十五章プロローグ (そのころザルモクシスでは)
惑星ファリガ宙域――。
国軍旗艦ザルモクシスのブリッジ――。
総司令官座の横のデスク――。
デスクにはひと目で最高級品とわかる硯、硯には当然として墨液。そして漆黒の鏡面のような墨液にひたされるのは、これまたひと目で高級品とわかる筆。
デスクでは李紫龍が筆を走らせていた。
育ちのいい紫龍は航海日誌はこうして手書きし、手筆が好ましい重要書類なども筆を取るのだ。長身で真っ黒なくせのない長髪。真っ白な眉。筆を走らすその姿はまさに貴公子。元グランダ共和国の皇帝の寵臣、貴顕の家柄にあっただけはるという優美さだ。
そんな紫龍が筆の動きをピタリと止め、デスクの前に立つ2人へ、
――なにを突っ立っている?
という冷淡な視線をやった。
紫龍の目の前には、むくれ顔でそっぽを向く二足機集団総隊長のリリヤことアイリ・リリス・阿南。その斜めうしろにはメガネで少し冷たい印象の見るからに真面目そうな外見の副隊長の真神隼人。
紫龍は白眉に険悪な色をただよわせて。
「で、高速母艦のズギュアヘレとガメイラヘラをあたえてやった結果がこれか?」
けれど言葉を向けられたリリヤはむくれた顔で無視。
「なるほど第二星系内に敵はいた。発見はまでは素晴らしいな。が、奮ってでていった結果は――」
紫龍は言葉を切ってリリヤを見た。大きな瞳は虚ろさのなかに不安さと不機嫌さが同居し、小さな形の良い唇はツンとしてへの字。その態度は、まるで教師から怒られる不良生徒。
――こいつまともに応じる気がないな。
紫龍は嚇となって、
「自ら報告しろといっている!!」
頭ごなしに怒鳴りつけた。
小さなリリヤの体がビクッ! と跳ねた。長身の紫龍から発せられる怒声は、小さなリリヤの体をひと呑みにしてしまうほどに大きい。が、リリヤは、
――リリヤは悪くないもん。
という抗弁まではしないまでも態度には露骨だ。頑として自分は悪くないという態度を崩さずむくれ顔。
これに副隊長の真神は、らちが明かないな。と思い無表情のまま、
「60機中、未帰還24機。死亡・行方不明合わせて21名。負傷者4名。破損機19機。以上です」
リリヤに変わって応じた。
「で、肝心の対艦攻撃は不発か。素晴らしい戦果だ。どこの隊がもたらしてくれたんだろうな!」
「こいつが下手っぴだから。リリヤは陸奥改を見つけて攻撃運動に移ったから」
リリヤが真神を指していった。指された真神といえば無表情。
――自分が反論するまでもない。
ということだ。証拠に紫龍は白眉を釣り上げて、
「でも阻止されたな」
リリヤへ向けて凄んだ。
「60機対1機だからね。ちょっと多かったね」
「話にならんな」
紫龍が吐き捨てた。そもそも単独状態になるということに問題があるのだ。60機で連携を取って戦う。なんのための部隊なのかというものだ。それを棚に上げて、
――1人で大変だった。
はとおらない。
「で、オイ式の林氷進介と交戦したそうだな」
「まあね。軽くあしらってやったけどね」
「ほう。ダーティーマーメイドから見て11機撃墜しトップガンと呼ばれる男はどうだった?」
「あんなペタッピでも英雄なんだね。あ、でも、こいつよりは上手いかも」
リリヤがこいつ呼ばわりで後ろの真神をこきおろしたが、真神はやはり無表情でとおした。
「だが、結果はその下手に封殺されて戻ってきたという状況だが?」
「逃げ回ってまともに戦わないもの。へなちょこガンって改名すればいいんだよ。リリヤのほうがずーっと強いんだから」
