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門真のじいさんはアリャもうだめだ、などと近所で話す会話が聞かれるようになったのは英介が高校三年に上がってすぐのことだった。逸郎が島を出て以来、あの家に行くこともなかったため、大人たちの会話は気にも止めなかった。もう門真の家などすっかり疎遠だったのだ。
だからこうして急に逸郎が目の前に現れ、英介はそのことでいたたまれない気持ちになった。幼い頃あれだけ世話になっておきながら、全く気にもしない自分の薄情さが気持ち悪かった。そして英介は祖父を置いて島を出て行った逸郎のことを、まるで八つ当たりのように更に許せなくなっていた。
無理矢理握られた手を、苦労して引き剥がす。こんな風に馴れ馴れしくされるのはとても嫌だった。なのに恐る恐る様子を伺った先で逸郎の方が傷付いたような顔をしていて、それが更に英介の苛立ちに拍車をかけた。
長男からお下がりの机はノートを広げる余地すらないぐらいに散らかっている。まずは机の上に置いてある雑然とした物を床に下ろす必要があった。その間に逸郎が母親と一緒に、姉が使っていた椅子を物置から発掘してきた。兄からのお下がりの椅子の隣に並べる。
「さて、遅くなってしまったけど始めようか」
「なあ、いっ……」
いっくん、と呼び掛けて英介はやめる。そんな親しい雰囲気で全てを許してしまえるほど甘くはない。それに気付いた逸郎が困ったように息を吐いた。
「……じいさん、さ。具合どうなの」
「ああ――……。あんまり良くないかな。だからこうして見に帰ってきたんだけど」
「ふうん」
帰ってきた、という言葉にぴくりと耳が動いた。彼の言い方はまるでここが本来の居場所であるかのようで、それに過剰反応してしまう。
「まあ夏休みの間だけね」
大学の夏休みは高校よりも早く始まり、遅くに終わる。逸郎はそう言った。そして夏が終わればまた彼は島を出て行くのだろう。
それは、「帰ってきた」とは言わない。
「えーくん、何か怒ってる?」
「別に」
「だってさっきからすごく素っ気ない。初めて口付けした相手なのになあ」
「何言って……っ」
「忘れた?」
あんな幼少期のことを、まるでからかうみたいに逸郎が言う。もうその意味など分からない英介ではない。口付けをしたら結婚だなどと騒ぐ小学生ではない。
子供のすることだ。いわゆる性的なものではないから「初めて」などとカウントするのがおかしい。しかも、あのとき口付けてきたのは逸郎の方なのだ。
「忘れた」
なのに顔に血が昇るほど恥ずかしい。
英介はますます意識して逸郎から視線を逸らす。覚えている、と告白したも同然だった。
「そう。僕にとっては初めてだったよ。初めての、キス。あれが初恋」
あのとき、英介はまだ小学三年生だったが逸郎は六年生だった。口付けも結婚もゴチャゴチャの悪ガキとは異なり、逸郎は初恋だってもう自覚する年頃で――。
――初恋?
「……俺、小学校の時も男なんだけど」
「そうだね。さて、期末考査の結果から見せてもらおうかな。苦手なのは数学?」
真意を告げることなく逸郎は家庭教師の顔になった。
もやもやとした気持ちが晴れないまま英介はしわくちゃの藁半紙を、積み重ねたノート類の山から引っ張り出す。苦手なのは数学だけではない。
丁寧に広げて皺を伸ばすと、各教科壊滅的な答案用紙が姿を現した。




