実行しなかった!」

 

 そういうとバンッ! と目の前のテーブルを叩いた。めずらしいことだった。

 

 この計画は無理が多い、針穴に糸をとおすような陰謀というより、ない針穴に糸をとおすような困難さがあると考えればランス・ノールの焦りも当然だ。ない穴をつくて強引にとおす必要がある。無理にでもチャンスを作って、わしずかみにしていかなければ基地管理の譲渡と捕虜交換というあっても、なくてもいい成果だけに簡単に陥る。時間と引き換えにしてはあまりに実りがない。

 

 ――こちらは朱雀艦隊が絶対防衛圏を突破してしまうリスクを抱えているのだぞ。

 

 謀略に手練てだれている自分だからこそ無理を押し通せるという綱渡り、それだけに一喜一憂も大きい。モニターを見つめるランス・ノールは謀略に夢中となっていた。


「絶好のチャンスだったろ。握手し、そのまま抱きつき、接吻せっぷん! きわめて単純なことだ。交渉開始前にすでに大収穫のはずだった!」

「お兄さま落ちついてください。まだチャンスはありますから」

「落ちついている。だが、キスする、とまでいっておいてこれか。阿南のやつは私を失望させる天才だな」


 が、宇宙基地ステーションにいるリリヤも笑顔のしたでじつは、

 ――できなかった。絶対できると思ったのに。

 と焦りに焦っていた。

 

 いや、できなかったというより、防がれたに近い。

 

 手を握ったところまでは完璧だった。とリリヤは思う。成功を予感すらした。このまま右手を引いて、流れるように左腕を首へ巻きつける。そのまま絞めあげるようにガッチリロックして、あとは顔を近づけるだけ。キスの成功。

 

 が、その成功の予感が一瞬の気のゆるみだったか、次の瞬間にリリヤの手は天儀に強烈な力で握り込まれ、そのまま体まで動かせない状態に。

 

 リリヤは焦って動こうにも、お兄ちゃんが手を握り込んで棒のようにして動かさないので、リリヤも握手している腕を体の正面から動かせない。抱きつこうにも自分とお兄ちゃんと自分の腕手がじゃまで近づけない。

 

 天儀は手が交わると同時にリリヤより一瞬早く手を握り込みつつ、釣り竿を投げるように手首を返し、真っ直ぐリリヤの方へ腕を押し込んだのだ。

 リリヤは天儀より小柄だ。それだけで肩がつまって動作に不自由がでる。


 そしてこうなると人体の構造上容易に抱きつくことができない。リリヤが焦ったとおりだ。お互い間に腕があって邪魔で近づけないのだ。

 距離を積めるには、どうしても二人の間にある自身の腕のだけでも横にずらすなりしてどける必要があるのだ。が、天儀の腕は鉄の棒のようになって動かない。

 

 じつはリリヤは握手してから数秒間、手に力を込めて微妙に左右に振って腕を退けようとこころみてはいたのだ。だが、

 ――これは無理。

 と数秒後には判断、最初に抱きつく作戦を泣く泣く断念していた。


 ――それにリリヤがあきらめないと、お兄ちゃんはずっと握手していそう。

 つまりリリヤが根負けしけだ。

 

 何十分でも握手の状態をつづける。お兄ちゃんは、これを平然とやってのける。そう感じた。

 

 ライブ中継されている交渉でそんなことをすれば大恥だが、リリヤの知るお兄ちゃんは異常に忍耐強く、覚悟を決めたら恥をはねのけて平然としている強靭さがある。ようは、

 ――お兄ちゃんもリリヤと同じぐらいわがままなのだ。

 

 我を譲らない。リリヤが泣いても叫んでも、ダメだ、といったらまげてくれなかったときはあった。悪いことをしようとすると必ずそうだった。


 なお、一方の天儀からすれば少し違う。たんに必要以上に近づかれることを警戒しただけった。近づかれてそのままグサリ。日常ではきわめて低いリスクだが、警戒にするにこしたことはない、という異常性が天儀。こんなことは誰が相手でも、いつも自然とやっていることだった。


