四月の出来事B面・③
前回までの三つの出来事!
ひとつ! 作者は『四月の出来事』に隠されたエピソードの執筆を開始!
ふたつ! しかし! 事件はまだ起きていない!
まさか会議室で起きているのか!
みっつ! 明らかに本筋よりお色気シーン優先が祟っている!
よっつ! だいたい個性的な保護者はいいけど、学校生活が始まっちまえば出番は少なくなるし、藤原由美子は相変わらずだし、そんな中でようやく清隆学園高等部一年生たちはバスに乗って合宿ホームルームへ出発できた! やっと敵らしいキャラクターも顔を出したし、途中休憩でサービスエリアにも寄ったぞ。今回は映画ばりのアクションシーンになるはずだけど、無事に話が完結するのだろうか?!
休憩時間が終わると、そこは高校生。クラス全員が予定の時間にバスの席に戻っていた。いちおう担任とバスガイドの二人で座席と頭数を確認したが、欠員などの異常はなさそうだった。
席に戻ったアキラは仏頂面。隣のヒカルは普段の無愛想さが和らいでほんのりと上機嫌。まるで不機嫌の神さまが右から左へ乗り移ったようだ。
通路を挟んだ二人も元気になっていた。とくに恵美子はだいぶ雰囲気が良くなっていた。
「なんだよ、すねるなよ」
新しいキャンディの包み紙を解きながらヒカルはアキラの顔を覗き込んだ。
「すねて可愛いのは十代までの女だけだぜ」
「オレはいちおうその範疇に入ると思うが」
無愛想なまま答えると、ヒカルは「違いねえ」と笑顔を零した。
上機嫌のまま首をのばし、アキラの体を乗り越えるようにして窓の外を確認する。
「なんだよ、重いなあ」
気安くアキラの肩に手をかけてバランスを取り、前後左右を熱心に見まわしている。アキラの目の前でヒカルの髪が揺れて、そこから彼女の香りが漂ってきた。
肩に体重がかけられた失礼さに対する怒りよりも、覆い被さっている形になった彼女の体が柔らかい上、アキラの体に所構わず重なるので、段々と体温が上昇してくる。
「いねえみてえだな」
「誰が?」
「だからトレーネだよ」
チラリと一瞬だけ目をアキラに向け、再び駐車場内へ視線を戻す。
「あれは嘘だったんじゃないのかよ」
「あたしがいつ嘘をついた?」
「え?」
席に戻りながらヒカルは真面目な顔になって言った。
「アキザネがフォローできないところへ行ったとしか言ってないだろ。嘘なんざ一つもねえ」
「じゃあ、赤い車の女っていうのは」
「トレーネだよ。あたしらを追いかけてきているのさ」
アキラは慌てて駐車場を見た。そこには長距離を走る大型トラックが並んでいた。
「まさか、また狙撃してくるってことか?」
「たぶん、それは無いと思うぞ」
断言されて、アキラはヒカルに振り返った。
「アキザネから聞いたが、トラックのタイヤを狙撃してきたって?」
「ああ。今度はオレたちが乗っている、このバスのタイヤを狙撃されたら助からないぞ」
学校行事で何台も連ねて走るとはいえ、なにせ高速道路である。それなりに巡航速度を出すことには変わりない。そして当たり前のことだが、高速走行中にタイヤがパンクしたら、その車はただでは済まない。最悪の場合道から飛び出して谷底へ落下することだって考えられた。
「あのな、アキラよ」
ちょっと呆れた声でヒカルが人差し指をアキラの肩を突いた。
「漫画じゃあるまいし、いくらトレーネが狙撃に慣れたクリーチャーだからといって、スピードを出しているバスのタイヤを狙撃することなんざ、無理だ」
「そういうものか?」
「近くから狙うならまだしも、遠くからならスコープのファインダーからすぐ外れて、狙うどころじゃねえよ」
ヒカルは不安そうな顔で固まってしまったアキラを安心させるようにウインクをしてみせた。
それが彼女のエキゾチックな顔立ちにとても似合っていて、不覚にもアキラは口を開けて見とれてしまった。
バスは大きく舵を切って加速車線に入り、そして本線に合流した。また高速巡航の単純な振動がやってくるのかと思う間もなく横に加速度を感じた。左車線からさらにバスは左へ寄っていく。なんのことはないインターチェンジだ。
一般道に下りるとすぐに信号機のある交差点を通過し、平行して走っていた国道に入った。
主要幹線道路とはいえ、このような山の中では対向二車線道路と道幅が狭くなってしまう。歩道どころか路肩すらろくに整備されていない。山の斜面を蛇行して進んでいるため、最低限の幅しかないのだ。道ばたに生えた木の梢などがワサワサと車体を撫で回す。そんな道なのに反対車線を同じぐらいの大きさのトレーラーがやって来るのだ。
きついカーブなどではお互い道を譲り合わないと、すれ違うこともままならない。
このような条件で、しかも高速道路とはちがいアップダウンや左右へのカーブが多い山道である。先程まで平気だったアキラも少し目が回ってきた。ヒカルは乗り物酔いしない質なのか、平気な顔をして通路へ顔を出して、ウインドシールド越しに前方を見据えていた。
通路を挟んだ反対側のクラスメイトも、黙り込んでしまった。おそらくアキラと同じような状態なのだろう。
一番車酔いが心配な恵美子の様子はと見ると、再び症状が始まっているようだった。ただサービスエリアで風に当たったのがよかったのか、先程までの酷い状態には至っていないようだ。
突然バスのエンジン音が高まった様な気がした。不安になり窓を見ると、国道は切り通しにかかり、そしてトンネルに入った。
昼間とはいえ山間部のこんなところでは陽光も弱くなってしまう。トンネル内の照明だけでは真っ暗になってしまうところを、さっと運転手が室内灯のスイッチを入れた。
その途端だった。
「あ」
隣のヒカルが何か言おう口を開くと同時に、爆発音のような物が聞こえ、アキラの体が前につんのめった。
そして上下左右は山という質量に塞がれたトンネル内に、バスのブレーキ音が反響した。
「きゃあああ」
「ままーっ!」
「わああああ」
「うわあああ」
クラスメイトたちが口々に悲鳴を上げているようなのだが、何か金属質の物を切断しているかのような鋭いブレーキの大音響にかき消される。
アキラは前へ引っ張られるだけでなく、右へも引っ張られるような力を感じた。
そして突然の静寂。いや、後ろから先程耳を突き刺したブレーキ音と同じ物が、鳴らしっぱなしのタイフォンの音とまぜこぜになって近づいてきた。
そのけたたましい音源が意外なほど近くで止まると、静寂がやってきた。
「いてて」
額を前の座席にぶつけたアキラが顔を上げると、車内は今の急ブレーキの衝撃で、だれも彼もが虚脱状態であった。
「ちきしょう、派手じゃねえか」
アキラの横でヒカルが立ち上がると、通路を後ろに行き、そこに座っていた明実の胸倉を掴んで立たせた。
「な、なんだ?」
さすがの明実も突然の事態に頭が回ってないようだ。
「逃げるぞ!」
その耳元に怒鳴るようにヒカルが言った。
「逃げる?」
「生き埋めになるぞ!」
そのまま明実の答えを待たずに、ヒカルは彼を引き摺りながらバスの出入り口へ向かう。アキラも遅れてはいけないと慌てて通路に出た。
「いきうめ?」
脇で茫然と由美子がつぶやくのが耳に入った。
バスの前方まで行くと、ウインドシールドの向こうに巨大な物体が存在していた。ヘッドライトに照らされたそれはバスよりも大きな花崗岩で、見える範囲だけで判断しても、それがトンネルの天井を突き破って落ちてきて道を塞いだのがわかった。
見る間にボーンと土煙を上げて、次の岩が上から落ちてきた。重力に導かれて真下のアスファルトに突き刺さる。反対車線がそれによって塞がるのと同時に、その衝撃でバスの車体がグラグラと揺れた。
「開けろ!」
ヒカルは明実の胸倉を掴んだまま運転手に怒鳴った。
「新命、落ち着け」
最前列の席で、バスガイドと並んで座っていた担任が腰を浮かせた。
「わからないのか? トンネルが崩れだしているんだぞ」
相手が大人でもまったく怯まずにヒカルは睨み付けた。やはり外見は「女の子のようなもの」だが中身は長い間生きてきただけはある。こういった本物の修羅場にも慣れているようだ。
「いまバックさせるから、車内にいろ」
担任が運転手へ視線を移す。すると意を得たのか運転手はバックミラーを確認しつつ、後部監視カメラのモニターの電源を入れた。そこに後続していた一年二組を乗せているバスが超ドアップで映る。
「待てない」
ヒカルは瞬時に判断した。崩れ始めているトンネルから一刻も早く脱出しないと、生き埋めになる可能性がある。前は完全に崩れているからバックしなければならないが、ただでさえ大きな車体が災いしてバスは後進が苦手なうえ、後ろで止まった一年二組のバスが先に出ないとこちらのバスが逃げ出すこともできない。
「落ち着け、落ち着け」
担任はそれが口癖になったように、中腰のまま繰り返す。そこに後ろから衝撃音が聞こえてきた。
「閉じこめられか?」
ヒカルが鋭い視線で後ろを振り返った。車内では不安そうにクラスメイトたちがこちらを見ていた。
「先生が見てくるから、みんなは待っているんだ」
やっと腰をのばした担任は、全員に手振りで座るようにうながし、運転手にうなずきかけた。
