31 「シケコ・コキ」
***
「うっ……」
元の場所に戻ってきた。頭のぐるぐる感が消えていた。でも赤い髪の女性の姿がない。
「喉が渇いた……」
口の中がからからだ。立ち上がろうとすると、前より楽に動けた。扉を開けると、誰の声も聞こえない。みんないないようだ。
寝ていた部屋を出ると、中くらいの丸いテーブルがあった。十人くらいは座れそうだ。テーブルの椅子に腰を下ろしてから、魔法で水を作って飲んだ。すると扉が開く音がした。
「ビウ超越者様!」
「サイファー、目が覚めたの?!」
サイビア、ハンネス、シャリオン、フィッシャン、それと赤い髪の女性が全員揃っていた。
「みんな……」
「もう死んじゃうかと思ったわよ。目が覚めたと思ったら気を失って、本当に心臓が止まりそうだったんだから」
「クエストをハンネスと一緒に提出しに行ってたの。ハンネスがずっとあなたのことを話してたわ。無事でよかった」
「助けてくださって、本当にありがとうございます」
継承者たちと話していた間、みんなを心配させてしまっていたんだな。
「心配してくれてありがとう。もう大丈夫だよ」
「はい、ビウ超越者様。エルフの方から高級ポーションです」
「ありがとうサイビア」
サイビアがポーションを渡してくれた。瓶の形は変わっているが、高級品だ。飲んでみると、体の周りに緑のオーラが広がって、疲れが消えていった。でも味は格別にひどかった。
それからエルフの村で買ってきた食材を使って食事の準備が始まった。赤い髪の女性とシャリオンが料理を担当し、フィッシャンとサイビアは飲み物を買いに行った。ハンネスと二人だけ宿に残ったが、シャリオンに言われて大人しくしていると、ハンネスが洞窟で戦った時に使っていた装備の状態確認を頼んできた。魔族との戦いで鎧は激しく損傷していた。中級の鎧が原形をとどめないほどに。依頼で得た数百シセンでは一人分の修理代にしかならない。ハンネスがしばらくボロンフィアの依頼は休んで、力を鍛えようと提案してきた。同意した。あそこに行くのは命がけだ。でもケティフが動き始めているとしたら、あまり時間はないような気がする。嫌な予感が拭えない。
「まったく、鎧がぼろぼろじゃない」
ハンネスが不満そうに言った。
「生きて帰れたんだから、十分でしょ」
「それはそうなんだけどね、サイファー。でもお金が惜しいのよ」
「わかるよ」
「ほんとに惜しいわねえ、はは」
ハンネスが笑いながら、僕の近くに来てひょいと膝の上に寝転んだ。何も言わずにただ笑いかけてくる。頭を撫でて、耳をかいてあげた。
「あなたに不意打ちされるの、なんかすごく気持ちいいのよね、サイファー」
「気に入ってくれるなら、もっとやってあげる」
「ありがとね、サイファー」
ハンネスの尻尾がすっと立った。気持ちよさそうだ。それを見て思わず笑った。そのとき、ふと思いついたことがあった。
フリークさんが言っていた。氷魔法は水魔法を基礎にする。錬金術を使わずに、氷の冷気だけを出してみたらどうなるか試してみよう。錬金術のように力を混ぜる方法と比べて、どちらが威力が高いか実験してみたい。
「ハンネス、寒さには耐えられる?」
「あの程度、なんでもないわよ」
「ほんとに大丈夫かな」
そう呟いてから、ハンネスに反対側へ移ってもらった。比べてみよう。まず錬金術での氷を使う。左手に水の魔法、右手に風の魔法を同時に発動させて混ぜ合わせて氷を作り、冷気を出す。
「行くよ、ハンネス」
「来なさい!」
錬金術の冷気がハンネスへと流れた。そして次の比較実験のために——
「もう一回だけ。今度の冷たさを覚えておいてね。頭撫でてあげるから!」
「わ……わかったわよ!早く出しなさい!」