 ソファーに腰をおろし向かい合う二人。

 

「アイリ・リリス・阿南隊長、今日はカサーン基地の引き渡しについて交渉を――」

 

 天儀がかしこまった表情で切りだし、つらつらと特戦隊側の要求を突きつけ始めた。

 これには双方のブリッジで失笑がもれた。

 

 陸奥改では天童愛が、いくらなんでも不躾ぶしつけすぎますねそれは、と天儀の無作法に苦い顔。鹿島は、天儀司令ったらそれってちょっと無神経では? と困った顔。ザルモクシスではランス・ノールが呆れ、シャンテルは口元に手をやって苦笑だ。

 

 そう、普通も少し洒落た話から入る。久しぶりの再開を喜ぶようなやり取りがあってもいいのだ。それを天儀はいきなりの本題だ。

 

 そんななかモニターでは、

「お兄ちやん!」

 リリヤが叫んで無神経な天儀の言葉をさえぎって止めて、

「リリヤだよ?」

 と懇願するようにいった。リリヤとしては阿南なんて他人行儀な呼びかたは絶対にやめて欲しい。だが、お兄ちゃんは、

「阿南隊長、お互いに交渉にきたのだよ。場をわきまえよう。挨拶で昔をなつかしんで、いまは公的な場だ」

 たしなめるようにいうだけ。

 

 天儀からすれば、いくら幼馴染とはいえ遊びにきたのではない。旧交を温めにきたのはないし馴れ合いはできない。けれど繰り返すがリリヤのから見れば天儀は無神経であり、周囲から見てもいきなり本題は無作法だ。

 

 天儀の無神経にリリヤが真っ赤になって、

「違う!」

 と、いきり立ってから、やはり懇願するように、

「リリヤだよ!」

 と重ねた。

 

 天儀が押し黙った。


「ねえリリヤだよ。ねえ」

 

 リリヤの強引に天儀が苦悶の表情を見せてから折れた。


「……わかった。リリヤだな」

「うん! 昔みたいにお話よ!」

 

 満面の笑みに戻ったリリヤ。

 対して天儀のカッと燃えあがるように全身を怒らせ、

「ランス・ノール。なにを考えているか知らんが、陰険な企望きぼうを用意したのなら後悔するぞ、やめておけ」

 けわしい表情でリリヤの目を見据えていった。

 

 ――何故!?

 と驚くリリヤ。

 

 リリヤとていまの天儀の発言が、交渉の中継を眺めているであろうランス・ノールへ向けられたものだとわかる。だが、部屋にはカメラが設置されているのだ。ランス・ノールへすごみたいなら、そのカメラをにらめばいい。なにせ天儀の斜め前になる天井のすみにはカメラがあるのだ。見るのは簡単だ。


「コンタクトタイプのカメラだろ。よくできてやがるが、光に反射して目立つんだよそれ」

 

 そうランス・ノールはリリヤの目にコンタクトレンズ式のカメラを装着させていた。

 いまリリヤの瞳の部分には縦四列、横五列の不自然な反射がときおり見える。目立つようなものではなく普通は気付かないが、注意してみればすぐに気づく代物だ。

 

 ――交渉は相手の表情を読むこともきわめて重要。

 

 ランス・ノールは部屋に設置されているカメラだけでは満足せずに、天儀の表情を細部までとらえるためにマナー違反の小細工をしかけていた。


「俺は忠告したぞランス・ノール」

 

 天儀が頑然がんぜんというと同時に、その眼光がランス・ノールの身体を射抜いき、とてもモニター越しとは思えない圧倒感がランス・ノールを襲った。頭にガツンという衝撃が走り全身には嫌な汗。ランス・ノールは気圧されて萎縮いしゅくした自分を感じ口中に苦味を感じざるを得ない。