運転手も後ろの様子が分からないことには何もできないので、うなずき返すと自動ドアを開いた。
それを待っていたように再び前方でトンネルが崩れた。今度は大きな岩が落ちてくるのではなく、細かい石や砂の混じった土砂であった。
土埃が車内に侵入すると同時に、車内灯が消えた。慌てた運転手がスイッチ操作を間違えたのか、それか今の土砂で配線に異常が発生したのかもしれなかった。
「逃げるぞ!」
ヒカルの声が暗闇に響いた。それがパニックのきっかけになってしまった。
「にげろ!」
「しにたくねえ!」
「わたしがさきよ!」
「ひゃああ」
「さわらないでよ!」
生存本能が赴くままにクラスメイトたちが通路に殺到した。押し合いへし合いしながらも自動ドアへ向かう。
そのパニックを演出してしまったヒカルだが、彼女は冷静に明実を掴んだまま車外へ出ていた。もちろん二人の背中を追ってアキラも続く。
すでにバスの前頭部は埋まろうとしていた。上から降り注ぐ土砂を、手と足を一杯に使って掻き分け、ともかく後ろへ走る。とても細かい土埃が目や鼻に侵入してきて、後ろに続く何人かは酷く咳き込んでいた。
まだ自動ドア付近までしか柔らかい土砂は降ってこず、車体の半分も来れば足元はしっかりしていた。
「おい」
振り返りもしないヒカルへ、アキラは声をかける。
「これもトレーネとかの仕業なのか?」
「学校丸ごととは、ちぃと派手だが。トンネルが崩れるなんて演出、あいつらしいや」
後ろに走ると一年二組の乗ったバスがこちらのバスにあと数センチといったところで停車していた。こちらはまだ車内灯が点いているので、その明るさで土埃が籠もり見えにくくなっていた周囲の状況を確認することができた。
一年二組のバスの後方にも岩がトンネルの屋根を突き破って落ちてきていた。前方と後方を塞がれて逃げ道がまったくない。さすがに『死』を意識してしまうシチュエーションである。
「反対側が通れそうだゾイ」
明実が後方の岩を指差した。確かに岩の形からしてバスの右側には空間がまだあるようだ。
「ちょっと、あなたたち!」
自動ドアを開けて一年二組の担任が顔を出した。ヒカルはまるっきり無視して、明実と後方の岩へ走った。
「早くしないと、生き埋めになりますよ!」
アキラが声だけ振り返ると、一年二組の担任がギョッとした顔をするのが逆光ながらもわかった。
一年二組のバスと後ろに落ちてきた岩の間は自家用車一台分ほどの間が空いていた。そこで反対側へ回り込むと、明実の見立て通り岩の右側は斜めなっており、充分な空間があった。これほど空いていれば相撲取りでも苦労しないで通れるだろう。
後ろに落ちてきた岩を通過すると、そこに一年三組が乗車しているはずのバスが突っ込んで停車していた。他にも数台の一般車が止まっているのが目に入る。一年三組のバスでは、運転席で誰かが懐中電灯で何かの作業をしていた。
もうもうと立ちこめる土埃越しだが、向こうに確かに太陽の光が目に入った。
「よかった、助かった」
走り出そうとするアキラの肩をヒカルが掴んだ。
「な、なにをする」
「マヌケかおまえ」
「?」
「死にたいのかって言っているんだ」
睨み付けてくるヒカルのその態度がわからずにアキラはキョトンとしてしまった。その横でゆっくりと歩きながら明実が顎を撫でた。
「出口に狙いを定めた狙撃手が待っているなど、常套手段だわな」
確かに言われてみればその通りである。
「ど、どうすれば」
「他の生徒に紛れれば判りづらくなって安全じゃないか?」
同じ学校に通う者たちを囮に使うことに罪悪感をまったく持っていない声で明実が答える。
「そうだな。パニック状態なら申し分ない」
そう言ってヒカルはアキラと明実の腕を引いた。その途端に後ろからクラスメイトたちが血相を変えて、岩の間から走り出してきた。
「ま、これに混じって。周囲に注意しながらな」
都市マラソンに気軽に参加するアマチュアランナーのような調子で明実が軽く握った両拳を振り始めて、早朝ジョギング程度の速さで走り出した。
入り口に設けられた落石覆いを抜けると、そこには大渋滞が出来ていた。トンネルが崩落したことに気がついた一般車がそこに溜まっているのだ。
たまに自走可能な車がトンネルから脱出してくる他は、まだ警察も消防も到着していないので、空いている右車線に生徒たちが集まり始めていた。
三人もその集団へ何気ない顔をして加わることにした。
山間部で弱いとはいえ、こうして陽光の下に出てくると、ホッとする。
右も左も制服のおかげで男女の区別ができるが、トンネル内にこもっていた土埃のせいで誰も彼もが顔は茶色に汚れていた。お年頃が揃っているために、ハンカチやちり紙でおもいおもい顔を拭い始めている。
避難で見事だったのは一年三組であった。クラスは整然と並んでおり、担任は落ち着いて点呼を取っていた。その次に一年二組が班ごとに避難しており、その小さな集団の間を教師が走り回って、逃げ遅れがないか把握しようとやっきになっていた。
一番酷いのはやはり一年一組であるようだ。パニック状態でバスから走り出して、てんでバラバラに逃げ出してきたので、点呼もままならない。担任が大声で一年一組は班ごとに集合するように呼びかけている。
人ごみの中でも長身で混血の明実は目立つのか、彼と同じ班の男は彼を目印にして集まってきた。
「うん。うちの班はいるな」
明実がどことなく他人事のように言う。
(そういえば、うちの班はどうしたろ)
アキラがそう思った途端に、右肘を強く後ろに引かれた。その力に抗えずに振り返ると、長目の髪を乱した由美子がそこに立っていた。
顔のあちこちが土色に汚れていたが、彼女自身に異常はないようだ。ただ切れ長の目がいつもよりも吊り上がっていて、血相が変わっていた。
「よかった海城さんも新命さんも無事ね?」
「ああ藤原も大丈夫そうだな」
ヒカルが新しいキャンディを口にしながら答えた。
「佐々木さん見なかった?」
「え?」
そういえば離れていてもその美貌がいやでも目に飛び込んでくるクラスで一番の美少女の姿はどこにも無かった。
「知らねえな」
「わからない」
二人の答えを聞いて由美子の顔が余計に青ざめる。
「どこに居るんだろ、まさか…」
「慌てるな藤原」
ピコピコと咥えたキャンディの柄を上下させながらヒカルが落ち着いた声を出した。
「佐々木だって死にたくないだろうから、どっかそこらへんにもう居るって」
「あたし捜してくる。二人は御門くんと一緒にいてね」
「オレも手伝おうか?」
動こうとしたアキラの左肘を、今度はヒカルが引っ張った。凄い勢いで睨まれる。その目つきが言わんとしていることがアキラには判った。
(いまはトレーネの襲撃からアキザネを守るのが先だろ)
ただヒカルの口からは別のセリフが流れ出した。
「おまえまで動いたら、班全体がバラバラになっちまうだろ。佐々木は藤原に任せて、ここにいろ」
「そうしてくれる?」
由美子からも念を押された。
「もし佐々木さんを見つけたら、一緒に居てね」
「うん、わかった」
アキラはキョロキョロと辺りを見まわしながら走り出す由美子の背中を見送った。
周囲は助かったことに安堵した生徒たちが、口々に好き勝手に雑談を始めていた。そのお喋りの間にも、山全体が轟々とした音を立てる。その度にトンネルの口から土煙が噴き出してくる。中では崩落が続いているのだろう。
そんな状況でも、生徒の中には救護活動に積極的に動く者もいるようだ。車を捨ててよろよろと出てくる大人に肩を貸したり、また気絶している者を運び出していたりする。
「もう少し下がりましょう」
そんなトンネルの様子を心配そうな顔で見つめていた一年三組の担任が、大声と両腕をあげて言い出した。たしかに清隆学園の生徒たちはトンネルに近づきすぎのようだ。これから警察や消防が到着したときに邪魔にもなるだろうし、もし山全体が崩れた時に土砂がこちらへ流れてきたら、せっかく脱出できたのに犠牲者が出かねない。
「いちおう研究所の人間にも助けを呼んだ」
携帯を畳みながら明実は二人に言った。
「まさかと思うが、警察や消防が到着できないように細工されていても、これで安心だ」
「そうか」
アキラが胸を撫で下ろすと、ヒカルが背中で言った。
「じゃあ、あたしがいなくなっても大丈夫だな」
「?」
彼女の言葉の意味が判らず、二人は顔を見合わせた。ヒカルは崩れゆくトンネルでもなく、生徒たちが徒歩による避難を始めた道でもなく、右手の山を見上げていた。
「どうした?」
その姿が消えてしまいそうな錯覚を得て、アキラは心配になって訊いた。
「いま銃声がしたろ」
彼女の口元で面白く無さそうにキャンディの柄が上下に動いていた。
「したか?」
「んにゃ」
アキラが見上げると明実は首を横に振った。
「いた」
山の一カ所をヒカルは鋭い視線で睨み付けた。右手の山には、この道から九十九折りで登っていく砂利道が分かれており、稜線で木々の梢が薄くなっているあたりに、人影が一つ立っていた。
服装はパステルカラーのトレッキング用スカート姿である。しかしそれよりも特徴的なのは、山風になびかせている亜麻色の長い髪であろう。