紫龍が嘆息。ああ言えばこう言うだけで、真面目に応答する気のないリリヤに話を聞くのは無駄だ。
紫龍がギロリと真神を見た。
真神は一瞬たじろいだが、
――問がくる。
と思い身構えた。
真神が思う。李総軍司令官はリリヤ相手では話が進まないと、考え自分を見てきたのだと。そして、いまからなされる問は、
――隼人隊の隊長としてのリリヤへの譴責の材料探しでしょうね。
という確信が真神にはある。
なぜなら紫龍は律守らずなにかにつけてルーズなリリヤを心底嫌いぬいている。
――陸奥改への攻撃作戦失敗を口実にリリヤを罷免するつもり。
これが真神の確信の先にある予想だった。
紫龍は第一執政ランス・ノールとは違うんですよ。とも真神は思う。仮にランス・ノールなら、
――彼女が問題を抱えているというのは周知のことだろ。
とでもいってサポートの問題をあげて副官や僚機のパイロットを処分するだろう。ランス・ノールはダーティーマーメイド・リリヤの二足機適性Sという評価をきわめて高く評価している。リリヤを外すことはしない。
だが、李総軍司令官は違う。
今回ばかりは、
――リリヤだけが切り捨てられる。
という期待感で真神はいっぱいだ。
さあ、どうぞ李総軍司令官。ぞんぶんにお問いください。望むままにこの汚い女の失敗を暴露してやります。そして、
――俺を北斗隊の隊長に!
陸奥改への長距離攻撃が決まってから真神が望んだ瞬間がいまおとずれていた。
「真神副隊長」
「はっ!」
真神の待っていましたとばかりに軽快な返事。
「今回の作戦での隊の反省点をいえ。こいつでは話しにならん」
紫龍が、リリヤをこいつ呼ばわりして真神へ命令。
リリヤとえいば、
――ちぇ。
と舌打ちし、
「こいつじゃないもん。リリヤだもん」
などと小声で悪態。
紫龍は傲然と無視するなか真神が応じた。
――バカめ! これでお終いです!
真神は作戦開始当初からの流れを事細かに報告しつつ間には、
――自分は集団に合わせるように進言しましたが……。
など自身の潔白をさしはさみ、加えて再三付け加えたのは、
――これはレコーダーにもあります。
という証拠の協調。
数字の羅列だけのフライト記録や戦闘記録だけでなく、
――わかりやすい証拠があると。
リリヤを罷免するためのだ。
――どうですか。これでお嫌いなリリヤを罷免しやすいでしょう?
と真神は饒舌のなかで報告を終えた。
「なるほど。二足機集団総隊長殿には独断専行のきらいがあるな」
真神が喜悦を抑えてうなづいた。
――さあ、早くあの淫売を罷免して、俺を隊長に!
真神の期待は最高潮。
だが――。
「で、真神副隊長。俺は隊の反省点をいえといったのだが?」
紫龍は白眉を釣り上げ不快のかたまりといった声色。
想定外の紫龍の真神は一瞬絶句。
「……は?」
「お前がいま長々とご高説したのはこの女の問題行動だけだな。こいつの悪口をいえば俺が喜ぶとでも思ったか?」
「そんなつもりは――」
「残念だ真神隼人。お前はとんだ佞人だ。ランス・ノールはリリヤのおもりを任せた手前、お前に同情して大目に見ていたようだが俺は違うぞ」
「お待ちください。なにをおっしゃっているのかわかりませんが――」
真神が色を失って叫んでいた。真神にとって紫龍の反応は予想外にすぎる。
どう見ても紫龍の怒りは自分へ向いている。
――李総軍司令官はリリヤを嫌っていて、今回の失敗を口実に罷免するのではないですか!