 一方、宇宙基地ステーションではリリヤが戸惑っていた。さすがに陰謀をあると見破られていては成功は難しい、というわけではない。戸惑いといってもリリヤの場合は、お兄ちゃんを連れて帰る困難さがましたという悪い予感だけだ。交渉中断して切り上げるとか、陰謀を中止するという考えはない。が、不測の事態だ。

 

「お兄ちゃんったらすごいね。わかっちゃうだなんて、リリヤだったら絶対に気づかないのに」


 そういって、とりつくろって笑ってはみたものの、

 ――キングからの指示が欲しい。

 というのがいまのリリヤだ。


『いい、阿南つづけろ。やつは私が策を弄する男だと知っていて、かまをかてているだけだ。陰謀の有無があるとか、そもそも内容を把握しているわけではない』

 

 耳のなかに貼り付けたステレオからランス・ノールの声がリリヤの頭に響いた。

 ――なるほどね。

 とリリヤは思った。そもそもバレていても説得するという決意がある。


「お兄さま?」

 シャンテルは危うさを感じて忠告するようにいったがランス・ノールはきかない。


「問題ない続行だ。天儀は見えない陰謀に疑心して強がりをいっただけだ。おびえているといっていい」

「そうでしょうか?」

「そうだ。だが、いかに警戒しようにも、今回ばかりはやつが想像している種の陰謀とは質が違う。警戒しようがリリヤの媚態に絡め取られるだけだ」

 

 危うさを感じる妹にランス・ノールが断言した。


「ふふ、すごいね気づくだなんてさ。ちょっと驚いちゃったよ」

 笑っていうリリヤに天儀は憤然ふんぜんとして嘆息。やるせなさから眉間みけんにしわがよった。

 

 天儀の再会からいままでの天儀のリリヤへの印象は、

いびつ

 の一文字。リリヤの存在感はゆがみで満ちたものだ。強烈な妄想から現実が歪んでいる。長くつらい時間をすごしたのだろう、と天儀は感じた。現実を悲観し、頑なに拒否し続け、現実世界に妄想世界が入り混じり、脳内に築かれたのは独自の王国。

 

 さしずめ、

ゆがみの国のリリヤ』

 歪みの国に住んで長いリリヤにとっては、もう現実が非日常のようなものだ。

 日常と非日常、夢の世界と現実世界。

 天儀は戦場という非日常が日常だった。対してリリヤは妄想世界が現実の世界。

 

 ――リリヤは自身が築いた王国で女王となったか。

 

 うれいが天儀の心を支配し、痛みが走った。


「――ね、お兄ちゃん」

 といってリリヤが上目づかいで天儀を見つめた。

 

「リリヤとザルモクシスへ行こう。楽しいよ。ザルモクシスは艦内設備がね、いいの。娯楽施設も充実してるの。リリヤはね特別パス持ってるからつかいたい放題。リリヤといっしょならお兄ちゃんもこの待遇だよ」

 

 突然の大胆なさそいに天儀は自分でも不思議なほど驚かなかった。

 ここまで脈絡みゃくらくがないとむしろ疑問すら差し挟む余地も感じないのかもしれない。交渉はなにを話したっていい、ということあたりが自分の落ち着きの根拠だろうかとも思う。そして天儀は、なるほどランス・ノールがリリヤにさせたかったことはこれか、と直感した。

 

 だが、天儀は、

 ――反乱軍への勧誘か。誰が乗るかその泥舟!