その女性と思われる人影は、片手を真上に振り上げているようだ。その手にはなにやら黒い物体が握られている。
「いまの地鳴りに紛れて、あいつが撃った」
顎でヒカルはその人物を示した。
「い、いいのか。隠れなくて?」
もう逃げ腰になっているアキラは半ば馬鹿にしたように見て、ヒカルは仏頂面で言った。
「狙撃するならもうしてるはずだ。いまさらヘッピリ腰になったって遅いぞ」
「じゃあ…」
相手が撃ってこない理由を考えてみた。
「まさか、誘っているのか?」
「決着を着けようって言うんだろ」
ヒカルはスカートの上から腿を叩いた。
「弾の半分はバスと一緒に地面の下か…」
「いま、ここでやらなくてもいいだろ」
そうしないと消えてしまうと思えて、アキラはヒカルの肩に手をかけた。
「いいや、最初の約束通りにさせてもらう。あいつを殺すのを優先できるって話しだったろ」
ゆっくりとその手を外しながらヒカルは半分だけこちらに振り返った。確かにヒカルは彼女のマスターの敵討ちを優先していいという条件で、アキラと明実の護衛を引き受けた。
「アキザネ。短い間だったが世話になった」
「そうか?」
対する明実はひょうひょうと答える。
「そんな大層なことはしていないが…」
「アキラ。おまえは面白いヤツだったよ」
「んなこと言うな。遺言みたいじゃないか」
まるで今生の別れの挨拶に聞こえて、アキラの声に湿気が混じった。
「カナエによろしくな」
ヒカルはそう言い捨てると、アキラの言葉を振り切って走り出した。もうこちらを振り向かずに砂利道を登っていく。
「『生命の水』が必要なら、いつでも取りに来い」
その背中に明実が声を投げた。
「ヒカル!」
「おまえはアキザネを守れ!」
追いかけようと踏み出したアキラにヒカルは鋭く言った。それでアキラは判断がつかなくなり、それ以上足を踏み出せなくなった。アキラは山道を登っていく背中と、隣の明実の顔を見比べた。
「あんなに小さかったっけ」
ヒカルの背中を見送りながら明実がしみじみと言う。体格的に言えばヒカルは女子の平均よりも少し小柄な方であった。ただ乱暴な言葉遣いにふてぶてしい態度のせいだろうか、いつもは大きく見えていた。
その背中と、なぜかニヤけた明実の顔を何度も見比べていると、彼は優しい目でアキラを見おろした。
「行ってこい」
「え?」
何を言われたのか判らず、アキラの目が点になった。
「行ってこいよ。そして二人して帰ってこいよな」
「それって…」
「うん、オイラは大丈夫だ。クラスメイトたちがいるからな。向こうは事故を装いたいんだろ、目撃者がいれば狙撃による射殺なんていう手は使えまい。それにトレーネを倒せば、とりあえず安心して暮らせるだろうし」
「わ、わかった」
明実に見送られてアキラも山道を走り出した。
「おい! こら!」
その背中に怒鳴り声が追いかけてきた。目だけで後ろを確認すると、一年一組の担任が山道を駆け上がっていく二人に気がついたようだ。
「そこの女子! 勝手な行動は許さないぞ!」
「まあまあ」
明実がぬるい笑顔でなにやら話しかけていた。どうやって誤魔化すかは判らないが、任せてしまって大丈夫だろう。
ヒカルは上からの狙撃を警戒しているのか、砂利道のカーブごとに慎重になって周囲を警戒していた。そのおかげでアキラは彼女にすぐに追いつくことができた。
「マヌケ。てめぇまでこっちに来てどうするんだ」
「まあ、そう言うなよ」
顔を見ずに罵倒してくるヒカルに愛想笑いを浮かべてアキラは言った。慎重に歩を進めるヒカルの横に並ぶ。
「一人よりも二人で戦ったほうが楽だろ」
「相方が足手まといにならなきゃな」
そう言い捨ててからヒカルはアキラの顔をやっと見た。
「サンキュ」
「え」
ふっとヒカルの顔が普段は見せない柔らかい表情だったので、アキラの足が止まってしまった。ヒカルは相手が小さく驚いたままなので、訝しむように表情を険しい物に戻してしまった。
「なにジロジロ見てやがんだい」
「いや、いつもそういう顔していればいいのに」
アキラは再び進み始めながら言った。
「なんでだよ」
「その方が可愛いから」
「ば、ば…」
ヒカルは顔を赤くしてアキラの顔を振り返った。
「バカ言ってんじゃねえ!」
「そうかなあ」
ヒカルがなぜ照れているか判らずにアキラが不思議そうに腕を組むと、彼女は右腿から銀色のイノセンスを抜いて、アキラの顎に筒先を押しつけた。
「たわけたこと言ってると、先におめぇを片付けるぞ」
「わあ、待て待て」
両手を振り回して撃たないでくれとアピールする。その慌てた様子をつまらなそうに見ていたヒカルは、鼻を鳴らすと銃を抜いたまま前を向いた。
「どうやら、あそこらしいな」
しばらく行くと山道は一旦稜線を越えたところで下り坂になっており、その先で大きく曲がっていた。そのカーブの突き当たりに工事現場用の鋼板や、波板鉄板などを並べて立てて壁が作られていた。
一般に産業廃棄物の処理などを行う業者が、住宅地に迷惑がかからないように人里離れた土地に作る「ヤード」と呼ばれる物だ。
いまその目の前にあるヤードの無愛想な鉄板で作られた門が、半分だけ開いていた。
ささっとその門まで走り寄る。ヒカルはすぐに発砲できるように、イノセンスを顔の前に差し上げた。
「おまえ覗けよ」
「オレがぁ?」
相手は狙撃術を使ってくると知っている。こんな進入口に狙いを定めていることは容易に想像ついた。
「なんのために着いてきたんだよっ! こういう時のタメだろ」
「ひでぇ」
「おら、はやくしろ。それともコッチの鉛弾の方が好みか?」
ヒカルはイノセンスでアキラを突いた。その人差し指はすでにトリガーにかかっている。このままでは門を覗いてトレーネに狙撃されるか、ここでヒカルに撃たれるかの二者択一だ。
「ちぇ」
アキラはヒカルよりも前に出て、そうっと門扉の内側を覗いた。中は学校の校庭よりも広いスペースに、車の残骸が何段も積み上げてあった。ただ鉄製の門が邪魔して反対側が視界に入らない。
アキラは身を躍らせると、空いている隙間の反対側へ行き、そこから残った空間を確認した。
反対側も同じように錆びた車体だけになった自家用車が何段にも積み上げてあるような風景だった。向こうから見た風景と違うところがあるとすれば、そのスクラップの山の間におそらく事務室か休憩室として使っているだろうプレハブが建っていることぐらいか。
人影はまったくなかった。アキラは狙撃を警戒して顔を引っ込めると、隙間の反対側で銃を構えているヒカルを見た。
「どうだ?」
「誰もいないように見える」
「隠れているに決まってるだろ」
ヒカルの口調が叱るように厳しい物になった。
「よし、一、二の三で飛び込むぞ」
狙撃を警戒していつまでもここにいても埒が明かない。イノセンスのハンマーをヒカルが起こした。
「わかった」
アキラも覚悟を決めた。
「いくぞ。一、二のぉ三!」
二人は並んで門を通過した。ヒカルはいつでも発砲できるように構えたイノセンスを素早く左右に向けて、どちらから攻撃されてもいいように警戒する。
だが二人が考えていたようなリアクションは全くなかった。
「ここじゃないのか?」
立ちつくすアキラの首根っこを捕まえると、ヒカルは適当なスクラップの影に引き込んだ。
「マヌケ! 油断させてくる手かもしれないだろ」
「だけどよ」
不満を示すように唇を尖らせると、しばらく辺りを窺っていたヒカルはアキラの顔の前で牙を剥いた。
「わざわざ空に向かって撃つなんてパフォーマンスで気を引いたんだ。確実に殺れる場所に誘ったに決まってんだろうが」
ヒカルの瞳は爆発しそうな勢いで輝いていた。普通の女子高生として暮らしているときよりも生き生きとしていた。
「そうかなあ」
アキラは後ろ頭を掻いた。いままで普通の生活をしてきたアキラと、修羅場を何度も経験してきたヒカルと、意見が食い違うのも当たり前という物だ。
「ほら」
ヒカルはまたアキラの顔の前でイノセンスを振った。
「出番だぞ。囮」
「またかよ」
「それぐらいしか役に立たないだろうがよ!」
「そうだろうけどさ」
面と向かって役立たずと言われて、外見はともかく中身は男であるから、甚だ面白くない。だがアキラに対案があるわけでもないから、ここはヒカルの判断が正しいと思って行動するしかないようである。
「しっかり援護頼むぜ」
「ああ。おまえがマヌケにも撃ち殺されてから反撃してやる」
口ではそう言ってはいても、声に相手をからかうような響きがたっぷりと含まれていて、これが彼女なりの冗談だと充分判った。
「まったく、ひでぇ」
口ではそう言い返しながらも、アキラはスクラップの影から周囲を一通り確認してから、意を決して歩み出た。
そのまま都会の摩天楼を模したとばかりに高く積み上げられたスクラップの間にゆっくりと進んでいく。
地面は赤土が剥き出しのままで風が吹く度にホコリが舞い上がる。これで草の塊でもカサカサと転がってきたら西部劇のようである。
トラックが並んで走れるほどのスペースが設けられた道の向こうには、門のところから窺ったとおりプレハブが建っている。アキラは期せずしてそちらに向かう形になった。
