四月の出来事B面・②
★登場人物紹介
海城 アキラ|(かいじょう 一)
:清隆学園高等部一年生。幼なじみが超がつくほどの変態だったため、災難に見舞われている。
御門 明実(みかど あきざね)
:自称『スロバキアと道産子の混血でチャキチャキの江戸っ子』の天才。そして変態でもある。アキラの幼なじみ。
新命 ヒカル|(しんめい 一)
:アキラと同じく「女の子のようなもの」。棒付きの球形キャンディと拳銃の愛好家。二人の護衛役である。
海城 香苗(かいじょう かなえ)
:この物語のメインヒロイン(本人・談)その美貌に明実の心は虜になっている。
藤原 由美子(ふじわら ゆみこ)
:アキラとは同じ班で合宿ホームルームに参加することになる。外伝なので、出番が少ない。
佐々木 恵美子(ささき えみこ)
:同じくアキラの同級生。そんじょそこらの読モを軽く凌駕する美貌の持ち主。
郷見 弘志(さとみ ひろし)
:清隆学園高等部一年生。外伝とは同一人物と思えない。
前回までの三つの出来事!
ひとつ! 作者は『四月の出来事』に隠されたエピソードの執筆を企画!
ふたつ! そのためにキャラクターを思いつく!
みっつ! しかし! 作者は新キャラクターの説明だけで一本分も浪費するしまつ!
よっつ! ようやくキャラクターが動き出したと思ったら、校内で味方同士なのに戦闘を始めるし、保護者は個性的だし、藤原由美子は相変わらずだし、まだ本題の合宿ホームルームへ出発すらできていないという体たらく。でもなんとか学校生活が始まって、主人公海城アキラの初登校もやっと終わってくれそうな気配。今回で無事に話が完結するのだろうか?!
アキラは少々疲れた様子で、清隆学園研究所に戻ってきた。
彼女が「病室」として使っていた部屋には香苗が待っていた。
「おかえりなさい」
香苗は小柄な体を精一杯使って、どうやら荷物の片付けをしていたようだ。長い入院生活で、着替えなどの私物が持ち込まれたままになっていた。
その姿は妹の身を案じる歳の離れていない姉に見えた。
「かあさん。なにやってんの?」
いつまでも若い母親に、アキラは喜んでいいのか嘆いていいのか判らなくなる。
「片付けよ。アキザネくんに聞いたら、退院していいって言うから」
「ホントか?」
アキラはこの部屋まで一緒に来た二人に振り返った。
「ん? まあ今日一日学校で様子を見ていたが、大丈夫そうじゃないか」
明実は、まるでついでの用事のような気安さで答えた。
「そっか、今日でお終いか」
そう聞かされると殺風景なこの部屋にも愛着のような物が湧いていたことを実感させられる。もちろん自宅の方が百倍ましなのだが。
「とっとと辛気くさいこんなトコとは、おさらばだ」
そう威勢のいい言葉を吐き出したのが、もう一人の女子高生(のようなもの)であるヒカルだった。
何事も計画的に家事をこなす香苗は、この日がいつ来てもいいように、少しずつ荷物を持ち帰っていた。おかげで部屋を引き上げるのには旅行用バッグ一つで事が足りた。
あとは制服に鞄という一般的な登下校姿でアキラが着いていけば、他に何も残らない。
四人は研究所から国道へ出て、バス停に向かった。
不便な入院生活を少しでも快適にしようと、香苗が毎日通ってくれた道である。だが流石に国道を渡るときには緊張した。ここでアキラは大型トレーラーに撥ねられ、ビルの袖看板に跳ね返り、反対車線に落ちたところを別のトラックに次々と踏まれて、普通の医学では助けられないほどの重傷を負ったのだ。
今度は停止線を越えてくる車両もなく、バスも時刻表通りに運行されていた。普段とまったく変わらない道のりであった。
明実からの情報によると、どうやらアノ事故は彼の命を狙った何者かの仕業であったらしい。アキラはその身代わりとなった形だ。
今回も襲撃がまたあるかもしれないと身構えていたアキラは、あまりの平和さに拍子抜けしそうになった。やがてバスターミナルで路線を乗り継いで、見慣れた風景が流れてきた。やっと幼い頃から馴染んだ町に戻ってこられた。
海城家は庭付き一戸建てであった。バスが走る通りから少々歩くことになるが、逆に言えば車通りも少ない閑静な住宅地と言える。
「アリョール!」
懐かしの我が家まで戻ってくると、道に芥子色のスーツを着た外人さんが待っていた。
この金髪碧眼の美女が、明実の母親のクララであった。
身長は日本人男性平均であるアキラの父、海城剛よりも高かった。また体のラインも日本人女性とはまったく違って、メリハリのついたボッキュボーンという見事な曲線を描いている。度々世間様から、自分の中学生である息子の「妹」と間違えられている、緩い丘陵地帯である香苗とは、まったく対照的な女性であった。
「おばちゃん」
アキラが明実自身と幼なじみということは、もちろん彼女とも小学校に上がる前からのつき合いである。
クララは小さくなってしまったアキラに駆け寄ると、体全身で抱きしめた。
「カーチャから聞いていましたよ。体はもうダイジョウブですか?」
「む、むぎゅ」
アキラは脂肪の塊に両側から挟まれて、なにも声を発することはできなかった。
カーチャというのはクララが明実を呼ぶときの愛称であった。本当は女の子に着けられる愛称なのだが、それには国際結婚なりの長い事情があった。夫が名付けた「アキザネ」という名前が、日本人ではない彼女には「キャサリン」という風に認識されるらしく、どうしても発音及び聞き取りに難渋した。それならばいっそのこと無理をせずに英語名の「キャサリン」を母国語に変換して「エカテリーナ」とし、「キャサリン」が「ケイト」や「ケイ」に愛称として変化するように、「エカテリーナ」から「カーチャ」に至ったというわけだ。
同じようにアキラを呼ぶときは「アリョール」になった。こちらはアキラという音節がイタリア語の「アクィーラ」に聞こえるため、同じ「鷲」という意味の「アリョール」に変化したのだ。
ちなみに香苗の場合は「カナル」と変化する。これは母国語で「運河」を意味するらしい。
「本当に小さくナッテしまったノデスね」
息子よりの怪しい日本語でそう言いつつ、ペタペタとアキラの体を柔らかく触って確認し、最後に両胸に至った。
「オヤ? カナエさんより大きいネ」
「だからなんで、みんなして触って確認するんだよ」
慌ててその痴女のような手から逃れて、アキラは自分の体を抱くように腕をまわして胸を隠した。
「そうよねー。わたしになんの断りもなく育っちゃうんだもんねー」
反対側から延びてきた香苗の手をペシッと叩いて迎撃。
「今夜は一緒に食事シマショウ」
クララは、アキラに手を叩かれてつまんなそうな顔になった香苗に提案した。長い間の隣人であり友人でもある彼女を見上げ、香苗はニッコリと微笑み返した。
「それがいいかもね」
「ええと、マー」
言いにくそうに明実が口を挟んだ。
「外での食事は、ちょっと…」
敷地が隣接する両家で、合同のお祝いをするというと、庭でのバーベキューと相場が決まっていた。しかし、いまは命を狙われている身分である。
「OH! ソウデシタ」
どうやら命を狙われていることは家族に話してあるらしい。その割には警察などに警護の依頼はしていない様子である。周囲に双方の家族以外の人影は見かけられなかった。
「それデハ、ウチのリビングでディナーにシマショウ。腕を振るいマスよ」
「やだクララ。わたしにも活躍させて」
「いいのデス。これもカーチャをアリョールが守ってくれたホンの恩返しデース。それにカナル、あなたもアリョールの世話で疲れているようデスから」
「そお?」
それでも世話になるのに気が引けるのか、クララに対してばつの悪そうに香苗は視線を送った。
「まあまあイイデワないですカ」
そこは長い間に日本で暮らした経験があるクララであった。日本人特有の社交辞令も慣れた物である。
「それでワ、さっそく買い物ニ行ってきますヨ。アリョールは竈に火を起こしておいて下さいネ」
クララはその姿のままでスーパーのある方向へ歩き出した。香苗はそれを見送ると、自宅の鍵を取りだして玄関を開け放った。
「おかえりなさい、アキラちゃん。ヒカルちゃんも」
一ヶ月ぶりの我が家である。懐かしいような感覚と、恥ずかしいような感覚と湧いてくる。それと別にある新鮮な感覚は、きっと身長が大きく変わってしまったせいだ。
「た、ただいま」
玄関の扉をくぐったのは香苗に続いてアキラにヒカルである。これもまた新鮮であった。アキラには兄弟がいなかったため(香苗以外で)同年代の女の子(に見える)という存在が家にいる事が始めてであった。これが男の子ならば、自宅と同じ感覚で上がり込んでくる明実が隣に住んでいるので慣れたものであったが。
「…」
とうのヒカルは仏頂面であった。彼女も明実のように少し外国の血が混じっている顔立ちなのだが、日本式の家屋にも慣れている様子で、靴を脱ぐと無言のまま階段を先に登っていった。
護衛として雇われた形の彼女は、いまは海城家で有効活用されておらず物置となっていた二階の部屋を片付けて、そこで生活をしていた。
「とりあえず部屋に荷物を置いて、着替えてきたら」
香苗が夫婦の寝室にあたる部屋の入り口へ、肩に掛けてきた荷物をおろして言った。
「うん、まあ」
二階にあるアキラの部屋はアノ事故の日から変わっていなかった。朝に脱ぎ散らかしたパジャマまでそのままである。
小学校の時から愛用している学習机へ鞄を置いてみる。
キョロキョロと室内を見まわすが、自室によく似た他の部屋という感覚が残っているのは、男だった頃から身長が縮んで目の高さが低くなったからであろう。
「アキラちゃん」
しばらくして開けっ放しにしていたドアを遠慮気味にノックすると、香苗が顔を出した。
「ん? なあに、かあさん」
「とりあえず、お風呂の準備したわ。入る?」
「風呂かあ」
まだ陽が高いが、入院生活でままならなかった入浴には魅力がある。香苗に手伝ってもらって体を拭いたりして清潔にはしてきたが、やはり日本人ならばお湯にのんびりと浸かりたい。
「うん、そうだね」
海城家では、タオルは脱衣所にいつも準備されていた。必要な物は着替えだ。
つい、いつもの感覚でタンスから男物のパンツと部屋着を取りだして、香苗に笑われてしまった。
「ふぃー」
湯船に肩まで浸かる。ついどこぞのオヤジのような溜息が出てしまうのも日本人の性であろうか。結局、下着の替えは香苗の物を借りることにして、部屋着はオーバーサイズになってしまった、かつての自分の物を着ることにした。
(服に、こんなに苦労するとは…)
入浴剤を入れて白く濁らせたお湯の中で、体はリラックスさせながらもアキラは暗い気持ちになった。こんな無駄な苦労をしなければいけなくなったのも、明実が変人であるからだ。なぜ男を蘇生するのに体を女にしてしまったのだろうか。
(苦労と言えば…)
先程、脱衣所で服を脱ぐときには「えいや」という掛け声が必要だった。そして湯船に浸かるまで、情けなくも目をつむったままだった。
勝手知ったる我が家の風呂場を手探りで進むことになった原因というのが…。
アキラは湯面から出ている自分の体を見おろした。そこには浮力を得て存在感を増した二つの物体があった。
(油は水に浮くって知っていたけど、人間の脂肪でもそうなのか)
単純な化学の実験をしているような思考に逃げてみる。そうなのだ、アキラはこの体になって初の入浴なのである。お年頃の女の子の裸を好きなだけアップで見放題という、思春期の男子ならば夢に見て鼻血もののシチュエーションなのだが、情けなくもアキラは直視する事はできなかった。なにせ外見は「女の子のようなもの」なのだが、中身は変わっていないのだ。
自分が意外にも意気地無しであったことを自覚して、アキラは暗い気持ちになった。
(服は、週末にでもまとめ買いに行くか)
そう考えてから、週末になにか用事があったような気がして、湯気が籠もっている天井を見上げる。
(週末に、なにか予定があったような…)
「アキラちゃん」
「な、なに?」
扉の向こうの脱衣所から声をかけられて、アキラは湯船の中で小さく飛び上がった。
「着替え、置いておくわ」
香苗である。借りる予定の衣類を持ってきてくれたのだろう。
「それと…」
遠慮無く扉を開けて顔を突っ込んできた。
「きゃ」
「きゃ?」
突然覗かれて、つい女の子のような声を上げて、湯船の中で体を丸めてしまった。その反応に香苗が目を丸くする。
「な、なんだよ。かあさん」
まじまじとアキラの反応を見てからクスクスと笑って香苗は言った。
「体を洗うときには、あまり肌をこすっちゃダメよ」
「それじゃ、洗えないだろ」
なにか矛盾した事を言われたような気がして、口を尖らせて言い返した。
「汚れはお湯に浸かっていれば溶け出していくもの」
「煮物じゃないんだからさ」
「理屈は同じよ」
前から香苗の入浴時間が長いと思っていたが、どうやらそこら辺の感覚が男とは違うようだ。
「肌も薄くなっているんだから、やさしく洗わないと擦り剥けちゃうわよ」
(そういうものか?)