 といわずに、

「いつだって君の言葉は唐突だな。でも、いつも楽しかった」

 といって、やるせなさそうに笑った。


「でしょ。ザルモクシスにこればキング・ランス・ノールと直接お話もできるよ。リリヤと交渉するより難しい話はキングとがいいでしょ」

「そうかもしれん」

 

 出向いていって張り倒してやってもいい。と天儀は思った。

 自分がザルモクシスまで出向けばランス・ノールは狂喜して出迎えてくれるだろう。笑顔で両手を広げるランス・ノール。そこを胸ぐら掴んでほほを二、三発ぶったたいて床へ叩きつける。鼻血をだして這いつくばる、あの自信家のさまはさぞ胸がすくだろう。

 

 リリヤの恋心を利用して陰謀に利用するとは道理がない。非道だ。


「そうだ。ちょっとだけお泊りにきてよ。そう一日だけ。それで帰ればいいでしょ。楽しいよ。昔みたいにさ!」

「……お泊まり会か」

「うん。そうだよ。あのときみたいにさいっしょの布団で寝よ。で、夜遅くまで楽しいお話するの」

「リリヤが作ってくれた話だな。それでいつの間にか寝ている。そういういえば、そうだったな」

 

 リリヤが満面の笑みでうなづいたが、天儀は心中に空虚を感じた。

 そんなことができるはずがないのだ。仮に自分が行って一日で返してもらえるのか。そのまま艦内に拘束されるだけだろう。

 

 ――本気で思っているのか。

 と天儀はリリヤの目をのぞき込んだ。リリヤに話を合わせている天儀からして、リリヤからでた提案が荒唐無稽こうとうむけいすぎて、冗談なのか本気なのかさすがに判然としない。

「とにかく一度きてよ。お兄ちゃんにもお仕事があるから一日で帰ればいいよ。そっちではどういわれてるか知らないけど、ランス・ノールはいい人だよ。お兄ちゃんも一度話せばリリヤみたいに仲良くなれると思う。キング・ランス・ノールはお話が上手だしさ」


 リリヤが身を乗りだし探るように天儀を見つめた。自分の言葉はお兄ちゃんの心を動かせたのか。お兄ちゃんはリリヤが懇願すれば必ず折れてくれる。こんな思いはリリヤからしても願望でしかない、とよくわかっている。わかっているからこそ、そうであって欲しいと強烈なのだ。そして強烈な願望の裏にあるのは、説得は難しいという巨大な不安。

 

 リリヤの頭の大きな造花の髪飾りが揺れた。


「きれいな髪飾りだな」

「あ、うん。昔さお別れのとき、お兄ちゃんが庭のユリをリリヤの頭にさしてくれたでしょ。あのときにとっても似合ってるっていってくれたから、それからこういうのつけるようになったの」

「あのころのリリヤはわがままで、少し手を焼いたな」

「あはは、リリヤのわがままは、いまもだよ。だからザルモクシスへ行こうよ」

 

 が、言葉を終えたリリヤは違和感を覚えた。

 お兄ちゃんは言葉を返してくれてはいるが、リリヤの言葉はお兄ちゃんの身体を素通りしてしまっているような感じだ。昔も二人の話はいつもリリヤが一方的。それを黙って聞いてくれていたお兄ちゃん。だが、昔はリリヤの話に相づちや真剣に聞き入る視線があった。


「ねえお兄ちゃんリリヤのお話聞いてよ」

「聞いているよ」

「違う! 昔みたいに!」

「昔みたいにか……」

「そうだよ昔みたいにだよ。一生懸命に聞いて。だってリリヤは昔と変わらないよ。お兄ちゃんをずっと好きなまま。お兄ちゃんもそうでしょ!」

「そうだな君は昔と変わらない」

 

 だが、俺は変わった。と天儀は思った。

 対してリリヤはどうか。たしかに変わらない。これはもちろん良い意味ではない。リリヤのその精神は幼い子供のまま。驚くべきことに天儀の目にしたリリヤは幼いころのまま人格の成長が止まっていた。

 

 天儀は知っている。どうしたらこんなことになるかをだ。楽に、ひたすら楽な方向へとただよい生きていていけばこうなる。

 

 才能とは必ずしも本人を幸福にはしない。二足機適性SSSというリリヤの無双の大才はリリヤを不幸に導いた、と天儀はリリヤと少し話して確信した。

 