(なにも起こらない)
アキラがそう思った時だった。ひときわけたたましいエンジン音が響くと、プレハブ脇から作業用の車が走り出してきた。
その車両は、人の背丈もあるタイヤを四つ履いたホイールローダーと呼ばれる種類の物で、油圧で動く腕にいまはブルド-ザーと同じようなブレードではなく、バケットと呼ばれる爪がついた鋼製の容器が装備されていた。
あれならばスクラップにする車の車体を爪で突き刺して、フォークリフトのように持ち上げて積み重ねることにも使えるし、エンジンなどの重いパーツも掬うことができるので、積み卸しなどに便利であろう。こういうヤードにあって不思議な機械ではまったくない。
さらに高い位置にある運転台には、万が一積み上げたスクラップが崩れてきても、運転手の安全を確保するために、頑丈そうな金網と、ブ厚いガラスで出来たキャノピーが取り付けられていた。
側面に書かれていただろう剥がれて読めなくなった企業名とあわせて、このヤードの車両に間違いない。
ホイールローダーはアキラを確認すると、止まるどころか速度を上げて迫ってきた。威嚇するようにエンジンを空ぶかしさせ、高くバケットが差し上げられていく。
鋼鉄製のバケットをアギト、エンジン音は唸り声に見立てると、まるで巨大な獣のようである。
「マヌケが!」
迫ってくる危険がいまいち認識できていなかったのか、棒立ちになっていたアキラにヒカルが飛びついて、道の脇へ押し倒した。轟音を立ててその脇をホイールローダーが通過する。
ヒカルはアキラから離れて素早く立ち上がると、間合いを取るためかスピードを上げるその背中にイノセンスの銃口を向けた。
拳銃というより音が派手な火炎放射器のようなアクションでイノセンスが二発の銃弾を吐き出した。
巨大な鎚で金床を殴りつけたような重々しい金属音がして、ホイールローダーの尻に火花が散った。
エンジンは確かにその場所に装備されているが、同時に重い荷物を持ち上げても転ばないように、鋳鉄製のカウンターウエイトが装備してある。そんな鉄の塊を撃ち抜くためには戦車砲が必要なはずだ。
「ちっ」
背後からそれ以上撃たれないようにか、ホイールローダーはスクラップの角を曲がって姿を消した。
ヤードの中にディーゼルエンジンの音が反響する。これでは大まかな方向は判るが、次にどこから出てくるか判った物ではない。
「おまえ、乱暴だぞ」
赤土で汚れた制服を叩いてホコリを飛ばしながら、アキラは遅れて彼女の横に立った。
「死にたいのか? マヌケ」
眼球を忙しく動かして周囲を確認しながら、口だけで反応する。
「そんなことは…、わあ!」
アキラが言い訳しようとした途端に、いままで身を寄せていたスクラップの山が、反対側から突き崩された。
積み木と同じように重力のまま二人の上に覆い被さってくるように落ちてくる車の車体を、アキラは右へ、ヒカルは左に飛んでかわした。山を崩したホイールローダーは、勝ち誇ったようにエンジン音を一層高くすると、バケットをまた運転台の高さに戻そうと唸り声を上げる。
油圧でホイールローダーの腕が動いている瞬間だけ、運転台に着いている人物が視界に入った。髪は亜麻色をしたとても長いもので、年齢は二十代後半ぐらいの女性であった。詳しい顔のディテールまでは確認できなかったが、確かにその女は楽しそうに笑っていた。
(あれがトレーネか)
アキラは初めて敵の顔を見た。そこには敵愾心よりも好奇心の方がより大きくあった。
ヒカルは見えた瞬間にイノセンスから二発撃ったが、残念ながら銃弾は戻されたバケットに命中し、派手な火花を立てて弾かれてしまった。
ホイールローダーはその大きな車体に似合わないほど機敏にバックすると、ふたたびスクラップの間に身を隠した。
「大丈夫か?」
落ちてきたスクラップが立てたホコリにアキラが咳き込んでいると、横にヒカルが並んだ。
「ああ、なんとか」
無理矢理に呼吸を整え、うなずき返してみせる。
「次で決めてやるからよ」
ヒカルは頼もしくイノセンスを差し上げて見せた。
「ああ」
「その前に、ちょっと頼み事を聞け」
「また囮か?」
「ちげーよ。あたしのポケットからキャンディ出して、剥いてくれ」
「いまさら?」
その余裕のある態度に驚いて、アキラはヒカルの顔を見た。彼女はふてぶてしく笑っていた。
「こういう時だからこそだ」
「わかったよ」
アキラはヒカルのポケットに手を入れた。そこに複数の丸い感触がある。
(いったい、いくつ入れてんだ?)
その瞬間呆れたアキラだったが、そこから一つだけつまみ出すと包装を剥いて、ヒカルの口に押し込んでやった。
「おう、サンキュ」
さっそく唇からのぞく柄がピコピコと上下に動き出した。
時間に一秒もかからない間、二人は視線を交わしあった。
再びホイールローダーがプレハブの方向から襲いかかってきた。ヒカルはスカートを翻し、左腿からギルティを抜き、二丁拳銃スタイルになった。
「くたばれ!」
そのまま両手の銃を全弾発射する。ホイールローダーは横殴りの鉛弾による雨にも怯まずに襲いかかってきた。車体にバケットに銃弾が命中しては弾かれて火花が散る。その効果は全くないように見受けられ、二人に巨体が迫った。
一人だけで逃げ出すわけも行かず、アキラはヒカルの横で振り上げられたバケットを見上げていた。
(もうだめだっ)
避けるには遅すぎるという程近づかれて、アキラは覚悟を決めた。その時、ホイールローダーに異変が発生した。
がくっと巨獣が膝をつくように傾くと、二人の右側を通過して、先程自分が崩したスクラップに突っ込んだ。
巨体が巻き起こす風で煽られながらも、二人は振り返った。ホイールローダーの前車軸が折れていた。ヒカルはバケットで庇われていた運転台へ威力の低いギルティで威嚇射撃をし、イノセンスで破壊が可能な下回りをピンポイントで撃ち抜いたのだ。
「へへ」
得意そうにニヤけるヒカル。イノセンスを右のホルスターに戻すと、後ろ腰に上着で隠したマガジンホルスターに右手をのばした。そこにはギルティ用のマガジンが二本ささっているはずだ。
その瞬間を待っていたかのように、ホイールローダーの運転台が開かれ、中から右腕だけが差し出された。
その手には丁字型の黒い物体が握られていた。
「危ない!」
アキラがヒカルに飛びつくと同時に、連続した発射音が続いた。その黒い物体とはイングラムM一〇、世界最高速の連射速度を持つサブマシンガンだったのだ。
発射される銃弾は四五ACP、自動拳銃で有名なガバメントと同じ銃弾である。単発でも反動で掌が痛くなるほどの銃弾を、一分間に九〇〇発以上という速さで吐き出すのがイングラムである。もちろんそんな強力な銃弾を連射するので、あまりの反動の大きさにコントロール性はいいとは言えなかった。
ただ盲滅法に撃ちまくって威嚇するには最適の銃である。半径一〇メートルはあろうかという広い範囲に、鉛弾がばらまかれた。地面に落ちたものは土煙を上げ、スクラップに当たったものは派手な火花を立てて跳弾した。
「あつつ」
そんな嵐の中で、なんとか身をすくめておける隙間をスクラップの間に見つけた二人は、ほとんど抱き合うような形で身を寄せ合った。
「おまえ、大丈夫か?」
庇われる形になったヒカルが、アキラの体を心配する。
自分の体に回されたアキラの腕を振り払うようにして離れる。
「あ、ああ」
撃たれた瞬間を例えるなら、幼稚園の頃に近所の頑固ジイサンに怒鳴られたときに感じた感覚であった。
「見せてみろ」
確実にアキラの右肩に、背中側から何発かが当たったはずである。ヒカルはアキラの両肩に手をかけた。その場で後ろを向かせて背中を確認する。
制服の右肩と、背中のど真ん中に、タバコの火を押し当てて作った焼き焦げが数倍大きくなったような穴が空いていた。
それだけである。
穴からはアキラの肌が覗けたが、銃傷どころか擦過傷も火傷の痕すらなかった。
「おまえ、撃たれたんじゃないのか?」
「確かに当たったと思うんだが」
アキラ自身もなんとか視界に入る右肩を振り返りながら不思議そうに言う。だが先程、衝撃を感じた以外に異常はないようだった。
「どうゆうことだ?」
訝しむヒカルの顔を見ながら、アキラは明実との会話を思い出していた。こんな体にされた時の会話である。あの時、確かに明実はこういった。
(…オマエは外見に似合わないような出力を持っている…)
と言っていたはずだ。たしかにその通り、アキラは今の外見からは考えられないほどの怪力になっていた。その後になんと言っていたかも憶えていた。
(…空を飛ぶことはできないが、弾よりも強く機関車よりも速くってやつだ…)
そのセリフの元になったヒーローのコピーはそうではなかったはずだ。
(空を見ろ! 鳥だ! 飛行機だ! ん? 買い物カゴを提げているぞ…、じゃなくて)
一瞬別のヒーローに思考が逃げたが、確かこういったはずだ。
「銃弾よりも早く、機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び」
