第1話 残高2と九十日
死んだはずだった。
それも、かなり確実に。月曜の始発で出社し、金曜の終電を三本続けて逃した男の心臓が、会社の便所で止まったのだ。胸を握り潰されるようなあの痛みは、本物だった。
なのに、目を開けた俺の視界には、半透明の文字列が浮かんでいる。
【迷宮核四九号へようこそ。権限移譲を確認。本日付であなたが当迷宮のマスターです】
【DP残高:2】
「……は?」
「起きて。新しいマスター」
暗闇に、声が落ちた。
振り向くと、青白い光がぽつんと灯っている。月光を糸に紡いだような銀の髪。感情の読めない硝子玉の瞳。十二、三歳に見える少女が、地面から三センチほど浮いて、俺を見下ろしていた。
「わたしはノア。この迷宮核の管理精霊。あなたの補佐をする」
「……ここは、どこだ」
「迷宮『四九号』の最深部。コアの間」
少女――ノアの視線の先、部屋の中央で、ひび割れた水晶の球が弱々しく明滅していた。脳裏に、病院の心電図モニタがよぎる。素人目にも分かる。あれは、衰弱している側の光り方だ。
「俺は死んだはずだ。過労か、心筋梗塞か、とにかく――」
「死んだ。地球という世界の魂は燃費がいいから、系統がよく補充に使う」
「補充?」
「マスターが欠員になった迷宮に、よその世界から魂を入れる。あなたは欠員補充」
中途採用ですらない。欠員補充。
死んでまで、人手不足の穴埋め要員か。俺は。
「説明する。質問は、後でまとめて」
ノアは細い指を一本立てた。
「この世界の迷宮は、核に魔力を捧げて、DP――ダンジョンポイントに変える。DPがあれば、なんでも買える。魔物、罠、壁、水、空気。系統のカタログに載っているものなら、なんでも」
「なんでも、ね」
「そして、これが現在の残高」
【DP残高:2】
「迷宮の維持費は、一日1DP。明後日の夜明けに、尽きる」
「尽きると、どうなる」
「核が止まる。マスターの肉体は核が維持しているから、あなたも止まる」
つまり二日後に、二度目の死。
「……前任のマスターはどうした」
「ある夜、消えた。残高と備品を、ほとんど持ち出して」
「夜逃げじゃねえか」
「方法は不明。マスターは本来、領域の外に出られないのに」
ノアはそこで初めて、わずかに首をかしげた。
「……あの夜のことを、わたしは、よく覚えていない。記憶に、欠けがある」
天気でも報告するような、平坦な声だった。本人はまるで気にしていない。
俺は気になったが、後回しだ。物事には優先順位がある。まずは、生存。
そう決めた矢先、視界の端で通知が点滅した。
【系統通知:第六三期 淘汰戦 対戦割当】
【九〇日後、当迷宮は三一号迷宮『蟲毒の穴』と接続されます】
「ノア。これはなんだ」
「淘汰戦。系統が周期的に、近くの迷宮同士を強制で繋げて、戦わせる。期間は七十二時間。勝利条件は、相手のコアの破壊」
「負けたら」
「コアも、DPも、配下も、領域も、全部が勝者に吸収される。マスターは死ぬ。ごくたまに、隷属契約で生かされる」
「相手の『蟲毒の穴』というのは」
「十二連勝中。物量で有名。直近の対戦相手は、開戦四時間で呑まれた」
なるほど。状況を整理しよう。
俺は死んで、異世界で迷宮の経営者になった。引き継いだのは、前任者が夜逃げした債務超過寸前の現場。手元資金は二日分。九十日後には、業界十二連勝の大手との敵対的買収――いや、買収ですらない。文字通りの、殺し合いが確定している。
「……はは」
乾いた笑いが出た。
転職先も、ブラックだった。
最後の記憶を思い出す。
便所の個室で薄れていく意識の中、俺は本気でこう考えていた。――まずい、原価低減の報告書が、あと三日分残っている。
笑える。死の間際の走馬灯が、提出物の心配だ。
他人の数字のために生きて、他人の数字のために死んだ。それが相馬計、二十七年の決算報告だった。
「ノア。ひとつ聞く。この迷宮、諦める以外の選択肢はあるか」