ちょっと疑心暗鬼になりながら納得する。お湯から右手を上げて観察してみると、温められて血行がよくなった肌が桜色に染まっていた。男の時には少々壁にぶつかっても平気そうだったが、いまでは見るからに皮が薄く見える。食べ物に例えてみると、揚げ春巻きと生春巻きの違いと言えばいいだろうか。
「それと…」
香苗がポッと頬を赤く染めた。その可愛い表情にアキラは意味がわからずキョトンとする。しばらく言いにくそうにしていた香苗はちょっと聞きづらい大きさの声を出した。
「(ごにょごにょ)は、やさしく指でね」
「え? なに?」
聞き返してから、あっと口元に手を当ててアキラも顔を赤くした。香苗は「女の子のような」姿をした経産婦であるが、アキラに至っては「女の子のような」姿をした思春期の男の子だ。微妙な会話には、抵抗があった。
「わかったから、そろそろ出てってくんない?」
のんびりしていたので湯船から出ないと湯あたりをしそうだ。そこへそんな微妙な話題をふられて、確実にのぼせてきた。
「いいじゃない。女の子同士なんだからさ」
香苗がつまらなさそうに言い返した。わざわざ女同士と表現しない辺りが彼女の矜持なのかもしれなかった。
それでもしばらく見ていた香苗であったが、アキラがいつまでも恥ずかしがって湯船から出てこないと見るや、諦めて扉を閉めて出て行った。
(コレでやっと出ることができる)
湯船の縁に手をかけて立ち上がろうとしたときであった。ふたたび風呂場の扉が開かれた。
「きゃ」
つい、また可愛い悲鳴を上げて、体を丸めながら湯船に沈んで隠れてしまった。
「お、かわいい声上げちゃって」
聞き慣れない声に顔を上げると、そこにヒカルが立っていた。
「お、おま、おまえ」
「なんだよ。そんなこっちゃ週末の合宿ホームルームで苦労するぞ」
アキラは茫然と新しい侵入者を見た。学校にはアキラの従姉妹という触れ込みで通うことになったヒカルは、風呂場の入り口に、いわゆる仁王立ちをしていた。
自称三〇パーセント外国の血が流れているという彼女は、エキゾチックな顔だちをしていた。いつも厳しい表情をしているが、アキラを驚かせることに成功して機嫌が良いのか、その外見に似合った柔らかい顔になっていた。
小振りな頭を支えているのは、一輪挿しの花瓶のようにのびた首筋である。
おそらく争いごとになっても邪魔にならないようにだろう短くしている黒い髪が、うなじのあたりに散っていた。黒い髪が、目立つホクロやシミなどの色素沈着がない肌とコントラストを描いて見とれるほど美しかった。
魅惑の首筋が終わる頃に目に入ってくるのは、脂肪分を排除したような細い鎖骨である。体の内部からまるで作り物のようにきめ細かい肌を押し上げていた。
そして、その下からドーンと二つの膨らみが自己主張をしていた。肋骨が無粋に浮き出ていることもなく、腸骨との間はそこに内臓が収まっているとはにわかに信じられないようなクビレであった。腹部の中央にあるエクボのようなものはオヘソだ。
「ご、ごめ、ごめん」
そのまま、まともに、ありのままのヒカルを見てしまい、慌ててアキラは壁の方へ体ごと向いた。
ヒカルはバスタオルを巻くとか、ハンドタオルで隠すとか一切していない、生まれたままの姿だった。
「は? 風呂なんだから当たり前だろ」
ドサリという音を立ててカランの前に腰をおろすと、洗面器に泡を立て始める。
「な、なんで、はいってくんだよ!」
壁に向いたままアキラは声を荒げた。
「なんでって、光熱費の節約になんだろ」
「べ、別々に入っても、そんなに違いはないだろ!」
壁に向かって怒鳴っても、狭い浴室である。直接怒鳴りつけているのと声量に変化は出なかった。
不思議そうにヒカルは言い返し、そして「ははーん」と全てを理解した声を出した。
「自分の体を見られるのが恥ずかしいのか?」
「おまえはそうじゃないのかよ!」
「まさか。ウブなネンネじゃあるまいし」
「そ、そういう言い回しを、初めて実際に耳にしたぞ」
壁を睨み付けた視線を誤解したのか、ヒカルはちょっとだけ腕で胸を隠して訊ねた。
「まさか女同士のエロスが好みなのか?」
「お、おんな、ど、ど、え、えろす!」
目を白黒しているアキラを見て、ヒカルは豪快に笑い出した。
「まあ、冗談はさておき」
「じょうだんかよ」
安心した声を漏らすアキラの後頭部を見つめて、本当に何とも思っていない声でヒカルは言った。
「日本人の女はみんなそうだな。相手が女でも隠そうとして疲れないのか? もし相手が男ならちょっと考えてもいいが、女同士だったら恥ずかしくもねえだろうに」
「いや、その…」
「まあ、簡単に言うと。おまえに女同士のナイショ話っていうヤツがあるんだが」
「はなし?」
ヒカルからの秘密の話しなんて何だろうとアキラは振り返った。ヒカルはシャカシャカとボディソープから立てた泡を自分の体に塗りつけているところだった。
その肩に下着に締め付けられた痕が残っていて、それが余計に女をアキラに感じさせた。
「難しい話しじゃねえよ」
相手の声が硬くなったのを感じ取って、ヒカルはアキラに微笑みかけた。
「おまえとアキザネのこった」
「アキザネがどうした?」
「ふむ」
手は止めずにじぃーっとアキラの顔を見つめ、とても不思議そうに訊いた。
「いや、てっきり二人はそういう仲だと思っていたんだが、違うのか?」
「は?」
彼女の言っている意味が判らずにキョトンとしてしまう。
「おまえら、つきあってんじゃないのかよ?」
「はぁあ?」
念を押すように訊くヒカルに対して、素っ頓狂な声が出た。
「ほら、あたしの場合は作られた理由が特殊だろ。でもおまえの場合は、死んじまうおまえを助けるために『施術』したって聞いたから」
ヒカルは、自分が作られた理由は「施術」の助手としてと言っていたはずだ。アキラは湯船に沈んだまま後頭部をコツンと壁にぶつけた。
「誤解だぜ。アキザネの趣味は丸わかりだろ」
アキラは浴室の壁にかけられた鏡へ視線を移した。湯気に煙った鏡面には、香苗によく似た女の子が映っていた。
いまだに鏡に映った自分の姿に慣れないが、間違いなくいまのアキラの外見である。血を分けた親子だから似るのは当たり前とも言える。
「誤解もなにも。あいつの好みの面じゃねえか」
「アキザネは、海城香苗が好きなの」
判っていなかったのかと、ヒカルへ念を押しておくことにする。
「見るからに相手にされていねえじゃねえか。だから、その代わりに、おまえがアキザネに作られたんじゃないのか」
体を泡だらけにしながら、ヒカルは気の毒そうな顔をした。
「そんなんじゃねえよ」
なにせ一ヶ月前まで、一八歳未満視聴禁止と表示されているビデオの鑑賞会とか、エロ本買いに隣町までツアーとか、一緒に親から隠れてバカをやっていた仲である。
「アキザネは、おまえのこと気にしていると思うんだがなあ」
年上の女から年下の女への助言だったが、生憎とアキラは「女の子のようなもの」であって、女ではなかった。
「そりゃ、そうだろ。幼稚園の頃からの知り合いなんだから」
「案外、おまえを見て悶々としてるかもな」
歯を剥き出すようにしてニヘラと笑ってみせる。
「もんもんって…」
「はっきり言ったほうがいいか?」
ちょっと小馬鹿にしたようにヒカルはアキラの顔を見た。
「おまえの裸を想像して、アキザネは…」
「だ、だ、だ、だぁ~」
アキラは顔を真っ赤にして、目を回し始めた。その過剰な反応を面白そうにヒカルは眺めていた。
「そ、そそ、ソ、そ! そんな恐ろしいことを言うな!」
「おそろしい?」
不思議そうな顔をしてヒカルはシャワーのコックを捻った。彼女を覆っていた泡が流れ落ちて、再び肌が目に入ってくる。
「わ、わ」
アキラは慌ててそっぽをむき直した。その背中にヒカルは達観したように告げた。
「男なんてみんなそうさ。おまえにゃ、まだ早かったか?」
「え、だって…」
壁や天井がグルグルと回り出したような感じがしてアキラは何か言おうとした。
「男の仕組みなんざ、知らなそうだもんなぁ」
「いや、あの…」
男なんですが、と続ける前に、アキラの視界が暗転していった。
気がつくと体のアチコチにヒンヤリとした感触がたくさんあった。
「アレ?」
どうやら自分のベッドで寝かされているらしい。薄暗くされた部屋を見まわして、アキラはそう判断した。
手を額にやると、使い捨ての冷却剤が貼ってあった。首の下には氷枕が敷いてある。
カーテンだけでここまで自分の部屋が暗くならないことを知っているアキラは、倒れてから相当時時間が経っていることが判った。
「気がついたか」
学習机のスタンドライトだけが灯っており、座って読み物をしていた誰かが立ち上がった。全体が逆光のシルエットになっていたが、声を聞けば判る。
「おまえか」
アキラの幼なじみにして天才、そして超がつくほどの変人である明実である。どうやらアキラがいつ目覚めてもいいように、交代で誰かがついていてくれたらしい。
「風呂場でのぼせるなんて。オマエは小学生か?」
「しょうがねえだろ」
いまだ体内に熱が籠もっているせいで、声を荒げることにためらいがあった。
「みんなしてオレの裸を見に来て…」
そしてアキラはあることを思いついて、体にかけられていた毛布をはね除けた。自分の姿を見おろす。
いまの自分にはだいぶオーバーサイズになってしまった愛用のパジャマであった。
「大変だったんだぞ、あんなところで目を回すから。四人がかりで引き上げることになって」
「み、見たのか?」
「は? そうじゃなきゃ助けられないじゃないか」
見た物が町ですれ違った自家用車のような態度の明実。思い出してみれば、現在のアキラの体を作ったのは彼なのだから、興味も何も湧かないのだろう。明実は、目に入る対象を科学者としての観察対象か、それ以外の物という程度の分類しかしないのだ。
それに彼の場合の性的対象は局限されている。
「オマエを助けようと必死だったカナエさんは色っぽかったな」
自分の体をかばうように抱きしめているアキラを見て、平然と明実は言った。風呂桶に沈んだ娘を引き上げるのに、助ける側が服を濡らさずに済むわけがない。
なにか言い返してやろうと口を開くと、誰かが遠慮がちに部屋のドアをノックした。
「おうよ」
部屋の主たるアキラではなく、偉そうに見おろしている明実がこたえた。寝ているだろうアキラへの配慮か静かにドアが開かれた。
「どうだ?」
入ってきたのはヒカルであった。人数分のグラスを載せたお盆で手が塞がっており、ドアを通りにくそうだ。明実は大股で歩み寄ると彼女の代わりにドアを開けはなった。
「お、気がついていたな」
ベッドで上体を起こしていたアキラを確認すると、苦笑のような表情を作って学習机の上に持ってきたお盆を置く。
上には野菜ジュースらしい色をした液体で満たしたグラスが並べてあった。ヒカルはグラスを二つ取り上げると、ベッドに腰かけながら片方をアキラに差し出した。
「喉、乾いているだろ」
「サンキュ」
ちょっとぶっきらぼうな態度ではあったが、彼女なりにアキラの倒れる原因となってしまって、責任を感じているようだ。
学習机のスタンドライトしか点いていない中、相手が確認できるかどうか判らないが、アキラは微笑んでグラスを受け取った。体中の水分が全て抜けてしまっているような勢いで喉が渇いていたので、遠慮無くアキラはグラスに口をつけた。
ゴーヤとミョウガを青汁で煮たような味がした。
「ヴッ」
「どうよ、あたしオリジナルのスタミナジュースは」
「個性的な味ではあるな」
渋い顔になるアキラとは対照的に、こちらは平然と口にしている明実。アキラは二口目を含むことにためらいがあったが、なにしろ体がどんな味でもいいから水分を欲していたので、我慢して飲むことにした。
「疲労回復から宿酔いの朝まで、一発で元気になるぜ」
「これ、材料はなんだよ」
せっかく作ってくれて悪い気がしたのだが、顔をしかめてしまうことを止められなかった。
「製法は聞かないでくれ。企業秘密だ」
女子高生に企業秘密もあったものでも無いが、そういえば外見は「女の子のようなもの」だが、中身はずっと年上なのだ。いまも宿酔いとか言っていたし。
ヒカルは最初に会ったときと同じ黒一色の服装だった。さすがに屋内でコートは着ていなかったが、黒いシャツにブラックデニムである。後ろ腰にまるでアクセサリーのようにナイロン製のホルスターがベルトに通してあって、昼間に試射した黒い拳銃がさっそく放り込んであった。