何事も科学的に思考し、正確さを追究している明実らしからぬ間違いだと思っていたが、まさか怪力と同じように言葉の通りなのだろうか。
それならば今のアキラの体は「銃弾より強く(つまり防弾)機関車よりも速い(脚力)」ということになる。
それならば拳銃弾をばらまくだけのサブマシンガンなど恐くない。
「お、おい」
アキラがふらりと動き出したので、ヒカルは不安そうに声をかけた。
「撃たれるぞ! マヌケ!」
「大丈夫だ」
それに微笑みかえしてやる。そのまま泰然とスクラップの影から歩み出た。また撃たれると身構えるが、相手も修羅場を何度も経験してきた者らしく、もうホイールローダーの運転台は、もぬけの殻であった。
「ちょっと待ってろ」
ヒカルはギルティのマガジンを交換してスライドストッパーを外した。後退したまま止まっていたスライドがリコイルスプリングの力で前進し、マガジンから初弾をチャンバーに装填する。
空になった前のマガジンを後ろ腰のホルスターへ戻すと、彼女も恐る恐るといった態であったが、体を伸ばして出てきた。
二人が道に並ぶのを待っていたタイミングで、反対側の影から連続した射撃音が再び上がった。とっさに体を丸めるヒカルの前で、アキラは仁王立ちになって彼女を庇った。
先程と同じように怒鳴りつけられたような衝撃。そして中から弾けるようにして穴が空く制服。そこまではテレビで見たドラマと同じであった。しかし衝撃による痛みや熱さはあれど、それ以上出血などの異常は起きなかった。
射撃は短い間に終了した。ムダ弾を撃たないあたりで相手の熟練度が知れた。
「ふうう」
半信半疑だった事実が現実になり、アキラは大きく息を吐き出した。これならば圧倒的にこちらが有利ではないか。
向こうが長い間撃たないのは、あまりにも早すぎる連射速度のため、すぐにトリガーを離さないとすぐに弾切れになってしまうからだ。それに確実に命中させた自信もあったのだろう。
「おまえ、大丈夫なのか?」
「ああ。これもアキザネの仕込みらしい」
さすがに制服は防弾ではないので穴だらけになってしまったが、肉体だけを考えれば問題はない。
「行くぞ」
アキラは堂々と胸を張って足を踏み出した。その背中にギルティを構えたヒカルが中腰で続いた。
敵が撃ってきた角まで歩いても時間がかからなかった。チラチラと隙間からこちらを確認する気配があるので、いまだにそこへ身を隠していることが判る。
もう少しでその角に差し掛かるというところで、アキラはヒカルにうなずきかけた。それだけで言いたいことが判ったのか、ヒカルはキャンディの柄だけでうなずき返した。
さすがに顔面だけはクロスさせた腕で庇って、アキラは角の向こうへ飛びだした。
そのあまりにも大胆な行動に、向こう側で待ちかまえていた人物が驚いた顔をしてアキラを見ていた。
立ちつくしているようにも見えるのは、やはり運転台に乗っていた亜麻色をした髪の女、トレーネであった。
平均的な十代女子よりもちょっと小さいアキラやヒカルと違って、背の高い女性である。髪は先程から述べているように亜麻色の長いもので、先が地面に届きそうだ。
激しい感情が込められているだろう瞳は、切れ長で少し蒼みがかった黒色である。瞳孔の中には、やはり青い炎のような光がある。
よく通った鼻梁といい、純粋な日本人というより、半分以上はヨーロッパの血が入っているようだ。
彼女は、右手にサブマシンガンを、左手には長い西洋様式の剣を握っていた。
ヒカルがアキラの脇から左手をのばしてギルティを前に差し出すと、我に返ったのか右手に持っていたサブマシンガンを乱射した。アキラの制服がボロ屑になって地面に舞い落ち、ヒカルがギルティを連射した。
ヒカルの放った連射は、トレーネが投げつけてきたサブマシンガンにその殆どが当たってしまい、向こうの体まで届かなかった。さすがに威力のある銃弾を至近距離で受けて、黒い箱状の銃が歪んで地面に落ちる。
銃を失った代わりに、投げつけた反動を利用して左の西洋剣を下から逆唐竹割に振り上げた。
肉が切断されるザシュという音と、なにか硬い物が切断されるゴリッという音が重なった。
ボトッという音とともにアキラの視界が開けた。
「え?」
顔を庇っていたはずの物が、左側だけいつの間にか無くなっていた。目の端で何かがポーンと自分の体から飛んで、離れたところへポトリと落ちたのが見えた気がした。
そしてヤキゴテを押し当てるような痛みがやって来た。
「な?」
「マヌケ!」
後ろからヒカルがアキラの膝を蹴って転ばした。そのおかげでトレーネの西洋剣による追撃は空を切った。ヒカルは地面に転がるアキラの腹に右膝を乗せて、ギルティを前に突きだして連射した。トレーネも剣と銃の間合いの差を心得ているのか、さっと後ろにあったスクラップの影に隠れた。
「あれ?」
無様に転がるまま現状認識ができていないアキラの首元から、ヒカルは緩く締められていたネクタイを抜き取り、アキラの左二の腕をきつく縛り上げた。アキラはあまりにもきつく縛るので、悲鳴のように叫んだ。
「いてえよ! 血が止まっちまう!」
「止めてんだ! マヌケ!」
ヒカルは縛ったネクタイに、そこらへんに落ちていたボルトをさらに差し込むと、テコの原理でさらに捻り上げた。
「ぐうあっ」
縛られる痛みが耐えられなくて、アキラは悲鳴を上げた。応急処置を終えてヒカルは周囲に振り返った。丁度隠れている場所を変えるためか、亜麻色の髪が道に躍り出たところだった。
ヒカルはギルティを流し打ちして威嚇した。トレーネも撃たれることを覚悟していたためか、身軽にステップを踏んで、その銃弾をかわしてのけた。
アキラは縛られた痛みで手足をばたつかせ、なんとかヒカルの下から抜け出した。
「なにしや…」
文句をつけようと右手で縛られた左腕の二の腕を触ると、そこがヌルリと気持ち悪い物に包まれていることがわかった。嫌な予感がして、ゆっくりと右手を視界に入れる。
「??」
右手が真っ赤に染まっていた。
「!!」
アキラの左腕は二の腕の真ん中辺りから先が無くなっていた。どうやらあの西洋剣で斬られたらしい。
「よかったな。あと半歩踏み込まれていたら首を落とされていたぜ」
ギルティを差し上げて周囲を警戒しながらヒカルは言った。
「いまは興奮状態だからそんなに痛くねえだろうが、じきに熱くなってくるぜ」
じっさい左腕の残された部分が火照ってきていた。
「オ、オレはどうなったんだ?」
「斬られたんだよ」
まだ現状認識できていないアキラに、気の毒そうにヒカルは告げた。
「お、オレの左腕は?」
「あそこだ」
ギルティで離れた位置のスクラップの山を示す。現実感がないままアキラがそちらを見ると、元はピンク色だったらしいスポーツカーのボンネットに、いまだ袖に包まれた左腕だけが乗っかっていた。斬られた反動でそこまで飛ばされたらしい。
「ま、そんな体じゃ囮も無理だろ。逃げるか隠れるかしておけ。あいつはあたしが倒す」
ヒカルはそう宣言すると、まだ弾の残っているギルティのマガジンを新しい物に交換した。使いかけのマガジンを目で見て残弾を確認して後ろ腰のマガジンホルスターに戻す。次にギルティを適当なスクラップの上に置くと、イノセンスを腿のホルスターから引っこ抜いた。銀色の銃を両手で持つと、左手で銃身の下に設けられたレバーを前に押した。するとレンコン状の弾倉が本体からあっさり外れた。
その大きな鉄の塊も予備を持っていたヒカルは、取りだした弾倉が装弾済みなのを確認してイノセンスに取り付けた。おおもとのピースメーカーでもベースピンラッチを加工しておけば可能なアクションである。バレルガードを取り付けた時に細工してあったらしい。
再び二丁拳銃に戻ったヒカルは、アキラを安心させるように微笑んだ。
「いいか、逃げるか隠れるかしておけよ」
念を押す口元でキャンディの柄が上を向いていた。
「おい、まてよ」
熱さが肩まで広がってきたアキラは、額に脂汗が浮かんでいた。
アキラの言葉が合図だったようにヒカルは走り出した。相手がどこから飛び出して来てもいいように左右を確認しながら駆け抜ける。最後に駆け込むところを見たスクラップにも人影はなかった。
と、地面に影が差した。
「上か!」
見上げると、左手の西洋剣を大上段に振り上げて、亜麻色の髪を振り乱しながら、長身の影が躍り込んできた。
ヒカルは遠慮無く両手の銃を向けて、トリガーを絞った。
その地上から天空へ駆け上がる銃弾の嵐は、羽根がない人間は空中に飛び上がってしまうと物理法則のままに落下するしかない事から、絶対に避けることができるはずがない攻撃だった。
「ふっ」
しかしトレーネは淡く笑うと、左手の西洋剣を地上のヒカルに投げつけ、その反動を利用してクルクルと縦に回転しながら、自らの軌道を空中だというのにねじ曲げた。
ヒカルは投げつけられた西洋剣を避けもしないで、銃弾を叩き込んで弾いた。そのままドンという音と共に彼女の脇に突き立つ。少しの躊躇も判断に混ぜていたら彼女の体に突き立っていたところだ。
跪く形で着陸したトレーネの眼前が、銃声とともに小さく弾けた。ヒカルの威嚇射撃に彼女は長い髪を風になびかせたまま、その姿勢から動けなくなった。