 普通のパイロットが苦心惨憺さんたんして覚えるようなことも、リリヤならはしで米をつまむどころか、肉をフォークで口に運ぶより簡単なことだ。二足機という範疇はんちゅうに居る限りリリヤに努力は必要ない。


 いや、リリヤとて努力はしたろう、二足機はなん手ほどきもなしに乗れるほど簡単な乗り物ではない。だが天儀からいわせれば、その努力は浅く人格の成長をともなわないものだ。

 簡単いえばリリヤは二足機においては人が経験する苦労を必要としないのだ。

 

 そして天才は人から一目置かれ、待遇の特別扱いされる。悪さをして情状酌量じょうじょうしゃくりょう、ものをねだれば特別だといいわれて手に入る。人より百倍広い才能の泉の中を楽しく泳ぐだけで高い評価。普通なら水たまり程度の才能を、どうにか広げて腰までつかれるようにするのにリリヤの才能は広大だ。少し水かきするだけで、あっという間に遠くに行け、欲しいものに手が届く。

 そう、才能は力だ。力を持つものは持たざるもと比べれば世の中思うままだ。

 だが、得意なことをして、努力怠り、欲望をほしいままにすれば人格の成長などありえない。

 

 生きていれば人は誰でも壁に当たる。そのときに、

 ――変わりたい!

 という強烈な願望をへておのれを滅して努力する。この経験がない人間の人間性は卑陋ひろうで浅く完結する。

 おんれの天才性によりかかり楽に、ひたすら楽を目指して生きる。才能があっても終わりが悪く、死後も断罪をうけるものはすべてこれである。

 

 リリヤの二足機の才能は彼女の人格の成長をさまたげた。と天儀は断定した。

 

「リリヤ、よく見てみろ本当に俺は昔のままか?」

 

 リリヤは天儀を直視した。


「変わらない!」

 

 間髪いれずに叫んだが、心中は苦しい。変わった、と認めればあまりにつらい。いや、残酷だ。変化を認めれば、

 ――お兄ちゃんはもうリリヤを好きじゃない。

 という現実だけが残る。これはリリヤの願望とは相容れない。妄想だと散々周囲からさげすまれてきた、それが事実とは受け付けがたい。心の目でみることを拒絶したともいっていい。


「昨日の自分より劣る生きかたをすれば人はたやすく堕落する。どんなに大きな才能や功績があってもだ。楽に楽に、と生きる人生は、昔は良かった、という悲嘆で終わる。リリヤ、君はどんな生きかたをしてきた?」

「なんでそんなことを聞くの。なんか嫌な感じ、リリヤはずっとお兄ちゃんが好きで好きで、いまこうやってやっと会えた。そしてこれからいっしょに暮らす。それでいいでしょ」

 

 リリヤがいらだちげに叫び、天儀は心痛し嘆息した。いまのリリヤの態度は、これまで楽を目指して生きてきたと感じさせるのには十分だ。


「これからが大事!」

 リリヤがふたたび叫び懇願。

「お願いザルモクシスへきて、いっしょに暮らそうよ。これからは楽しいことがいっぱいあるよ」

 

 が、天儀は、

 ――これは未来志向ではない破滅的だ。

 と悲しく思った。過去と現在をないがしろにして未来はない。これまでの人生を投げ捨ててしまえば飛び込む先は未来ではなく、死の谷(デスバレル)。これでは心中だ。

 

「――リリヤ、俺は人は二度生まれる、と思っている」


「む、なんの話?」

 とリリヤは不快な顔。面白くない話だ、と直感したのだ。自分のいままでの人生を否定されるような言葉が、お兄ちゃんからでる。そんなことは嫌だ。が、天儀はリリヤの、

 ――拒否。

 の顔を直視ししたま話をやめなかった。


「二度とは、一度目は生を得たとき。二度目は真に自我を得たときだ。二度目がいつなのかは人によって違う。幼いころなのか、年老いた死にぎわなのか。残念ながら二度目は誰にでもおとずれるものではない」