真神の大前提が崩壊し、予想外の事態に動揺し舌が回らない。
「隊長のリリヤをこきおろし自己弁護に終始。俺はここまで低劣な反省は聞いたことがない。お前はこの狂った淫売を前にして、自分が白いとでもいいたいのか!」
「そんなことは!」
「黙れ――!」
と紫龍が怒気を発した。旧星間連合軍4個艦隊、約600隻の艦艇を圧した威だ。真神は恐怖で顔面蒼白。まるごと呑み込まれ、数歩下がってたじろいだ。
「お前は俺を甘く見たな」
紫龍が打って変わって静かな声でいってから継ぐ。
「北斗隊はお前が副隊長になってから女性隊員が8名、男性隊員2名が突然移動願いをだしているな」
「それがなにか? 辞めていく隊員は多い。北斗隊は伝統ある精鋭部隊。どんなに成績が優秀でも、隊の高いレベルについていけずに脱落していくものは多いですから。それに、そこのダーティーマーメイドの問題もあります」
真神が、そんなことに一々関知していられない。とばかりにいった。
「ほう?」
「いままで隊長殿をかばって報告はしませんでしたが、実はダーティーマーメイドとの関係が悪くて辞めたものも多いのですよ。その10名の移動願いはダーティーマーメイドの問題でしょう。いいかたを、はばからなければダーティーマーメイドは人肌恋しいくなれば誰でもかまわない。大方、ダーティーマーメイドが個室に引きずり込んだと自分は思いますけど」
必死の真神の抗弁に、紫龍がフッと笑った。
真神は紫龍がほのかな笑いに、
――やはりそうでしょう。怒鳴ってなんだというのです。
と心に小休止を得た。やはり紫龍はリリヤを罷免するのだ。そのために自分を恫喝する形追い込んで、リリヤの悪行を暴露させたのだ。
が、紫龍が再び口を開くと、真神のつごうのいい想像は一気に吹き飛んだ。
「俺を甘く見るなといったろ。女性8名の移動願いは軍高官の説得によりだされた。よくよく調べさせたらこんなことが判明したぞ」
真神は思ってもみなかった紫龍の返しの言葉に頭が真っ白となった。
「女性8名はお前に乱暴されたと、最初はいっていたそうだ」
「いいがかりです!」
「ほう?」
「自分は副隊長という立場上どうしても憎まれ役に徹する立場です。ダーティーマーメイドがむちゃをいっても、それを徹底させる。軍は上意下達の組織。こんな女のしたに置かれればどうしたって恨まれます」
「讒言されたといいたいのか」
「そうです!」
紫龍は、なるほど。といってスティック状のデータディスクを目の前に掲げた。
「これがなにかわかるか?」
「データディスクのようですが、それがなにか」
真神が困惑して応じた。
そのなかに証拠でもあるというのか? と真神は思うが、隠蔽は完璧という自信がある。映像などの証拠が残っているはずがない。
「お前は、外面は知的に見えて存外考が甘いな。軍で配布される端末にGPSが内蔵されレコーダー機能も搭載されているのを知らんのか?」
「だからなんだというんですか」
「このなかにあるのは移動願いをだした女性8名の当時の行動記録だ。つまり彼女たちが毎日艦内でどこへ行ってなにをしたかの記録だな。8人の移動願いは決まって艦内の士官用バーをおとずれた翌日。例外なくな。そしてお前のレコーダーも確認した。8名が移動願いをだす前日お前は彼女たちと行動をともにしているな。なにをしていた?」
紫龍の追求に真神の感覚が前後にゆらいだ。
――バレてる!
天井がグルグル回り言い訳も思いつかないし声もでない。
「言い訳もなしか。まいい。男性2名のレコーダーも確認したが、被害女性2名と頻繁にあっていたということがわかった。想像するに男2名はお前が襲った女の彼氏だ。ランス・ノールがお前の処分を見送ったため、反感を抱いて他の部隊へ移動していった。大方こんなところだろう」
追い込まれた真神は、けど――!
――黒いのは俺だけじゃない! この女のほうがよほど!
と強烈に思い、なんとか声を絞りだそうとするも動揺で震えが止まらない。
絶対バレていないと思っていた悪事がバレていたのだ。しかも、
――第一執政も知っていた!