「チェックメイトだ。トレーネ」
「あら、エシェックさんじゃありませんか」
近所に住んでいる女同士が、偶然デパートで遭遇した程度の調子でトレーネはこたえた。
「こんなところで、何をなさっているのかしら?」
トレッキングスタイルでホコリだらけというより、お洒落な格好でオープンカフェあたりが似合いそうな丁寧な物言いは、すっきりと鼻梁が通った彼女の美しい顔に似合った。
「たしか、そろそろあなたの『生命の水』は切れる頃と思われるのだけど。こんなところで遊んでいて大丈夫?」
「全然平気だぜ」
口元でキャンディの柄が踊っていた。
「あら。新しいパトロンでも見つけたのかしら?」
「そんなところだ」
ヒカルは銃を握りなおした。
「さて質問コーナーと行くか。おまえのマスター、クロガラスはどこだ?」
「クレーエ様? さあ、どちらにいらっしゃるか皆目見当がつきませんわね。なにせ浮気性な方ですから」
「とぼけんなよ。おまえも『生命の水』を足さないと体がもたないはずだぜ」
「さあ」
右肩だけそびやかせて澄ました顔を続けるトレーネ。それが気に入らないという顔になったヒカルは、右手で持ったイノセンスの銃口を振った。
「どうやら痛い目に遇わないと判らないらしいな」
「それはどうかしら」
「ヒカル!」
離れた場所からアキラが声を上げた。トレーネの背中に回されていた右手が動いてヒカルに向けられた。前に差し出された右手には何か黒い物体が握られている。それが小型のリボルバーだと認識した瞬間に、ヒカルは両手の銃を発射していた。
銃声が交錯し二人の体は、まるで反発しあう磁極のように後ろへ飛んだ。拳銃ならばお互い外しようのない距離しか離れていなかった。
「ヒカル!」
アキラはヒカルに応急処置をしてもらった位置から移動していなかった。そこから二人の対決を見ていたので、トレーネの背中が丸見えで、彼女がヒップホルスターから銃を抜くのが見えたのだ。
撃たれた反動で地面に転がった二人はピクリとも動かない。アキラはヒカルが心配で駆け寄ろうとした。
「あいたた」
ところが、事もあろうにトレーネが長い髪を気にしながら体を起こした。一方ヒカルは地面に転がったまま、仰向けになるのが精一杯である。
「あなたの大砲は、本当にやっかいね」
イノセンスの弾が命中したらしい。ヘソの少し上を撫でながらトレーネが立ち上がった。
「どうして…」
途中で足を止めたアキラがつぶやくと、今度は自分の番だとトレーネが勝ち誇る。
「なにも防弾チョッキを着ているのは、あなただけではないのよ」
彼女が穴の空いた上着を開くと、そこから足元にバラバラと円盤状に変形した銃弾が落ちる。
上着の下にはパステルカラーのファッションとは対極のカーキ色をしたチョッキが見えた。
「さてと」
手にした拳銃、コルト社のディテクィブスペシャルらしい小型拳銃を構え直すと、お皿洗いのついでに流しの水垢取りを始めるかといった程度の感じで、トレーネは銃口を地面に転がるヒカルに向けた。
「あなたもチョッキ着ていればよかったじゃない」
「あいにくと、そんな無粋な物は嫌いでね」
大の字に空を見上げる彼女に制服は、腹の辺りが真っ赤に染まり始めていた。
「あら。そういえば今どきの女子高生は薄着が好みらしいものね」
口調はあいかわらず柔らかいままであったが対照的に動作は少々乱暴に、トレーネはヒカルの両手を蹴って彼女の両手から銃を遠くに転がした。
「いまさら恥ずかしくありません? 女子高生なんていう歳じゃないでしょ?」
「うるせ」
ヒカルはせめての反撃とばかりに、咥えていたキャンディの柄を吹き飛ばした。それも腹筋にダメージがあるためか、目標の遙か手前で落ちた。
「まあ汚い」
「けっ」
「まあ、せっかくの好敵手というものですから、最後はあなたに選ばせてあげます。撃たれるのと、斬られるのと、どちらがお好み?」
トレーネは右手の銃を向けながら、先程地面に突き立った自分の西洋剣を左手で引き抜いた。
「どっちもやだね! アキラ!」
「おう!」
アキラは右拳をトレーネに向けた。
「?」
アキラを振り返った彼女は不思議そうな顔になる。それもそうだ、常識では何も武器を持っていない者が攻撃できる間合いではないのだ。だがクリーチャーとなったアキラには、それこそ奥の手があった。
「ロケットパァーンチ!」
「!!」
アキラの右肘から先がとんでもない勢いで射出された。アキラの右拳は一直線に飛んで、そしてあっさりとトレーネにかわされてしまった。
「あ、あれ?」
「それでおしまいかしら?」
首を傾けるだけでアキラの必殺攻撃を避けたトレーネは、左手の西洋剣を振りかざしながら訊ねた。
「あなたに銃は効かないんでしたわね」
そのままツカツカと歩み寄ってくる。恐怖のあまりかアキラは茫然とした顔で近づいてくる死を見ていた。
「逃げろ! マヌケ!」
ヒカルが声を上げるが、アキラの足は地面に張り付いてしまったかのように動かない。と、何を思ったのか二人の中間にトレーネが来たところで顔を緩ませる。
「ロケットパァーンチ!!」
「まさか!」
いったん発射した右拳が帰ってくるのではないかとトレーネは振り返った。だが打撃はまさかの真横から彼女の顎を捉えた。
予想もしなかった攻撃にキリキリとその場で回ってバランスを崩すトレーネ。なんとかたたらを踏んで転ぶことを防いだ視界に、地面に転がったままのヒカルが入った。
ヒカルの左手が懐から一本のヒモを引っ張った。すると右袖の中から小型拳銃が飛び出してきた。銃の種類はアメージング・デリンジャー。明実がアキラのために用意した単発銃である。ガンマニアである彼女が、射撃に自信がないアキラから取り上げていたのだ。
「あばよ」
ヒカルの手の中で銃声が発生すると、次にダンボールを殴ったような音がして、トレーネの眉間に穴が開いた。
亜麻色の後頭部が内部から弾け、あたりに花火のような色とりどりの破片をまき散らした。赤色は血液、透明な液体は脳漿、少し灰色がかった白色は脳組織、そして頭蓋骨に神経繊維だ。
額の穴以外驚いたような表情で固まった彼女の体が、ゆっくりと地面に倒れ込んだ。
敵が動かなくなったことを確認したアキラは、急いでヒカルのところに駆け寄った。だが最短距離ではなく少しだけ回り込んだ。もうトレーネが動き出すことはないと思うが、それよりも人間の形をしていた物を踏みつけることへの嫌悪感の方が大きかった。
「大丈夫か」
体を起こしてやりたいが、いまは両腕がないアキラには無理な話だった。
「ああ、まあな」
仕事をやり遂げた顔になったヒカルは、痛みに歪んでいる顔で微笑みを作った。アキラにウインクまがいのものを飛ばすと、またポケットから柄付きのキャンディを取り出して咥えてみせる。
「なにも殺すことはなかったんじゃないか?」
アキラは地面に倒れたトレーネへ一瞬だけ目をやって言った。
「なにをいまさら。それより、どうやってあいつに一発喰らわせたんだ?」
「助けを呼ぶのが先だ」
「いいから、種明かしを先にしろ」
プレハブに電話でもないかと探しに行こうとしたアキラのスカートをヒカルは握りしめた。
「単純な話しだよ」
その死力とも感じさせる握力に、いま離れてはもう二度と話すことが出来なくなる気がして、アキラは踏みとどまった。
「あれは左手なんだ」
肘から先がない右腕で傍らのスクラップを示す。そこには斬り飛ばされた左肘だけが袖に包まれて残っていた。
「斬られても手の感覚があるから、もしかしてと思って試したら指が動いたんだ。だからひょっとすると奥の手もまだ使えるかと思って」
「ふっ、まったく…」
ちょっとだけ体を起こしてアキラの示した物を確認したヒカルは、呆れて笑った。
「あいかわらず非常識なヤツだ…」
「アキザネがな」
ヒカルの声が弱くなった気がして、逆にアキラは声を大きくした。
「もうちょっとの辛抱だ。いま電話を探してくるからよ」
「ああ…。あたしゃ、寝て待ってるよ…」
「ヒカル!」
「ああ…」
アキラの呼びかけにそう短く答えると、彼女の全身から力が抜けていった。そして唇からキャンディがこぼれ落ちた。
ヒカルの顔は復讐をやり遂げて穏やかな物に変わっていた。
アキラはヒカルに声をかけることも出来ずに、プレハブ造りの事務所へ走った。
どこかの工事現場で使われて古くなったので捨てられた物を再利用しているようなボロい造りであった。それが幸いしたのか、アキラが放った渾身の蹴り一発で、入り口の扉が外れて室内へと倒れてくれた。
もし、このヤードの人間がいたら、両腕を失ったアキラの姿を見て、何らかの事故の被害者と思ってくれるだろう。ましてや先程トンネル崩壊事故があったのだ。言い訳ならいくらでもできそうだ。
事務所の中は無人だった。
あれだけ銃声が響いていたのに顔も出さなかったのは、最初からいなかったからなのか、それとも逃げ出したからなのか判断がつかなかった。ただ一番の上座に当たる奥のスペースにペルシャ絨毯がひいてあり、アキラが知らない様式の祭壇のような物が祭られていた。
(もしかして、ここも『儀式』を行うアジトの一つだったのか?)
