2Eギフテッド ずっと喋っている子が「わたしおしゃべり苦手なんだよね」と言ったわけ 〜消したくないジェットコースター〜
「私、しゃべるの苦手なんだよね」
6歳の娘が言った。私は思わず笑ってしまった。
だって、娘は常に喋っているからだ。
朝起きた瞬間から、ご飯を食べながら、工作をしながら、お風呂でも。
寝る直前まで喋っている。静かな時間を探す方が難しいくらいだ。
「どうしてそう思うの?」と尋ねると、娘は言った。
「話したいことを、すぐ忘れちゃうから」
その言葉に、ハッとした。確かに、ずっと違和感はあったのだ。
娘は2歳のとき、ぬいぐるみに向かって流暢に「トリックオアトリート、ハッピーハロウィン!お菓子をあげますよ」と言っていた。
一人何役もこなして、設定を説明しながらおままごとをする姿を見て、私はてっきり「この子は言葉が得意なんだ」と思い込んでいた。知能検査でも言語理解は平均より高かったし、幼稚園の頃に出ていた吃音も、今ではすっかり消えている。
ただ、最近「あのね」「えっと」と言葉を探す時間が増えたな、とは思っていた。
けれど、それも常にではない。
言葉に詰まる瞬間と、流暢に話すときの差が、あまりにも激しかった。
違和感は確かにあったのに、私は深く考えてこなかった。娘は言葉が得意だという、先入観があったからだ。
改めて観察してみると、一日中喋っている娘の言葉の多くは、質問か報告だった。
「なんで?」「どうして?」「それは何?」
気になったことを聞く。見つけたことを伝える。思いついた瞬間、そのまま口に出せることは、とてもスムーズなのだ。
しりとりも強いし、回文やダジャレ、俳句といった言葉遊びになると目を輝かせる。
一見、言葉が苦手な子にはどうしても見えない。
ただ、明確に苦手なシチュエーションがあることにも気づいた。
「あのね」「えっと」ばかりになるとき、娘は一体、何をしゃべろうとしていたのだろう。
そう考えたとき、見えてきたものがある。
娘はマインクラフトをしているとき、とてもよく喋る。
ある日、自分で作ったジェットコースターを見せてくれた。トロッコでコースを走りながら、次々と解説をする。
「最初はゆっくりスタートするの。その方が本物みたいだから」
確かに、いきなり最高速度で飛び出すのではなく、少しずつスピードが上がる設計になっていた。
「ここは水の中を走るの」
「ここで速くなってね、そのままジャンプするから、この先でレールが切れてる」
「ここは景色が見えるところ」
高い場所からは、桜の木や周囲の街並みが一望できた。
そして終点近く、私は不思議な形のレールに気づいた。
ぐるぐるとカーブが連続し、蛇行しながら進む。それまでのハイクォリティな設計からすると、急に不恰好で奇妙な形に見えた。
そう思った瞬間、娘が言った。
「ゴールが止まりにくいから、降りやすいように、ぐるぐるにして、ゆっくり止まれるようにしたの」
驚いた。娘はレールの置き方を説明していたのではなかった。
乗る人の体験を説明していたのだ。
どうしたら本物らしく見えるか。どうしたら楽しいか。どうしたら気持ちよく降りられるか。
それらを逆算してコースを作っていた。その説明には一切の迷いがなく、流暢そのものだった。
ところが、ゲームを消した状態で「あのジェットコースター、どうやって考えたの?」と聞くと、娘は途端に困った顔をした。
「えっと……」
さっきまでの饒舌さはどこへ行ったのだろう。不思議で仕方がなかった。
もしかすると、娘の頭の中には、1から順を追うような工程表は存在しないのではないか。
ジェットコースターなら、高低差も、スピードの変化も、景色も、乗る人の利便性も、すべてが最初から同時にある。
娘の脳内では、最初から立体映像としてジェットコースターが走っているのだ。
それを言葉で説明するということは、完成した3Dの映像を一つずつほどきながら、言葉へと逆再生していくような作業なのかもしれない。
娘はクルマに乗ると、カーナビのカメラを気にする。バック駐車のとき、画面の枠が赤線になると「もう少し右」「斜めになってる」と口を出してくる。