真神はランス・ノールを崇拝している。そして尊敬する人間には、良いところだけ見せたい。そしてうまくいっていたはずだった。
――リリヤの下で耐え、ランス・ノールに買われて出世。
思い描いていたキャリが無残にも瓦解してゆく。
「どす黒いこの女が近くにいいれば、自分は白く見えるなどと思ったか! 黒は腐った黒が横にいてもしょせん黒は黒だ! 恥を知れ! そして悪を糾弾できるのは、至純の廉白のみ。重ねても重ねても真っ白なものこそ悪事を糾弾できる資格を持つ。貴様にその資格はない!」
足元が崩れさり蒼白の真神へ紫龍は、
「真神、お前はこの女が嫌いだろ」
とうとつに問いかけた。真神は紫龍のいきなりの問に困惑したが、取り敢えずうなづいた。
「俺もだ。この淫売は腐ったミカンだ。すえた異臭がする」
「だったら!」
――だったら俺じゃなくて、腐れたミカンを処分してくれ!
と真神は思うが、紫龍はそれほど甘くない。
「だったらなんだという!」
と大喝。真神はたじろいでまた声を失った。
「俺を甘く見るなといったろ。お前は算段など見え透いているぞ。北斗隊にきた当初の〝あて〟が外れたから俺にこの腐れたミカンのような淫売を処分させ隊長に昇格しようとした。違うか?」
「え……」
すでに蒼白の真神がさらに色を失っていた。紫龍のいったことは判然としないが、真神には紫龍がなにをいわんとしている。
「お前はこの臭い女とも寝ているな。頭のおかしい女だ。大方そんな女に優しくして体の下に組み敷けば簡単に操作できると思ったんだろう。だが、あてが外れた。違うか?」
「ち、ちが」
と、どもって動揺丸出しの真神。その様子はどう見ても肯定。真神は必死に否定したいが、腐れたミカン、淫売などとリリヤを侮蔑しながら、
――その臭い肢体を楽しんだ。
という身に覚えがあるだけに全身が、
――どうしてバレた!
と叫んでしまっている。紫龍は真神にみなまでいわせずに、
「もういい」
とぞんざいに切って捨てた。
「お前は終わりだ」
紫龍の言葉とともに体格のいい兵士二名が前に進みでた。二名は通常の軍服の他に、
――軍警。
と書かれた白いメットに腕章。軍内の不正をとりしまる軍警察。
真神へたくましい腕が4本のびてくるが、
「おい! まて!」
伸びてきた腕を振り払うように必死に抵抗。このまま逮捕収監されれば、処刑もありうる。軍の法律といえる星系軍規則では強姦は重罪だ。しかも8件。合意のうえと勘違いしたはとおらない。
真神の知るランス・ノールは本来きわめて規律に厳しい。軍規の運用は厳格そのもの。総軍司令官の紫龍が真神の違反を公にしてしまえば、
――自分は切り捨てられる!
というのは想像にやすい。真神の真面目の仮面のしたにあったクズな本性が公になれば利用価値など消失。必ず厳罰をもって処分されるだろう。
「俺がいないと北斗隊はまともに機能しないぞ! 第一執政が黙認した意味を考えろ! いや、俺がいなければ艦載機隊は戦うどころじゃなくなる! あなたらならわかるでしょ!」
叫ぶようにでた言葉は乱暴だが、真神の表情は絶望一色で、これでは無様な懇願だ。
紫龍は必死の懇願を傲然と無視。冷えた視線のなかに思う。忠臣をやめても、正しさをあきらめた覚えはないと。
いや、むしろ正しさを追求するがために、
――忠臣をやめた!