緑色の液体をなんとか飲み干すと、空のグラスはヒカルが受け取ってくれた。
「とりあえず横になっておけ」
立ち上がってお盆にグラスを戻しながらヒカルは言った。
「だが、こんなことじゃ合宿ホームルームでどうするんだ。風呂はクラスごとに時間が決められていて、順番に入るんだぜ」
今週末、三人が通う清隆学園では合宿ホームルームという泊まりがけの学校行事が予定されていた。風呂場でなにか予定があったような気がしたのは、これである。
「辞退する。一日ぐらい入らなくっても、人間、死にゃしない」
「たかだか裸を見られるぐれえ。混浴じゃあるめえし」
アキラは自分の視界を塞ぐように腕を上げた。
「外見はこんなになったが、頭の中はまだ整理できてないんだぜ」
事故前と比べてだいぶ細くなってしまった腕を見る。以前も筋肉ムキムキというわけでもなかったが、平均的中学生男子なりの筋張った物だった。それが今では手触りすら変わって、どこか小動物的な温もりに包まれている。
意識して女の子と手を繋いだ経験などなかったアキラには新鮮な驚きと、情けなさが半々といったところだ。
「だいたいオレが女湯に入って、問題大ありだろ」
「「なぜ?」」
明実とヒカルの声が重なった。
「なぜって、そりゃあ…」
「法律的にも道義的にも、今は女子高生であるオマエが女風呂に入ることに、一切おかしい点など無いぞ」
断言する明実。アキラの住基ネットまで男から女に書き換えた張本人であるから、そんな疑問を抱かないのであろう。それにイタズラ気に輝いている瞳が状況を楽しんでいることを物語っていた。
「オレの頭ん中は、まだ男なの!」
「は?」
意外な人物が大声を上げた。ヒカルである。
「おとこ?」
「そうだよ!」
その微妙な空気に気がつかないで、アキラは捲し立てた。
「オレはアノ事故に出くわす前は、普通に男だったの! 忘れたのか?」
「…」
沈黙が返ってきた。
「?」
ヒカルの不気味な沈黙に不安になり、アキラは明実と顔を見合わせた。しばらくして顔面に影を落としたヒカルが口を開いた。
「おまえ…」
「なんだよ?」
「男だったのか!」
「そうだって言って…、わあ!」
突然、ホルスターから抜いた自動拳銃を向けられて、アキラは半身を起こすと同時に両手をあげた。
「おま、おまえ」
プルプルと顔面の筋肉をすべて振るわせたヒカルから、続けて言葉が出てこない。
「やめろやめろ」
助けてくれよと明実を見るが、彼は感心したように顎を撫でているだけだった。
「もしかしてヒカルは、アキラがかつて男だったことを知らなかったのか?」
「知らねえよ!」
キンと鋭い音を立てて安全装置を弾いて解除し、やぶにらみの視線で明実を睨む。
「そうと知ってたら、一緒に風呂なんか入るか!」
「ああ、それで怒っているのか」
納得いったように明実は何度もうなずいた。
「ヨタ言ってんじゃねえだろうな」
「カナエさんに訊くといい。コイツが生まれたときは男だったのか、女だったのか」
するとヒカルは凄い勢いで部屋を飛びだした。
「なにを怒っているのかと思えば、そんな事か」
あくまでも冷静な明実。彼は冷徹な科学者であるために、人間的な感情の機微に欠ける点があった。
「そんな事か、じゃない!」
ベッドから起き上がりながらアキラは叫んだ。
「かあさんが危ないかもしれないだろ!」
最悪、動転したヒカルが香苗に発砲するかもしれない。自分ならば、こんな体になってしまったので、まだ避けるなり反撃するなり手段はあるが、香苗はごく一般的な主婦なのだ。そして平均的な日本の家庭には、鉄砲玉は乱れ飛ばない。
「おお、そうか」
慌てて二人はヒカルを追って一階のリビングに駆け下りた。そこで二人はヒカルが続き間になっているキッチンへ、手にした銃を向けているのを見た。
「アキラちゃんの生まれたとき?」
キッチンで何やら作業していたらしい香苗は、血走った眼をしたヒカルに、物騒な物を向けられているというシチュエーションでも、少しも動じずにいた。
「それなら、そこの食器棚を調べれば判るわよ」
花柄の縁がついたエプロンで手を拭いながら、香苗は銃口の前を移動し、食器棚の左側にある引き出しに手をかけた。海城家の者ならば、そこに保険証とともにカラフルな手帳が入れてあることを知っていた。
「それは…」
階段の処からアキラが声を漏らした。
香苗が取りだしたのは母子手帳である。ちゃんと几帳面にアキラがお腹の中に居る頃から無事に出産し、そして乳児期に至るまでの記録がすべて書き込んであった。
「ほら、これがアキラちゃんのファーストショット」
そう言って香苗が見せたのは母子手帳に挟んであった超音波診察機の画像をプリントアウトした物であった。紙面には白黒の画像であるが生まれる前の胎児が浮かび上がっていた。
「生まれた時はきっちり三〇〇〇グラムだったのよ」
「貸せ!」
出産時の記録を書き込んだページを見て微笑む香苗の手から、銃をホルスターに放り込んだヒカルが母子手帳をひったくった。
小さな手帳を引き裂かんばかりに両手でページを開いて、穴が空くほど見つめて茫然とする。そこには海城彰が誕生した時に主治医が書き込んだ細々としたデータがある。身長に体重、そしてもちろん性別も含まれていた。
しかし、ヒカルはなぜか茫然としたまま、母子手帳を覗き込む姿勢から香苗を見上げた。
「カナエって…」
「?」
「この『母・香苗』って?」
「もちろん、わたしよ?」
ページの一カ所を指差して硬直したヒカルに対して、何か不思議な事があるのかしらとばかりに小首を傾げる香苗。
「あんた、あいつのなんなのさ!」
ヒカルは右手で香苗を、左手でアキラを指差した。
指差されて、アキラ自身もつい自分を指差してしまった。
そんなアキラとヒカルを見比べていた香苗は、エプロンの前で手を組むと、ほがらかに言った。
「母です」
「はは!」
裏返った声でヒカルは絶叫を上げた。そのままグラリと体が揺れ、リビングの床に大の字に倒れてしまった。
流れ星が散るどころか、隕石がアリゾナの砂漠にクレーターを作ったような、とても痛そうな衝撃音がした。
「よく女の子が倒れるウチだな」
明実が呆れた声を漏らした。
「それというのも、おまえが変態だからだ」
冷静にアキラは言い返した。
「アキラちゃんも、アキザネくんも! なにを呑気に」
注意するのは香苗である。彼女はあわてて救急箱を棚から下ろすと、ヒカルの元に駆け寄った。手近なクッションを枕として首の下に入れ、アキラに使った物と同じ冷却剤を取り出すと、台紙を剥がしてヒカルの顔を覗き込んだ。
香苗の手でそれが額に貼られると同時に、ぼんやりと彼女は瞼を開いた。
「大丈夫?」
「あたしは…」
「うんそう。ヒカルちゃんも倒れるなんて思っていなかったから」
「あたしが? たおれた?」
どうやら衝撃的事実に記憶が混乱しているらしい。まだ焦点が定まらない顔になっているヒカルへ、安心させるように柔らかい声で香苗が告げた。
ヒカルはその呆けた表情のままで香苗を見つめ返し、ついでといった感じでアキラと明実へ視線を移した。どうでもいいことかもしれないが、中身は違う物だと判っていても、お年頃の少女が無防備な表情をしているのを見て、アキラの心中は穏やかでなかったりする。
視線が一周したところで、ヒカルの目に強い光りが戻ってきた。
「そうだ!」
バッと上体を勢いよく起こす。それまで彼女の顔を覗き込む姿勢だった香苗は、それを予想していたタイミングで見事に避けた。
「なんか凄い事を聞かされて…」
「大の字に倒れたんだゾイ」
明実がヒカルの記憶が戻ってくるのを助けようとしてか、横から彼女の独り言に口を挟んだ。
「いってえ」
ヒカルは後頭部をさすった。先程の音の原因である。そこには見事にコブが出来ていた。
「吐き気とかしない? 大丈夫?」
「それよりも」
自分の体調を棚に上げ、痛み以外の理由も込めて顔をしかめながらヒカルは香苗に訊いた。
「あんた、本当にこいつの母親なのか?」
「ええ」
「証拠は?」
「ちょっと待ってってね」
香苗はさっと立ち上がると、先程母子手帳を取りだした引き出しで何かを探し始めた。
「だいたいオレは、かあさんのこと『かあさん』って呼んでただろ」
アキラの指摘に、ヒカルが首の後ろあたりを何度もさすりながら言い返した。
「カナエだから、最初の一文字を取って『カーさん』って呼んでると思ったんだよ」
「だったらキミはカナエさんのことを何だと思っていたのかネ」
「アキラの再構築前からの姉ちゃんか、それこそ従姉妹かと」
明実の当然の質問に、学校にはそういう触れ込みで通っているヒカルが正直に答えた。
「あったあった」
ピョンピョン跳び跳ねるようにして香苗が戻ってきた。やはり高校生の子供がいるとは思えない程の若い仕草である。香苗が引き出しから取りだしたのは写真であった。
「はい、これでどお?」
それは今と寸分違わず幼い表情で微笑む香苗が、おくるみに包まれた生後まもなくの海城彰を胸に抱いている写真であった。彼女が彼を出産した病院で撮られた物らしく、背景は病室で、香苗の着ている物も薄桃色をした入院着である。
写真はもう一枚あった。そちらはお腹を大きくしてマタニティドレスを着た香苗だった。写真に印字された日付からして、二つはほぼ間を置かずに撮られた物だということが判った。
食い入るように写真を見ていたヒカルは、突然脱力して写真を取り落とした。家族の記録は折れないようにアキラが素早く回収した。
「…」
ヒカルが何か口の中で呟いた。
「?」
他の三人が顔を見合わせていると、ヨロヨロと立ち上がった。倒れやしないかと心配して香苗が手を差しのべるのを、柔らかく拒絶する。
「疲れたから、もう寝る」
どうやら先程呟いた事と同じ事を、今度は全員に聞こえるように告げると、階段の方へ歩き出した。階段で転びやしないかと着いてくる香苗を、何度も手だけで断りながらヒカルはリビングから出て行った。
「ま、終わりよければすべて良しだな」
「なにが終わりなんだよ?」
「オマエ、ヒカルに撃たれそうだった事を忘れたのか?」
「あ」
そうである。香苗がアキラの母親という衝撃の事実で有耶無耶になったが、本来ならばアキラが男だったことを知ってキレたヒカルに撃たれる寸前だったのだ。
「やっぱり、合宿ホームルームは休もうかなあ」
「なにをいう。法律的にも道義的にも、今は女子高生であるオマエが女風呂に入ることに、おかしい点など無いと、何度言わせるのだ」
再び断言する明実。すると心配そうに階段を見上げていた香苗が戻ってきた。ニッコリと微笑むと、優しい声色で二人に告げた。
「アキラちゃんは、まだ高校生なんだから。節度を持った行動を取ってね」
一見穏やかないつもの香苗であったが、背後にドス黒いまるで地獄で亡者共を永遠に焼き続けていると言われているゲヘナの炎が見えたような気がした。
もちろん小学校に上がる前から香苗に色々なことを躾けられてきた二人である。それが怒り出す直前の香苗であることを重々承知していた。
「合宿ホームルームには参加するのよ」
「はい」
アキラは素直にうなずいた。
「それと女湯は禁止」
「はい」
今度は明実が素直にうなずいた。
素直にうなずく二人に、香苗は元の微笑みに戻った。
「それじゃアキラちゃんにはオカユが作ってあるからね。お腹空いたでしょ」
リビングの壁に掛けられている時計を見れば、夕飯時をだいぶ通り越した時間であった。風呂でのぼせたアキラは、長く気を失っていたらしい。
「クララとの夕食会は明日になっちゃったのよ」
香苗の説明に明実が腕を組む。
「そうだ。マーが張り切っていたのに、オマエときたら」
「オレの体調は、おまえの管轄だ」
人のせいにしながらアキラは、手にした写真を引き出しに戻した。
翌日も、授業は午前中で終了した。午後は部活動合同説明会が開かれた。
新入生は講堂に集められ、生徒会に認可されている団体へ短い時間が割り当てられて、次々と部活動の説明が行われる。
判りやすいのは運動会系の部活である。野球部やサッカー部などは試合に出場するユニフォーム姿で登壇し、部長職の者が真ん中で「グラウンドで待っているぞ。一緒に甲子園(または花園など有名な競技場)へ行こう!」と怒鳴れば判ってしまう。難しいのは文化会系の部活だ。
ブラスバンド部などは短い曲をパッと演奏してくれて、長い説明会で脳が疲れてどんな説明を聞いても同じに聞こえる状態になっていた新入生に、楽器の音色は新鮮に感じられるし、合唱部などもアカペラで巷の流行曲を歌えば勧誘になる。