今度は錬金術を使わずに、氷魔法の冷気を直接出してみる。さっきの感覚を覚えたまま、力を流し込んでいく。氷魔法の冷気だけが、サラッとハンネスへと向かっていった。
「にゃっ!!!こっちの方が段違いに冷たいじゃない、サイファー!」
「ごめん、ハンネス。すぐに治すから」
ヒーリングで体温を戻した。ほどなくハンネスが元に戻った。
「ありがとうハンネス。どっちが冷たかった?」
「た……最後……の……やつ……」
やっぱりそうだ。錬金術を使わない方が威力が上で、しかも魔力の消費も少ない。フリークさんが言っていた通りだ。
「さっきのって、氷魔法よね……」
少し離れたところからフィッシャンの声がした。酒に似た飲み物の瓶を持って戻ってきていた。後ろにはお肉を持ったサイビアがいる。
この世界の人たちはお酒が好きみたいだ。冒険者にとっては切り離せないものなのかもしれない。
フィッシャンとサイビアが戻ったので、二人で宿の中に入った。シャリオンと赤い髪の女性が作った料理がテーブルに並んでいた。嗅いだことのない香りが鼻に飛び込んでくる。元の世界の食べ物とは全然違う。
「できたよ。みんな食べよ」
シャリオンが言った。フィッシャンが飲み物の瓶を開けて、ハンネス、シャリオン、赤い髪の女性に注いだ。
「飲まないの?」
フィッシャンが僕の方を向いて、注ごうとした。
「私はお酒が苦手で。みなさんどうぞ」
「ビウ超越者様はお酒が合わないんです。フィッシャン先輩、注がなくて大丈夫ですよ」
「そうか、ごめんね」
「気にしないで」
サイビアが助けてくれた。そういえばサイビア、フィッシャンのことを「先輩」と呼んでいたな。
「さあ、乾杯!」
「乾杯!」
フィッシャンがグラスを上げると全員が合わせた。僕とサイビアのグラスだけは普通の水だった。
「料理、手間かけさせちゃったね」
「いいえ、私の得意分野ですから」
「まだ自己紹介もしてないわね。先にやりましょう」
「確かに。ボロンフィアから出てきてからずっとばたばたしてたもの」
「では私から。シャリオン・デュゴラン、獣族でBランクの冒険者よ」
「私はハンネス・バランスティエル、シャリオンと同じ獣族でBランクの冒険者」
「えっと……僕はサイビア・アゲルです。グリーティア学校の一年生です」
サイビアが少し照れながら頬を赤らめて自己紹介した。
「まだ皆さんのお名前を知らないのですが、命を助けていただいてありがとうございました。私の名前はシケコ・コキといいます。Cランクの冒険者です。ボロンフィアに来ていたのは無理やり連れてこられたからで……本当に助けていただいて……」
シケコ・コキ!ちょっと待って。この名前、この世界の名前じゃない。日本人に近い名前だ。ということは彼女は——!
「私はフィッシャン・ティアンナ。ウェルティアンナ王国の者で、ボロンフィアへの冒険は今回が初めてです」
「ティアンナ!? どこかで聞いたことがある気がする」
「フィッシャンさんって、ウェルティアンナ王国の王子様ですよね。どうしてこんなところに?」
「それはちょっと長くなるんだけど、後で話すよ」
(こんにちは……)
そっと全員の会話に割り込んだ。同時に、シケコさんの視線を感じた。誰も何も言わない中、彼女が先に口を開いた。
(あなたも現実の世界から来たんですよね!)
翻訳できない。でもあれは日本語だとわかる。自分は日本語をほとんど知らないが、それだけは確かだ。
魔法トランスを発動させた。
(もう一度話してもらえますか)
(この世界に来て何ヶ月も経つんです。怖くて。この世界の言葉を必死に練習して、なんとか生き延びてきました。あなたも同じなんですよね?)