とすら紫龍は思う。
「人を尤めてこれに効うは罪はなはだし。お前はこの女を侮蔑しながら同じことを行なった。卑陋のきわみといえる」
誰かを非難すれば、その言葉はおのれにも跳ね返ってくるということだ。真神は公私共に乱れたリリヤを侮蔑しながら、自分ならこれぐらいのことは許されると悪事に手を染めていた。下劣といっていい。
真神は両脇を抱えられ、引きずられるようにしてブリッジから消えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
真神が退場すると、
「リリヤ、くさくいもん」
リリヤがぽつりといった。
紫龍が、気になる点はそこか。と白い眉をひそめた。
いま紫龍が暴露した真神隼人の真面目のしたにあったクズな本性。これを暴露するさいにリリヤのあつかいは散々だったのだ。
紫龍からすれば、もっと他に気になる点はあるだろうし、
「他にいうことはないのかお前は?」
というものだ。
リリヤが、いうこと? という疑問顔になったが、
「リリヤは悪くないもん」
でてきた言葉はそれだけで、プイッと横を向いた。紫龍はあきれるしかない。
「まぁいい。それにしても1機で60機と交戦か――」
「無謀だっていったいの? リリヤ悪くないからね」
自分は悪くない。脳内に独自の王国持つ女はどこにようと唯我独尊。リリヤは常に自分が正しく、周りのことを考えて行動しているという幻想のなかに生きている。
――自分がこんなに不幸なのに!
辛くて、悲しくて、寂しい。そして周りのことを一番考えている。苦しいのはそのせい。だからちょっとしたズルも、わがままも許される。いや、許されるべき。というのがリリヤだ。
――なによ。怒る気。ならリリヤにだって考えがあるんだから。
リリヤが虚ろな目を険悪に光らせ紫龍をにらみつけたが、紫龍の態度は予想に反した。
「状況は11隻に60機を1機で相手にして生還か。ランス・ノールがお前を特別扱いする意味がわかった。今回はお前の超絶した戦技に免じて帳消しだ」
リリヤが、
――え?
と、その大きく虚ろな目を見開いて驚いた。
「さっさと消えろ。この不敗の紫龍が今回だけは許してやるといっているのだ」
悲しいかな李紫龍は頭の天辺からつま先まで軍人だった。ダーティーマーメイドことリリヤの単独行動の記録を見て怒りを覚えるより、
――これぞ神技。
と絶賛。強烈に感動してしまった。
60機に11隻を加えた戦力と交戦し遅れを取れない人間など驚きそのものでしかない。
リリヤは紫龍の意外な反応に、最初こそ疑っていたが、
――なーんだ。もしかして……。
想像をたくましくしニタリと不気味に笑った。
「ねえ」
とリリヤは目の前でデスクワークを開始している紫龍へ甘い声。
紫龍といえば退出しろと命じたのだ。すでに意識にリリヤの存在などない。根本は規律を守らないリリヤを嫌っているだけに、立ち去れと命じれば、それきりで意識からシャットアウトだ。
「ねえったらぁ」
「なんだ。まだいたのか」
険悪にいう紫龍だが、リリヤは意にかいさない。自身の小さな手を紫龍の手へ重ねた。
「えへへ。最初からいってくれればいいのに。男の子ってそうだよね」
「――……」
紫龍がリリヤを凝視。だが言葉はない。リリヤは紫龍の無言を、肯定を受け取った。
「リリヤ知ってるよ。男の子って好きな女の子をいじめたくなるんでしょ? 弱虫のあんたがリリヤをいじめた理由わかったよ。リリヤってかわいいもんね。子供の頃は嘘つきってよくいじめられたもん。うん。いいよ。あんた弱虫でも顔はいいら――」
リリヤが紫龍の首に腕を絡みつかせようとしたが――。
――ゴスッ。
という鈍い音。リリヤの顔半分に痛みではなく強烈な熱。
「――!???」
驚く間もなくリリヤは物理的に天地が逆転。その小さな体がブリッジの床に跳ねた。
リリヤの頬に、リリヤの顔の半分はあろうかという鉄拳が直撃したのだ。リリヤは殴られ、その小さな身体がブリッジの床にもんどり打っていた。
そして紫龍からは、
「汚らわしい!」
という体の奥底からでる嫌忌の叫び。紫龍は、おぞましさで顔が青い。
リリヤは頬を抑え茫然自失。リリヤの目に映る床には血溜まり。その形の良い小さな鼻からは、
――濁濁。
と血が流れていた。
次の瞬間には、
――ワー!