だが『明日のノーベル賞受賞者のその候補』たる明実が所属しようとしている化学部は、誰も説明に現れなかった。現部長とされている二年生も幽霊部員であるらしい。
生徒会の書記らしい女先輩が演壇脇で、まるで入荷待ちの倉庫係のような事務的な口調で、この説明会に参加はしていないが化学部や生物部なども存在することを、リストを読み上げる程度で説明しただけだ。
大変だったのはそれからだ。
「野球部! 君も野球に青春をかけよう!」
「ラグビー部! 男ならラグビー!」
「青春といえば卓球だろう!」
「夏コミ受かりました! 参加したい人はマン研まで!」
「入り口はコチラ!」
説明会が終わって教室に向かう廊下には、各部活の勧誘係が待ち受けていて、まるで鰯の群れに突入する鮫のごとくの勢いで、新入生たちの列を乱した。
「間に合ってます!」
「いいからいいから」
「三ヶ月! いや奥さん二週間でいいから!」
「もう、別の部活に…」
「ウチは兼部可だから」
一年生たちが狭い廊下で先輩たちに引っ張られたり、押されたり大騒ぎである。
どうやらこれが毎年恒例の行事のようだ。アキラも前後左右から男も女もなくもみくちゃにされながら、一年生フロアがある三階に上がるため、階段を目指した。
「ちょ、ちょっと…」
当然のことながら明実とは、はぐれてしまう。ヒカルもどこかに行ってしまった。高度成長期の山手線もかくやという人ごみに、アキラは嵐で漂泊する小舟の気持ちになっていた。
これだけ揉みくちゃにされれば、男も女もなく体のアチコチがぶつかったり触れあったりしてしまうが、あまりの密集度に恥ずかしさよりも息苦しさの方が強かった。
「あ、いたいた」
人ごみに酔ってきた頃、息をするスペースだけでも確保しようと胸の前に上げていた腕を、誰かが掴んだ。
「えっと、オレは部活に入る気はありません」
何度も言っていて口癖のようになってしまった文言を口にする。
「大丈夫。勧誘じゃないよ」
ケロッとアキラの腕を掴んだ相手が答えた。誰かと改めて見てみれば、同じクラスの女子だった。明日からの合宿ホームルームで同じ班だという、背の高くて髪が長い美人さんである。どのくらいの美人かというと、美人というありきたりな容姿の表現では本人に申し訳なくなるほどの美人である。
「ええと?」
「あら? 忘れちゃった? 同じ班の佐々木恵美子。憶えてないの?」
口元に八重歯を覗かせながら、まったく嫌味のない声色で問い返された。その数学的にも完璧な容姿で微笑まれると、中身は男の子なので、アキラの頬へ自然と温かい血流が集まってくる。今日の彼女は髪型を変えており、後ろで一本に縛ってポニーテールにしていた。
「佐々木さん。なんでまた?」
「海城さんは退院したばかりでしょ。この人ごみじゃ大変じゃないかなって」
「あ、ありがと。でも、佐々木さんも…」
これだけの美人である。男女混合の部活動だけでなく、男臭いラグビー部などもマネージャーとして勧誘してくることは、簡単に想像できた。
「私? 私は大丈夫よ」
自信たっぷりに答えが返ってきた。よく見れば彼女に声をかけてくる勧誘は、あまりいない。
不思議に思って見かえすと、その視線の意味を汲んだのか、彼女は微笑みの質を変えて教えてくれた。
「私、剣道の特待生だもの」
「けんどう?」
「そ。だから自動的に剣道部」
「で、でも」
だからといって人ごみの中を、別の女の子を庇いながら進むのには変わりない。それは大変なことになるだろう。外見は「女の子のようなもの」になっているとはいえ、アキラの男としての矜持が彼女に頼ることをためらわせた。
「それに、ほら」
恵美子は自分の前が見えるように、体を傾げてくれた。
「すいませーん、病人が通りまーす。道を空けてくださーい。道をー…。ってゴラア! 道を空けろって言ってンのが聞こえないのかぁ!」
仁王立ちで怒鳴り声を上げて道を作っている女子の背中が目に入った。背中しか確認できなかったが、肩までの髪といい、特徴ある声といい、合宿ホームルームで班長を務めてくれる藤原由美子であろう。
由美子の迫力ある一喝で、これだけごった返していた廊下は、一時シーンと波をうったように静寂に包まれた。そしてキッとした視線で睨まれると、出エジプト記のモーゼが海で起こした奇跡のように、左右へ人ごみが割れた。
「さ、行くよ」
半分だけ振り返った由美子が、いまだ怒鳴ったときの興奮が収まらずに鼻息荒く宣言した。
「ふ、ふじわらさん…」
「どうしたの?」
その場で硬直してしまったアキラを恵美子は不思議そうに振り返った。
「かえって恥ずかしいような…」
全員の注目が三人に集まっていた。
「うん。でも、もう遅いかもね」
そう言って由美子の背中に続いてアキラの腕を引く彼女も、なかなかの神経をしている。さすが剣道で特待生となっただけの人物だ。このぐらい度胸がないと剣道の大会では勝てないのだろう。
三人が通過して、その背中が見えなくなってから廊下は再び喧噪に包まれた。
「たしかに護衛として難ありだな」
終了の学活が終わると、同じクラスであるヒカルがわざわざアキラの席へやってきて断言した。
「そう言うな」
取りなしてくれるのは明実であった。
「護衛としては甚だ頼りないと言っておいたはずだ」
「そうは言うけどな」
ヒカルは不満そうに、いまだ椅子に着いたままのアキラを見おろした。そういうヒカルは、あの人ごみの中で明実から一時も離れずに教室へ戻っていた。
「オレは繊細なの」
揉みくちゃにされて体の中の活力を消耗した態のアキラは、机の上にのびたままだった。
「最後は腕っ節だろうが」
腕を曲げて力こぶを作る仕草をしてみせるヒカルに、恨みがましい視線を返す。
「どのくらいで押しのけていいか判らなかったんだよ」
なにせこの体は、ド突いた明実が部屋の反対側まで飛んでいって壁に張り付くほどの怪力なのだ。気をつけて行動しないと、水道の蛇口をねじ切るなど映画などでお約束のシーンを現実に経験することになる。
「それに背が縮んだせいで、男に囲まれると周りは見えなくなるし。相手が女だったらドコを触って押しのけていいか判らないし」
あの密集状態で下手に押すと、最悪将棋倒しが発生して大惨事になっていたかもしれない。またそのような事が起きずとも、相手の体にダメージがあるかどうかの手加減にもまだ自信がなかった。ちょっと押しのけたつもりで内臓破裂を引き起こすぐらいの腕力になっているのだ。
高校入学早々にして殺人者にはなりたくはなかった。
「海城さん」
三人で話していると、その輪の外から恐る恐るといった感じで声がかけられた。涼やかな音色のような声だけで、相手を見るまでもなく判った。先程の部活勧誘の人ごみから救い出してくれた恵美子である。学業が終わった今は帰り支度の上に、なにやら大荷物を抱えていた。どうやらその荷物は剣道に関係するものらしく、職人技が注ぎ込まれたであろう刺繍で、彼女の名前が縢ってあった。
「よかったら剣道部見に来る? 体も鍛えられるよ?」
「いや」
一応明実とヒカルの顔色を確認してからアキラは答えた。
「オレは化学部にしようと思ってさ」
「それって…」
口元に手をやった恵美子は、意味深な視線を明実へ向け、そしてヒカルとアキラを見比べてから小さく吹きだした。
「あー、誤解があるようだけど…」
「わかってるって、わかってるって」
全然判っていない声で恵美子は何度もうなずいた。明実は天才で、それに輪を掛けた変人であるが、黙って立っていれば混血児ということもあり、背も高いしルックスも中々の物と言えた。
グッと小さくガッツポーズを作って見せた恵美子は、アキラがこれまでの人生でグラビア誌でしか見たことのないような、素晴らしく魅力たっぷりの笑顔を作った。
「がんばってね」
「違うって」
顔の前で手を横に振っても、恵美子はすべて判っているという態度のままで教室を出て行った。
「なんだったのかね、あれは?」
明実が不思議そうに訊いた。
「たぶん、三角関係だと思われたんだろ」
これは曲がりなりにも女であるヒカルの意見である。
「どんな関係だよ」
ただでさえ揉みくちゃにされてボロボロなのに、さらに疲労感が増したような気がした。
「ふむ。その三角関係が字義的な意味だとすると、オイラとオマエで、ヒカルを取り合っているということか?」
「「なんでそうなる!」」
アキラとヒカルの声が異口同音に重なった。
「は?」
不思議そうな顔になる明実。
「オイラは紛れもなくXYだぞ。オマエも外見はそんななりだがXYではないか。ヒカルはXXだから、三人いて内一人が異性の場合、一般的にはその者を取り合って争いになるのではないのか?」
「XとかYとか、はあ」
アキラは頭を抱えた。もちろんそれらの記号は生物の授業でやった染色体の事であろう。
「見た目は女二人に男一人なんだから、取り合いになるとしたらアキザネのこったろ」
ヒカルが指摘しつつポケットから棒付きの球形をしたキャンディを取りだして咥えた。
「失敬な」
今更ながら恵美子が出て行った教室の扉を振り返り、明実は堂々と胸を張って言った。
「オイラのハートは、常にカナエさん一人に占められているというのに」
「おまえさ…」
ゲンナリとしてアキラは言った。
「何度も言うけど、人ン家の母親を名前で呼ぶなよな」
「人の物のどこがいいんだろうねえ」
呆れたようにヒカルは腕を組んだ。
「こいつ、しつこいだけだよ。前も、小学校の時に作って飾っておいたゼロ戦のプラモが、地震で床に落っこちて壊れたんだが。普通は捨てるようなほど壊れたのに、それから三ヶ月も掛けて直してたし」
「執着心が強いんだな」
「一つのことに打ち込める真面目で熱心な性格と言ってくれたまえ」
「何事にもプラスとマイナスの面があるということだな」
ピコピコと唇でキャンディの柄を上下させながら感心するヒカル。しかしアキラは別の言葉を思いついていた。
(物は言いよう)
「で? 今日も、誰もやってこない化学室で留守番か?」
明実はとある人物と交流するために、幽霊部員しかいない化学部に所属しようとしていた。
「いや。二つの問題を一気に解決するナイスアイディアを試そうと思っている」
「二つの問題?」
アキラとヒカルは顔を見合わせた。
「問題というとオレを男に戻すっていう『再々構築』の研究のことか?」
「それはそれで進んではいる。だが今は違う」
自信たっぷりに首を横に振る明実。
「まず一つは、ヒカルが言った化学部の問題。件のもう一人の天才とアポを取ることが出来た。今から会いに行く」
「そいつがクロガラスなんていうオチは嫌だぜ」
アキラが警戒心剥き出しで言うと、ヒカルはスカートの下から黒い自動拳銃を抜いた。クロガラスというのはアキラが死にかけた事故を仕組んだ黒幕の名前らしい。
「安心しろ。そんときゃ一発でしとめてやる」
「わあ、バカ。そんなものをこんなところで抜くな!」
「大丈夫だって。ちゃんと周りは確認しているし、遠目にはオモチャに見えるだろうからよ」
ヒカルは顔の横でGUILTYとエングローブされた銃を振った。言われて教室内を見まわしてみれば、すでに他のクラスメートたちの姿は無かった。
「もう一つの問題がそれだ」
「どれだ?」
「それだよ」
ギルティを指差されてヒカルは不機嫌な顔になった。
「なんだよ、おまえが選んだ銃じゃねえか」
「違う、銃自体に問題があるのではない。その携帯に問題があるのだ」
「?」
「オマエ、それで体育の授業をどう受けるのだ?」
「あ」
明実に指摘されてヒカルは口を開けた。咥えていたキャンディが落ちそうになって、慌ててしゃぶり直す。
「オイラが敵ならば、更衣室にほったらかしにしておいたら、その間に隠すなりするぞ」
「ホルスターを巻いたまま、というわけにゃいかないか」
「どんな女子高生だよ!」
アキラがヒカルにツッコミを入れた。
「あ? 口のききかたに気をつけな」
ゴリッと銃口をコメカミに押し当てられてしまい、アキラは両手を上げた。
「あたしゃ、まだおまえを許したわけじゃないんだぜ」
どうやらヒカルは、アキラが彼女の全裸を見てしまったことを根に持っているらしい。
(あれは、おまえが勝手に見せたんじゃねえか)
「あ? 乙女の肌を見ておいて。いま、あたしのせいにしようとしただろ」
「人の心を読むな」
その「女の子のようにみえるもの」同士の危険な漫才にも眉毛一本も動かさずに、明実は分析した。