駄目だ。魔法トランスは元の世界の言葉には効かない。シケコさんが話した言葉は、そのまま変わらず聞こえてきた。
「二人で何を話してるの?知り合い?」
「何でもないよ……料理のレシピを聞いてただけ。いい匂いがしたから、シケコさんに教えてもらおうと思って」
「ビウ超越者様が言った通りですよ。シャリオンさんとシケコさんの料理、本当にいい匂いです」
「そうでしょ、シャリオンが作ったんだから当然よ」
どうやら魔法トランスは元の世界の言葉では機能しないようだ。この世界の言葉を使って会話するしかない。
テーブルの料理を食べ始めた。シケコさんがこちらを見ている。みんなが食事を楽しんでいる。自分も空気を壊さずに一緒に楽しもうと思った。
食事が終わったら、シケコさんと改めて話をしよう。彼女はきっとつらい思いをしてここに来たはずだ。悪いことを考えないように、少しでも助けてあげたい。
「城から秘宝を盗んだ賊がまだ捕まっていないんだ」
「フィッシャン先輩は悪くないです。絶対に捕まえましょう」
「でも王国の兵士の損害が大きかったから。あの人物はとても危険だ」
「各国も警戒を始めているみたいですし」
「もっと早く気づいていれば、ウェルルビーも無事だったのに……」
「フィッシャン先輩……」
「必ずあいつを捕まえる。泥棒め!」
「ハンネス、声が大きいわよ。フィッシャン殿下がいるんだから」
「殿下と思わなくていい、普通にしてくれ。王国に戻ったら貴族会議を開かないといけないし……世界が荒れてきている気がする」
話の流れが食卓の雰囲気と合わなくなってきた。
「もう!今は休憩の時間でしょ、みんな暗いこと考えないで。どんな問題だって解決策はあるし、一人でできないなら仲間が助けてくれるんだから。だから今この瞬間を楽しみなさい!」
ハンネスが声を張り上げた。本人が気づいているかどうかわからないけど、その一言で食卓の空気がまた明るくなった。
「ビウ超越者様、今夜一緒に寝てもいいですか……」
「え……」
サイビアが聞いてきた。少し驚いたが……まあいいか。
「そういう意味じゃないですよ。狼に変身して寝ますから。ただ、やっとビウ超越者様に会えたのが嬉しくて!」
「……いいよ。こっちもありがとう、サイビア」
今夜やることがあるけど、誰かが喜んでくれるなら、それで十分だ。
「どこから話せばいいかわからないんですけど」
食事も終わって、みんなが休む準備をしている中、シケコさんと自分だけ外で地面に座っていた。さっきの会話の続きだ。彼女は元の世界から来た人のはずだ。
「あのとき仕事から帰ってきて、アパートに着いてシャワーを浴びて、そのまま横になったんです。気がついたらここにいて、最初は夢だと思っていたんですが……時間が経っても夢じゃないって気づいて。行商人に突然刺されて、その痛みで現実だってわかったんです。読み書きも言葉もまったくわからなくて、でも女の子が言葉と文字を教えてくれて、練習したおかげで時間の数え方とか話し方とかわかってきました」
「そうだったんだ」
シケコさんがこの世界の言葉で話してくれると、魔法トランスが少し効く。でも使えない言葉もある。
「しばらくして、無理やりパーティーに入れられたんです。従わなかったらひどいことをするって脅されて。生き延びるために仕方なく従いました。いつかここから帰れると信じていたんですが……もう何ヶ月も経って、これは終わらない悪夢なんだってわかってきました。この世界で私には力もないし、戦い方も知らない。ここでは価値のない人間です……」
「シケコさん、そんなことないですよ」
「ないって言えるんですか!この世界がいかに理不尽かわかってるじゃないですか!私が知っている人たちは、家族を作りたかった人たちは、面倒を見なくちゃいけない人たちは、積み重ねてきた努力は!全部無駄になったんじゃないですか。どうしてこんなことが私に起きるんですか。こっちはただ普通に、努力して生きていたかっただけなのに。なんで、なんで!なんで私をここに連れてきたんですか。そんなに難しいことなんですか、あの生き方を続けることが!帰りたい。元の場所に帰って同じことをしていたい。今日は暴力を受けるかもって怯えなくていい、今日死ぬかもって心配しなくていい、明日三十二歳になれるかって不安にならなくていい、待っている人がどうしているか気にしなくていい……ひどすぎる!ひどすぎる!ひどすぎる!!全部ひどすぎる!死にたくなんてなかった、あんな苦しみ方はしたくなかった、残酷な死に方はしたくなかった、愛している人より先に死にたくなんてなかった。ただ、自分が積み重ねてきた生き方を続けたかっただけなのに……」
「でも……」
シケコさんの怒鳴り声に、何も言い返せなかった。彼女は声を上げて泣き続けた。叫ぶように泣いた。なぜだろう。自分にはなぜ彼女を助けられないのか。話を聞くだけでさえできないのか。思い上がっていたのかもしれない。返す言葉一つ出てこない。慰める言葉も浮かばない。なぜか。自分がまだ子どもだからか。十六歳だからか。彼女みたいな経験がないからか。面倒を見なきゃいけない人も、愛する人も、自分にはいない。自分と比べてみると、自分は普通の家庭に生まれて、誰かを心配させる存在もない。そうか、自分にはない。みっともない。場違いなことをしていた。自分の問題さえ解決できていないのに、人の問題に首を突っ込もうとしていた。自分はただ問題から逃げているだけの人間なんだ。この世界を楽しんでいた。でも同じようにここに来た人の中には、そんな気持ちになれない人がたくさんいる。家族を抱えた人もいる、柱として生きてきた人もいる——
「私は……私は!最低だよ...」