というリリヤの叫ぶような鳴き声がブリッジに響いた。
つんざくような耳障りな泣き声に紫龍の顔が歪んだ。
「信じられません女性に手をあげるだなんて! このことはお兄さまに報告させてもらいますからね!」
大声で泣くリリヤにシャンテル・ノール・セレスティアが駆け寄っていた。
シャンテルは怒りで真っ青。走ったせいでカーキ色の巻き毛も乱れ気味だ。
シャンテルはリリヤが帰還したときいてブリッジに様子を見にきたのだ。
――大方、陰険な紫龍さんはリリヤさんをネチネチといじめるんでしょうね。
シャンテルとしては、それがわかるだけにリリヤを放っておけない。助けてあげなければ。と思いブリッジに足を踏みれていた。
そしてシャンテルがブリッジを進んだ先に目撃したのは、リリヤに手をあげる紫龍という驚きの光景。か弱い少女に、巨人が拳を力いっぱいヒットさせていた。
――どういう状況ですかこれは!
シャンテルは驚いてリリヤをかばうように抱きかかえ、紫龍をにらみつけた。
けれど紫龍は真っ青。
「汚らわしい。汚らわしい。汚らわしい」
ハンカチを取りだしリリヤに触れられた手を拭っているだけ。2人のことなど眼中にない。
対してシャンテルは紫龍を責めてばかりはいられない。
――イタイ! イタイ!
と泣きわめくリリヤの手当だ。その真っ白なワンピースのような軍服はリリヤの鼻血で真っ赤に。
「歯は折れてませんね。早く冷やさなければ――。医務室へ。いえ、違うわ。きてもらったほうが早い。あなた達はなにをボケっとしているの! 早く医務室へ連絡なさい。緊急です!」
これで、やっと唖然と見ていた兵員たちが慌ただしく動きだした。
「鼻が、鼻がー! 鼻が取れちゃったー!」
「取れてません。だいじょうぶだからリリヤさん落ちついて」
シャンテルは必死になだめながらもリリヤへ疑義の視線。
殴られたわりにリリヤは元気すぎるというか、
――大げさに演じているのでは?
そんな疑いが濃厚。シャンテルはわめくリリヤに仮病的なものを感じたのだ。
けれど、
――本当はそんなに痛くないでしょ?
とシャンテルがいえばリリヤは激昂し余計面倒くさいのは目に見えている。
そう、リリヤは強襲部隊の隊員だ。格闘術も身につけている。リリヤは殴られる瞬間にとっさに首をひねってクリティカルヒットを避けた。大げさに吹き飛んだのもそのためだ。拳がヒットするかしないかで自ら後ろへ飛んで力を逃し、ダメージを軽減したのだ。
「イタイ。本当だよ? イタイんだから!」
「ええ、わかってますよ。いまお医者の先生がきますから」
シャンテルは、軽傷でしょ、とはいえず困惑しながら応じた。
痛みを主張するリリヤは上目づかいで、やはり嘘を取りつくろうような気配が濃厚。
シャンテルからすれば、確かに拳の当たった頬は赤くなり少し腫れているのは事実で、鼻血も止まらないですけれど、
――大げさすぎるのでは?
という疑いが大きくなった。
けれどリリヤからすれば殴られた痛みより、心の痛みが大きい。心を開放し近づいたところに強烈な拒絶。それも物理的な。そうリリヤは痛い。
――心が痛い。
シャンテルがリリヤをギュッと抱きしめると、とたんに静かに。シャンテルは、
『やはり――』
と思いつつも少しホッとした。目撃したリリヤは鼻血がひどく、鼻が折れてしまったのでは!? とゾッとしたのだ。リリヤは女性だ。顔の傷は致命傷だ。
シャンテルは、
――それにしても紫龍さんは、なにを考えて? 手をおあげになるだなんて!