「やめて! 聞きたくない! なんか嫌な話だってわかるんだから!」

「だが、二度目は平等で誰にでも手にできる。金持ちでも貧乏でも、超越した身体能力をもつものでも障がい者でもだ。いや、ハンディキャップを持つものほど得なければ生きていかもしれない。誰にとっても当分に苦しいものだが、頭の天辺からつま先まで全身で、変わりたい、と決意し直後から行動をあらため、それをつづける。これで昨日の自分より今日の自分のほうが少しマシになり、三年後には別人だ」

「リリヤは知らない! そんな話知らない! 聞いてないからね!」

 

 が、リリヤの悲痛に天儀は応えない。


「だが、それが困難なのも事実だ。楽に楽に生きていこうとすれば二度目はない。リリヤ、君は今日が終わるときに、昨日の自分より頑張った、と確信できるか?」

 

 寸鉄人すんてつひとを殺す。とはいうが、天儀の言葉がリリヤにとってあまりにこくだった。

 

 これまで真っ直ぐ正面からリリヤへ言葉を向けてくる人間などいなかった。二足機適性SSSという天才に、誰もがおのれの矮小わいしょうさを感じざるを得ない。リリヤの周りには「小さな自分が天才様に説教など気後れする」というものたちばかり。そもそもリリヤはわがままで、しかもメンタルヘルスに問題があり、一番説教など無駄な人種だ。真摯な注意や指導は怨みや激昂を買うだけだ。

 

 リリヤは、

 ――楽に楽に生きていこうとすれば――

 という言葉が耳底を打つ前に目を閉じ、耳をふさぎ拒絶。が、言葉は心に突き刺さった。


「リリヤは変わらない! お兄ちゃんも変わらない!」

「本当にそう思うのか?」


 そういって天儀が両手を広げた。長くなった腕。たくましい胸。顔には剃り残しもある。もう子供ではない。二人ともがだ。月日が流れ変わったのだ。姿が変われば、心もおのずと変わる。だが、変化を頑なに拒絶したリリヤには、それはうけつけ難い。


「たとえ変わっていてもリリヤといっしょにこれば元通り! 昔にみたいに楽しい!」

「なにをもって元通りだ? 君にとってか? 俺にとってか?」

「お兄ちゃんにとっても、私にとっても元通り! 幸せ!」

「ふ、なるほど君と俺が二人でいれば幼い子供に元通りか」

 

 天儀が失笑した。リリヤはひどく傷ついたが、

「そうだよ!」

 と叫んであらがった。最早、悲鳴に近い。


「では、折り紙でもして遊ぶのか? いい大人が、それでいのか」

「いい! それでいい! お兄ちゃんさえいればいいんだから!」

「リリヤ、いいか。人は変わる。良くも悪くもだ。君はいまから良く変わればいい」

「知らないったら! リリヤといっしょにきてよ!」


 リリヤの無反省な拒絶に、天儀が厳しい顔で嘆息した。

 そんな天儀をリリヤはあえて直視。お兄ちゃんはなんでこんなひどいことをいうのか、どうしてリリヤを苦しめるのか。リリヤは天儀をけわしい目で見た。

 

 リリヤと天儀の視線がぶつかったかと思ったら、天儀が少し視線を外した。

 

 ――おびえた。

 とリリヤは確信した。


「というかさ、リリヤわかったよ。お兄ちゃん怒らないでね。リリヤもお兄ちゃんにはっきりいうからね。これでおあいこだよ」


 天儀が小さくうなづいた。やはりどこか怯えがある、とリリヤは思った。


「お兄ちゃんはリリヤが怖いんでしょ。だから意地悪いって強がって怖くないってアピールしてる」

「俺がリリヤを怖がっているだと?」

「うん。昔から引っかかってたんだ。お兄ちゃんリリヤをときどきおびえた目で見てたよね?」

 

 天儀が驚いたような困惑したような目でリリヤを見た。


「それ、その目。なにか怖いんでしょ。リリヤを見て怖がってるの!」

 