「歴代の負けマスターは、だいたい初日に諦めた。着任初日の発言、第一位は『嫌だ』。第二位は無言。あなたも?」
「逆だ」
俺は立ち上がった。膝が笑っていた。それでも腹の底だけは、不思議なほど静かだった。
「数字は嘘をつかない。残高2、期限九〇日、相手は格上。どこからどう見ても詰みだ。――なら、嘘みたいな数字を作るだけだ」
今度の数字は、俺の数字だ。
誰のためでもない。誰にも、文句は言わせない。
やることは決まっている。まず、棚卸しだ。
ノアの案内で迷宮を歩いた。全三層の、小さな洞窟迷宮だった。一層は苔むした洞窟で、隅に薬草が自生している。二層は岩場と、崩れかけた古い坑道。三層がコアの間。魔物はゼロ。罠もゼロ。前任者が売り払ったらしい。残っているのは、湧き水と、隅に積み上がったガラクタの山だけ。
「資産は薬草と水とゴミの山。負債は維持費。よし、把握した」
「把握しただけで、どうにかなる?」
「ならない。だが、把握していない奴は必ず潰れる」
次は収入の確保だ。
「マスター自身の魔力も、核に捧げればDPになる」
「やり方は」
「核に触れて、注ぐ」
ひび割れた水晶に手を当てる。胸の奥から温かいものをごっそり抜き取られる感覚。立ちくらみと同時に、表示が動いた。
【自己奉納:+2.0DP】【残高:4】
「一日にそれ以上やると、倒れる」
「倒れない範囲の上限で毎日やる。固定収入が一本できた」
ふらつく頭のままカタログを開く。ゴブリン5DP。石壁一面2DP。毒矢の罠18DP。ミノタウロス800DP。ワイバーン1,200DP。
笑うしかない。今の俺には、ゴブリン一匹が高級車だ。
一覧を価格の昇順に並べ替える。社会人の基本動作だ。
最安値――【スライム:1DP】。
「ノア。スライムは、使えるのか」
「最弱。掃除くらいは、する」
「掃除。上等だ」
残高の半分を投じて、購入を押した。
コアの前の床が淡く光り、白い半球が、ぽとりと生まれた。
丸い。白い。ぷるぷるしている。
「……餅だな」
正月に実家で見たやつだ。つやのいい、丸餅。
おい、と呼ぶと、餅はぷるりと震え――なぜか俺の足元のガラクタ、錆びた蝶番に、ずるりと覆いかぶさった。
蝶番が、溶けるように消えた。
【還元:+0.04DP】
「……は?」
ノアが、すっと目を細めた。着任以来、初めて見る表情の変化だった。
「分解能力。物を喰って、DPに還す。……変異個体。最安値で、当たりを引いた」
「当たり、なのか」
「スライム百匹に一匹、いるかどうか」
俺は、部屋の隅のガラクタの山を見た。
違う。あれはもう、ゴミじゃない。
換金待ちの、在庫の山だ。
「お前、今日からモチな」
モチはぷるりと震えた。心なしか、さっきより動きが機敏になった気がする。
「あの山は全部食っていい。残業代は出ないが、夜食は出し放題だ」
その夜、俺はコアの間の床に、灰で表を書いた。
紙もペンもない。だが日報を締めないと、どうにも一日が終わった気がしない。我ながら、つくづく社畜だった。
【迷宮経営日報 一日目】
残高:4.1DP(着任時比 +2.1)
収入:自己奉納+2.0/モチ還元+1.1
支出:スライム購入 −1.0
資産:薬草床、湧き水、ガラクタの山(推定40DP相当)、モチ(掘り出し物)
負債:維持費1.0/日
特記:従業員一名。社長兼工場長兼経理は俺。
淘汰戦まで、あと八九日。
「……固定費を、日次収入が上回った。初日としては上出来だ」
言ってから、自分で苦笑する。誤差みたいな黒字だ。
それでも知っている。傾いた工場の再建は、いつだって、誤差みたいな黒字から始まる。
と――視界の端が、赤く点滅した。
【警報:領域内に侵入者。第一層・入口付近。人間、四】
ノアが音もなく隣に現れて、囁いた。
「マスター、指示を。……どうする?」
俺は息を吸った。初日の夜からトラブル対応。どこまでもブラックな職場だ。
いや――違うな。
「……記念すべき、お客様第一号だ」
(第1話・了)