と紫龍をにらみつけた。
「経緯は知りませんが、グランダの貴公子がとんだ暴漢です。女性を殴ったんですよ?」
「黙れ――」
紫龍が慍然といった。紫龍はまだリリヤに触れられた手を拭っている。
「いいえ黙りません。紫龍さんはどうかなさってますね」
「その女が俺の手に手を重ねて――」
というが紫龍の顔は怒りで赤黒く。それ以上言葉がでない。
紫龍は高潔だ。いや潔癖といってもいい。
――なにを勘違いしたか、その女がいいよってきた。
などと口にするのも、いや思うのも汚らわしいというものだ。
そこへ医療班が駆けつけてきた。
「ここです――」
とシャンテルが腕のなかのリリヤを軍医へアピール。
負傷者、つまり鼻血で顔が真っ赤なリリヤを見た軍医と看護師の目の色が変わった。2人はシャンテルとリリヤへ近づこうとしたが、
「おい! 消毒液をよこせ!」
紫龍が割って入っていた。
軍医と看護師は驚くしかない。2人の目には真っ赤なシャンテルの白いワンピースのような軍服が印象的。間違いなく負傷者は紫龍ではない。最初2人は白い布地の鮮血を見て、
――第一執政の妹君になにか!?
とシャンテルの負傷を心配したが、よく見ると負傷しているのはシャンテルに抱かれるリリヤだと知り胸をなでおろしていた。
対して紫龍は傷一つないように見える。いや、事実。傲然と脅しつけてくる紫龍からは病人やけが人の、それらしさを感じない。
元気すぎるというか、
――けがに対する恐れや慎重さがない。
元気すぎる病人やけが人というはいるものだが、それでも必ず患部を気にかけるさまが所作にでるものだ。いまの紫龍にはその手の不安さは一切ない。
軍医も看護師も困惑したが紫龍の、
――俺を優先しろ。
という気迫に屈服。すぐさま救急セットから消毒液を取りだし、
「だいじょうぶですか?」、「手をけがされたのでしょうか?」
などと紫龍へかかりきりに。
――違うでしょう!
とシャンテルがカッとなった。
「蚊に刺されたわけでもないのでしょ!」
シャンテルの叫びに、軍医と看護師は動揺。
なにせシャンテルは第一執政ランス・ノールが溺愛している妹で、かつ第一執政代理だ。2人は目の前の紫龍というわかりやすい恐怖に従ったが、よくよく考えれば〝シャンテル様〟に目をつけられることも避けたい。
なにせシャンテルは自ら公開処刑を行なうほどに、怨情が激しい。
「我が手が汚れた。このままだと腐って落ちる」
紫龍が小柄なシャンテルをにらみつけ傲岸にいうと、シャンテルは意味不明とばかりに不快もあらわに首を振った。
シャンテルはリリヤを軍医に任せてすくと立ちあがって紫龍をにらみつけた。
シャンテルは紫龍がリリヤへ手をあげた経緯を知らない。知らないが、
――許せるものでない!