 天儀がハッとした表情になった。


「――ああ、怖いな」

「なんで? リリヤはお兄ちゃんには優しいよ。お兄ちゃんがリリヤに優しくしてくれるからさ」


「俺は――」

 と、天儀の言葉が停止した。

 さきほどリリヤの怠惰を糾弾する厳しい発言を、どんなにリリヤから拒絶されてもとめなかったのというのに、天儀が逡巡しゅんじゅんしていた。

 

「……俺はな。リリヤをとして自分自身を見ていたんだよ。狡猾こうかつでずる賢いあさましい自分をな。君といっしょにいると自分のそんな嫌な面がよく見えた。君のずるさを見て、俺も同じところがあるな、と思っていたんだよ」

「お兄ちゃんは、リリヤといると辛いの? 嫌だった?」


 そう問うリリヤの声は優しい。眼差しも慈愛に満ちている。


「いや、そういうわけじゃない。楽しかったさ。ただ自分を知ったというだけだ。良いことだったよ。それに自分の嫌な面を知って逆に冷静になれた。君を見て俺にもこういう面があるなって」

 

 天儀が決まり悪そうにリリヤを見た。まるで許しを請うような目。天儀の弱気な視線はリリヤの心を打った。やっぱりお兄ちゃんは昔と変わらない。

 そしても昔もこんなふうに口喧嘩したことを思いだした。

 

 二人は、はたから見ても仲が良かったように見えただろう。だが、それなりに同じ時間を過ごせば意見の対立がないわけはない。リリヤは想像豊かで自己中心的。一方の天儀も独善的な面のある男の子だった。

 でも喧嘩したあとは必ず仲直り。そんな相手はお兄ちゃんしかいなかった。他の子は喧嘩すれば絶縁だ。


「お兄ちゃんってリリヤが駄々をこねると、感情的になっていいかえしてきたよね。リリヤのほうがちっちゃいのに」

「……ああ、そうだったな。リリヤは頭がいいから、俺は歳上なのに必死だったさ」

 

 だが、天儀はリリヤが相手だと自分を一歩引いた視線で見ることができた。自身を俯瞰ふかんできるとは、他人対して優しくなれるということである。リリヤは無条件に優しくしてくれるお兄ちゃんへ親愛の情を感じて真心で応じた。


「ふふ、そうだったね。じつはねリリヤ、お兄ちゃんって歳上なのに子供っぽいってよく思ってたよ」

「情けないお兄ちゃんだ。歳上風吹かせて、やっていたことといえばリリヤと同じようなことばかりだ。いまもリリヤを悲しませているだろうな」

「いいよ。お兄ちゃんはどんなときでもリリヤを嫌いにならずに優しくしてくれるでしょ」

 

 いま、リリヤの心に充足と安堵感が広がった。不思議だった。

 

 他人への純粋で無償な気遣い。彼女が何年も忘れていた行為だった。人は他人に優しくされても、自分が他人を気遣う心がなければその優しさに気づけない。リリヤの心に天儀とすごした幼い日以来の満ち足りた心境。だが、もう彼女にはこの感覚がどういうものかすらわからない。ただ、心地よかった。

 

 が、天儀はリリヤの心境と対照的だ。交渉は無駄だったな、という諦念ていねんで満ちていた。

 

 この交渉でリリヤからでた要求は、ザルモクシスへくるように、という荒唐無稽なものだけ。これでは話にならない。

 当初打診されたカサーン基地の管理権の譲渡の話はかけらもない。

 

 そもそも天儀からいわせればカサーン基地の管理権などもらわなくても分捕ぶんどれる。だが、交渉を切り上げて帰れば鹿島は怒るだろうな、と天儀は思った。


『鹿島プラン』

 と呼ばれる今回、特戦隊側が用意した交渉プランは基地の管理権の受け渡しに加えて、捕虜交換も提案しようという野心的なもの。交渉準備をすすめる鹿島は天儀へこういった


「私たちは今更カサーン基地の管理権などもらっても仕方ない。確かにおっしゃるとおりで、これは反乱軍側の弱みです。だからこそ今回はこの点を利用し、捕虜交換の提案を押しつけます」

