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小学生の英介にとって夏休みは永遠ともとれる長い時間に感じられた。その間にはもちろん、漁師の嫁たる母親の手伝いや、漁を引退した祖父が耕す小さな畑での仕事もあったのだが、それもまた夏の楽しみの一つだった。
夏休みの壮大な予定を語る英介に逸郎がはにかむ。縁側に二人腰かけたまま盥の氷水に足の指先を浸すのが涼しい。ひと夏ばかりの蝉の声が割れんばかりに鳴り響いていた。
「にいちゃんたちが海行くって言ってたからさ、俺らも行こうよいっくん!」
町から隣接する海は漁港だが、島の裏手に回れば砂浜が広がりここらの人間には絶好の海水浴ポイントだ。兄たちは幼い英介を連れて遊びに行くことなど勿論面倒がったのだが、英介の方は意にも介していない。随分遠くまで泳げるようになったのだから、連れて行ってもらうのは当然の権利だと言わんがばかりだ。
「……えーくん夏休みの宿題は?」
「だいじょーぶだいじょーぶ!」
「うーん、じゃあさ。夏休みの宿題、僕が見てあげるから今度持っておいでよ。で、終わったら海行こう?」
「えーっ!」
「ちゃんと終わらせないとダメ」
「後でちゃんとやるって!」
「だめ。先にやる。じゃないと――」
ふと、逸郎は言葉を切った。黙り込む彼を訝しんで英介は隣を覗き込む。どこか思い詰めたような表情にただならぬものを感じて英介もまた黙った。
逸郎の、くるりと大きな目が揺らぐ。はっと息を飲んだ後、彼は唇を引き結び、わざと怖い顔を作って英介を睨んでみせた。
「お盆までに終わらないと宿題おばけが出るんだよ」
そう言って逸郎はぷっと吹き出し、両腕を後ろについてやや上体をのけぞらせた。脅されてからかわれたのだ、と気付き、英介は足の指先を伸ばしてまるで駄々をこねるようにばしゃばしゃと水を掻き回した。
水しぶきがきらきらと跳ねる。
膝まで濡れて、心地よい。
物静かな逸郎ではあるが、こんな時、絶対に英介のわがままをきいたりしない頑固な一面があることを英介は知っている。上に五人の兄弟がいながらも、だからこそ英介は逸郎のことを兄のように慕うのだろう。実際の兄たちは、こんな風に英介に対してまともに取り合ったりはしない。
「……あのさぁ」
「宿題は、やるよ? なるべく早く終わらせよう」
「そうじゃなくて」
「何?」
「夏休みのあいだに、裏山の洞窟行きたい」
それは島の中心の丘ともつかない山にぽっかりとあいた穴で、誰でも一度は探検する絶好の遊び場だ。ただし、裏山自体、入れるのは五年生になってから、という決まり事がある。だから英介のような下の学年にとって洞窟探検は憧れの通過儀礼とも言えた。
逸郎は少しばかり逡巡した。逸郎の学年ではもう遊び場として解禁されている裏山は、英介にはまだ早すぎる場所だ。自分が連れていくのであればそれは許可された範囲に含まれるのだろうか。そんなことを考える。もし、幼い英介に何かあった場合は、自分が責任を取ることになるのだろうか。
そんな逸郎の表情に、やっぱりだめか、と英介は盥の氷を蹴飛ばした。頭ごなしに「だめだ」と言う兄たちや、面倒臭そうに「はいはい」と受け流したきり約束を守らない姉たちとは異なる反応で、英介の方もそれ以上は食い下がらないつもりでいた。
けれど逸郎は縁側についた手をバネにして上体を起こし、
「いいよ。行こう」
と、言った。
真面目な逸郎らしからぬ答えだった。
英介が五年生になるまで。逸郎には後の二年を待つことができなかったのだと後で知った。宿題を早めに片付けてしまうのも、少し早い洞窟探検を了承したのも、結局は彼がこの夏を最後に島を離れることが決まっていたからだ。
小学六年と小学三年。たった三年の歳の差は、この頃はまだあまりにも大きなものだった。