という女性特有の正義感で燃えあがっている。
が、紫龍には、
――分をわきまえない、その淫売が悪いだろ。
とシャンテルの義憤が気に入らず苛立ちさえする。
男性のカーストの基準は強さ。強さとはより単純にいえば力。力とは体力。弱者を慈しんでいては男性社会では生き残れない。そう、男は共感より合理性、合理性とは、
――お前最近太ったよな。
などということを平気でいう。皮肉とかなしでだ。
だが、これでは相手を傷つけるし、当然いさかいの原因となる。
けれど、それが男だ。男は虐げられるものをみても、
――弱いほうが悪い。
と心のどこかで断罪する。それがたとえ悪事でもだ。
が、男性的な力の原理の上に立てば、母の腕に抱かれる子の運命などない。
いま、
――力こそすべて。
という紫龍の男性性と、
――弱者をいたわるべきです。
というシャンテルの女性性が真っ向ぶつかっていた。
「女性に手をあげるだなんて信じられません。とんだ高貴なご血筋ですね。その乱暴な性質は血筋によるのではなくて?」
「なに――」
「紫龍さんのお祖母様は、前の皇帝の帝姫、つまり皇帝の娘と聞きました」
「なんだと。なにがいいたい?」
「暴力はお血筋ですねということです。カッとなって紫龍さんの奥さんを殺した皇帝。カッとなってリリヤさんを殴る紫龍さん。同じです」
とたんに紫龍の顔が怒りで真っ赤に、体貌が膨らんでいた。けれどシャンテルは強気を崩さず語勢をゆるめない。
「お亡くなりになった奥様にも手をあげていたんではなくて?」
瞬間、紫龍の真っ白な眉がつりあがり蒼白に、怒りすぎて血の気が引いたのだ。
紫龍がデスクのうえにあった硯をつかんで振りあげた。真っ黒な墨液が飛散。
シャンテルの顔とカーキ色の髪の毛へ、
――ビシャッ。
と墨液がかかり、シャンテルが顔をゆがめた。
硯を振りあげた紫龍がカッと目を見開いてシャンテルを双眸に捉えた。
とたんに近くにいた兵員たちは真っ青。
ブリッジには誰がいったか、
「いけません――!」
という叫び。
硯を振りあげる紫龍に数人の軍高官が群がっていた。
「ご自重ください!」
「第一執政はあの女を盲愛している!」
「貴方がいなければ! 不敗の紫龍を失って我々はどうしろと!」
ランス・ノールは英断で当世最高の軍人といわれる李紫龍を軍のトップにすえたが、
――妹が硯を投げつけられた。
と知れば怒り狂って間違いなく紫龍を解任するだろう。
あの女呼ばわりされたシャンテルといえば、墨液をぬぐいもせずに平静をよそおい髪をかきあげた。
「あら、やっぱり乱暴ですこと。このことはお兄さまに報告しますからね」
紫龍の双眸が怒りに燃え。群がる軍高官たちを振り払おうと体をゆすった。とたんに慌てる軍高官たち。彼らは紫龍にしがみつく力を強め必死だ。
「わたくし普段は白を好みますけど、黒も似合って? 紫龍さんはそうやって強引に相手を自分の色に塗り替えるのがお好みなんですね。あなたの奥さんだけにはなりたくないとシャンテルは思います」
挑発をやめないシャンテルに、たまらず紫龍に群がる1人が叫ぶ。
「シャンテル嬢よしてください!」
「嬢ですって。小娘あつかいですね。第一執政代理なんですけれどね?」
シャンテルが素人あつかいするな、というようにいった。
「ではシャンテル第一執政代理ご自重ください! 怪我をされるのは貴女ですよ!」
シャンテルは、フンッ、と鼻を鳴らし、
――リリヤさん行きましょう。
といってリリヤの手を取り去っていく。
紫龍の手からガラリと硯が落ちた。
紫龍は、まだ慍然としてはいるものの戦意が消えおとなしくなっていた。
軍高官たちはおとなしくなった紫龍を見て、
――まさか飛びかかってくれるなよ。
と恐る恐る離れた。
誰もが攻撃をあきらめたと見せかけて、風のようにシャンテルへ襲いかかる事態さえ警戒したのだ。紫龍の怒りはそれほどに激烈だった。
「魔女どもが――」
と怨怒を吐く紫龍。
ブリッジには暗雲立ち込める空気。
軍のトップ李紫龍と軍のナンバーツーであるシャンテルの決定的な対立。
希望に満ちあふれたはずの独立宣言。それがいまの神聖セレスティアル共和国軍は内訌状態といっていい。誰もが暗くならざるをえない。