「なるほど目の付け所はいい」

「反乱軍としては戦闘でカサーンを奪われた、という形は最も避けたい。なので、こちらの捕虜交換の提案を無下にはできないはずで。ですけど、管理権譲渡などという特大級の譲歩をしているのに、さらに我々から要求されれば反乱軍側としては応じにくいのは間違いありません。そこで第二星系にかかっている経済封鎖けいざいふうさの解除をチラつかせます」

 

 つまり『鹿島プラン』とは基地管理権の譲渡と捕虜交換を抱き合わせパッケージ化した交渉プランだ。これはお互い得るものが大きいように見える。考えに考えた鹿島は自信満々だ。

 

「これで戦わずして大成果です!」

「なるほど、さすが主計部の至宝とよばれる鹿島さん。戦えばカサーン基地しか手に入らない。けれど交渉で手に入れれば、捕虜交換のオマケまでついてくる。一挙両得というころですか――」

 

 考えるふうでいう天童愛は鹿島のプランにきわめて良好な態度だ。が、天儀は不満だ少し渋ってから、

「……ま、いい。これでいこう。なにせ悪くはない」

 許可をだしていた。

 だが、宇宙基地ステーションにきてみれば、まともな交渉はなかった。これでは鹿島プランの出る幕もない。


「話は平行線だな」

 

 天儀が切り上げるようにいった。とたんに慌てるリリヤ。まだリリヤの話は終わっていない。天儀をザルモクシスへ連れ帰りたい。


「待って! お話を聞いて!」

「これ以上なにを話す? 君は俺にザルモクシスへきて欲しいらしいが、俺は行きたくない」

 

 リリヤが絶望した。お兄ちゃんは梃子てこでも動かない、という重すぎる現実。泣き叫んでも、お兄ちゃんは立ちあがって背を向けるだろう。

 

 リリヤは天儀へ乞い願うような視線で見るしかない。が、天儀はリリヤを一瞥いちべつし、

「――リリヤ、一つ問う」

 といった。その目は冷え切っている。


「む、なんか他人行儀だよねそれ。お兄ちゃんと私の仲なのに」

「李紫龍を殺したのは本当か?」

 

 瞬間、リリヤの顔が優しげな表情から反転。嫌い抜いた男の名が唐突にでて心は不快のどん底だ。


「なんで、あいつの話をするの。あいつ嫌い!」

「殺した理由はそれか?」

「だって、リリヤを汚いってののしった。あいつがいけないんだから。リリヤをいじめるから。あ、でも、あいつを殺したことで、こうしてお兄ちゃんと会えてるのかも。そう考えるとあいつも役に立ったよね」


「そうか――」

 

 天儀が浅く息を吐いた。瞬間、リリヤは天儀の心が自分から急速に離れていくのを感じた。

 

 リリヤの目に映るお兄ちゃんの存在は暗く闇のかなに沈み込むような雰囲気。リリヤはこの雰囲気がなにかよく知っている。拒絶だ。自身の心のかなに閉じこもり、誰の言葉もうけつけないという態度。

 

 ――うそ……、お兄ちゃんはリリヤより弱虫紫龍を取るの。

 

 心に最悪の予感がよぎったが、必死に打ち消し、なんとか心を保った。ここで泣き叫んでも、お兄ちゃんの心はリリヤに戻ってこない。最悪絶縁だ。なにせいま二人は敵味方なのだ。リリヤにとって、お兄ちゃんとの永遠の絶縁は、これ以上ない究極に最悪なエンディングだ。

 

 お兄ちゃんの心をつなぎとめるにはどうしたらいいのか。追いつめられたリリヤが、ゆらりと立ちあがった――。

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