モルフォ蝶みたいな子 環境によって見え方が変わる2E児
娘はモルフォ蝶が好きだ。どうぶつの森で知ったその蝶の標本を、科学館で見つけて目を輝かせた。そして帰りがけの売店で、モルフォ蝶のキーフォルダーを買った。
娘はモルフォ蝶の羽根みたいだと思う。見る角度が変わるたびに、色が変わる。どの色が本当かではなく、全部が本当だ。
3歳半健診、娘は多動ではありませんと言われた。
広いホール。たくさんの同じ月齢の親子。賑やかな声。娘は私の隣に座って、おとなしく自分の番を待っていた。
5歳の発達相談は、個室で行われた。
私と夫、幼稚園の先生、知らない大人が3人。娘だけが子どもだった。
娘はひと言も喋らなかった。落ち着けず、渡されたお絵かき帳に、衝動的な絵を描きなぐった。
その場で、小児科を受診してくださいと言われた。
あの頃はなぜだかわからなかったが、娘は環境によって、全く違う顔を見せる。
3歳半の健診は、娘にとって刺激の豊富な環境だった。おしゃべりして待ってもいい。観察できる子どもたちがいる。これから何をするのか見て分かる。だから落ち着いていた。
5歳の発達相談は、娘にとって最もストレスの高い環境だった。逃げ場のない個室。知らない大人の視線。静寂。娘が最も苦手とする条件が、全部そろっていた。
皮肉なのは、自然体でいられた環境が特性を見逃し、娘を追い詰めた環境がそれを発見したことだ。
けれど、あの個室がなければ、支援につながらなかった。支援につながらなければ、ギフテッドだともわからなかった。
娘の一番苦手な場所が、娘の全体像を明らかにした。
個室と言えば、不思議だったことがある。
知能検査だ。
同じように静かな個室。知らない大人との一対一。なのに娘は、高IQを叩き出せた。
私はずっと、娘は静かな個室が苦手なのだと思っていた。
けれど、苦手だったのは、何を求められているかわからない空間だった。
発達相談では、どう振る舞えばいいかを読み続けなければならなかった。
けれど知能検査には、ルールがあり、構造があり、正解があった。
娘は、人を読むより、構造を読む方が得意だった。だからできた。
私は、時々思う。
もし、あの日の知能検査を、別の環境で受けていたらどうなっただろう。
もっと不安の強い状態だったら、もっと疲れていたら、もっと予測不能な空気だったら…
娘は、境界知能と言われていたかもしれない。否、知的障害を疑われていたかもしれない。
逆に、もっと安心できる環境だったなら、さらに高い数値が出ていた可能性もある。
娘の能力は、固定された数値として存在しているわけではない。
環境との相互作用の中で、大きく揺れ動いている。
2E児は、環境が変わるたびに、見える顔が変わる。
先日、いろいろな遊具がある刺激だらけの広い遊び場では、娘はブロックで巨大要塞を作り、初対面の子たちを巻き込み、指示を出しながら遊んでいた。知らない場所なのに、複数の知らない子たちと楽しく遊んだ。
その一方で、お友だちのバレエの発表会では、お友だちの踊りを静かに座って見ることができなかった。椅子を蹴り、しゃべり続け、人の少ない一番後方の席にしたけれど、周りの視線が痛かった。
社交的にも見える。落ち着きがないようにも見える。周囲に合わせられる日もある。どうしても合わせられない日もある。どの顔が本当かではなく、全部が娘だ。
3歳と遊べば3歳児のようになって全力で楽しめる。
10歳とも難なく話し、知的に同レベルで遊べる。
恋多き娘は、入学早々、6年生に恋をした。
どの年齢が本来の娘なのかずっと考えていたけれど、全部、娘だった。
だから、2Eは見つけにくい。
娘は、ひと目で困っている子だと見えないことが多い。けれど、明らかに発達障害児に見える場面もある。
発達相談や小児科の個室、自分が出ないバレエの発表会、週末の大型ショッピングモール。
けれど、そんな機会は多くはないので、個性的で元気な子という印象になる。
娘の中には、ギフテッド傾向、ADHD傾向、ASD傾向、DCD傾向が、同時に存在している。そして、それぞれが、互いのブレーキにもアクセルにもなっている。
だから、表面的には困っていないように見える。
ASDをギフテッドが覆う。語彙と観察力で擬似適応が成立し、普通にコミュニケーションできる子に見える。
ADHDをASDが覆う。独自ルールと強い興味が行動を安定させ、明らかに危険な場面では、衝動を抑え、逆に慎重に見える。
DCDをギフテッドが覆う。発想力と全体構成力が成果物を魅力的にし、不器用さが見逃される。娘のDCD傾向は、本当によく見ないと気付けない。
ASDをADHDが覆う。活発さとリーダーシップに見える瞬間があり、むしろ、明るくコミュニケーション能力が高い子にしか見えない。
結果として、すごく困っている子には見えない。完全に定型の子にも見えない。一見すると、少し個性的な子だ。
でも実際は、小さなズレと負荷が、生活全体に細かく散らばっている。あちこちに見える、ぎこちなさ。
娘を見ていると、常に「セーフモード」で動いているように感じる。
ADHDの衝動をASDのマイルールで抑制し、ASDの硬さをギフテッドの観察力で回避し、DCDの出力ギャップをギフテッドの発想力でカバーする。
それは、本人にとって特別な努力ではないのだと思う。おそらく、本人は普通に過ごしているだけだ。だからこそ、消費されているエネルギーが見えにくい。
普通に見えることは、才能でもある。けれど、同時に、大きな負担でもある。
娘は、空気を読んでいるのではなく、場を解析している。
例えば踊っている時、書いている時、作っている時。誰かが来ると即座に止まる。これは社交不安というより、情報収集と安全確認なのだ。
「ここは安全か」「どこまで出していいか」「何を求められているか」を、瞬時に計算している。
初めて会う大人に対して、どこまで許されるかの試し行動をするのもそれだ。
不安が強い彼女の安心のためには、とても合理的な戦略だと思う。ただ、あまりにも負担が大きい。だから、すぐに疲れる。
娘がすぐに疲れるのは、多動で動きすぎるからだけではない。
世界から不必要な情報まで受け取りすぎていること。
常に「ここは安全か」「何を求められているか」を計算し続けていること。
まるで、ウイルス感染したパソコンみたいだと思う。娘はすぐ知恵熱を出す。暑さに弱い。そんなところもパソコンっぽい。
社交的に見える日もある。明らかに発達障害児に見える日もある。驚くほど高い能力を見せる瞬間もある。幼さと不器用さが強く出る瞬間もある。
どれか一つが本当なのではない。
全部、本当の娘だ。
そしてその全部は、環境の中で揺れ動いている。
だからこそ、普通に見えることが、必ずしも安心に繋がらない。
普通に見える裏で、空気を読み、場を解析し、自分を調整しながら、常に世界と自分を合わせている。
なんと疲れる生き方だろう。
だから娘に必要なのは、補正し続けなくても生きられる環境なのだと思う。
娘の特性は、環境によって見えなくなる。
けれど、見えないことは、存在しないことではない。
見えない負荷も、見えない凹凸も、確かに娘の中に存在している。
そして、それもあるから娘は娘なのだ。
だから、結局私にできることは、娘が安心できる場所であること。娘が安心できる場所を増やすこと。いつも、結局そこにたどり着く。そして、それ以外に何もないのだ。