「もし体育の授業中に襲われたとしても、アキラの奥の手があるから、戦闘自体に不安はないゾイ」
「奥の手ねぇ」
それに敗れた形のヒカルが面白く無さそうに呻き声を上げた。食いしばられた歯で、今にもキャンディの柄がちぎれそうだ。まあヒカルはアキラに敗れたことによって、二人の味方となることができ、人造である体の維持に必要な『生命の水』を手に入れることができるようになったのだから、人生に何が幸いするか判らない。
「問題は銃の保管だけだ」
「でも、クラスは男女で分かれるとしても、体育の授業自体は同時だぞ。ヒカルの銃をアキザネが受け取っても、結局問題の解決にはならないだろ」
「だからさ」
自信満々に胸を反らせて明実は言った。
「今から会いに行く天才は、三組なんだ。一組と三組では体育の授業が重ならなくて好都合」
「それだけ相手が信頼できりゃいいがな」
訝しむ態度を隠そうともしないでヒカルが言った。
「ま、会ってみないことにゃわからんな」
アキラは机にかけた自分のバッグへ手を伸ばした。
「どこで待ち合わせだ?」
「C棟の二階だな」
C棟というのは北側の教科教室が集められた二階建ての棟のことである。その二階に何があったっけなと考えつつアキラは席を立った。
(たしか図書室とか地学講義室とかが並んでいたよな)
「どの部屋だ?」
「C棟二階、音楽室だ」
三人は荷物を纏めると、中央廊下と呼ばれる通路に出た。この通路は各棟に通じており、四つの棟で構成されている高等部を一周していた。教室移動などに利用するのに便利なように配慮した設計といえる。
一年生エリアのある三階から階段を使って一つ下り、放課後だというのに結構な通行量のあるD棟二階の中央廊下に出る。両側に生徒会室などが並ぶそこを抜けて角を曲がればC棟のはずである。
その頃から川が流れるようなメロディが聞こえてきた。校内放送だけでなくFM局まで持っている放送部の仕業ではない。手前にある図書室がまったくの静寂に包まれているため、廊下で減衰することなく、音楽室で活動しているらしいブラバンの音が耳に届いてくるのだ。
いまは楽器ごとの個別練習なのか、一種類の音しか聞こえてこなかった。
「この曲は?」
どこかで聞いたような旋律に、アキラは廊下の天井を見上げて思案顔になった。
「テレビのコマーシャルで使ってる曲だろ」
ぶっきらぼうにヒカルが答える。
「たしかエルガーの『愛の挨拶』だったかな」
アキラは一生懸命に曲名を思い出してみた。
「普通はヴァイオリンだが、こいつはフルートだな」
「ふうん」
どうやら音楽の知識は薄いらしいヒカルが気のない返事をする。先頭を行く明実に率いられて、三人はC棟の奥まったところにある音楽室の前までやってきた。
他の教室へ迷惑にならないように防音を完璧にするために、重い防音扉は二重になっていた。
廊下側の扉をくぐり、教室側の扉を開けたところで、流れていた音楽が止んだ。
ドッと室内に拍手が沸き起こった。何事かと心の準備ができていなかったアキラは、その音量にのけぞってしまった。ヒカルは腰を落として左手をスカートにかけ、逆に明実といえばそれが道路脇で耳にした自家用車の通過音程度にしか感じていない程度で、室内へ歩を進めた。
「すごいすごい」
「マジっすか」
「玄人裸足だよ」
「感動した!」
「ウチにこれだけ吹けるヤツ、いるか?」
音楽室における前方、ピアノが置いてあるあたりで、どうやらブラスバンド部のメンバーらしい制服姿に、銀色の横笛を持った一人の人物が囲まれていた。
常人よりは痩せていることもあるのだろうが、頭一つ分他の生徒よりも高いため、より一層細く見える人物であった。髪は茶色がちで軽くウェーブして長目にしている。丸くてつっつきたくなるような頬といい、リップを塗っているのではないかと思われるほど艶やかな唇といい、同じクラスの恵美子ほどではないが、結構な美人であった。
制服の襟につけることになっているクラス章で確かに一年生だということが判った。
だが…。
「あんたが言っていたのは、あいつか?」
あからさまに警戒した声でヒカルは訊いた。
「ああ、そうだ」
当の本人はブラスバンド部の先輩方に一生懸命勧誘されているのに、それをドコ吹く風と微笑みで受け流している。
「止めといた方がいい」
年上が年下へ忠告する口調でヒカルは言った。
「ありゃあ普通の人間の眼じゃねえ。何人か人死にに関わった眼だ」
たしかにヒカルの言うとおりだ。
脇にいる小柄な女子生徒がマネージャー役なのか、謎の人物とブラスバンドの部員たちの間に入って何事か交渉していた。長身から来る身長差で微笑みながら自分の交渉役を見守るように見おろしていた美人は、ただ美しいだけでなくどことなく謎めいた雰囲気を纏っていた。
だがしかし周囲を見まわすその瞳に、一切の暖かな感情を見ることが出来なかった。
「ああ、ただものじゃない」
アキラもその考えに同調することにした。アキラがこれまでの平凡だが平和な人生で一度も出会ったことのない人種に思えた。こんなことを感じ取れるのもヒカルと同じような被創造物になってしまったからなのかもしれない。
髪と同じような微妙な色彩の眼も、見る人によれば瞳がちで美人さんと評価できる物かもしれないが、アキラはそれが黄昏色に染まっているように思えた。
それは現実にある色ではない。生命の終わる瞬間を見つめ続けてきた事により歪んでしまった魂が見せる悲鳴のような色だった。
その黄昏色の双眸が明実の方に向けられた。口元に別の種類の微笑みが浮かぶ。ただその色を見てしまったアキラにとっては、その表情が心からの物ではなく、プログラミングされた結果であることが容易に想像ついた。
ようやくブラスバンドの部員たちが、小柄な女子に説得されたか、謎の人物を解放してそれぞれの練習に戻った。
「よーう」
まず間延びした声で明実が声をかけた。
「やあ」
ニコニコと笑う謎の人物がピアノの前で待ち受ける。
「キミが、噂の人かい?」
「どの噂なんでしょうね」
面白そうに話し相手は目を細めた。声はとても中性的で、それだけ聞いていると性別が判らなくなりそうだ。
「新井さん」
まるでマンガに出てくるようなブ厚い眼鏡をかけたオカッパ頭の女の子に、ポケットから小銭入れを取り出して手渡した。
「私と君と、それとお客さんで五本ね。お茶でいい?」
最後のセンテンスはこちらに向けてのものだった。
「いや、悪いよ」
アキラは自分のポケットを探ろうとして、明実の話し相手に手で制された。
「ささやかなこの会談がうまくいくように、ここは私に出させて。そう高い品じゃないわ。購買部の自販よ」
「キモオタは何飲むの?」
そう呼び慣れているのか、新井と呼ばれた小柄な女子は、随分と失礼な呼び名で相手に尋ねた。
「そうだな、冷たい日本茶で。注文があるなら今の内よ」
だが他に注文をつける者はいなかった。眼鏡の少女は疑う目を隠そうとしないで三人とは距離を取ってから、そして小走りに音楽室を出て行った。
「音楽室とは考えたね」
適当に椅子を引っ張り出して明実は座った。アキラとヒカルは彼の後ろに立ったままでいた。普通の相手ならば問題ないが、相手があまりにも謎めいていた。なにか争いごとになった場合、座っていると初動で後れを取ることになるかもしれない。
会談の相手は、ピアノの前に演奏用として用意されていた椅子に腰をおろした。
「考えた? そんな大層な事かしら?」
「防音設備が整っているココならば盗聴されにくい。ガラスへレーザー式振動感知器を向けて離れた場所から音声を取ろうとしても、音楽室は二重窓だ。あらかじめ電波式のマイクを仕掛けておいても、ブラスバンド部が活動していると、その騒音に会話は紛れやすい」
「買いかぶりすぎよ」
銀色の横笛を手早く分解してケースに収納しながら、明実の話し相手は苦笑してみせた。
「自己紹介しよう。オイラが御門明実。この間のキミが発表した演算理論は素晴らしいものだった」
わざわざ立ち上がり直して右手を差し出す。その手を見つめて少しの間考えてから、相手も腰を浮かせて、細い指で握りかえした。
「私は…」
そこでなぜか言い淀み、視線を一瞬どこかへ彷徨わせてから明実を見つめ返した。
「この姿の時はサトミって呼んで。私もあなたが発明発見した爆縮機構のパテントには感動したものよ」
「サトミね」
クスクスと小さく笑いながら明実は手を離して席に戻った。サトミと名乗った人物は、さっと立ったままの二人へ視線を走らせた。
「だいぶ喋りづらい状況ね」
「まあ、この二人は、オイラの『秘書』ということで、立ったまま失礼するゾイ」
「…」
じっと口を閉ざしたサトミが、明美を見つめた。しばしそうしていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「あなたのお友だちは個性的ね」
「キミほどではないと思うよ」
「そお?」
小首を傾げたサトミは横笛を納めたケースを、さらに足元に置いたディパックへしまい込んだ。
「で? ご用はなあに?」
「キミを化学部へ勧誘しようと思って」
「ふうん」
反対側へ小首を傾げ直したサトミは、サラサラの髪の毛を頬に散らして言った。
「私、いま忙しいのよね」
「悪いが、キミの事は調べさせてもらったよ」
ぜんぜん詫びていない口調で明実は言った。それに対してサトミは目だけで振り向いた。顔の筋肉を一筋も動かしていないし、これといって表情を変えた様子もないのだが、瞳の黄昏色が濃くなったように感じられた。
「どこまで調べたのかしら」
「いちおうプレスリリースされていることは、全て」
「ふうん。それで私に興味ができた?」
相手に興味を持たれて光栄とばかりに微笑むサトミ。だが表情や仕草でそういった表現をしていても、その瞳の色から感じるものに少しも変化はなかった。
「同じ天才として当然だろう」
「天才?」
胸を張る明実に、不思議そうに聞き直すサトミ。
「全世界にどれだけ人類がいようとも、キミを理解できるのはオイラしかいないだろう」
「あなたは天才なの?」
もう一度訊ねるサトミに、反っくり返ったまま明実は言った。
「この惑星で三番目に知能が高いぞ」
「…」
少し目を細めたサトミは、思慮深い口調で明実に質問をした。
「試しにきくけど。六かける九は?」
まるで小学生に出す算数問題のような質問に、アキラとヒカルは顔を見合わせた。明実は躊躇なく答えた。
「もちろん四十二に決まっている」
(え、五十四じゃないの?)
アキラはとうとう明実が紙一重の向こう側へ行ってしまったかと不安になった。
「自信たっぷりなのね」
サトミがコロコロと笑い出したところを見ると、答えはあっていたらしい。
話しが分からず再び二人が顔を見合わせていると、購買部のビニール袋を提げた少女が帰ってきた。
「ありがとう新井さん」
まずサイフを受け取り、そしてから自分の分の飲み物を受け取る。
「今日はヒ素? それとも青酸カリ?」
「苛性ソーダ」
「はい?」
平然と毒物のリストを目の前であげられて、アキラは目を点にしてしまった。その様子がおかしかったのか、クスクスと可愛らしく微笑むと、サトミは彼女へ掌を向けた。
「紹介するわね、こちらは新井尚美さん。私の加害者候補。殺人のね」
「ども」
つまらなそうに口を尖らせた尚美は、悪びれずにサトミの後ろにまわった。
「頸動脈はやめてね、顔に傷がつきやすいから。お勧めは左脇腹から突き刺して、上へねじり上げるやり方か、上から鎖骨の隙間を通して直接心臓ね」
「今日は、刃物は置いてきたの」
「あら趣旨替え? それは驚きね」
アキラとヒカルが唖然としている前で、自分の殺害方法を加害者相手に平然と数え上げてみせる。まるで壁に止まった虫を退治するのに殺虫剤を使用すべきか、それともハエ叩きで直接潰す方がいいのか、そのどちらを選ぶべきか相談しているレベルだった。そんなサトミだが、尚美に渡されたペットボトルに平然と口をつけた。
(毒を混入する態度を匂わせていなかったか?)
アキラが不安そうに相手の様子を見た。サトミは突然口から泡を噴き出して、床にたおれて苦しみ出す…、ということもなく、平然と嚥下していた。
(ああ、もしかしたら彼女流の冗談なのかもな。なにせ身近にいる自称天才も、だいぶ変人だからな)
アキラはそう思ったが、平然とお茶を口にするサトミを見ていた尚美は、隠そうともしないで大きな舌打ちをした。
(あれ? やっぱり本当?)