まさかトレーネ側の施設かと、そういった知識に疎いアキラは身構えたが、他に異常は見られない。扉が破られて新しく誰かが出てくるわけでもないし、また自動警報装置が作動した様子もない。
(とりあえず電話だ)
アキラは大して広くない空間を見まわした。
事務所は五人分ほどの机が置いてあり、今どき珍しいほど古い台帳が、ページを開いたままで置いてあった。
そのミミズがのたくっているような悪筆の帳面のすぐ脇に、これまたどこから拾ってきたか判らないようなオンボロのファックスつき家庭用電話が鎮座していた。
安心した溜息をついてから、アキラははたと困った。
(どうやってかけよう)
これがいつもならば、受話器を取って電話番号を押せばかけられるのは小学生でも知っていることだが、今のアキラには両腕がなかった。
何か手はないかと卓上電話の操作面を覗き込んでみる。
すると番号をかける数字キーの横に、ハンズフリーの表示があるボタンがあった。
アキラはペン立てからボールペンを一本口に咥えると、その機能ボタンをペンで押し込んだ。スピーカーから頼もしいほどはっきりと発信音が流れ出た。
本来ならば明実の携帯に直接かける方が色々と手間が省けるのだろうが、番号は覚えていなかった。
唯一憶えている自宅の電話にかけることにする。
苦労しながら咥えたペンで市外局番から全部の数字を打ち込む。
長い間コールが続いたような気がしたが、実際は三回目の途中で受話器が取られた。
「もしもし?」
「あ、かあさん。オレオレ」
「…」
不気味なほどの沈黙が訪れた。
「?」
「どちらさまのオレオレでしょうか」
間違いなく香苗なのだが、とても固い声で聞き返されてしまった。
「オレだよオレ! アキラだよ!」
「…」
また疑っているような沈黙。
「本物のアキラちゃんなら合い言葉を知っているはずよね」
「なんじゃそりゃ! いつそんな物決めたっけ?」
つい声を荒げてしまうと、電話の向こうで香苗がクスクスと笑い出した。
「ごめんねアキラちゃん。ほら、最近多いって聞くじゃない。母さん助けて詐欺」
「ちげーよ! こっちは大変な事になってんだから、遊ばないでくれよ!」
「大変なこと?」
「ヒカルが鉄砲で撃たれたんだ」
あまり驚かせても逆効果と思い、声の調子を落として告げた。
「ヒカルちゃんが鉄砲で?」
香苗は実感が湧かない様子で、キョトンとした声のままだ。
「あなたたち学校の合宿に行ったんじゃないの?」
「その途中で襲われたんだ」
「え? じゃあケガしてるの?」
さすがにいつものんびりしている香苗の声に焦りのような物が混じった。
「オレもそうだが、ヒカルはもっと酷い」
「え? え? じゃあ、ええと救急車?」
「を、呼びたいんだけど。ほら、オレたちの体は普通じゃなくなっているから」
「ああ。アキザネくんね」
すぐに明実の名前が出てきたところから、パニック状態にまで陥ってないことがわかった。母親の冷静さに助けられて、アキラにも余裕が生まれてくる。
「かあさん、アキザネの携帯番号判る?」
「そのくらいは憶えているわ。アキザネくんとは、はぐれちゃったのね?」
「うん、そうなんだ」
「で? この番号の所にアキラちゃんは居るのね?」
海城家の固定電話はかけてきた相手の番号を表示するタイプなので、いまはこのオンボロファックスの電話番号が表示されているはずだ。
段々と母親がいつもの調子を取り戻しつつあることを実感して、アキラはマイクに拾われない程度に安堵の溜息をついた。
「わかったわ。アキザネくんに連絡するから切るわね」
アキラの声から事の重大さを認識したのか、それ以上余分な事を訊かずに、香苗は電話を切った。
沈黙した卓上電話に向かって、すべての手配がうまく行くように願うような視線を送ってから、アキラはヒカルの横へ戻るために事務所を後にした。
ヒカルの横に戻ったはいいが、斬られた左腕が痛み出していた。それはもう比べようがない痛みで、歯を食いしばっていても呻き声が漏れ出してしまう程だ。
あまり苦しんでいるとヒカルを起こしてしまうかと思い、なけなしの体力を集めて、耐えることに専念する。
アキラの苦労は一時間もせずに報われることになった。
まず到着したのは一台のバンであった。
いちおうトレーネの助っ人である可能性もあったので、ヒカルには悪いが一人でスクラップの間へ身を隠した。
もし敵ならばこのクズ鉄の山を体当たりでもして、崩して反撃するつもりだった。
しかしそれは杞憂に終わった。門を開けて入ってきたのは、清隆大学科学研究所で明実の助手をしている女性、高橋だったのだ。
「高橋さん」
相手を驚かせないように、声をかけながら姿をさらすと、パンツスーツ姿に白衣を羽織った高橋は、あからさまに後ずさった。
「?」
不思議に思い、今の自分の姿を見おろしてみる。
制服はあちこち焼けこげてボロボロ。両腕はついていなく、全身が土埃で汚れまくっていた。
終戦後の食糧難時代に山手線のガード下で暮らす大空襲で焼け出された人たちと、あまり変わらない姿だった。
「お疲れ様です。海城アキラですよ」
「ああ」
異様な姿よりも、落ち着いたアキラの声で我に返ったのだろう、高橋はごついトランシーバーを取りだして、二人の発見を報告した。
それからすぐにバスが到着すると、高橋と同じような白衣姿の人間がワラワラと下りてきた。
(これ全部、あの『儀式』をしていた連中かなぁ)
入院中に見せられたスライド写真では、とても科学的とは思えない『儀式』に、たくさんの顔を隠した人間が参加していた。
それぞれがやらなければならないことを判っているのか、ある者は地面に横たわるヒカルの体をストレッチャーに乗せ、ある者は蹴飛ばされたイノセンスとギルティを回収している。
アキラも高橋が白衣を肩からかけてくれて、バンに案内された。
「アキザネは?」
「別の車が迎えに行っています」
痛み止めと説明した注射をうちながら言葉少なに高橋が答え、ストレッチャーに横たわるヒカルにも一本うってから、バンを発車させた。
「どこへ?」
「研究所で処置します」
そう告げられ、バンは高速道路を東へ走って、東京へとんぼ返りすることになった。アキラはその道中で、痛み止めと出血のせいか、眠りについてしまった。
清隆大学科学研究所に着くと、すぐに処置が開始された。
腹部に銃弾を受けていたヒカルは即刻手術が行われることになり、明実自らの手で内臓を潰していた銃弾の摘出手術が行われた。
眠ったアキラは、そのまま再び研究所の屋上にあるシリンダーに入り「微構築」を受けた。
すべての「施術」が終了し、アキラはアノ事故以来馴染みになってしまったベッドで目が覚めた。
ベッドサイドには到着の連絡が行っていたらしく、香苗がのんびりとお茶菓子を楽しんでいた。
「目が覚めた?」
「かあさん」
香苗ののんびりとした日常的な微笑みに、斬った張ったの世界から救い出されたような気分になるアキラだった。
その体には違和感がある。アキラの左腕は、肩の辺りから包帯でグルグル巻きにされ、三角巾で首から吊ってあったのだ。
目が覚める頃合いが判っていたのだろうか、トンネルの前で別れた明実がノックもせずにズカズカと現れて、ベッドに横たわるアキラを見おろした。
「派手にやられたもんだな」
開口一番そう口にする。
「ヒカルは?」
「いま屋上のシリンダーに収納したところだ」
「大丈夫なのか?」
「オマエより元気なぐらいだ。ありゃあもう二、三発当たっていても大丈夫だったろうナー」
「なんだよ、心配して損した」
深刻で重大な告知がされるかと身構えていたアキラは、枕へ頭を戻した。
「二人とも制服破けちゃって、どうする気?」
体の心配よりも家計への打撃を心配している香苗であった。
「やっかいなのはオマエの斬られた左上腕だ」
明実の神経質そうな指がアキラの左腕を指差した。
アキラの脳裏に最悪の言葉が連想される。
(まさか、もう繋がらないとか、もう動かないとか。それとも、これが原因で男に戻ることが不可能になったとか…)
「あまりに見事に斬られているから…」
(繋がらないのか?)