ゲームセンターでマリオカートをやったときもそうだった。家ではハンドルのコントローラーしか使っておらず、ペダル操作は初めてのはずなのに、娘はあっさりとスムーズにゴールした。
ブレーキを踏むところと、アクセルを踏むところが、自然にわかると言うのだ。
機械音痴の私にはさっぱり分からないが、娘はアプリや機械の操作が直感的にできるようだ。
一方で、話したいことを忘れる。単語が出てこない。うまく説明できない。
娘は基本はオートマのように動くのに、言語化のときだけマニュアルになるからだ。
娘の脳内には広い立体駐車場がある。けれどそれを言葉として出庫するとき、その車の並びを、平面に一台ずつに並べ直さなければならない。
エンジンは力強くかかっている。ただ、信号がない。合流の渋滞で、エンストしてしまう。
工作をするときも、パーツを一つずつ作らない。すべてを一気に切り出し、いきなり全体を組み立てる。
娘はいつも、塊から考える。
九九だって、まだ三の段までしか覚えていない。けれど掛け算の計算はできる。マイクラのブロックを頭に思い浮かべているからだ。
例えば「3×3」なら、娘の頭の中には先に9個のブロックの塊が並ぶ。答えはその時点で見えている。
けれど、「どうやって考えたの?」と聞かれると難しくなる。
「縦に3個、横に3個、それが全部で……」
完成した形を、わざわざ1つずつ数え直して言葉に変換しなければならないからだ。ここでも、完成からの逆再生という高い負荷がかかっている。
同じことが、言葉を聞くときにも起きている。
娘は長い話を聞くのが難しい。「混乱する」と言う。
2Dの言葉を、脳内で3Dに変換するときに、混線が起きているのだろう。
入学式の校長先生の話は頭に入らない。けれど、教科書がある授業ならば聞ける。
音楽でも同じことが起きた。
ピアノやオーケストラの演奏動画は途中で飽きて見られなくなるのに、音符が上から落ちてくる音ゲーのような演出の動画は、ずっと集中して見ていられる。
流れている音は同じだ。違うのは、音に形がついているかどうかだけ。
最初は不思議だった。同じ曲なのに、なぜこんなに差があるのか。
娘は言葉だけが続くと、頭の中で組み立てられない。どう並べたらいいかが分からなくなるのだ。
手元に教科書があれば、言葉と形がパズルのように対応する。
音に形がつくと、そのまま何も考えずに受け取れる。
話すときも、聞くときも、起きている現象はまったく同じだった。
送るのも、受け取るのも、翻訳の途中でエンストを起こしているだけ。
娘が話そうとして言葉に詰まっても、長い話を聞けなくて混乱しても、もう大丈夫だと思える。
私はもう、あのジェットコースターを知っている。掛け算のときに脳内に現れる、ブロックの塊を知っている。
娘は、言葉が苦手なわけではない。
頭の中に、最初から完成形が存在しているだけなのだ。
「あのね」「えっと」と言葉を探しているとき、彼女は頭の中の広大な3D世界を、なんとか言葉へと翻訳している。
ただ、その高性能すぎるエンジンに見合うだけの翻訳の経験が、まだ足りないだけだった。
吃音がいつの間にかなくなったように、彼女がエンストするのは、きっと今だけなのだろう。
私は、彼女が読み込み中に見せる、いつもより少し幼い声や顔を、愛おしく思っていればいいのだ。
ここまで考えて、しまったと思う。
また、「3D思考の言語化」とひと言で終わるものを、私は長々と考えてしまったのだと気がついた。
また御蔵入りか。
この時間は徒労だったのか。
そう思い、下書きを削除しようとして、手を止めた。
少し迷って、いつもなら消す下書きを、残すことにした。
親が子どものことを考えていた時間が、無駄ではなかったと思いたい。
そして、娘のジェットコースターは、消してはいけないと思ったから。
追記
娘にマイクラのジェットコースターの失敗作を見せられ
「失敗したからマイクラをもっと理解できたから、失敗のも意味があるんよ」
と言われてタイムリー過ぎたのと、あなた人生何回目?ってなっています