「やはり新しい研究にでも取りかかっているのかい?」
そんな疑問は一切抱いていない様子の明実は、相手を探るように見た。
「そうね。経済学を実践で少々」
「経済学?」
アサリの味噌汁を味わっていて、石が混じっていた程度の違和感を感じた口ぶりで明実が聞き返した。
「私、お金が必要なのよ」
「家は資産家と聞いているが?」
「私には関係ないもの。あれは全部、姉のものよ」
「キミほどの頭脳を持っている者ならば、どこの研究機関でも相当の金額を用意して出迎えてくれるだろうに」
「私はダメ。いちおう学歴が欲しいから大学まで進むつもりなのだけど、集団に混じっては生きていけないわ」
「それは理解者が少ないから故の孤独感ではないのか?」
「違うわ」
サトミは半分だけ背後を振り返った。
「私は新井さんに殺されなければいけないの。だから余分な交友関係は持たないわ」
「その娘が障害ならば、今すぐ処理できるが?」
明実もサトミの後ろに立つ少女に視線を移した。その言葉の意味をアキラが理解するよりも先に、ヒカルが少し腰を落として、スカートの上から腿の辺りを押さえた。
「ダメダメ」
クスクスと笑いながら手を振って制するサトミ。
「この娘は、私のお気に入りだもの。危害を加えさせるつもりはないわ」
そう言って横に振られる手には、いつの間にか単二乾電池のような物が、指の間に挟み込まれていた。
「恋人なのか?」
恋愛に関しては特殊な価値観を持っている明実が訊ねた。
「んんん、そんなものではないわ」
背後で頬を染める少女の代わりに、サトミが答えた。
「あくまでも殺人犯と、その足元に転がる死体の関係よ」
「???」
再びアキラとヒカルが顔を見合わせていると、楽しそうに明実が笑い出した。
余計に話しが分からなくなって、二人の「女の子のようなもの」は、揃って椅子に座る同級生の後頭部を見おろした。
「じゃあ我らの化学部に所属する気はないと」
「ええ」
「決別か?」
「あら」
サトミは目を丸くした。
「一回断られただけで諦めちゃうの? さめた男ね」
「これからも会うつもりはあると。いいだろう」
ニッコリと笑った明実は立ち上がり、サトミと握手を交わした。
「次の話し合いには実のある成果が出ることを期待しているよ」
「それまで私が死んでいなければいいのだけれど」
手を離しながら笑顔のままで、物騒なことを言う。
「あ、それと。爆発物は袖に仕込まない方がいい。ブラックパウダーか?」
「テルミットよ。それにその忠告は私だけではなしに、お友だちにも同じように必要ね」
「そうだった」
わざとらしくのけぞって明実は大袈裟な手振りで、後ろで立っていた二人を振り返った。
「彼女たちの持っている、そのう…」
「オモチャ」
なんと説明していいか単語が出てこない様子の明実に、ヒカルが助け船を出した。
「それだ」
ヒカルの比喩表現を指差して採用する明実。
「オモチャを隠さなければいけない時に協力してもらいたい。代わりにキミの時にオイラたちが役に立つと思うが」
「隠す?」
不思議そうに小首を傾げるサトミ。
「体育の授業の時など困るだろ?」
「私はそうでもないけど」
そう言うと、手の中の電池がいつの間にか二つに増えていた。そのままクルクルと掌の中で回して遊び始める。繊細な指先が器用に動く様は手品師を思い起こさせた。
「これからも? 新しいモノを持ち歩く選択肢が広がると考えられないか?」
「うーん」
ちょっと眉を顰めて、椅子の上から見上げてくる。その少しだけ困ったような表情に年相応さの魅力が出ていて、アキラは相手から目が離せなくなった。
「お互い様ね」
「そう、相互扶助だ。悪い提案ではないだろ」
「まあいいけど。私に預けるときは抜弾して、安全な状態にしてね」
チラリと視線を背後の少女へ動かす。暴発を恐れていると言うより、預かっている間に彼女がその銃を使用しようとする方が困るようだ。専門用語である「抜弾」という単語を使ったことから、明実たちが何を預けたいのかは判っているようだ。まあ銃に素人の人間でも、いくらスカートで隠しているとはいえ、大型ホルスターを右腿に巻いていれば判るというものだ。中に入っているのが本物か偽物かはともかく。
殺人事件の被害者候補を名乗る割には、毒物や刃物は許容できるが、銃弾は勘弁らしい。
「んじゃ、そういうことでヨロシク」
明実は未練を感じさせない態度で音楽室の扉へむいた。それとは対照的に、ヒカルはまだ何か言いたそうに、立ち止まっていた。
二人の取った別々の行動に、アキラはどうするべきか迷って、二人の背中を見比べた。
「私、これからピアノの練習をしなきゃいけないのよ」
後ろに立っていた尚美が、何も指示されていないというのに楽譜をピアノにセットした。サトミはピアノに正対すると、鍵盤の上に細く長い指を置いた。
「あ、なんだっけ」
聞いたことのある旋律が流れ始めて、アキラは音楽室の天井を見上げた。
「ええと確か… 『タイスの瞑想曲』?」
アキラが曲目を自問自答すると同時に、諦めがついたのかヒカルも外へ歩き出した。あわててアキラも後を追った。
二重扉を開けっ放しにするようにして、明実は二人を待っていた。その分厚い防音扉が閉まるまで、オペラにおいて娼婦が修道士によって改悛するシーンで流れる旋律は止まらなかった。
「ふー」
扉が閉まりきったことを確認すると、ヒカルは大きく肩を動かして溜息をついた。
「緊張していたみたいだな」
「当たり前だろ」
明実に指摘されてヒカルは固い声を上げた。
「おまえも大概だが。ありゃ絶対に何人か殺してるぜ」
「まあ、とても不幸な出来事があった…、らしい」
明実も断言しなかった。何事も科学的に情報を処理する彼にしては珍しい態度であった。もしかしたら伝聞形式の不確かな情報なのかもしれない。
「カレもキミたちに近いのかもしれないな」
「それは、あいつもクリーチャーだってことか?」
ヒカルが質問すると、明実は肩をすくめた。
「『施術』の方法は知らないはずだ。そうではなくて、どこかしら壊れてしまっているようだ」
「怪我をしているようには見えなかったが」
ヒカルの呟きに、明実は指鉄砲を自分に向けた。
「頭の中だよ」
「ちょっと待て」
それまで黙っていたアキラが手を挙げた。
「いま、彼って言ったか?」
三人の間に沈黙がおりた。御門明実は科学者である。よって対象を確実に観測し、その結果を分析して追証し、得られた情報が間違いなければそれを真実として受け入れる。そのことを幼なじみのアキラはよく知っていた、それこそ彼の変態性と同じくらいに。
「ああ。外見は取り繕っていたが、カレはXYに違いない。もっとも細胞を採取して遺伝子検査を…」
言葉の途中でアキラは、いま出てきた扉を戻った。
音楽室ではブラスバンド部が練習をしていたが、ピアノを練習している女子生徒の姿は無かった。オカッパ頭に大きな眼鏡という鈍そうな小柄の付添人すらもいなかった。
「はえ?」
二人は煙のように消えていた。もう一つある出入り口から廊下に出てくれば、会話中に気がついたであろうが、似た背格好の者どころか、何者の出入り自体が無かったはずだ。そして音楽室はC棟二階である、窓から外に出るには無理があった。
「そういえば、ヒカルは驚いていないな」
「あたしかい?」
新しいキャンディを咥えながら、ヒカルは音楽室入口で硬直してしまったアキラの背後で平然と言った。
「相手がどんな武器を隠し持っちゃいるか判らねえから、取り敢えず観察するクセが身についているのかもな。それで、あいつが女装している男だってすぐにわかったのさ」
「ふむ。だがアキラの時は判らなかったようだが?」
「コイツの場合は反則じゃねえか」
軽くアキラの尻を蹴飛ばす。
「あんな嘘つきに銃を預けるのは反対だね」
「そうかな? 外見は変わっていたが、少なくともカレが口にした事柄で嘘は一切無かったよ」
「偽名もか?」
「あれも本名だ。それで? あの円筒形の武器以外に、カレは何か所持していたかい?」
「おまえも見てたんだろ」
「キミの見解を聞きたい」
明実に促されてヒカルはちょっとだけ思案顔になった。
「服のポケットにはイロイロ入れていそうだったが、飛び道具は取り敢えず無さそうだったな。持っていてもカッターナイフとかそれぐらいだろう」
「後ろの娘も?」
「あの娘はまったくの素人だった」
ヒカルは断言して、腕を組むと今度は天井を見上げた。
「彼女の協力で女の服を揃えることができたみたいだな」
「なぜそこまで協力的なのだろう? 本当に憎んでいるようだったが?」
明実の質問に、バカにしたように鼻先で嗤いながらヒカルは言った。
「そんなの決まってるだろ」
ヒカルは鼻先で嗤うと、先に立って歩きだした。
「は?」
「?」
訳が分からず、アキラと明実は顔を見合わせたのだった。
「決まってるじゃない。それは、そのコが、もう一人のコのことを好きだからよ」
「は?」
アキラは肘をついたテーブルから顔を上げた。
帰宅して男だった頃に愛用していたジーンズ姿に着替えると、アキラはキッチンで家事をしていた香苗に、音楽室で会った正体不明の人物のことを話していた。食卓として長年利用しているテーブル席から、流しで働く母の背中に全て話したところで、香苗が当然のように振り返り、口にしたセリフが先程の物だったのだ。
「いやいや、かあさんは見てないから判らないと思うけど、相当睨み付けてたんだよ」
「なにが違うの?」
食卓に戻ってきた香苗は、逆に不思議そうに訊ねた。脇に置いてあった茶器を並べると、手早く緑茶の準備をはじめる。
「殺したいほど憎むのと、離れたくないほど愛するのと。同じ『強い想い』じゃない」
「だって…」
香苗が煎れてくれた湯飲みを受け取りながら、それでもアキラは最後の抵抗とばかりに言い返した。
「好きと嫌いって、まるっきり正反対じゃないか」
「あら、あってもいいんじゃない? 離れたくないほど憎んで、殺したいほど愛するって事が」
香苗の言葉遊びのようなセリフに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になるアキラ。それに対して香苗は余裕のある微笑みを浮かべていた。
(こういう時は年相応の顔になるんだよなあ)
元息子が思っていることが判っているのか、香苗は女の微笑みのまま茶を一口含んだ。
「よくわかんないよ」
「かあさんは判るなぁ」
両手で自分の湯飲みを抱えるようにして持った香苗は、どこか陶酔したような顔になった。
「ちょっと違うかもしれないけれど。とおさんに嫌な事をされた時に、他の人なら平然としていられることも、余分に腹が立ったりするもの」
「そんなもんかね」
「それよりも」
ウフフと嬉しそうな含み笑いをした香苗は、別の満足そうな顔を作った。
「自分の娘とこんな話しができる日がくるなんて。かあさん、夢が一つ叶っちゃたわ」
「オレは男なの」
外見が「女の子のようなもの」になろうとも、アキラのアイデンティティは男なのだ。一朝一夕だろうが一ヶ月だろうが、女の子になれるわけがない。
「そんなこと言っても、体は正直よ」
などと他人が聞いたら誤解するようなセリフを口にしながら、香苗は席を立つとリビングの隅に置いたダンボール箱を開けた。
「アキラちゃんが必要だと思って、こんなの買ってみたんだけど。どうかしら」
「どうかしらって? わあ!」
ビローンと香苗が箱から取り出した物を掲げて見せた。アキラはそれを直視することが出来なくて、慌ててそっぽを向いた。
香苗が持っていたのは、立体的に吊しておけるように工夫された専用ハンガーにセットされたままの、上下一組揃えた女性用下着の数々だったのである。色も一つではなくて、魅惑の黒から情熱の赤まで豊富である。
「ど、どうしたんだよ。それ」
この体になって一ヶ月ちょっと、いまだ女物の服飾(特に下着)に抵抗があるアキラであった。
「通販よ。それとも、お店に行って選びたかった?」
「い、いいや」
壁の方向を向いたまま慌てて首を横に振る。自分がデパートのランジェリーコーナーに立っていることを想像してしまい、その恥ずかしさに顔から火を吹きそうになる。しかもお店で選ぶということは、サイズ合わせもするということだ。いくら相手が女性店員だとしても、自分が外部で服を脱ぐ羽目になるのは御免だった。
「そお? サイズ測るのだって、服の上からできるのよ?」
香苗は数点を手にしながらそんな事を言う。またアキラの思考を読んだようだ。
(そんなにオレって顔に出るのかな?)