「接着剤が乾くまでそうやって固定していろ」
「は? 接着剤?」
つい素っ頓狂な声が出てしまった。
「そうだ。まあ一二時間ぐらいはギプスを外すなよ」
「一二時間? なんだその糊は!」
「ノリじゃない、接着剤だ」
アキラの大衆的な物言いが気に入らなかったのか、明実の顔が不機嫌な物になった。
「オレの体はガンプラかなにかか!」
激昂するアキラの感情を無視する形で明実が両腰に手を当てた。
「今年の合宿ホームルームは中止だそうだ。来週のどこか一日をつぶして、長いホームルームを開くことになったらしい。今日明日は週末で学校は休みだから、そのぐらい使えなくても不便は無いだろう?」
「トレーネは?」
「彼女の死体も回収済みだ。へたに警察沙汰になると煩わしいからな」
「そうか。学校の人は?」
「二人ほど逃げ遅れて特殊救難隊に世話になったようだが、それも軽傷だったらしい」
「そいつはよかった」
今回の事件は、考え得る中で最大限のよい結末が迎えることが出来そうである。
「意外なところでは、ウチのクラスの担任だな」
「?」
「オマエたちが列から離れて山に登っていくのを見られてな。オイラは『連れだって立ちションじゃねえの』と言って煙に巻こうとしたんだが、なぜか誤魔化せなくてな」
「アホか!」
曲がりなりにも外見は「女の子のようなもの」なのだ。その言い訳は無理がありすぎだろう。
「それでオマエたちの後を追って、あの決戦場になったヤードに紛れ込んでいたらしいんだ」
「一度も見なかったぞ」
「まあ、それが不幸中の幸いだわな。銃を遠慮無く振り回しているところなんかを見られたら、話しがややこしいことになっていたかもしれんし。で、見つからないから別のところを捜そうと振り向いた瞬間に…」
「流れ弾にでも当たったか?」
さすがに心配になってアキラは眉を顰めた。
「いや、ちょっと違う。彼に当たったのは『流れロケットパンチ』だ」
「はい?」
聞き慣れない単語にアキラの目が点になってしまった。
「オマエが外したロケットパンチがそのまま飛んでいって、見事に顔面に命中していたらしい。助手の言うところによると、門のところでのびていたそうだ」
「さすがに、そこまでは責任持てねえぞ」
「まあ『施術』に関することだし。研究所の教授たちから圧力でもかけてもらって、有耶無耶にしてもらうよ」
「それが一番だな」
ホッとしてアキラは香苗に視線を移した。彼女は我が子を安心させる微笑みのままだった。
アキラたちは翌日に自宅へ戻ることができた。
トンネルの崩落は地元では少々大きなニュースとして取り上げられていたようだが、東京では大きな政争に発展しそうな法案の方にマスコミはかかりきりであった。そのせいで崩落の原因ははっきりと報道されることはなかった。
警察の現場検証に技術参考人として研究所の人間が参加し、どうやら誰かが仕掛けた爆薬が原因らしいということは突き止めていた。もちろん警察には「施術」関係の情報は伏せていたので正体不明のテロリストによる犯行ということで落ち着いた。
崩落事故での犠牲者は一人としておらず、整然と避難していた一年三組に至っては軽傷者もいないという表彰状ものの結果だった。
包帯が取れて週が変わり登校すると、パニック状態で逃げまどった一年一組及び二組の生徒たちにも、不幸中の幸いであろうか重傷者がいないことが判った。しかし暗く狭い中でお互いぶつかったり転んだりして、青あざや擦り傷だらけの者が男女問わずに揃っていた。
アキラが所属する一年一組担任の男性教諭は、右目の周りへ漫画のように丸くあざをこしらえていた。あれが「流れロケットパンチ」をくらったあとであろう。
逃げ遅れた二人の内、一人は同じ班の藤原由美子であった。
一旦外に避難した後、バスからの脱出に遅れていた佐々木恵美子を救出するためにトンネル内に戻ったらしい。由美子には、いつの間にか『美少女』を助けに行ったから『王子』というアダナがついていた。
「もう、あんなことはコリゴリだぜ」
学校関係者に被害者が出なかったと知って、アキラは溜息をついた。帰宅して自室で愛用の学習机の前でのことである。
これでやっと新しいが平和で退屈な日々が始まるのだろう。それを安心と捉えるのか、それとも物足りないと捉えるべきなのか、今のアキラには決められそうもなかった。
と、下の階からバタバタと誰かが階段を駆け上がってきた。そのままバターンと大きな音を立ててアキラの部屋の扉が開かれた。
「なんだヒカルか」
大事件の反動か、無気力気味にアキラは言った。
気怠く肘を着いて顎をそこに乗せる。
「ノックぐらいしろよな」
「そんなことより」
対照的にヒカルは殺気だったような目でアキラを睨み付けた。
「これ!」
ヒカルの左手には紙が握られていた。
いや紙ではない。艶やかな表面といい色彩の鮮やかさといい、それは一葉の写真であった。
どんな秘密が映された写真かと見てみれば、何のことはない去年の今頃、庭で御門家と合同でバーベキューを行った時のものだった。
「これ誰だ!」
家族の記録として当たり前の風景の中で、一番手前に映っていた中学生にヒカルの右人差し指が当てられた。
「誰って、オレじゃねえか」
正確にはこんな「女の子のようなもの」になってしまう前の海城彰である。かつて見慣れた姿も、こうして改めてみると新鮮な気がした。
「これ、おまえ?」
ヒカルは今のアキラと写真を見比べていた。
「なんだよ。どこか変なトコでもあんのか?」
「いや、変というか…」
口ごもるヒカルをアキラは不思議そうに見てから、あることを思い出した。
「そういやトレーネを倒した今、おまえが女子高生に戻ることはないんじゃないか?」
「そうだけどよ。アキザネに『施術』の事で思い出したことがあったら教えてくれって言われてるし…」
ヒカルは失礼にも写真を見たまま口だけで応答した。
「それってオレの『再々構築』に関係する?」
「『再々構築』できたら、おまえはこの姿に戻るってことだよな」
逆にヒカルに訊かれてしまった。あまりの剣幕に、アキラは再び指差されたかつての自分の姿と、血相を変えたヒカルの顔を見比べた。
「たぶん、そうじゃね?」
「よし!」
ヒカルの気合いが入ると、アキラの手を握って力強く宣言した。
「協力するぜ!」
「あ、ああ。よろしくな」
話しがまったく見えないアキラは困惑するだけだ。そんなことなどお構いなしに、ヒカルはアキラに訊ねた。
「それと他にあるか?」
「は?」
「写真だよ!」
写真と「再々構築」との話しの繋がりが判らずに、アキラはキョトンとするばかり。
「そんなもんなら、そこら辺にアルバムがあるぞ」
手を伸ばして棚から学習机に一冊のアルバムを抜きだした。幼い頃の写真は夫婦の寝室に置いてあるが、最近の物はここに挟んであるはずだ。
「はえー」
ヒカルは机の上でアルバムのページをめくると、なんとも気の抜けた声を漏らした。
アルバムには小学校高学年から中学生時代の海城彰がすごしてきた日常が切り取られて並べてあった。
どこか羨ましそうに見ていたヒカルの手がピタリと止まった。
「こ、こ、これ」
「?」
なぜか震える指でページを指し示す。
そこには、駅のフェンスによじ登って腰かけた海城彰が、携帯に差したヘッドフォンで曲を聴いているという、ちょっとプロマイドチックな一葉だった。
(たしかこの時は悪ノリして、アイドルの撮影会気取りで撮ったんだっけ)
先程のバーベキューと同じ頃に撮影した記憶がある。たしかバーベキューの盛り上がった状態に酔ったようなノリになり、明実と代わり番こでお互いを撮った時だと記憶していた。
「これ。も、も、もらってもいいか?」
なぜか焦ったような態度のヒカルの真意が判らずに、アキラはキョトンとした。
「なんで?」
「い、イイ、いい、い、い、いや。ほ、ほほら、ほら。その…」
顔を真っ赤にしたヒカルは、ちょっとの間だけ言葉を探してから、畳みかけるように言った。ついこの前ヤードで敵と決闘した女と同じ人物に思えないほどの動揺っぷりだった。
「魔除けだよ、そう! 魔除け!」
「まよけ? こんなのが?」
「あ、ああああ」
ガクガクと油の切れた機械のように何度もうなずくので、訝しげな目になった。
「怪しいな。なにをたくらんでいるんだ?」
「ま、マヌケ! おまえがマヌケだから、マが抜けるだろう! だ、だから魔除けに、なるんだよ!」
とても苦しい言い訳であった。その焦った態度に、アキラは「はは~ん」と話しが分かった顔になった。
「どうせ、誰かに見せて笑い話にでもするんだろ」
「し、しないって」
ブンブンと首を横に振る。それを探るように見て念を押して確認する。
「本当?」
「ほ、ほんとうだ。しないからくれ」
「別にいいけどさ」
ヒカルが考えていることが判らなかったが、こんなに欲しがっているのに渡さないという意地悪をしても、アキラにはなんの徳にはならないと思った。
アキラはあっさりと自分の手でその写真をアルバムから外すと、ヒカルに差し出した。
「ほらよ」
「あ、あ、ありがとう」
両手でそれを受け取ると、後ろも見ずに駆け出し、凄い勢いで隣の自室へ飛び込んでいった。
「???」
あまりの勢いなので茫然とそれを見送ると、その背中と入れ違いに香苗が廊下に現れた。
「こんこん」
きれいに畳まれた洗濯物で両手が塞がっていたので口でノックする。
「あ。ありがとう、かあさん」
家事を受け持ってくれる母親には感謝の言葉を惜しまないことにしているアキラ。香苗は洗濯物を学習机に置いて、椅子に座ったままのアキラを見おろした。
「まあ、アキラちゃんったら。罪作り」
「はい?」
どうやら全てではないが、さっきまでの二人のやり取りを廊下で聞いていたらしい。
「罪って。なにが?」
「でも…」
訊いてくる我が子をまるっきり無視するかのように、香苗はヒカルが駆けだしていったまま開けっ放しにした扉を振り返った。
「このままヒカルちゃんがいなくなっちゃうかもしれないって思っていたけど、それはないようね。かあさん、安心した」
「うん、まあ何やら男に戻るために協力してくれるとか、なんとか」
香苗は大袈裟に肩で溜息をつくと、ちょっと頬を赤く染めてアキラを振り返った。
「まったく、ダメなコね」
「???」
こうして騒がしく賑やかな海城アキラの高校生活は始まることになった。静かな普通の生活を求めるアキラではあったが、周囲の個性的な人間たちのせいで、それはまだ大分先のことになりそうだった。
四月の出来事B面・おしまい




