2Eギフテッドの繋がる空間と思考 キャンバスが広ければ広いほど、イキイキと好きに描ける
ボール遊びのルールを、娘はずっと作り続けた。
ゴールデンウィーク、家族で少し遠くの広い公園まで行った。けれど、遊具広場はあまりにも人が多すぎた。
遊具で遊ぶのは夕方まで待とうと思い、隣の敷地の誰もいない広場へ行った。
正に、風光る蒼天。
とても広いアスファルトの広場に、遊び道具はサッカーボール一つ。そこには、娘と夫と私しかいない。
娘と夫が走り出し、サッカーを始めた。私はそれを撮影しながら、こんな日に、平安貴族たちは蹴鞠をしたくなったのだろうなと思った。
けれど、それも一瞬。そんな長閑な世界は、娘には退屈すぎるらしい。
娘はボール遊びのルールを考え始めた。どんどん増えるルール。白と黒のサッカーボールをサイコロに見立てて、技の書かれたカードも引くタイプのようだ。
「ダブルトリプルは6回ね!」
何が6回なのだろうか…
再開されないボール遊びに、夫が焦れる。私は適当に相槌を打つが、娘の作ったルールはほとんど理解できない。
「そのゲームは今度ルールブックにまとめてから始めよう」と夫が提案した。
「忘れるから後ではできない。今やらないと、もうできない」
娘ははっきりと言った。
今の自分の頭の中にしかないものは、今しか存在しない。書いたルールは死んだルールになり、今やりたい事とは別物になると、娘はわかっている。
自分の忘れっぽさや飽きっぽさも自覚している。このゲームを、またいつかやりたくなるとは限らない。
だから、娘は今を全力で生きる。娘にとって完璧な世界は、今、頭の中にしかないのだ。
外から見れば、広い空間の端っこで家族3人、ただ、ずっとしゃべり続ける子供の話を聞いているだけ。
何も問題はない。まあ、夫は困惑しているけれど。
お友達と遊ぶ時は、娘は妥協して遊べる。相手の年齢や性格を読んで、その場に合わせた遊びで全力で楽しむ。
ではなぜ、今、ボール遊びは再開されないのか…
娘はずっとしゃべっている。ルールを作りながらしゃべり続けている。夫に向かって。それから、ボールに向かって。
そう。ボールにも話しかけているのだ。
ボールは投げる対象でも得点のための道具でもない。娘の会話の相手として、そこにある。そして娘は言った。
「私が10000点取った」
何もしていない。ボールはまだそこにある。夫もそこにいる。でも娘の脳内では、もうゲームが始まっている。
「パパはマイナス50点」
「私が勝った」
ここで、私は初めて気付く。遊びが始まらないのではなかった。
娘の遊びは、とっくに始まっていた。
ルールを語る事、聞いてもらう事、10000点を脳内で取る事、ボールと話す事。
全部、遊びだった。ボールを物理的に使用する事は、最初から必要とされていなかった。
DCDの娘が実際にボールを投げれば、思うように飛ばない可能性が高い。身体という不確実なインターフェースが、設計と結果の間に割り込む。
でも脳内では、設計した通りに全てが動く。10000点は思った通りに入り、パパは思った通りにマイナス50点になる。
つまりそれが、彼女の知性にとって、はじめて純粋な成功体験となる。思い通りにならない物は、たとえそれが自分の体でも、容赦なく設計から外すのが娘だ。
娘の楽しいの構造は、シンプルだ。思い通りに作る事。それだけだった。場所も道具も相手も、素材でしかない。
他者の思考は入れたくない。でも、聞いて欲しい。
これは矛盾に見えて、非常に精密な要求だ。パパがマイナス50点に「それはおかしい」と言えば壊れる。私たち親は、娘がどんなルールを作っても受け入れる。それだけでいい。何もしなくてもいい。娘はただ、確かに受け取って欲しいだけだ。
だから、今、遊びが成立している。けれど、子供同士では、絶対にこうはならないことを、娘は理解している。
幼稚園の頃、娘はよくお友達とぶつかっていた。
相手が妥協してくれない子だと、うまくいかなかった。当然だ。どちらも思い通りに作りたい設計者で、譲らない。
今は違う。
相手を読んで、相手の楽しいと自分の楽しいが重なる場所を探して、その中に自分を埋め込む。それは、妥協しているのではないのかもしれない。
制約の中で設計している。相手の年齢や性格が、ゲームの条件になっている。
娘は、衝突してもコミュニケーションを諦めなかった。ぶつかり合いながら、相手の子と、お互いに上手い行く方法を模索した。
そうした経験から、娘は他者の思考すらも「設計の変数」として扱えるようになった。
相手を予測して組み込む事で、安心して使える素材を増やした。
外では相手に合わせて作る。家では、自分だけの完全版を作る。
「今日は体験版」
そういえば、娘はそんな事を言っていた。
せっかく公園に来たのに、と思っていた。
でも、そうではなかった。
何もない広いアスファルトの上に、娘は頭の中でボール遊びのコースを作った。彼女の頭の中には、壮大な装置が出来上がっていたのだろう。
空間が広ければ広いほど、そこに何かを満たすための無限の可能性が存在し、娘の想像力はそれに呼応して広がっていく。キャンバスが広ければ広いほど、イキイキと好きに描ける。
広い青空の下に、娘と夫と私。
あの空間でなければいけなかった。
始まらない遊びに見えた物は、どこにいても設計をせずにはいられない子の思考遊びだった。
舞台が変わっても、素材が変わっても、娘はずっと、思い通りに作り続けている。
パパはマイナス50点で、ボールは話し相手で、10000点はもう取った。
それが、娘の楽しいだ。
普段の世界は、彼女には狭すぎる。
何もない広すぎる場所こそが、彼女の居場所なのではないだろうか。
そんな場所で、いつか、私と夫以外の誰かが、彼女のフルスロットルな世界を共有してくれる日が来るだろうか。