「かあさんのお勧めは、こっちのピンクかな」
そう言いつつ壁と睨めっこをしているアキラに、そのお勧めの一点とやらを差し出した。
「それともやっぱり黒のほうがいい?」
「そんなの判らないよ!」
「なにを言ってるのよ。女の子なんだからこういうところまでオシャレしなきゃ」
「こ、これで、オレが男に戻ったらどうすんだよ」
差し出された物をなるべく視界に入れないようにして、アキラは香苗を振り返った。
「そしたら、かあさんが使うもの。サイズは、いまアキラちゃんが使ってるのと同じよ」
外見が少女に見えてもそこは主婦らしく、しっかりと保険を考えて購入したらしい。
「とおさん、喜んじゃうかもね」
親の脛を囓る身として夫婦円満なのは喜ばしいことだが、そんなことを照れた顔で言わないでほしいアキラであった。
「ほら、立って」
「たつって…」
香苗はテーブルの脇に立たせたアキラの体に、手にした物を変わるがわる当てて、様子を見始めた。
「うん、どれも似合いそうね」
「どうせ見る奴なんか、いないって」
「そお? 女の子って、他の子がなに着けているか結構チェックしてたりするものよ? それにアキザネくんもカラフルな方が喜ぶと思うけど?」
「なんでオレがあいつに見せなきゃいけないんだよ!」
別の意味で顔を赤くしたアキラに、香苗はケロッとして言った。
「だって診察のとき見られるでしょ? はだか」
「あ、そういう意味か」
どうやらアキラの思考が独走しただけのようだ。ほっとするとともに頭の中で「オレは男」と念仏のように繰り返し始めるのだった。
「それと、今度の泊まりがけの行事…」
「合宿ホームルーム」
「その合宿で、使うと思ってコレ」
同じ箱からフリルやリボンがたくさんついた薄手の服が取り出された。少女趣味丸出しのセットにアキラはのけぞってしまった。
「必要でしょ? パジャマ」
「ええと…」
あんなものを人前で着るはめになるのは、まっぴら御免である。あと何か重要な見落としが存在する気がして、アキラは頭の中にある記憶の引き出しをひっくり返した。
「スカートも考えたんだけどアキラちゃんが恥ずかしがるだろうと思って、ジーンズと長袖も買ったわ。こっちはヒカルちゃんにって買ったんだけど、二人でお揃いのお洒落をすると似合うと、かあさんは思うのよ」
「あの、制服…」
「こっちの花の刺繍のにする? こっちは無地で面白味がないけど、色はアキラちゃんに似合うと思うわ。こっちのサイズが違うピンク色はヒカルちゃんのね。サイズ聞かなくて買っちゃったけど、大丈夫。かあさんは目にメジャーがついているんだから」
「かあさん」
一人でアキラを着せ替え人形にしながらマシンガンのように語っていた香苗に、少々大きな声をかけて注意を向けさせる。
「なに?」
「学校行事だから行き来は制服だし、寝るときは体育のジャージなんだけど」
「あら」
香苗の目が丸くなった。
「つまらないわね」
あっけらかんと言った香苗は手にしたパジャマを見おろした。どうやらそういった事を知らずに購入してしまったらしい。そのまま自分の体に当てて見せる。
「似合う?」
「あ~、似合う似合う」
ろくに見ないでアキラは答えた。ただでさえ「女の子のような」外見をした母親である。そういったフリルやらリボンがたくさんついた服が似合わないわけがない。
「うふふ。じゃあ、これは今度。とおさんが帰ってきたら使おうっと」
そのまま顔をほんのり赤くさせてピョンピョンと飛び跳ね始める香苗。やはり仕草自体も幼いままなのだった。
早朝の校庭に制服を着た者たちが集まっていた。毎年恒例の合宿ホームルームへの出発するために、新入生が集合しているのだ。
それぞれ班ごとに集合し、揃った班から担任に報告して出欠の確認。そうしてから合宿所まで利用する大型バスが止まっている駐車場へ班ごとに移動していく。
寝坊することもなく時間きっかりにアキラとヒカル、そして明実が連れ立って行くと、同じ班の由美子と恵美子はすでに来ていた。二人は、最近テレビで垂れ流しになっている、芸能人のゴシップで盛り上がっていたようだ。
「おはようさん」
「おはよう」
先に向こうから朝の挨拶をされて、慌ててアキラも口を開いた。
「はよう」
「Morning」
流暢でネイティブな発音はヒカルだ。さすが三〇パーセントは混血しているだけある。
「これで四人揃ったわね。先生ンとこ行きましょ」
率先して由美子が自分の荷物を持ち上げた。彼女は、何でそんなに荷物が必要なのか判らないが、中くらいのバッグと、小型のバッグの二つ持ちだ。早朝で眠いだろうに班長という自覚か、制服を規定通りに隙が無く着込んでいた。
「オッケ」
対照的に恵美子は巨大なバッグ一つである。
(たかだか一泊、しかも制服の他はジャージしか必要がないはずなのに、あれだけの荷物が必要なのか?)
アキラは不思議に思えた。
恵美子は薄いピンク色のブラウスを身につけていた。本来校則を厳守するならば色つきのブラウスは禁止なのだが、そこは当世の女子高生たち「赤信号みんなで渡れば恐くない」という感じで、その条項はサクッと無視されていた。学校側も、また生徒の自治が強い生徒会も、目くじらを立てるほどの違反ではないので、あまり派手な色使いや柄物で無い限り、また正装規定が採用される大きな行事でない限り、取り締まることはしていなかった。
新入生も入学式には真面目に真っ白なブラウスを着ていたが、毎年この合宿ホームルームあたりで解禁となる。
赤信号どころか青信号で国道を渡ろうとして痛い目に遇ったアキラは、香苗が薄い水色のブラウスを用意してくれたが、拒否して白色の物を着てきていた。
そんな細かいお洒落に気を遣うようになったら、本物の女になってしまう気がしたからだ。
しかし校則のまま制服を身につけるというのも業腹なので、ネクタイを含めて首元をだいぶ緩くしていた。
ヒカルは香苗が用意してくれた薄緑色のブラウスを身につけていた。スカートが長目なのは昔の不良さんではなく腿に巻いたホルスターを隠すためだが、あまり成功しているとは言えなかった。
二人は香苗が用意してくれた、お揃いのバッグを肩に掛けていた。色々と香苗が長い説明をしながら押し込んだ化粧水の類は、その効能をアキラは憶えることができなかったので、おそらく使用することはないだろう。そんな我が子の腹づもりを見透かしているのか、香苗は特にヒカルの方へ熱心に説明していたような気がする。
そのヒカルと言えば、上から下まで黒一色で統一するようなファッションセンスなので、そういった細かいお洒落には無関心であろうと、アキラは勝手に思っていた。しかしそれは、どうやら間違った認識だったようで、香苗の説明に的確な質問を返していた。
腐っても鯛。鷲は歳を取っても若い烏には負けない。ガサツように見えてもお洒落は忘れないのが女の子なのだった。
担任に四人揃って顔を見せて、この班の集合が済んだことを報告し、校舎を通り抜けて講堂裏にあたる駐車場へ向かう。そこにはクラスの数だけ大型バスが待っていた。
少子化が進んでいるとはいえ、一つのクラスを一台のバスに収納するため、今回は都市間定期便に使用するような大型のハイデッカーが用意された。実質二階建ての一階部分にあたるラゲッジスペースのサイドパネルが油圧ダンパーの力で上にスライドしており、すでに乗り込んでいるクラスメイトたちの荷物が整然と並べられていた。
アキラたち四人も、一見華奢な運転手に荷物を預けて、座席に向かった。
運転席は一階部分にあり、短い階段を登ると客室スペースになる。スモークになっている強化ガラスは、座席のだいぶ頭の上から下の方まで広がっており、眺望に不自由はしそうもなかった。
中央通路を挟んで左右にゆったりとした席が二列ずつ並んでいる。アキラたちの班は前から五列目を、横一列に使うことになる。
車酔いの心配があると自己申告をしていた恵美子が、あの巨大なバッグから桃色をしたハンドバックを取りだして、右の窓際に着いた。同じように中型バッグは預けたが小型バッグを車内に持ち込んだ由美子がその隣である。
いちおう退院したばかりということになっているアキラは反対側の窓際で、その横にヒカルが座ることになった。
一方、明実といえばアキラたちより三列ほど後ろの席だ。彼の班は、清隆学園中等部からの進学組が一人と、もう一人は関西地方から受験して今は寮暮らしの、怪しげな方言を使う背のずば抜けて高い少年の三人である。
どうやら明実と馬が合ったと見えて、さっそく打ち解けて何かSF映画の科学考証の話しで盛り上がっていた。それが年相応に見えて、アキラは嬉しくもあり、また少し寂しくもあった。
中学校までの明実は、発達しすぎた知能で周囲と話題が揃わずに苦労していた。なにせ小学生の段階で大学までのカリキュラムを終えてしまっていたのだ。その知能の高さは、いまでは清隆大学科学研究所で自分の研究室を持っている程なのだ。
よって周囲にいるただの人間に「自発的対称性の破れ」を話題に選んでしまうような児童であった。もちろんそんな話題を周囲にいる人間が理解できるわけが無く、終いには彼を教師とした高等物理の講義のような会話になってしまうのだ。
それでも主に欧州人の血が混じっているためルックスがいいという理由で、明実の彼女になりたい女子は我慢して聞いていたりもしたが、話しが「標準理論」にまで進んでしまえば、もう催眠の呪文と同じような物だ。
その点、アキラは幼い頃から一緒にいるので、近所の話題や家族のことなど話すことができたし、また明実がこちらに興味のない難しい理論を語り出したら、うまく聞き流す術も身につけていた。
それがこのクラスでは話しがあう仲間がいるようだ。いざこうなって自分が必要無くなると、今度はこちらが周囲から孤立しているような気分になった。
「やっぱり、気になるんだ。御門くんのこと」
突然声をかけられてアキラはギョッとした。声のした方向を振り返ると、反対側の窓際から口元に八重歯をはみ出させた恵美子の笑顔が向けられていた。
見れば由美子の体を乗り越えんばかりにこちらへ上体を傾けて、内緒話する体勢になっている。
ヒカルとの間に通路を挟んでおり、五月雨式に班員が揃ったクラスメイトが通過するが、そんなことはお構いなしみたいだ。
「な、なん?」
どう答えていいか判らずに戸惑っていると、恵美子はイタズラっぽく目を細めた。
「いま、御門くんのこと見てたでしょう」
「そ、そう?」
「うん、見てたよね。藤原さん」
「そうだったかも」
由美子まで、なにやら緩い微妙な顔でアキラの顔を見て同意した。
「そ、そうかな」
「またまた。隠さないでも判っているんだからぁ」
語尾にハートマークが散らばっているような艶っぽい声で恵美子が手招きのような仕草をしてみせる。
「どうやら誤解があるようだが」
「わかってるよ、わかってる」
クスクスと乗り出したまま笑い出す。そこは女の子、恋愛話は大好物であった。こちらに乗り出した体勢だと、恵美子の豊満な胸部が強調されて、中身は男であるアキラの平常心が乱れる一方だ。自然と頬が赤くなって視線をそらしてしまったのだが、それをさらに向こう側の二人は誤解した。
クスクス笑いを大きくした恵美子は姿勢を戻すと、由美子と顔を見合わせてさらに目を細めてみせた。
「おいおい。おまえからも何か言ってくれよ」
腕組みをして面白く無さそうにしていたヒカルは、面倒臭そうに口を開いた。
「別に。あたしゃ別に男同士だろうと何だろうと、理解があるつもりだが?」
アキラの正体を知っているからのコメントであろう。
「あと、おまえは一回死んだ方がいいと思うぞ」
とっても冷たい声で付け加えられてしまった。どうやら、まだ風呂場でのことを根に持っているようだ。
なんと切り返そうかと彼女の顔を見ていると、通路の向こうから声がかかった。
「新命さんもイトコだからって、ゆずれないものね」
「そうかもな」
ポケットからキャンディを取りだして口に含みながら、ヒカルはつっけんどんに言った。向こうの二人はその答えを喜んで誤解しているが、きっとヒカルは「アキラが死んだ方がいい」と思っていることを譲れないと考えているようだ。
車内はいつの間にか満席になり、クラスメイトがてんでバラバラに会話する雑談が、渦を巻くように充満していた。
このバス担当のバスガイドが席に座る頭数を数えながら後部まで通路を歩き、そして再確認しながら先頭まで戻っていった。
担任に報告しているところからして、一年一組は全員が揃ったようである。
窓から見えていたラゲッジスペースのサイドパネルが閉じられ、運転手が席に着いた。
ところがバスは一向に発車しようとしない。エンジンがかけられてアイドリングの振動が座席から尻に伝わってきているのに、教師たちは何やら集まって相談中のようだ。
「どうしたンだろ?」
由美子が座席から立ち上がって、ただでさえ切れ長の目を細くして、駐車場中央に集っている大人たちを見る。
「さあ?」
こちらは、もう顔色が悪くなり始めている恵美子。先程まで明るかった表情が嘘のようだ。
アキラはヒカルの顔を見た。ヒカルは口だけを動かして何かを喋った。その唇の動きがゆっくりだったので、読唇術のないアキラでも彼女が言いたいことが判った。
(敵か?)
(まさか)
顔だけでそう答えてみせる。だがヒカルはつまらなそうな顔のまま明実を振り返り、さりげなく自分の腿の辺りを撫でていた。
と、そこへ汗を掻き掻き校庭の方から三人組の男子生徒たちがやってきた。一人は銀縁眼鏡をかけた真面目そうな男子で、さかんに教師たちに頭を下げている。
どうやら集合の遅れた班が、別のクラスにあったらしい。
頭を下げている子が班長であるらしく、他の二人にハッパを飛ばしているように見えた。だが一人はニコニコと笑っているばかりだし、もう一人はつまらなそうに悠然としか行動していなかった。
遠くから見ているコチラには、音のないコントを見せられているようだ。銀縁眼鏡の子が大人たちと取りなし、微笑んでいる一番背の高い子が話しを膨らませ、のんびりしている最後の筋肉質の子がオチをつけている様子が、絵だけでも伝わってくる。
そんな三人組だが、アキラはその中の一人を見たことがあるような気がした。
(既視感という奴か?)
小柄な若い女教師までがさらにハッパをかけて急がせていた。台本のない無音劇を見ている間に、教師たちが集まっていたところから担任が帰ってきた。
「それでは出発します」
担任に確認するようにバスガイドが声をかけ、運転手にうなずく。運転手がうなずきを返すと、空気の漏れる音がして自動ドアが閉まった。どうやら一年三組の生徒だったらしい遅刻三人組が、自分のバスへ乗り込む様子を見ながら、アキラたちの乗るバスは走り出した。
本日の予定はバスで山梨県にあるという清隆学園の合宿所に移動。そこで開所式を行ってからクラスごとに分かれて、まずはクラス委員の選定に入る予定だ。
バスは中央自動車道へ舵を切る。途中のサービスエリアで休憩を一回挟む予定ではあるが、基本的に移動手段として考えているので、観光スポットなどへの寄り道はない。
せっかくバスガイドが乗車しているのだから観光案内などしてくれてもよさそうだが、簡単な乗務員紹介だけで席に着いてしまった。
バスは程なくインターチェンジのゲートを通過した。
これだけ大きなバスだと路面からの振動も、だいぶ軽減される。バス自体の質量が慣性の法則で揺れにくくなるし、また足回りに使える車内スペースも大きくなり、その分作動スペースが大きくなったサスペンションがタイヤと車体の間の不愉快な振動を吸収できるようになる。
アキラも、小学校のときには憂鬱なほどだったバス旅行も、これならば快適に過ごすことができそうだ。
だが世の中、そう行かない人種もいる。
「大丈夫?」
由美子は恵美子の顔を覗き込んで訊ねた。
「うん」
言葉少なく答えが返ってきた。すでにそれが体調の悪化を示していた。
「そこまで気持ち悪いか?」
通路を挟んだヒカルが不思議そうな顔になった。いまにも自分が女子高生という設定を忘れて「ちょっと昔のバスなんか、運転する方も乗る方も体力勝負だったぜ」とか言い出しそうだ。
「いつもはこんなに酷くないんだけどね」
青い顔でなんとか笑顔を作ってみせる。
「ほら、佐々木さん。今日は二日目だって言ってたから」
由美子が他の席に聞こえないように声をひそめた。
「そっか。なら不思議じゃないか。キャンディ食うか?」
ヒカルなりの優しさなのか、ポケットから球形のキャンディを取りだした。ちなみに味は梅紫蘇味であった。
弱々しく手で断る。もう頭を動かすことすら辛いらしい。
「なあ」
不思議そうにアキラはヒカルに訊いた。
「今日は合宿一日目だよな? なんで二日目になるのさ?」
「おまえは黙ってろ」
とても冷たい声が返ってきた。
「そして一度死ね」
「なんだよ、それ」
「まさか海城さん…」
由美子がその会話を聞きつけて不思議そうな顔になった。
(やば。なんかオレが言ったことで変なところがあって、それで男だってばれたのか?)
アキラは心の中で冷や汗をかいた。
「まだ、なの?」
「は?」
「んじゃねえの?」
ヒカルがどこかバカにした響きを混ぜて言った。
「だとしたら、だいぶ遅いわねぇ」
「ま、世の中にはそんなマヌケもいるってことさ」
二人だけで会話が進んで、アキラにはトンチンカンである。
その時、バスの車体がグラリと揺れた。
中央自動車道は八王子ICをすぎると山の中に分け入っていくように道路に蛇行が続き、坂もそれなりに多くなってくる。必然的にそこを走行する車両も右へ左へと揺れることが多くなるが、いまのはちょっと違うようだ。
山間部で片側二車線しかないところで、複数のバスが連なって走るので、当然のように左側の走行車線で余裕を持った速度で走っていた。そこをわざわざ甲高いエンジン音が車体のギリギリを掠めていったのだ。
席からちょっと乗り出して見てみれば、真っ赤なオープンカーがこちらの車体と衝突寸前まで近づいてから、フルアクセルで加速していったようだ。
とんでもない速度超過のためか、その運転手の長い亜麻色の髪が後ろに引っ張られているようになびいていた。どうやら女だてらに、この荒い運転らしい。
高速道路とはいえ山道が続くので、その小柄な車体はすぐにカーブの向こう側に消えていった。
「あっぶない運転だなあ」
アキラが点りもしなかったテールランプを見て感想を口にした。
「大丈夫?」
反対側の席では、とうとう各座席に用意されていたビニール袋を握りしめた恵美子の背中を、由美子が心配そうにさすり始めていた。
そんな中で、ヒカルはとても無感情な声を漏らした。
「ああ、本当にあぶないヤツだ」
無謀運転をする車に煽られても、運転手がしっかりしていたおかげか、それ以上バスの挙動に異常はなかった。
やがて清隆学園一年生ご一行様を乗せたバスの集団は、山の上にあるサービスエリアに入った。大型バスは、車体の大きさが災いして、その駐車スペースが限られる。
アキラは特に用事もなかったが、外の風に当たりたくなったことと、同じ班の恵美子が心配になり、由美子と一緒に付き添うことにした。
駐車スペースから車の通行帯を横断した所に、雨水溝が設置されており、そこに大きな雨水升が設けられていた。
アスファルトに嵌められたステンレス製らしいグレーチングのところで、恵美子の限界がやってきた。
「ほら、髪の毛が汚れちゃうよ」
体を折って、恵美子は喉元までせり上がっていた物をぶちまけた。固形物はほとんどなく、体液ばかりでツンと鼻に刺さる臭いが広がる。彼女の長い髪が汚れないように、班長の由美子が両手でまとめやった。
「海城さん。背中を撫でてあげて」
「お、おう」
厚い制服越しなのだがそれでも柔らかく華奢な美少女の体に触れて、アキラの体温が上昇してくる。撫でられている本人はそれどころではないが、隣の由美子に変な性癖を持った女と誤解されそうだ。もっとも恵美子の容体が気になって、アキラのそんな変化に気がついてはいないようだが。
「おい、代わるぞ」
いつの間にか現れていたヒカルが、アキラの後ろから声をかけた。
「あ、悪ぃ」
まるで騙して女の子の体を触っている気がして、居心地の悪さのような物を感じていたアキラは、これ幸いヒカルとすぐに交代した。その耳に早口でヒカルが囁いた。
「おまえはアキザネの護衛にまわれ」
「ごえい?」
キョトンとすると、凄い勢いで睨まれた。
「さっきの赤い車、きっとトレーネだ」
「あいつが?」
アキラの脳裏にオープンカーからなびいていた長い髪がフラッシュバックのように思い出された。トレーネというのは二人と同じように人の手で作られた体を持っている、クロガラスからの刺客と思われる存在のはずだ。
「狙うとしたらアキザネだろ。あたしがフォローできない範囲に、あいつが行こうとしている。おまえ、変われ」
「りょ、りょうかい」
明実を殺されてしまったら、二人の体を維持するための『生命の水』を製造する者がいなくなり、じきに二人も死ぬことになる。そうでなくても彼はアキラの幼なじみなのだ。彼に危害が及ぶことは避けたいことだった。
「藤原。佐々木のホック外した方がよくないか?」
あとは任せたとばかりに走り出したアキラの耳に、すこしでも恵美子を楽にさせようと相談する声がなんとなく入ってきた。
(ホックってなんだろう)
そんな疑問を抱きながら、アキラは周囲を見まわした。駐車場には同じ清隆学園の制服を着た者がわんさといるが、赤いスポーツカーは目に入らなかった。
その生徒たちが主に向かっているのは、サービスエリアの端に位置する円筒形をした建物のようだ。
アキラは走り出し、男の中で抜きんでて背の高い明実の姿を捜した。平均身長より高いはずの彼を捜すのには効果的な方法だ。彼を見つけることは出来なかったが、二列に並んだ男の先頭寄りに、彼と同じ班の生徒を発見した。
スカートを風にひるがえして、アキラは走った。
「なあ」
息も荒くその男子に追いつくと、前置きも無しに訊ねる。明実も背は高い方だが、彼はもっと高くて、いまのアキラはだいぶ見上げないと顔を見ることができないほどだ。
「アキザネ知らないか? 御門明実!」
「ええ。あん人なら、もう出てきなはる…」
「サンキュ」
たしか、地方からやってきて今は男子寮に入っているという相手が、気楽に親指で指し示した建物の入り口に、アキラは突進した。
「へ?」
「おう」
「大胆だな」
「うわおぅ」
半円形のスペースでは、男どもが壁に向かって規則正しい間隔を開けて立っており、手前には洗面台が並んでいた。そんな男たちがキョトンとして口々に小さな驚きの声を上げる中、手をハンカチで拭きながら明実がやってきた。
「どうしたー?」
とても命を狙われている者が発しないようなノンビリな声だった。
「どうしたも、こうしたも…」
説明しようとしたアキラの声に、明実は言葉を重ねた。
「オマエも小便か?」
「え?」
改めて周りを見まわす。確かに壁際に集まっているのは、そこに男性用小便器が並んでいるせいだ。そして室内にいる全員が不思議そうにアキラを見ていた。
はっとして自分の体を見おろす。そこには女子用の制服に包まれた今の自分の体があった。
明実いわく細胞はXYのままらしい。だが外見は「女の子のようなもの」のアキラが男子便所に乱入したら、それは奇異な目で見られても当たり前のことだろう。
「ば、わ、は、が!!!」
意味不明の悲鳴を上げながら、アキラは外にかけだした。
反対側で並んでいる女子の列からも不思議そうに見てくる視線を感じて、アキラは取り敢えず歩道に設置されているベンチまで駆けていった。
「よーう」
ジョギング程度の速度で追いかけてきた明実が、背後から声をかける。
「な、なんだって、おまえはあんなトコにいるんだよ!」
ベンチに手を着いて振り返ったアキラは、明実に怒鳴り散らした。
「そりゃぁ生理現象だろ、排泄は」
「お、おま、おまえなあ」
「おかしいな」
顎に手を当てて首を捻って見せる明実。
「ヒカルにはちゃんと便所へ行くと、言っておいたぞ」
「あ、あ、あんのクソアマぁ」
ヒートアップしたところに水を差すように、アキラの頬になにか冷たい物が押しつけられた。
「ひゃ」
「どうしたアキラ。そんなに興奮して」
事の顛末の仕掛け人たるヒカルであった。手にした物をアキラに押しつけ、もう片方の手に持っていた同じ物を明実に放った。
「冷たいモンでも飲んで落ち着きな」
それは自販機で売っているペットボトルの冷茶であった。
「お、センキュ」
さっそく明実はその蓋を開ける。
「おまえよ!」
「なんだよ、ツバ飛ばすな」
覆い被さるように距離を詰めるアキラに、イタズラが成功して満足げな顔をしていたヒカルが、ちょっと迷惑そうな表情に切り替えた。
「だましやがったな!」
「なんのことかな」
ニマニマと薄く笑いながらヒカルは惚けてみせる。
「アキザネは、おまえにちゃんと行き先を言ったって!」
「だから、あたしがフォローできない場所だと、おまえには言ったろ」
「うっ」
たしかにそうだったような気がする。
「正真正銘女のあたしが、あんなトコは入れないからな」
「オレだって、いま入れないよ!」
「ははあ」
二人の会話を聞いていた明実が事態を悟ったのか、何度もうなずいた。
「アキラが心配しすぎたんじゃないか? 敵は事故に見せかけるのが常套手段なのだろ。便所で事故って、どうやって演出するんだ? やらかしたとしても和式便器に片足をつっこむ程度じゃないか?」
「それはそうだが!」
「だから、コレ飲んで落ち着けって」
ヒカルも自分の分の蓋を捻りながら笑った。
(そりゃあ、自分はイタズラが成功して気分がいいだろうけどよ)
アキラも必要以上に力をこめて蓋を捻った。
「およよ」
アキラがお茶をガブ飲みしていると、呑気な声がかけられた。声に振り返ると、炭酸飲料のペットボトルを握った恵美子がそこに立っていた。
どうやら吐いたことである程度楽になったようだ。青くなっていた顔もだいぶ血色が戻ってきていた。それに元気そうに飲み物を傾ける様子から、気持ちの悪さのピークというものを越えたようだ。
「修羅場?」
「は?」
短く訊かれて、意味が判らずに聞き返してしまった。
「だって、ねえ」
実に楽しそうに目尻を下げる。先程まで明実の前で、アキラとヒカルが言い合いをしているように見えたようだ。つまり恵美子の中では三角関係に大きな動きがあったことになったらしい。
「そんなもんじゃないよ」
アキラは迷惑そうに手を振ったが、話しが面倒くさい方向に転がるのが見ている分には楽しいに決まっている。恵美子はうんうんと訳知り顔で何度もうなずいてみせた。
「大丈夫よ。全部わかっているから」
(判っていないと思うぞ)
アキラは心の中でツッコミを返していた。
「それよりか、車酔いは大丈夫なのかよ」
話しを切り替えようとアキラは炭酸をグビグビと飲む彼女に訊いた。
「ん? わたし? 吐いたら楽になって、逆に調子が戻ってきた。みたいな」
「吐いたなら炭酸はあまり飲まない方がいいぞ」
明実がもうほとんど空になっている恵美子のペットボトルを指し示して忠告した。
「胃酸が逆流して食道なんかの粘膜が痛んでいるところに、さらに同じ酸性の物を入れると、爽快感から精神的には楽になるかもしれないが、炎症を起こす可能性がある」
「大丈夫よ。さきにスポーツ飲料も飲んだし」
「それ、飲みすぎじゃね?」
アキラは心配になって訊いた。
「いや」
医学の知識がある明実は首を横に振った。
「体液が失われている分を補充するには問題がない。ただ、便所が近くなるがな」
「大丈夫よ」
ケラケラと笑いながら恵美子は言い返した。
「もう合宿所まですぐなんでしょ。道路も渋滞してないし、天気も晴れてるし。小学生じゃあるまいし」
「まあ、そうだろうけど」
心配げな顔をするアキラに、恵美子はガッツポーズをしてみせた。
「わたし、応援してるからね」
(なにを?)
恐くて訊くことができなかったアキラであった。
つづく




